宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
首都惑星の中心部に新たに開庁された帝国元帥府。その最深部に位置する司令部執務室は、床には毛足の長い絨毯が敷かれ、壁面には重厚な調度品が飾られた、およそ一人の人間が日常的に過ごすには過剰なまでの広さと豪華さを誇る空間だった。
だが、その豪奢なマホガニー製のデスクの前に座るケイイチ・フォン・タチバナ帝国元帥の顔色は、まるで数日間太陽の光を浴びていないかのように青白く、重度の胃腸炎を患った患者のように苦悶に歪んでいた。
彼の手の中には、薄く冷たい感触のタブレット端末が握られている。
その画面に表示された文章を一行読むごとに、タチバナの心臓は寿命を削るような不規則な鼓動を打ち、全身から冷や汗が噴き出していた。
「おい、フィリア。なんだよこれは」
タチバナは、喉の奥から乾ききった声を絞り出した。
傍らに直立不動で控えている首席副官、フィリア・アージェント大将は、一切の感情を排した声で淡々と答えた。
「全銀河に向けて発信する、緊急布告文の草案です」
「草案ってレベルじゃないだろ! ここに何て書いてあるか分かってるのか!? 『先帝陛下は病死ではなく、帝国宰相と門閥貴族たちによって不当に弑逆された』…!? さらに『先帝が密かに遺した遺勅に基づき、このタチバナ元帥を逆賊討伐軍総司令官に任命する』…!?」
タチバナの指が震え、タブレットがカチャカチャと音を立てる。
「おい、国家規模の公文書偽造じゃないか! 遺勅なんてあるわけないだろ! 先帝はただ寿命で崩御しただけじゃないのか!? もしこの捏造がバレたら、俺は一族諸共、反逆罪で八つ裂きにされて公開処刑だぞ!」
タチバナの切実な絶叫に対し、フィリアの薄い唇はミリ単位で冷酷な弧を描いた。
「ご安心ください、閣下。帝国の公式データベースにおける先帝の医療記録や生前の音声データは、私が既に統合情報戦略局のシステムを経由して完全に書き換えておきました。遺勅の電子署名も、暗号鍵を含めて完璧な本物として偽造済みです。我々が今回の戦いに勝てば、これが『真実』になります」
「勝てばって…負けたらどうなるか分かってるのか! 俺はただ自分の部屋で安全に暮らしたいだけなのに、なんでこんな大博打の主役にされてるんだよ!」
「宰相派はすでに貴方の討伐令を準備しています。やられる前に、より強力な『大義名分』をでっち上げて先手を打つ以外に、貴方の命を守る方法はありません。さあ、その承認ボタンを押してください」
フィリアの紫水晶の瞳が、有無を言わさぬ物理的な圧力を持ってタチバナを射抜く。
タチバナは、自分に突きつけられた選択肢が「今すぐ殺されるか」「大戦争を起こして生き延びる確率に賭けるか」の二つしかないことを痛感していた。彼は涙目で天を仰ぐと、震える指先をタブレットの画面に押し付けた。
「押したぞ。これでもう後戻りはできないんだな」
「ええ。後戻りなど、最初からできませんよ」
フィリアがそう告げた直後だった。
執務室の空間を埋め尽くすように、通信の着信を知らせるけたたましいアラートが鳴り響いた。全銀河へ配信された布告文が、軍の各方面に到達したのだ。元帥府の暗号回線が、一瞬にしてパンク寸前のトラフィックを記録する。
デスク上のホログラムプロジェクターから、次々と青白い光の柱が立ち上がり、タチバナの麾下で大艦隊を動かす女性指揮官たちの姿が映し出された。
「タチバナ閣下。布告文、確かに拝見いたしました」
最初に口を開いたのは、第七機動艦隊を率いるカレン・マクシミリアン大将だった。彼女の鋼鉄のような瞳には、強い使命感と怒りが燃え上がっている。
「先帝陛下を手にかけ、帝国を私物化しようとする逆賊ども…断じて許すわけにはいきません。第七機動艦隊、全艦出撃準備は完了しております。彼らに、帝国軍規の鉄槌を下しましょう」
それに続くように、第一打撃艦隊司令長官のレイナ・フォン・クロサワ上級大将が、静かに、しかし絶対的な殺意を秘めた声で報告する。
「我が旗艦《スサノオ》は既に抜錨準備を終えております。閣下の掲げられた大義の前に立ち塞がる愚かな貴族どもは、このレイナが全て消し炭にしてご覧に入れましょう。すべては、閣下のために」
さらに隣のモニターでは、突撃機動軍のヒナ・アカギ大将が、右の拳を左の掌に打ち付けながら好戦的な笑みを浮かべていた。
「第二機動強襲艦隊、いつでもイケますよ、司令官! あのタヌキジジイ共を、まとめて宇宙の果てまでぶっ飛ばしてやりましょう! あたしたちが先陣を切りますからね!」
次々とモニターに現れるヒロインたちは、全員が「亡き先帝の無念を晴らし、タチバナの大義に従って逆賊を討つ」という気高い正義感に燃えていた。
だが、その圧倒的なまでのモチベーションの高さは、タチバナの胃壁をヤスリで削り取るような痛みを引き起こしていた。
(頼むから、みんなその異常なやる気を半分にしてくれよ! 俺の自己保身のための嘘なのに、こいつら本気で正義の戦いだと思い込んでる! 戦争の規模が大きくなったら、俺が安全な首都から引っ張り出されて前線に出なきゃいけなくなるだろ! やめてくれ、これ以上大事にしないでくれぇぇっ!)
タチバナの内心の叫びは誰にも届かず、画面越しの彼女たちは「沈黙を守る元帥の威厳」にさらに心酔していくのだった。
通信の嵐が一段落すると、フィリアはホログラムの表示を切り替えた。
執務室の空間に、敵対する貴族連合軍が集結しつつある宙域──ガイア星系の立体星図が浮かび上がる。
「敵軍の規模は、およそ一万五千隻。彼らはガイア星系の要衝に強固な防御陣形を構築しつつあります。厄介なことに、彼らの主力は強力な艦艇で構成されています」
フィリアの指先が星図の一部を拡大すると、そこに並ぶ敵艦のシルエットが表示された。
タチバナの顔面が、さらに青ざめる。
「おい、あれは《ルドゥタブル級 ミサイル巡洋戦艦》じゃないか! なんであんな化け物みたいな船が、あんなにたくさん並んでるんだ!」
「彼らは旧来の特権を利用し、帝国軍の最新鋭艦を優先的に私兵として抱え込んでいましたからね。さらには、《スタースイーパー級-TE イオン砲巡洋艦》を多数配置し、防空と長距離火力の両面で隙のない陣形を敷いています」
タチバナは、ホログラムの赤い光点を見つめながら、恐怖で歯の根が合わなくなるのを感じた。
(嘘だろ。ルドゥタブル級の多連装ミサイルの飽和攻撃なんて、まともに受けたら俺の《アマテラス》なんて掠っただけで宇宙の塵になるぞ! スタースイーパー級のイオン砲だって、あんなに並べられたら回避のしようがないじゃないか! 死ぬ! 本当に死ぬ!)
「ご安心ください。彼女の設計した《アマテラス》がそう簡単に沈むことはありません」
「そ、そうだよな。簡単には沈まないもんな」
「この圧倒的な火力に対抗するためには、我が軍の戦線維持能力…すなわち、徹底した兵站の確保が必須となります」
フィリアの言葉に応じるように、モニターの一つに第一後方支援艦隊の司令官、アンナ・ホーキンス少将が映し出された。
彼女は聖母のような温和な笑みを浮かべたまま、その報告内容は極めて戦略的で緻密なものだった。
「ご安心ください、閣下。後方支援の補給計画はすでに万全ですわ。我が艦隊の**《XT-20級 支援巡洋艦》**を前線の各部隊に随伴させ、戦闘中の即時修理とUAVによる装甲補修を行います。また《X20級 大型作業艦》を安全圏の小惑星帯に展開させ、現地で『金属』、『結晶体』、『重水素』の精錬を直接行うことで、補給ラインが伸び切るリスクを完全に排除いたします。…閣下のお命と、兵士たちの命は、このアンナが命に代えてもお守りいたします」
アンナの完璧な兵站計画は、軍事的にはこの上なく頼もしいものだった。タチバナの頭の中にあるのは、一万五千隻という巨大な軍事力が激突し、血で血を洗う殺し合いが始まるという、現実の重みだけだった。
(金属、結晶体、重水素…ゲームみたいに簡単に言うけど、実際に現地で補給しながら何日も戦い続けるってことだろ!? どんだけ過酷な消耗戦になるんだよ…アンナ、頼むから兵器の素材なんかより、胃薬を輸送船に積めるだけ積んでおいてくれ。俺の胃袋が先に弾け飛んじまう!)
自分のちっぽけな命を守るためだけに、一万五千もの味方の将兵が血を流し、同数の敵を殺戮する。
その凄惨な未来図が、巨大な鉄の塊となってタチバナの肩にのしかかる。
彼は椅子の背もたれに深く寄りかかり、これ以上逃げることのできない大戦争への絶望と、果てしない憂鬱に押し潰されそうになりながら、ただホログラムの冷たい光を虚ろな目で見つめ続けていた。
■
首都惑星の重力圏を離れた軌道上は、人工の星屑で埋め尽くされていた。
漆黒の宇宙空間を背景に、無数の青白い推進炎が整然と並んでいる。その一つ一つが、帝国の威信を体現する鋼鉄の戦闘艦だ。総数一万五千隻──銀河帝国の全軍事力のうち、実に半分に相当する大艦隊が、今まさに一人の若き元帥の号令を待っていた。
その大軍勢の中心、一際巨大で異様な威圧感を放つ超弩級特務巡洋戦艦《アマテラス》のメインブリッジ。
司令官席という名の豪華な玉座に腰を下ろしたケイイチ・フォン・タチバナ帝国元帥は、正面の巨大な展望窓から広がるその光景を、ほとんど現実感のないままに見つめていた。
(おかしい。何度見てもおかしいだろ、この数は)
タチバナはマントの下で震える手を隠すように、固く膝の上で組んでいた。
一万五千隻。数字で言われてもピンとこないが、実際に肉眼で見てみると、それは狂気としか思えない光景だった。上下左右、視界の及ぶ限りの空間が、味方の艦船で埋め尽くされている。彼らが一斉に主砲を放てば、小さな惑星なら一瞬で塵と化すだろう。
そして、その全火力の矛先を決定する権限が、今、自分の手の中にあるのだ。
(これだけの数の人間が、俺のついた嘘のせいで殺し合いに行くんだぞ…。いや、嘘をついたのはフィリアだけど! でもそれにハンコを押したのは俺だ! もし『遺勅は偽造でした、ごめんなさい』なんて今更言ったら、間違いなくこの一万五千隻が一斉に俺に向かって発砲してくる!)
タチバナの胃袋は、もはや痛みを通り越して冷たく硬直していた。
ブリッジ内は、数百名のクルーが計器に向かい、出撃の最終チェックを行っているにもかかわらず、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。聞こえるのは、規則的な電子音と、タチバナ自身の早すぎる心拍の音だけだ。
彼らは皆、タチバナという「悲劇の皇帝の意志を継ぐ、正義の若き英雄」の言葉を一言半句漏らさず聞き取ろうと、極度の緊張と興奮の中で待機しているのだ。
メインモニターには、各方面の特務艦隊を率いるヒロインたちの顔が分割されて映し出されていた。
『第七機動艦隊、全艦の動力炉接続正常。いつでも行けます、タチバナ閣下』
カレン・マクシミリアン大将が、一分の隙もない敬礼とともに報告する。
『第一打撃艦隊《スサノオ》、主砲のチャージスタンバイ完了。閣下の御心に従い、逆賊どもを浄化いたします』
レイナ・フォン・クロサワ上級大将が、確かな殺意を込めて告げる。
『第二機動強襲艦隊も準備万端! 司令官の合図で、一番乗りで敵陣に突っ込みますよ!』
ヒナ・アカギ大将が、待ちきれないとばかりに拳を握りしめている。
モニターに映る彼女たちの瞳には、タチバナへの絶対的な忠誠と、大義のために命を懸けるという純粋な熱情が燃えたぎっていた。
その熱情を向けられるタチバナにとって、それは火の粉を浴びせられているのと同じだった。
(やめてくれ…! そんなキラキラした目で俺を見るな! 俺はただ、自分が暗殺されたくないから、先手で『逆賊討伐』なんてでっち上げただけなんだよ! お前らが命を懸けるような崇高な理念なんて、一ミリも持ってないんだ! 頼むから、もっと適当にやってくれ!)
タチバナの心の中で、情けない懺悔が木霊する。だが、それを口に出すことは、すなわち己の死を意味する。彼はこの「正義の総司令官」という仮面を、自らの顔の皮が剥がれるまで被り続けなければならないのだ。
「閣下。全艦、ワープ・ドライブの同期設定が完了しました。あとは、貴方の号令を残すのみです」
傍らに直立不動で控えていたフィリア・アージェント大将が、冷徹な声で告げた。
その声はブリッジ全体に響き渡り、クルーたちの緊張がさらに一段階跳ね上がるのが肌で感じられた。
タチバナは、ゆっくりと息を吸い込んだ。何か、威厳のある言葉を発しなければならない。
「逆賊を討て」とか「帝国の未来のために」とか、それらしい言葉を。いざ声を出そうとすると喉の奥がカラカラに乾ききっており、声帯が痙攣していることに気づいた。
(あ、無理だ。これ、絶対声出ない。無理に喋ろうとしたら『突撃しましゅ!』みたいな、マヌケで裏返った声が出るやつだ。そんな声を出したら、一発で俺の威厳が崩壊する!)
極度の恐怖とプレッシャーが、ついにタチバナから言葉を発する機能すら奪ってしまった。
数秒の沈黙が流れる。
ブリッジのクルーたちは、「元帥閣下が、出撃の前に何か深い思索を巡らせている」と勝手に解釈し、固唾を飲んで待ち続けている。だが、タチバナの頭の中は「どうやってこの状況をごまかすか」という底の浅い計算で埋め尽くされていた。
(声が出ないなら行動で示すしかない!)
タチバナは、震えを隠すために固く握りしめていた自分の右手に視線を落とした。そこには、皇帝から授与された銀色の「元帥杖」が握られている。
彼は深呼吸を一つすると、無言でその元帥杖をゆっくりと持ち上げた。展望窓の向こうに広がる虚空──逆賊たちが待ち構えるガイア星系の方向へと、一直線に、力強く突き出した。
言葉はない。
ただその銀色の杖が、絶対的な意志を示すように虚空を指し示しただけだった。
その無言のジェスチャーは言葉よりも遥かに雄弁に、周囲の者たちの心を打った。
クルーたちの間に、電気のような戦慄が走る。
『言葉など不要。ただ我に続け』──彼らは、タチバナのその仕草から、孤高の天才指揮官の静かな、しかしマグマのように熱い闘志を読み取ったのだ。
モニター越しのヒロインたちもその姿に息を呑み、さらに深い陶酔の眼差しを向けた。
タチバナ自身は「声が出なかったから杖を突き出しただけ」であり、しかも腕が震えないように必死に力を込めていたため、動きがゆっくりと重々しいものになっただけなのだが、それがかえって劇的な演出となってしまった。
(よし! 誤魔化せた! 完璧だ俺! これなら声が裏返る心配もない!)
内心で安堵の涙を流すタチバナの隣で、彼のクズな本性をすべて把握しているフィリアが、微かに、本当にミリ単位で呆れたように目を伏せた。
彼女はすぐに「完璧な副官」としての役割を果たすべく、手元のコンソールを操作し、拡声器を通じて全艦隊への通信回線を開いた。
「元帥閣下より、下命」
フィリアの氷のような、しかし銀河の果てまで届くかのような澄んだ声が、一万五千の艦船のブリッジに響き渡る。
「──全軍、発錨。これより、我らは逆賊を討伐する」
その瞬間、宇宙が震えた。
一万五千隻の戦闘艦が、一斉にワープ・ドライブを起動したのだ。
展望窓の向こうで、圧倒的な数の青白い推進炎が極限まで眩く輝き、次々と空間を歪めていく。巨大な艦体群が光の帯となって虚空へと吸い込まれていく光景は、人智を超えた恐るべき美しさを伴っていた。
タチバナは突き出していた元帥杖をゆっくりと下ろし、玉座の肘掛けに置いた。
窓の外で次々と消えていく味方の艦隊の光を見つめながら、彼は深い、果てしなく深い絶望の淵に沈んでいた。
(行っちゃったよ。本当に戦争が始まっちまった。俺のついた嘘と、俺の自己保身のためだけに…)
事ここに至って、もう後戻りという言葉すら存在しない。大義の旗を掲げた保身の軍勢は、タチバナという偽りの英雄を神輿に乗せたまま、血で血を洗う巨大な内乱の渦中へと突入していった。
(神様、もしいるなら聞いてくれ。俺はただ、安全な部屋で平和に暮らしたかっただけなんだ…)
タチバナの悲痛な祈りはワープ空間の彼方へと消え去り、誰の耳にも届くことはなかった。
ただ冷酷な現実だけが彼の乗る旗艦《アマテラス》を、逃げ場のない戦場へと運び去っていくのであった。