宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
帝国元帥府の機能をそのまま宇宙へと持ち出したかのような、超巨大司令部基地「アーク・ステーション」。
その中枢部であるメインブリッジは、およそ軍事施設の司令室とは思えないほどの過剰な豪華さと広さを誇っていた。
床には分厚い絨毯が敷かれ、壁面には重厚な装飾が施されている。その最も奥、周囲を見下ろすように一段高く設置された豪奢な司令官席に、ケイイチ・フォン・タチバナ帝国元帥は深く腰を沈めていた。
彼の眼前には、ブリッジの空間を埋め尽くすほど巨大なホログラム星図が投影されている。
そこにはタチバナ麾下の艦隊が制圧を終えた複数の星系が、青い光点として安定した輝きを放っていた。それらの星系の資源地帯には、第一後方支援艦隊によって建設された「前哨基地」を示す緑色のマーカーが次々と点灯している。
「ガイア星系外縁部、最終ポイントへの前哨基地の設営、完了しました。これで、敵の本拠地を包囲するためのすべての布石が整ったことになります」
傍らに直立不動で控えている首席副官、フィリア・アージェント大将がコンソールを操作しながら淡々と報告した。
タチバナは運ばれてきたばかりの新しい紅茶の入ったティーカップを手に取り、ゆっくりと香りを楽しみながら頷いた。
(素晴らしい。実に素晴らしいぞ。カレンたち前線部隊が敵を蹴散らして、その後ろからアンナたちが次々と前哨基地を建てていく。これで、ガイア星系に引きこもっている敵から見れば、外へ通じるルートは完全に塞がれたことになる)
タチバナはティーカップに口をつけ、温かい液体を喉へと流し込んだ。
彼の座っているこの司令部基地は、それらの前哨基地よりもさらに遥か後方、完全に制圧された安全な宙域に停泊している。
何十キロメートルにも及ぶ分厚い特殊装甲と、無数の防衛砲塔に守られたこの場所は、タチバナにとってこの銀河で最も安全な引きこもり部屋であった。
(よしよし、あとはあいつらに本丸を落とさせれば終わりだ。俺はここで、この美味い紅茶を飲みながら、モニター越しに戦争の結末を見届けてやる。…いやぁ、元帥というのも、後ろにふんぞり返っているだけなら悪くない仕事だな。これぞ完璧な丸投げライフだ)
極度の恐怖から完全に解放され、タチバナの心には致命的なまでの慢心と油断が広がっていた。彼はすっかりリラックスした態度で足を組み、鼻歌でも歌い出しそうな気分でホログラム星図を眺めていた。
「ガイア星系外縁部の前哨基地、座標ロックおよびエネルギー結合の安定を確認しました」
フィリアの無機質な声が、ブリッジに響く。タチバナは「ご苦労」とばかりに小さく手を振った。
「これより、当アーク・ステーションの『戦略的移転』を実行します」
「ん?」
タチバナは、ティーカップを口元に運んだまま、動きを止めた。
「移転? 移転って何だ、フィリア。どこに移転するって?」
「文字通りの意味です、元帥閣下」
フィリアは、一切の感情を読み取らせない紫水晶の瞳でタチバナを見下ろした。
「現在の後方宙域から、たった今完成したばかりの、ガイア星系外縁部の前哨基地の座標へと、この司令部基地そのものをワープさせ、空間を上書き転移させます。全艦隊を指揮する総司令部が、いつまでも安全な後方に引きこもっているわけにはいきませんからね」
「はぁっ!?」
タチバナがティーカップを取り落としそうになったその瞬間。司令部基地全体に、けたたましい非常警報のサイレンが鳴り響いた。赤色の回転灯がブリッジ内を激しく照らし出し、重力制御装置が低い唸りを上げる。
「ちょ、ちょっと待て! 待て待て待て! 移転って、この巨大な基地ごとワープするってことか!? しかもガイア星系の外縁部って、敵の本拠地の目の前じゃないか!」
「その通りです。空間跳躍プロセス、開始。全セクター、ワープ・ドライブへのエネルギー充填率一二〇パーセント」
フィリアはタチバナの絶叫を完全に無視し、流れるような手つきでコンソールを叩き続ける。ブリッジのクルーたちも一斉に作業に取り掛かり、誰もタチバナの制止を聞き入れようとはしない。
「ふざけるな! 俺はここから一歩も動かないって決めたんだぞ! なんでわざわざ自分から最前線に出向かなきゃならないんだ! 中止だ、今すぐ中止しろぉぉぉっ!」
タチバナは座席から跳ね起き、コンソールに飛びつこうとした。だが、その行動は完全に遅すぎた。
ズンッ、という腹の底に響くような重い振動とともに、数十キロメートルに及ぶ巨大な司令部基地の質量が、ワープ空間へと無理やり引きずり込まれた。
ブリッジの巨大な展望窓の外の景色が一瞬にして歪み、引き伸ばされた光の帯となって後方へと飛び去っていく。通常空間の物理法則から完全に逸脱した、圧倒的な加速感と不快な浮遊感がタチバナの全身を襲った。
「うわあああぁぁぁっ!?」
タチバナはバランスを崩し、豪華な絨毯の上に無様に転がった。手から滑り落ちたティーカップが床に激突し、高級な紅茶の染みが絨毯に広がっていくが、そんなことを気にしている余裕は一ミリもなかった。
ワープ空間の航行は、時間にしてごくわずかだった。再び激しい振動が基地全体を揺さぶり、窓の外の光の帯が急激に収束していく。
ドォォォンッ、という空間そのものが反発するような鈍い衝撃音とともに、巨大な司令部基地が通常空間へと強引に割り込み、ワープアウトを果たした。
「戦略的移転、完了しました。現在位置、ガイア星系外縁部、最前線座標です」
フィリアの淡々とした報告が、静まり返ったブリッジに響く。タチバナは、這いつくばったまま恐る恐る顔を上げ、展望窓の外を見た。
そこには、さっきまで見ていた平和で何もない後方宙域の景色は存在しなかった。
漆黒の宇宙空間を埋め尽くすように、無数の赤い光点がひしめき合っている。敵である帝国宰相派・貴族連合軍の大艦隊だ。その中には、圧倒的な巨体を誇る《ルドゥタブル級 ミサイル巡洋戦艦》のシルエットもはっきりと視認できた。
つい数分前までモニター越しに「遠くの出来事」として見ていた敵の総本山が、今文字通り目と鼻の先、窓ガラス一枚隔てた向こう側に広がっていたのである。
「な…なんで…」
タチバナの口から、掠れた声が漏れた。
「なんで俺の家ごと、最前線にワープしてんだよぉぉぉっ!?」
タチバナの悲痛な絶叫が、ブリッジ内に響き渡る。彼は頭を抱え、床の上でガタガタと震え始めた。
前哨基地を建設して盾にするはずが、その盾の座標に自分自身が上書き転移させられたのだ。これでは盾の意味が全くない。自分から敵の目の前に巨大な的を差し出したようなものだ。
「素晴らしいタイミングです、閣下」
フィリアは、床で震えるタチバナを見下ろし、冷徹な声で告げた。
「突如として目の前に出現した巨大な司令部基地に、敵軍は完全に混乱しています。ですが、手柄を焦った一部の若き貴族たちが、戦列を乱してこちらへ向かって突撃を開始しました。数、およそ五百隻」
「五百隻!? 来るな! こっちに来るなあああ!」
タチバナは涙目で絶叫した。
窓の外を見ると確かに敵の艦隊の一部が陣形も何もかも無視して、推進炎を最大に輝かせながらアーク・ステーションへと猛スピードで迫ってきていた。
彼らにとって、敵の総司令部が突如目の前に現れたことは、一攫千金の最大のチャンスに見えたのだろう。
「迎撃します。ユキノ中将が当基地にインストールした防衛プログラム、起動」
フィリアがコンソールのキーを叩いた瞬間。タチバナの乗る巨大な司令部基地の外殻で、何かが一斉に作動する重低音が響いた。
厚い装甲板の一部がスライドして開き、そこから無数の砲身が宇宙空間へと突き出される。ユキノ・シライシが狂信的な愛情とともに組み上げた、魔改造の重防衛砲塔群である。
それは通常の基地防衛システムの基準を遥かに超えた、完全なオーバーテクノロジーの産物だった。
次の瞬間、司令部基地の表面から、文字通り「光の壁」が放たれた。無数のパルス砲と大出力レーザーが、一点の隙間もなく宇宙空間を埋め尽くし、突撃してきた五百隻の敵艦隊へと襲い掛かった。
音のない宇宙で、凄惨な破壊の光景が繰り広げられる。
敵艦のエネルギーシールドなど紙切れ同然に貫通され、装甲は分子レベルで蒸発し、次々と大爆発を起こしていく。敵は一発の砲弾を撃ち返す暇すら与えられず、ただ光の奔流に飲み込まれて消滅していった。
わずか数十秒の間に手柄を焦った五百隻の敵艦隊は、一つ残らず宇宙の塵へと変換されていた。
圧倒的すぎる暴力。
敵の残存本隊も、その異常な防衛力に恐れをなしたのか、それ以上近づこうとはせず、一定の距離を保ったまま完全に動きを止めている。
「敵先遣部隊、完全に沈黙。当基地の防衛システムに異常なし。被害はゼロです。さすがはユキノ中将の設計ですね」
フィリアの報告が、静けさを取り戻したブリッジに響く。
クルーたちは一瞬で敵を粉砕した基地の性能と微動だにせず、敵の消滅を見届けたタチバナに対し畏敬の念を込めた熱い視線を送っていた。
タチバナの心臓は限界寸前だった。
(防衛力が凄かろうがなんだろうが、最前線にいることには変わりないじゃないか! もしあの砲塔がぶっ壊れたらどうするんだよ! 敵の本隊はまだ一万隻以上残ってるんだぞ! 俺は絶対に死にたくないんだぁぁっ!)
タチバナは腰を抜かしたまま立ち上がることもできず、ぶちまけた紅茶の染みが広がる絨毯の上で、ただガタガタと全身を震わせることしかできなかった。
絶対の安全圏から一瞬にして死の恐怖が渦巻く最前線への強制移動。タチバナの胃袋は、激しい痛みを伴って彼に過酷な現実を突きつけていた。