宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い   作:最高司祭アドミニストレータ

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嵐の予兆と退路の遮断

 戦略会議室を飛び出したケイイチ・フォン・タチバナ帝国元帥は、広大な元帥府の廊下を、軍靴の踵を派手に鳴らしながら全速力で駆け抜けていた。

 

 普段であれば、誰の目があるか分からないこの邸宅内で小走りにすらならない彼だが、今ばかりは「威厳」などという不要なプライドは完全に投げ捨てられていた。顔面を蒼白に染め、額から冷や汗を撒き散らしながら、一目散に自らの私室へと向かっている。

 

 

「どけ! どけぇっ! 今すぐ俺は自分の部屋に引きこもるんだ!」

 

 

 すれ違う侍女や警護に立つ純白の制服姿の「戦乙女」たちが驚いたように道を譲るが、タチバナは彼女たちに一瞥もくれなかった。

 

 重厚な私室の扉にたどり着くや否や、掌を認証パネルに叩きつけて強引に開き、転がり込むように中へ入る。そして、パネルを乱打して最高レベルの電子ロックをかけた。

 

 ガシャン、と重い金属音が鳴り響き、ようやく外界と遮断された密室を手に入れたタチバナは、絨毯の上に四つん這いになり、ぜえぜえと荒い息を吐いた。

 

 

「はぁっ…はぁっ…! 殺される! 確実に殺される!」

 

 

 床に両手をついたまま、タチバナは喉の奥から悲鳴を絞り出した。

 

 皇帝の死。それはただでさえ薄氷の上を歩いていたタチバナの人生において、氷が完全に叩き割られ、底なしの暗い海へと突き落とされたことを意味していた。

 

 自分を毛嫌いしている帝国宰相や最高幹部たちにとって、タチバナは目障りな不確定要素でしかない。彼らが実権を握った今、元帥という地位は、もはや「真っ先に始末すべき標的」の目印にしかならないのだ。

 

 

「逃げる…! そうだ、逃げるしかない! ここにいたら、寝首を掻かれるに決まってる!」

 

 

 タチバナは弾かれたように立ち上がると、肩にかけていた元帥の象徴である黒いマントを無造作に脱ぎ捨てた。

 

 彼はクローゼットへと突進し、奥に隠してあった特大の旅行カバンを引きずり出す。それは彼が実家からこの元帥府に引っ越してきた際に使ったもので、かなりの大容量を誇っていた。

 

 ジッパーを乱暴に開け、タチバナは手当たり次第に物を詰め込み始めた。

 

 まずは替えの下着やカジュアルな平服。これ見よがしな軍服など着ていれば、暗殺者に「ここを撃ってください」と言っているようなものだ。

 

 次に、金庫の中に隠しておいた無記名の現金チップや、換金しやすい高価な宝石類。

 

 そして何よりも重要な物として、タチバナは部屋のシークレットボックスから、実家の父・厳一朗が持たせてくれた「特製手作りクッキー」の缶を取り出し、一番安全なカバンの中心に大事にしまい込んだ。

 

 

(これを食べ終わる前に、辺境の開拓ノードまで逃げ延びるんだ。誰も俺のことなんか知らない、名前の無い星系の端っこで、しがない事務員かなんかになって、ひっそりと暮らす。もう女なんていらねぇ! 権力もいらねぇ! 命さえあればそれでいい!)

 

 

 彼の荷造りは、およそ銀河の半分を統べる帝国軍の最高司令官とは思えないほど、小市民的で情けないものだった。だが、彼にとっては生存を賭けた必死の夜逃げ準備である。

 

 カバンのジッパーを無理やり閉めようと体重をかけていたその時。背後で、絶対に開くはずのない電子ロックの扉が、微かな電子音とともにスゥッと開いた。

 

 

「なっ!?」

 

 

 タチバナが心臓を跳ね上がらせて振り返ると、そこにはタブレット端末を片手に持ったフィリア・アージェント大将が、一切の感情を排した冷徹な顔で立っていた。

 

 

「お前なんで入ってこれるんだよ! 最高レベルのロックをかけたはずだぞ!」

「私が構築したセキュリティシステムですよ、タチバナ。私のマスターキーで開かない扉など、この元帥府には存在しません。それよりも…」

 

 

 フィリアは、タチバナの足元にあるパンパンに膨れ上がった旅行カバンと、周囲に散乱している衣類を無表情に見下ろした。

 

 

「ずいぶんと素早いパッキングですね。ですが、逃亡準備にしては無駄が多すぎます。その手作りクッキーは、宇宙空間での非常食には不向きですよ」

「うるさい! 俺の勝手だろ! お前もさっさと逃げる準備をしろ! 今すぐここからズラかるぞ!」

 

 

 タチバナが叫ぶが、フィリアはまるで動じない。彼女は手にしたタブレットを操作し、空中に数枚のホログラムウィンドウを展開した。

 

 

「現実逃避も大概にしてください。貴方の逃げ足よりも、彼らの包囲網の完成の方が遥かに早いようです」

「包囲網…だと?」

 

 

 タチバナの動きがピタリと止まる。フィリアは淡々と、情勢の報告を始めた。

 

 

「現在、帝国宰相が『代理皇帝』の座に就き、軍の最高幹部たちと完全に結託しました。彼らはすでに、貴方を標的とした行動を開始しています」

 

 

 ホログラムに映し出されたのは、帝国の各星系で不穏な動きを見せる艦隊のデータだった。

 

 

「宰相派は、『タチバナ元帥は皇帝陛下の崩御に乗じて軍を私物化し、帝位を簒奪しようとしている』という大義名分を捏造しました。間もなく、全銀河に向けて正式な『討伐令』が発令される見込みです。すでに、貴族たちの私設艦隊や、彼らの息がかかった主力艦隊が、首都惑星周辺に向けて急速に集結しつつあります」

「はぁ!?」

 

 

 タチバナは、手からカバンの取っ手を滑り落とした。顔面が、先ほどよりもさらに深い蒼白へと染まる。

 

 

「し、仕事早すぎだろあのジジイ共! 皇帝が死んでからまだ一時間も経ってないぞ!? 俺を殺すためだけに、どんだけ手際よく団結してんだよ! 普段の会議じゃ全然意見がまとまらないくせに!」

「彼らにとって、貴方はそれほどまでに目障りな存在だったということです。門閥貴族のプライドを砕いた『平民上がりのまぐれ当たりの若造』…彼らにとって、これ以上の共通の敵はいません」

 

 

 フィリアの残酷な解説が、タチバナの心臓を物理的に握りつぶすように締め付ける。

 

 もはや一刻の猶予もない。タチバナは、旅行カバンを乱暴に引っ掴んだ。

 

 

「聞いてる暇はねぇ! とにかく俺は行くぞ! あとはお前が適当に誤魔化しておいてくれ!」

 

 

 タチバナは、フィリアの横をすり抜けてドアへと向かって猛ダッシュした。その目論見は、わずか三歩で無残に打ち砕かれた。

 

 

「ぐぇっ!?」

 

 

 逃げ出そうとしたタチバナの襟首が、背後からガシッと掴まれた。

 

 フィリアの細く美しい腕から繰り出されたとは到底思えない、万力のような恐るべき膂力。タチバナの身体は空中で完全に静止し、そのままズルズルと後ろへ引き戻される。

 

 

「離せ! 離せってば! 俺は死にたくないんだよぉぉっ!」

「冷静になりなさい、愚か者」

 

 

 フィリアは、暴れるタチバナを片手で軽々と押さえつけながら、冷徹な事実を突きつけた。

 

 

「今この部屋を出て、大きなカバンを抱えてコソコソと逃亡を図ろうとしてみてください。外を警備している『戦乙女』たちは、貴方を元帥府に侵入した不審者、あるいは敵前逃亡を図る反逆者と見なすでしょう。彼女たちの白兵戦能力はご存知ですね? 貴方の首の骨など、一瞬でへし折られますよ」

「ひっ…!」

 

 

 タチバナの脳裏に、純白の制服を着た美女たちが微笑みながら自分の首をあらぬ方向へねじ切る光景がフラッシュバックした。彼は震え上がり、もがくのをピタリと止めた。

 

 

「そ、それなら、変装して裏口から…!」

「無駄です」

 

 

 フィリアはタチバナの襟首を掴んだまま、彼をベッドの方向へと放り投げた。タチバナはカバンごとベッドに倒れ込み、情けなく身を丸める。

 

 

「運良く外に出られたとしても、首都の宇宙港はすでに宰相派の息がかかっています。貴方の顔は全銀河に知れ渡りすぎている。丸腰で飛び出せば、五分以内に暗殺者のレーザーライフルが貴方の眉間を撃ち抜くでしょう。…貴方の退路は物理的にも完全に塞がれているのです」

 

 

 フィリアの宣告はタチバナの逃避願望に引導を渡す、絶対的な死刑判決だった。部屋の中は、システムが発する低い稼働音だけが不気味に響いていた。

 

 

「…じゃあ、どうしろって言うんだよ」

 

 

 タチバナは、カバンを抱きしめたまま、かすれた声で呟いた。

 

 

「ここにいても殺される。外に出ても殺される。俺にどうしろっていうんだ! 俺はただ、安全な場所で美味しいご飯を食べて、女の子のお尻を眺めながら平和に暮らしたかっただけなのに…! なんでこんな、銀河規模の殺し合いの中心に立たされてるんだよ!」

 

 

 涙目で天を仰ぎ、人生の理不尽さを呪うタチバナを見下ろし、フィリアは氷のような紫水晶の瞳を細めた。

 

 

「貴方に残された道は、二つだけです、タチバナ」

 

 

 その声は、どこまでも冷静で、冷酷だった。

 

 

「このまま逃げ出して、暗殺者か親衛隊に無様に惨殺されるか。それとも、迫り来る彼らを皆殺しにして、貴方自身が帝国の頂点に立ち、絶対の安全を手に入れるか」

「…!」

 

 

 タチバナは息を呑んだ。

  

 逃げるか、戦うか。

 否。殺されるか、殺すか。

 

 それは保身を第一とするタチバナにとって、あまりにも極端すぎる究極の選択だった。

 

 生き延びるためには、自分を殺そうとする銀河の半分の勢力と真っ向から戦争をし、内乱の総大将として勝利するしかないのだ。

 

 

「なんで…なんで俺の人生こんな極端な二択しかないんだよ…!」

 

 

 タチバナは、握りしめていた旅行カバンから手を離し、そのままベッドのシーツに顔を突っ伏した。

 

 英雄としての栄光も元帥としての権力も、今の彼にとってはただの呪いでしかない。部屋の隅に転がったカバンの中には、父親の作ったクッキーが虚しく入ったままだ。

 

 

「…ふふっ」

 

 

 静まり返った部屋の中に、微かな、だが確かに温度を持った笑い声が落ちた。

 

 タチバナがビクリと身をすくませて顔を上げると、ベッドを見下ろすフィリアの薄い唇が、ミリ単位ではなく、はっきりと弧を描いていた。それは慈愛の笑みなどではない。

 

 完全に獲物を逃げ場のない罠に追い詰めた、冷酷でサディスティックな狩人の微笑みだった。

 

 

「何を笑ってやがる…こっちは命がかかってんだぞ…!」

「ええ、笑わずにはいられませんよ。全てを他人のせいにして嘆くその無様な姿が、あまりにも滑稽ですから。タチバナ、これは他でもないあなたが始めた物語でしょう?」

「俺が始めた!? 冗談じゃない、俺は最初からずーっと『後方で安全に暮らしたい』って言い続けてただろ! 戦争なんてしたくないし、元帥になんてなりたくなかったんだよ!」

 

 

 タチバナの涙目の抗議を、フィリアは氷のような視線で一刀両断する。

 

 

「あなたが『安全な場所で楽をして褒められたい』と望んだから、私がその通りに戦果を偽装し、部下を操ったのです。あなたが『面倒な会議やジジイどもの相手をしたくない』と泣きついたから、私が代わりにすべてを処理できる立場についた。私がなぜ一介の副官である大佐から、特例中の特例で大将にまで昇進し、この元帥府の長官に就任できたか…まさか、忘れたとは言わせませんよ?」

 

 

 その言葉に、タチバナは息を呑み、そして盛大に顔を引きつらせた。

 

 そうだった。タチバナが元帥に就任した直後、彼は山積みにされた決裁書類と、自分を睨みつけてくる老将たちのプレッシャーに耐えきれず、フィリアの足元に縋り付いて号泣したのだ。

 

 

『俺の代わりに全部やってくれ! お前が一番偉くないと、俺の代わりに会議に出たり、あのジジイ共を黙らせたりできないだろ! 俺の盾になるなら、俺の次に偉い権力を持ってくれぇぇっ!』

 

 

 それは自分の責任をすべて副官に丸投げするための、最低極まりない泣き言だった。

  

 しかしその会話(という名の懇願)を密かに録音していたフィリアは、都合の良い部分だけを切り取り、さらに超絶的な意訳を加えて軍上層部に提出したのだ。

 

 

『タチバナ元帥閣下は家柄や性別、過去の階級という旧態依然とした慣習を打ち破り、真の実力と忠誠心を持つ者のみを重用するという、帝国軍の新たな指針を示されました。私フィリア・アージェントを大将に任じ、元帥府長官に据えるというご決断は、その何よりの証です』と。

 

 結果として、平民出身や実力主義の若手将校たちはタチバナの「慧眼と器の大きさ」に熱狂し、ますます彼を神格化することになった。そしてフィリアは、タチバナの代理として全軍に命令を下す絶対的な権力と大将の階級を、見事に手に入れたのである。

 

 

「あなたが私に権力を与え、私がそれを行使してあなたを『無敵の英雄』に仕立て上げた。あなたが楽をするために重ねてきたクズのような選択の一つ一つが、見事にこの退路のない玉座を組み上げたのです。…これは、私たち二人の見事な共犯関係の結晶ですよ」

 

 

 フィリアの突きつける残酷な真実に、タチバナはぐうの音も出なかった。

 

 他人のせいにしたかった。運命を呪いたかった。だが、自分をこの断頭台の特等席まで運んできたレールを敷いたのは、他ならぬ自分自身の「保身」と「怠惰」だったのだ。

 

 

「悪魔か、お前は…」

「私は精霊です。主君の願いを、最も効率的な形で叶えるのが存在意義ですから」

 

 

 聖剣を手にしたフィリアは、その切っ先をタチバナに向けた。

 

 

「契約を忘れないでくださいね。あなたが聖剣を拾ったあの日から、生殺与奪はこの私が握っているのです」

 

 

 かつて実家の蔵で埃を被っていた聖剣を、ただのガラクタだと思って不用意に引き抜いてしまったあの日。それがすべての地獄の始まりだったことを思い出し、タチバナは背筋を悪寒が駆け抜けるのを感じた。

 

 フィリアは冷たく言い放つと、ベッドに突っ伏したままのタチバナを見下ろし、最後の宣告を下した。

 

 

「さあ、いつまでも泣いている暇はありません。宰相派の討伐軍が結成される前に、こちらから『逆賊討伐』の兵を挙げる大義名分が必要です。……安心してください。私が完璧な台本を用意します。あなたはただ、今まで通り台本通りに動いていればいいのです」

 

 

 タチバナは、頭を両手で抱え込んだ。

 

 もはや、逃げるという選択肢すら幻だったと思い知らされた。生き延びるためには、自分を殺そうとする銀河の半分の勢力と真っ向から戦争をするしかないのだ。

 

 

「なんで…なんで俺の人生、こんなことになっちまったんだよぉぉぉ…!」

 

 

 部屋の隅に転がったカバンの中には、父親の作ったクッキーが虚しく入ったままだ。

 

 タチバナはこれから始まるであろう地獄のような内乱と、背負わされる理不尽な重責、そして自分を操る美しき悪魔の存在に、ただ独り、絶望の淵で咽び泣き続けるしかなかった。

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