宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
突然の戦略的移転によって絶対安全圏の幻を打ち砕かれ、敵の眼前に巨大な司令部基地ごと放り出されたケイイチ・フォン・タチバナは、メインブリッジの司令官席で完全に固まっていた。
先ほどまで手柄を焦った敵の先遣部隊が司令部基地の防衛砲塔によって消し炭にされるのを目の当たりにしたばかりだが、タチバナの胃の痛みは治まるどころか、ますます激しさを増している。
彼の視界を埋め尽くしているのは、ブリッジの巨大な展望窓と戦術ホログラムに映し出された、絶望的なまでの巨大建造物の群れだった。
決戦の地、ガイア星系。その外縁部に陣取る帝国宰相派・貴族連合軍の本隊は、タチバナの想像を遥かに超える規模の防衛ラインを構築していた。
(なんだよあれ。ふざけてるのか? 星を丸ごと要塞にしてるじゃないか…!)
ホログラムの星図には、重水素の巨大な採掘プラットフォーム群が、文字通り物理的に連結され、長大な宇宙の防壁を形成している様子が克明に描かれていた。プラットフォームの表面には無数の重防衛砲塔がハリネズミのように設置され、エネルギーシールドの青白い光が壁面全体を覆っている。
さらに恐ろしいのは、その巨大要塞の周囲を護衛するように展開している艦隊の陣容だった。
(あれ全部《ルドゥタブル級 ミサイル巡洋戦艦》だろ…? なんであんな化け物みたいな超主力艦が、要塞の周りにあんなにウヨウヨしてるんだよ!)
長大な船体に多連装ミサイルランチャーネストを無数に搭載した《ルドゥタブル級》の威容は、ただそこに浮いているだけで周囲の空間を威圧していた。一隻でも圧倒的な火力を持つ巡洋戦艦が、防衛ラインの要所要所に配置されている。
こちらが少しでも近づけば、あのハニカム構造のハッチが一斉に開き、宇宙を埋め尽くすほどのミサイルの嵐が飛んでくることは誰の目にも明らかだった。
(あんな要塞に近づきたくない! 近づいたら一瞬で蜂の巣だ! 絶対に攻め込みたくない! このまま誰も撃たずに、睨み合ったまま俺の寿命が尽きるまで平和に過ごしたい!)
タチバナは、司令官席の肘掛けを両手で強く握りしめ、顔面を蒼白にしながら内心で必死に現実逃避を図っていた。
だが、戦争というものは、彼のような臆病者の停止願望を許してはくれない。
「…閣下。指示を」
傍らに直立不動で控えている首席副官、フィリア・アージェント大将の冷徹な声が、タチバナの鼓膜を容赦なく叩いた。
「このまま膠着状態を続ければ、無意味に補給物資を浪費するだけです。敵の防衛ラインを突破する作戦をご提示ください」
(作戦!? そんなものあるわけないだろ! 俺は軍事の天才じゃないんだよ、ただの素人だぞ! あんなガチガチの要塞をどうやって崩せって言うんだ!)
タチバナの心臓が早鐘のように打ち始める。
ブリッジのオペレーターたちも、そして通信モニターの向こう側で待機している各特務艦隊の女性指揮官たちも、タチバナの次なる「神采配」を固唾を飲んで待ち構えている。
その沈黙のプレッシャーが、タチバナの喉から言葉を完全に奪い去っていた。
(声が出ない…! どうしよう、何か言わないとフィリアにまた何をされるか分からない。でも、突撃なんて命令したら俺の命が危ない! とにかく、一番安全そうな場所を指定して、お茶を濁すんだ…!)
タチバナは、震えそうになる右手をゆっくりと持ち上げた。
そして、目の前に投影されているホログラム星図の、最も端にあるポイントを、人差し指でそっと指し示した。
そこは連結されたプラットフォーム群の末端部分であり、敵の《ルドゥタブル級》の配置も比較的まばらな、一番敵の数が少なそうな場所だった。
(よし。あそこの端っこから、遠距離でチクチク安全に撃ち合って、やってる感だけ出しておこう。そうすれば、すぐに被害も出ないし、俺のいる基地まで敵が突っ込んでくることもないはずだ)
タチバナとしては、極めて消極的で、時間を稼ぐためだけのジェスチャーのつもりだった。
だが、モニター越しにその指先を見た第一打撃艦隊司令長官、レイナ・フォン・クロサワ上級大将の反応は、タチバナの意図とは全く異なるものだった。
彼女の涼しげな瞳が、ホログラムの指し示された一点を見て、微かに見開かれた。
「…驚嘆いたしました」
レイナの熱を帯びた声が通信回線を通じて響いた。
「敵防衛網のエネルギー結合部の弱点を、一瞬で見抜かれるとは」
(えっ?)
タチバナの思考が停止した。
「重水素プラットフォームを連結させたあの要塞は、一見すると強固に見えますが、末端の結合部へのエネルギー供給には必然的にムラが生じます。閣下が指し示されたあの一点こそが、シールドの最も薄い、構造上のアキレス腱。…さすがはタチバナ閣下です。我々には見えなかった突破口を、いとも容易く示されるとは」
(違う違う違う!! ただ端っこで安全そうだったから指差しただけだ! 弱点なんて一ミリも見抜いてない! 勝手に深読みするな!)
タチバナが内心でパニックを起こしている間にも、レイナはタチバナの「神采配」に完全に心酔し、冷徹な殺意を研ぎ澄ませていた。
「第一打撃艦隊、直ちに閣下が指し示された一点を粉砕します。全《グリムリーパー級-TE 攻城フリゲート》、最大推力。目標、要塞右翼の結合部。一撃で風穴を開けなさい」
(おいおいおい! なんでいきなり突っ込んでるんだ! 端っこで安全に撃ち合うって意味だったのに! もし失敗して敵がこっちに押し寄せてきたら、全部俺のせいになるだろ!)
タチバナは顔面蒼白になりながら、モニターの映像を凝視することしかできなかった。
レイナの号令とともに、味方の艦隊から異様な形状をした艦船の群れが猛スピードで飛び出していく。対施設攻撃に特化した《グリムリーパー級-TE 攻城フリゲート》だ。
船体のほぼ全てが一門の巨大な電磁加速砲で構成されたその楔形の艦船たちは、赤い装甲板を宇宙空間に輝かせながら、タチバナが適当に指差したプラットフォームの結合部に向かって一直線に突進していく。
敵の要塞からも、迎撃のレーザーやミサイルが放たれるが、《グリムリーパー級》の群れは回避行動すらとらず、ただひたすらに距離を詰めていく。
そして、射程圏内に入った瞬間。
無数の電磁加速砲が、一斉に火を噴いた。
亜光速まで加速された特殊砲弾の群れが、宇宙空間を青白い光の束となって突き進み、要塞の結合部へと寸分の狂いもなく直撃する。
音のない宇宙で、想像を絶する破壊の光景が展開された。
レイナの言った通り、エネルギーシールドの薄かったその部分は、攻城フリゲートの集中砲火に耐えきれず、いとも容易く物理的に貫通された。
直後、プラットフォーム内部に貯蔵されていた大量の重水素が引火し、破滅的な大誘爆を引き起こす。
巨大な火球が次々と膨れ上がり、連結されていたプラットフォームが根本から千切れ飛び、宇宙空間に無数の瓦礫を撒き散らしていく。
難攻不落と思われていた要塞の一角が、たった一度の突撃で完全に崩壊し、防衛ラインに巨大な風穴が開いたのだ。
「閣下のご慧眼のおかげで、要塞の一部を沈黙させました」
モニターの中で、レイナが恭しく頭を下げて報告してくる。
ブリッジのクルーたちもタチバナの的確な弱点看破と、それに応えた第一打撃艦隊の圧倒的な破壊力に息を呑んで驚嘆している。
(うわぁぁ…本当に壊れちゃったよ。あんな巨大な要塞が、一瞬で…味方の火力が怖すぎる…)
タチバナは引きつった顔のまま、無言でコクンと頷くことしかできなかった。これで自分の威厳は保たれたかもしれないが、彼の生存本能は全く別の危機を告げていた。
要塞の一部を物理的に破壊された敵が、ただ黙って見過ごすはずがないのだ。
ホログラム星図の上で、要塞を護衛していた敵の《ルドゥタブル級 ミサイル巡洋戦艦》の群れが、一斉に動き出した。
彼らは崩壊した防衛ラインをカバーするように陣形を再編すると同時に、その船体上部にある無数のミサイルハッチを、すべてタチバナのいる司令部基地の方向へと向けた。
次の瞬間、敵艦隊から放たれた無数のミサイルが、宇宙空間を埋め尽くすほどの赤い光跡となって、アーク・ステーションへと向かって殺到してきた。
(だから撃つなっていっただろ!! 敵が本気で怒ってるじゃん!! 完全にこっちを標的にして、全力で殺しにきてるじゃないか!!)
タチバナの内心の絶叫が、限界を超えた。
敵の放ったミサイルの雨は、まだ距離があるとはいえ、その圧倒的な数は、司令部基地の防衛網をもってしても防ぎきれる保証はどこにもない。
タチバナの目には、自分に向けられた明確な殺意の塊が、刻一刻と迫ってくるようにしか見えなかった。
(俺への殺意がさらに上がってる! もう嫌だ、死にたくない! 誰か、誰か今すぐ胃薬持ってきてくれぇぇぇっ!)
タチバナは豪華な司令官席の上でガタガタと震えながら、恐怖のあまり両手で胃のあたりを強く押さえた。