宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
帝国元帥ケイイチ・フォン・タチバナが、分厚い装甲に守られた司令部基地の奥深くで、いっそ退屈なほどの静寂の中で二杯目の紅茶を口に運んでいたその頃。
彼が首都惑星の軌道上で放った「無言の出撃命令」は、前線で実動部隊を率いる十三人の特務艦隊指揮官たちに、常軌を逸した熱量と狂信を感染させていた。
「目標、アルファ星系第4防衛ライン。全ミサイル発射管、一斉開放」
アルファ星系の宙域。第七機動艦隊旗艦《デュランダル》のメインブリッジに、カレン・マクシミリアン大将の氷のように冷徹な声が響き渡る。
彼女の号令と同時に、特務仕様ミサイル駆逐艦《デュランダル》の船体上部に格納されたミサイルランチャー群のハッチが一斉に展開した。統合ミサイルシステム『スコール・ジャスティス』が火を噴き、無数の光の矢が漆黒の宇宙空間へと放たれる。
目標は、この星系の防衛を担う帝国宰相派の艦隊群。だが、彼らはカレンの放ったミサイルの雨を回避することも、迎撃することもできなかった。
「ふふ。カレンの美しい陣形を、無粋な反撃で乱させるわけにはいきませんわ」
同じアルファ星系内でカレンの艦隊と完璧なデータリンクを構築している第五遊撃艦隊旗艦《ローゼンカヴァリエ》。その司令官席で、アデライード・フォン・ローゼンベルク大将が優雅に扇子を口元に当てて微笑んでいた。
彼女の指揮する戦術駆逐艦の群れは、広域戦術指揮システム『ブリューダシャフト』と電子妨害機能『ローゼン・ミスト』を最大出力で展開している。敵のレーダーは無数の偽装ノイズに埋め尽くされ、通信は完全に遮断されていた。
目隠しをされ耳を塞がれた敵艦隊は、カレンの放つミサイルにとってただの固定標的に過ぎない。
カレンは、戦術ホログラム上で次々と消滅していく敵の光点を見つめながら、己の胸の奥に燃え上がる熱い感情を噛み締めていた。
出撃の直前、タチバナは一言も発さず、ただ静かに元帥杖を前線へと突き出した。カレンはあの沈黙を「余計な言葉など不要。お前たちの実力を完全に信頼している」という、指揮官からの絶対的な信頼の証だと解釈していた。
(閣下。貴官のその無言の信頼に、このカレン、一分の無駄もない完璧な戦果をもってお応えいたします。貴官の正義の前に、いかなる障害も残しはしない)
敵の防衛ラインは、二人の見事な連携の前に、わずか数十分で物理的に粉砕された。アルファ星系の制圧は、文字通り無傷での完了を迎えようとしていた。
一方、それとは対照的な荒々しさで蹂躙劇を繰り広げている宙域があった。ベータ星系に突入した、第二機動強襲艦隊である。
「全艦、エンジン出力120パーセント! 限界まで踏み込め! 一番乗りはあたしたちだ!!」
旗艦である超高速強襲駆逐艦《カグツチ》のブリッジで、ヒナ・アカギ大将が身を乗り出して絶叫していた。
彼女の燃えるような真紅の髪が、艦内のアラートランプを照り返して激しく揺れる。
《カグツチ》は、駆逐艦の船体に巡洋艦クラスのエンジンを無理やり搭載した魔改造艦だ。限界を超えた加速によって船体各所から悲鳴のようなきしみ音が上がっているが、ヒナは全く意に介さない。
「目標、敵の巡洋艦隊! 距離が詰まったら一気にぶっ放せ! 司令官が、あの特等席から見てくれてる! 誰よりも派手な戦果を上げろよ!!」
ヒナの頭の中にはタチバナが自分だけを特別に見つめ、その活躍に目尻を下げて褒めてくれるという完全な妄想ビジョンが出来上がっていた。彼女にとって、この戦争はタチバナに「よくやったな」と頭を撫でてもらうための、壮大なアピールタイムでしかない。
《カグツチ》を先頭とするウルフパックは、敵が陣形を整える暇も与えず圧倒的な速度で敵陣の懐へと飛び込んだ。
「撃てぇぇぇっ!!」
至近距離から放たれた『プロミネンス・トーピード』が、敵の分厚い装甲を紙切れのように食い破る。回避不能の距離から放たれた魚雷の飽和攻撃により、ベータ星系の敵艦隊は戦術も何もなく、ただ純粋な暴力によって力業で崩壊させられていった。
シリウス星系では、また別の形の殺戮が展開されていた。第一強襲空母艦隊旗艦《フェニックス》の巨大な格納庫から、無数の光点が次々と吐き出されていく。
「さあ、行きなさい! あたしの可愛いヒナ鳥たち! 敵のエンジンを一つ残らず食い破ってやるのよ!」
メグ・フレイムハート中将はグラマラスな身体を指揮官席に預けながら、挑戦的な笑みを浮かべていた。彼女の指示のもと、ストリクスA100型をはじめとする無数の艦載機が、シリウス星系の空間をハチの群れのように埋め尽くしていく。
敵の対空砲火が空を切る中、メグの放った航空戦力は敵巡洋艦の死角に回り込み、次々と致命的な打撃を与えていく。
「この星系を一番早く落としたら、司令官から直々に、熱ぁーいご褒美がもらえるかもしれないわよね…ああ、想像しただけでゾクゾクしてきちゃった」
メグは艶やかな唇を舌で舐め、自分の胸元を微かに指先でなぞった。
タチバナはただ「空から援護しててくれ」と適当に言っただけなのだが、彼女の脳内ではそれが「君の翼に私の命を預ける」という最上級の口説き文句に変換されていた。
彼女の情熱的な妄想は、艦載機のパイロットたちにも伝播し、彼らは狂ったような高機動で敵の防空網をズタズタに切り裂いていった。
それらの星系を越え、最終的な決戦の地となる「ガイア星系」へのルート上では、最も冷酷で圧倒的な破壊が進行していた。
第一打撃艦隊旗艦、超弩級特務ミサイル巡洋戦艦《スサノオ》。その広大で薄暗いブリッジには、無駄な喧騒は一切なかった。ただ、極限まで張り詰めた冷たい殺気だけが充満している。
「目標、座標X−49に存在する敵の大型中継拠点。主砲『アメノハバキリ』、エネルギー充填率120パーセント。撃ちなさい」
レイナ・フォン・クロサワ上級大将の、鈴の音のように清らかで絶対零度の冷たさを持つ声が響く。
《スサノオ》の艦首に搭載された、出力強化型の巨大な電磁加速砲が、周囲の空間を歪めるほどのエネルギーを放った。
光の奔流が宇宙空間を一直線に駆け抜け、遥か彼方に位置していた敵の大型中継拠点を、エネルギーシールドごと一撃で貫通した。
音のない宇宙で拠点は内部から膨張し、次の瞬間には巨大な火球となって完全に消滅した。周囲に展開していた護衛の艦艇も、爆発の余波に巻き込まれて次々と誘爆を起こしていく。
「閣下の進む道に立ち塞がる塵は、この私が全て払い落とします」
レイナは、ホログラム上で消え去る敵の反応を眺めながら、その形の良い唇に、不気味なほど純粋な微笑みを浮かべた。
タチバナはただ恐怖のあまり前線から後退しただけだったが、レイナはそれを「私を最強の剣として、最も危険な道を任せてくださった」と狂信的に受け取っていた。
「私の命、私の魂、そしてこの圧倒的な暴力のすべてはタチバナ閣下…あなた様だけのものです。誰一人として、閣下の御心に影を落とすことは許しません」
前線でカレンやヒナといった武闘派の特務艦隊が、物理的な暴力をもって敵防衛網を文字通り粉砕している頃。
その戦火から遠く離れた深宇宙の暗闇の中では、タチバナ艦隊の「真の恐ろしさ」とも言える常軌を逸した情報収集と兵站構築が、爆発的な速度で進行していた。
シリウス星系の外縁部。肉眼ではもちろん、最新鋭の軍事用レーダーをもってしても感知できない漆黒の空間を、一隻の艦影が滑るように進んでいた。
第三特殊偵察艦隊旗艦、特務仕様ステルス偵察艦《サイレント・シャドウ》。
エンジン音、熱源、さらには重力波に至るまで、艦が発するあらゆるエネルギー痕跡を内部で相殺・吸収する『サイレント・ドライブ』を起動させたこの艦は、宇宙空間における完全な「影」であった。
「前方の小惑星帯に、高純度の『結晶体』の巨大鉱脈を…確認しました。…敵の哨戒部隊の配置データと共に、本隊へ…送信します…」
照明が極限まで落とされた《サイレント・シャドウ》のブリッジで、クロエ・フォスター少将が、消え入るような囁き声でオペレーターに指示を出していた。
漆黒の長い髪で顔の半分を隠した彼女は、自分のコンソールに映し出されるタチバナの生体データ(密かにユキノから共有されているもの)をチラリと盗み見ては、一人で顔を真っ赤にして身悶えしていた。
かつてタチバナは彼女の無表情な凝視に耐えきれず、「俺の視界に入ると緊張するから、どこか隠れててくれ」と情けない理由で遠ざけようとした。
だが極度の引っ込み思案であるクロエは、それを「私にしかできない、絶対的な隠密任務を託してくださったのだ」と都合よく脳内変換していたのである。
(…閣下のお役に、立てている…私が見つけたこの星の欠片が、閣下をお守りする盾になる…ふふ…うれしい…)
クロエの送った莫大な偵察データは、暗号化された特殊な量子通信網を通り、後方宙域に停泊する別の特務艦へと瞬時に転送されていた。
統合情報戦略局旗艦《アマツミカボシ》。
あらゆる電波を吸収する特殊装甲「無光の帳」に覆われたその艦の中枢で、ユキノ・シライシ大将は血走った目でコンソールを叩きまくっていた。
「クロエ少将からのデータ、受信完了。アルファ、ベータ、シリウス各星系の資源分布および敵残存兵力のマッピング、完璧です。さあ、ここからが私の腕の見せ所ですよ」
薄暗い研究室の中で、分厚い眼鏡の奥の瞳がギラギラと妖しい光を放っている。だらしなく羽織った白衣の下で、タイトな軍服に包まれた豊満な胸が、異常な興奮と浅い呼吸に合わせて激しく上下していた。
「この資源を利用して各星系に建設する前哨基地(アウトポスト)の防衛システム…ただの砲塔では不十分です。私が独自にチューンナップした自律型パルス砲塔群の設計図を、現地の作業艦の3Dプリンターへ直接上書きインストールします。…敵の接近を感知した瞬間、装甲内部から無数の銃身が展開し、対象を分子レベルまで蒸発させる愛の防衛網…」
ユキノのキーボードを叩く指の動きは、もはや残像しか見えないほどの速度に達していた。
「タチバナ元帥閣下の細胞の一つ一つを、私は絶対に守り抜いてみせます。この強固な要塞群は、いずれ閣下と私が五人の子供を育てるための『愛の巣』となるのですから…! ああ、閣下の優秀な遺伝子情報を解析しながら作業をしていると、筆が…いえ、コードが進んで仕方がありません!」
狂気に満ちたマッドサイエンティストの愛の結晶は、光の速度で最前線の兵站部隊へと送られていった。
そして、そのデータを受け取り、実際に何もない宇宙空間に巨大な要塞を「物理的に」顕現させているのが、第一後方支援艦隊の司令官、アンナ・ホーキンス少将であった。
「さあ皆様、急ぎますわよ。閣下が温かい紅茶を安心してお召し上がりになれるよう、この宙域を完璧な安全圏へと作り変えるのです」
旗艦である特務仕様大型支援巡洋艦《ウカノミタマ》のブリッジ。
聖母のような優しく温和な微笑みを浮かべたアンナの号令のもと、インダストリアル・イエローに塗装された無数の《X20級 大型作業艦》と《XT-20級 支援巡洋艦》が、クロエが発見した小惑星帯へと群がるように展開していた。
巨大なロボットアームが小惑星に突き立てられ、搭載された精錬設備が、採掘した端から「金属」や「結晶体」を高純度の装甲板や兵器のパーツへと加工していく。
アンナの管理能力は、まさに神業の領域にあった。数千隻に及ぶ作業艦の動線、資材の運搬ルート、護衛艦隊の配置。それらすべてが、一分のロスもなく完璧なパズルとなって宇宙空間で組み上がっていく。
「閣下は、あのようなご立派な地位に就かれながらも、私に『兵の命と補給を頼む』と、そのすべてを委ねてくださいました。…あの時の、すがるような子犬のような瞳。私の中の母性が、すべてを満たして差し上げろと囁いているのですわ」
タチバナがフィリアの用意したカンペを丸読みしただけの出来事を、アンナは「自分への絶対的な依存と信頼」だと解釈していた。その深く重い母性的支配欲が、帝国軍の兵站をかつてない速度で回している。
《X20級》が次々と資源を吐き出し、ユキノの恐るべき防衛プログラムを搭載した強固な「前哨基地」が、魔法のような速度で各星系に産声を上げていった。
兵站の維持は、兵器や装甲だけではない。
アンナの艦隊に随伴する超大型給糧艦《キッチン・エンジェル》の内部では、底抜けに明るい狂宴が繰り広げられていた。
「よーっし! お肉の焼き加減、バッチリですよー! 次は特製スタミナシチューのタンクを、最前線のカレンちゃんの艦隊に射出してください!」
太陽のような金髪をおさげにしたベッキー・スターリング少将が、巨大な厨房でフライパンを振るいながら高らかに笑っていた。
《キッチン・エンジェル》の内部は、資源精錬プラントをすべて食料培養プラントに改造した、まさに巨大な胃袋である。ベルトコンベアの上を、常人の何倍ものカロリー計算がなされた超大盛りの食事セットが、次々と流れていく。
「タチバナ閣下は言いました! 『とりあえず腹減ったから飯食わせとけ』って! つまり、兵士たちに美味しいご飯をお腹いっぱい食べさせることこそが、閣下の掲げる大義なんです! 閣下の元帥就任祝いのパーティーは、この銀河のどこにいても終わらせませんよー!」
タチバナの単なるわがままを「兵の士気を最優先する名将の証」と信じ込んだベッキーによって、前線で戦う兵士たちのもとへは、疲労を強制的に吹き飛ばす絶品の食事が無尽蔵に補給され続けていた。
これがタチバナ艦隊の士気を異常なまでに高く保ち、敵を絶望させる一因となっていることを、当のタチバナは知る由もない。
そして、この完璧な兵站と支援網のさらに奥。
最後方で待機する超大型医療支援艦《アスクレピオス》の最も安全で豪華なVIP用特別個室では、セシリア・ホワイトリリー中将が誰もいない真っ白な医療用ベッドのシーツを愛おしそうに撫でていた。
「ああタチバナ様。今頃、冷たい司令官の椅子で、どれほどの重圧に耐えておられるのでしょう…」
慈愛に満ちたアルトボイスが、誰もいない病室に響く。セシリアの瞳は純粋な心配とそれと同じくらい濃密な「庇護欲」に潤んでいた。
「あんなに若くして全軍を背負うなんて、タチバナ様の繊細なお心が壊れてしまわないか、わたくし心配でたまりませんわ。…もし、もしもそのお心に限界が来て、ポキリと折れてしまったら…その時は、すぐにわたくしの元へいらしてくださいね」
彼女は、タチバナのために用意された最高級の生命維持装置を指先でなぞった。
「その時は、わたくしがつきっきりで、タチバナ様の心も身体も、ドロドロに溶けるまで甘やかして、癒して差し上げますわ。…ええ、わたくしだけの特別な患者様として、誰にも渡したりいたしません…ふふ、ふふふふ…」
タチバナ艦隊の主力部隊が、血で血を洗う苛烈な戦闘と常軌を逸した速度での星系制圧を繰り広げている頃。彼らの本拠地であり、今回の内乱の火薬庫でもある首都惑星の軌道上もまた、決して無防備に放置されていたわけではなかった。
帝都の上空には、強固な防衛プラットフォーム群を背にする形で、白銀の艦隊が圧倒的な威圧感をもって展開していた。
帝都防衛艦隊。その旗艦である特務仕様イオン砲巡洋艦《ブリュンヒルデ》のメインブリッジから、アリシア・フォン・ローゼンベルク上級大将は、眼下に広がる青き惑星を冷徹に見下ろしていた。
「地上の動きに変化はありますか」
アリシアの静かな問いかけに、オペレーターが即座に報告を返す。
「異常ありません。宰相派の残党および、日和見を決め込んでいる中立派の貴族たちの私兵部隊は、各々の領地や軍港で完全に沈黙を保っております。我が艦隊の監視網を突破して軌道上へ上がる動きは、現在のところ一切確認されておりません」
「当然ですわ。彼らのような腐敗した臆病者たちが、このわたくしの防衛線を突破できるはずがありません。ですが、油断は禁物です。センサーの感度を最大に保ち、不審な熱源反応があれば即座に威嚇射撃を行いなさい。帝都の空に、逆賊の船を一隻たりとも上げることは許しません」
アリシアは一点の曇りもない純白の軍服の襟を正し、誇り高く言い放った。
黄金に輝く長い髪が、ブリッジの照明を受けて威厳に満ちた光を放っている。
彼女の背負うローゼンベルク家の権威と、彼女自身が統率する精鋭部隊の圧力により、首都惑星に燻る不穏な火種は文字通り物理的に封じ込められていた。
アリシアの脳裏には、出撃前のタチバナの姿が鮮明に焼き付いている。
皇帝の玉座の前で周囲からの嫉妬と殺気を受けながらも、一切の表情を崩さずに完璧な礼儀作法を披露したあの姿。実際にはタチバナが極度の緊張と恐怖で身体を硬直させていただけなのだが、アリシアにはそれが全く違うものに見えていた。
(あれほどまでに気高く、腐敗に染まらぬ魂を持つ方がいるとは。周囲の愚かな貴族どもの嫉妬など意に介さず、ただ帝国の未来だけを見据えておられた。あの孤高の獅子たるタチバナ元帥の留守は、このわたくしが命に代えても守り抜いてみせますわ)
アリシアの瞳には、タチバナへの絶対的な敬意と忠誠が燃え上がっている。彼女の指揮下にある帝都防衛艦隊は、その主将の誇りに呼応するように、寸分の狂いもない美しい陣形を保ったまま、首都の空を鉄壁の盾となって覆い尽くしていた。
しかし、その完璧な防衛網のすぐ背後、首都惑星の軌道上の別の宙域では、帝国軍の誇りも軍規も完全に無視した、別の意味で恐ろしい暴走が起きようとしていた。
「ああ…! 愛しのタチバナ様! 今頃、冷たい宇宙の果てで、一人孤独に戦火に耐えておられるのですね!」
超豪華特装巡洋艦《エンジェル・ティアーズ》。
純白の装甲に優雅な装飾が施されたその船の内部は、軍艦というよりは移動する宮殿であった。
数千人を収容できる巨大なチャペルに改装された区画の中心で、アナスタシア・フォン・ミラックス特務少将が、両手を胸の前で組み、天井に向かって熱烈な祈りを捧げていた。
「わたくしには分かります! タチバナ様のお心が、わたくしの愛と癒しを求めて泣いておられるのが! 敵の汚らしい砲火に囲まれながら、『アナスタシア、早く助けに来てくれ』と、その気高き唇がわたくしの名を呼んでいるのですわ!」
アナスタシアの空色の瞳は、狂信的な恋の熱病によって完全に潤んでいた。タチバナが少し躓きそうになったのを反射的に支えただけの出来事を「運命の伴侶の証明」と思い込んでいる彼女の妄想は、すでに限界を突破している。
「タチバナ様に近づく害虫どもは、このわたくしの手で一匹残らず掃除して差し上げますわ! さあ、全艦、直ちにワープ・ドライブを起動なさい! 愛の光で敵を焼き払い、最前線でタチバナ様と熱いくちづけを交わすのですわ!」
「ひ、姫様! お待ちください! 我々に前線への出撃命令は下っておりません!」
ミラックス大公家の私兵からなるブリッジのクルーたちが慌てて止めに入るが、恋に暴走したお姫様の耳には全く届かない。
「お黙りなさい! タチバナ様とわたくしの愛の障壁になるというのなら、軍規であろうと何であろうと、この《エンジェル・ティアーズ》の隠し主砲『セラフィック・レイ』で吹き飛ばして差し上げますわよ! 機関、最大出力! 発進ですわ!」
アナスタシアの無茶苦茶な命令により、純白の特装巡洋艦の巨大なメインエンジンが青白い光を噴き出し始めた。船体各所に隠されたミサイルハッチやイオン砲の砲門が展開し、豪華客船の皮を被った重武装艦が、単艦で前線へと突撃しようと動き出す。
だが、その暴走した船体がワープ空間へ突入しようとした次の瞬間だった。
「──姫様!! いい加減になさらないと、私の胃がマッハで崩壊します!!」
通信モニターに眉間に深いシワを寄せ、額に青筋を立てたクラリッサ・フォン・ミューゼル中将の顔が割り込んできた。
同時に、《エンジェル・ティアーズ》の船体全体に、強烈な重力干渉が叩きつけられる。青白い推進炎を上げて前進しようとしていた船の動きが、目に見えない巨大な力によって空中で強制的に停止させられた。
「な、何事ですの!?」
アナスタシアが悲鳴を上げると、モニターの向こうでクラリッサが手元のコンソールを激しく叩いていた。
「何事もクソもありません! 貴女の護衛騎士として、これ以上の軍規違反は見過ごせません! おとなしくそこで停止していてください!」
アナスタシアの船の背後に、漆黒の巨大な影が迫っていた。
特務仕様重装鎮圧巡洋戦艦《アイアン・メイデン》。アナスタシアを護衛し、そして彼女が引き起こすあらゆるトラブルを「物理的に鎮圧」するために建造された、クラリッサ専用の移動要塞である。
《アイアン・メイデン》の艦首から照射された超大型トラクタービームが、見えない光の網となって《エンジェル・ティアーズ》を捕縛していた。さらに、漆黒の船体の側面から射出された極太の物理ワイヤーが、純白の船体に何重にも巻き付き、その自由を完全に奪い去る。
「離しなさい、クラリッサ! わたくしの愛の行軍を邪魔する者は、たとえ貴女でも容赦いたしませんわよ!」
「容赦しなくて結構です! だからと言って前線は貴女の遊び場ではないんです! 今あっちに行っても、閣下の足手まといになるだけだと何度言えば分かるんですか!」
クラリッサは通信越しに喚き散らすアナスタシアの声を半分聞き流しながら、軍服のポケットから白い固形の錠剤を取り出し、水も飲まずにガリガリと噛み砕いた。
苦い胃薬の味が口の中に広がるが、彼女の慢性的な胃の痛みは一向に治まる気配がない。
(まったく、なんで私がいつもいつも、この暴走姫の尻拭いをしなきゃならないんだ。しかも今回は内乱の真っ只中だぞ。一歩間違えれば、私まで反逆罪で処刑台行きじゃないか)
クラリッサは、コンソールに映る《エンジェル・ティアーズ》の拘束状況を確認しながら、重いため息を吐いた。
彼女の脳裏に浮かんだのは、出撃前に宮殿の回廊で見た、タチバナの情けないほど疲れ切った顔だった。アナスタシアとアデライードの口論に巻き込まれ、本気で嫌そうな、被害者面で吐いていたあの深いため息。
(閣下。あなたも本当に大変だな。あの二人に好かれてしまったばかりに、日々あんな地獄を味わっているとは)
クラリッサは、タチバナが「天才的な英雄」などではなく、自分と同じようにワガママな令嬢たちに振り回され、苦労を強いられている不憫な人間なのだと、勝手に、しかしある意味で非常に正確なシンパシーを感じていた。
その「苦労を分かち合える」という共感が、いつの間にか彼女の中に、タチバナに対する奇妙な好意と同情を育ませていたのである。
「閣下。最前線の戦争より、こっちの姫様の相手の方がよっぽど精神的な地獄ですよ…!」
クラリッサは、モニターの向こうで「タチバナ様ぁぁっ!」と叫びながらジタバタと暴れるアナスタシアを見つめながら、再びボリボリと胃薬を噛み砕いた。
「出力最大! ワイヤーの張力を維持しろ! 絶対にこの船をワープ空間に入れるな! ここで止めるんだ!」
最前線で特務艦隊が猛威を振るい、後方で兵站が魔法のように組み上がり、帝都上空で胃痛と誇りの防衛戦が繰り広げられている頃。
タチバナ艦隊の戦力の中で、最も「見えない」場所で、しかし最も致命的な任務を遂行している部隊があった。
ユキノ・シライシの指示を受け、最前線よりもさらに奥深く、敵の勢力圏のど真ん中へと潜入している第三特殊偵察艦隊である。
旗艦《サイレント・シャドウ》のブリッジは、他の戦闘艦のように赤やオレンジのアラートランプが点滅することはなく、常に深海のような薄青い光に包まれていた。レーダー員たちは息を潜めるようにコンソールに向かい、艦内に響くのは微弱な電子音だけだ。
「敵の通信暗号のパターン、解析完了しました。…偽装データのパケットを、敵の戦術ネットワークに流し込みます…」
クロエ・フォスター少将は、ブリッジの中央で誰に言うともなく囁いた。
彼女の指先がキーボードを滑るたびに、敵である貴族連合軍のネットワークに、致死量の毒が静かに注入されていく。
それは、敵の艦隊配置を少しずつずらして表示させる偽装データであり、味方の補給艦を「無所属の民間船」と誤認させる欺瞞コードであり、そして何より、敵の将官たちの通信に、意図的にノイズと遅延を発生させるためのウイルスだった。
「ふふ…。これで、敵は自分たちの目が…信じられなくなる…」
クロエは黒髪の隙間から覗く瞳を細め、小さく微笑んだ。彼女の任務は、敵を物理的に破壊することではない。疑心暗鬼の種を蒔き、敵が自滅するための舞台を完璧に整えることだ。
(タチバナ閣下。私が作ったこの見えない影の中で、閣下はどうか、安全に、安心してお過ごしください…私が、閣下の視界を塞ぐ邪魔な光は、すべて消して差し上げますから…)
クロエは、コンソールの隅に表示させたタチバナの生体データ(今まさに彼が、安全な基地の中でリラックスして紅茶を飲んでいることを示す、安定した心拍数のグラフ)を見つめながら、両手で自分自身の身体をギュッと抱きしめた。
彼女のタチバナに対する歪んだ愛情は、この孤独な隠密任務の中で、より深く、より暗く熟成されていく。タチバナが自分を遠ざけたのは、自分を影として信頼してくれているからだ。
そう信じ込むことで、彼女は全銀河を敵に回すような危険な任務を、歓喜と共に遂行していた。
一方、クロエが作り出した安全な影の領域のさらに後方。第一後方支援艦隊のアンナが構築した完璧な兵站ラインの最奥部、タチバナのいる司令部基地からほど近い安全宙域に、純白に塗装され、巨大な赤十字のマーキングが施された一隻の巨大な艦が停泊していた。
帝国軍医療本部旗艦、超大型医療支援艦《アスクレピオス》。
この艦の存在意義は、最前線から運ばれてくる負傷兵たちを収容し、治療することにある。だが、その最上層に位置する特別区画だけは、全く別の目的のために用意されていた。
「ああ、なんという滑らかなシーツの肌触りでしょう。これなら、タチバナ様のお肌を傷つける心配もありませんわね」
セシリア・ホワイトリリー中将は、完全な防菌処理が施された真っ白な特別病室の中で、用意されたばかりの最高級医療用ベッドをうっとりとした表情で撫でていた。
彼女の瞳には患者を癒す聖女の慈愛ではなく、獲物を待ち構えるような濃厚な執着が渦巻いている。
「タチバナ様は、あんなにもお優しく、繊細なお心を持っていらっしゃる。きっと今頃、司令官の重圧に耐えかねて、胃を痛め、冷や汗を流し、孤独に震えておいでに違いありませんわ。…ああ、かわいそうに。わたくしが今すぐ飛んでいって、その震えるお身体を抱きしめて差し上げたいのに…」
セシリアは、ベッドの横に設置された生命維持装置のモニターを指先でなぞった。タチバナが胃痛で倒れた際のデータを詳細に記録したそのモニターは、いつでも彼を受け入れる準備ができている。
「でも、我慢ですわ。タチバナ様のお心が本当に折れてしまう、その瞬間まで…すべてを投げ出し、子供のように泣きじゃくるタチバナ様を、わたくしがこのベッドで優しく包み込み、癒し、甘やかし、そして二度と戦場になど行かなくて済むように、永遠にわたくしの庇護下に置いて差し上げるのです」
セシリアの口元から甘く、そして背筋が凍るような笑い声が漏れた。彼女はタチバナが精神的に追い詰められ、完全に自分に依存してくる日を、この無菌室で静かに待ち望んでいるのだ。
「早く早く限界を迎えて、わたくしの元へいらしてくださいね、タチバナ様…ふふ、ふふふふ…」
病室の無機質な白い壁に、セシリアの母性という皮を被った底知れない独占欲が反響する。
最前線で暴れ狂う武闘派たち。
深宇宙で狂信的に働く情報・兵站部隊。
帝都で誇りと胃痛に耐える防衛部隊。
影で暗躍するステルス艦と、安全圏で獲物を待つ医療船。
ケイイチ・フォン・タチバナが、司令部基地の執務室で「俺は座ってるだけで世界が平和になる」と安堵の紅茶を飲み干したその裏側で。
彼を慕う十三人のヒロインたちは、それぞれの想いと致命的な勘違いを原動力に、帝国の歴史を塗り替えるための苛烈な戦いを進行させていたのであった。