宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
果てしなく続くかと思われた膠着状態。
ガイア星系外縁部に鎮座する巨大司令部基地「アーク・ステーション」のメインブリッジで、ケイイチ・フォン・タチバナ帝国元帥は、限界を超えた胃痛に顔をしかめながら、相変わらず豪華な司令官席の陰に身を縮めていた。
戦術ホログラムには、無数の青と赤の光点が入り乱れる泥沼の戦況が映し出されている。
味方の特務艦隊がどれほど猛攻を仕掛けようとも、敵陣の最前列に陣取る超主力艦《ST59級 防御巡洋戦艦》の分厚い装甲は容易には崩れない。
そして、その巨大な盾の陰からゴキブリのように素早く飛び出しては撃ち逃げを繰り返すジュピター インダストリー製の《マーレ インブリウム級 突撃フリゲート》。
資金力とオーバーテクノロジーに物を言わせた敵の遅滞戦術の前に、タチバナ軍の勢いは完全に削がれていた。
(終わらない。全然終わらないじゃないか。もう何時間こうしてるんだよ。胃に穴が空きそうだ…)
タチバナは脂汗を拭うことも忘れ、ガタガタと震える膝を抱え込んでいた。
敵のミサイルやビームが司令部基地の防衛シールドに着弾するたび、腹の底に響くような鈍い振動が伝わってくる。その振動は、タチバナの寿命を物理的に削り取っていくようだった。
(このままじゃ、ジリ貧だ。いつか防衛システムがエネルギー切れを起こして、俺のいるこのブリッジに直撃弾が飛んでくるに決まってる。頼むから誰か、あのでかい盾をどうにかしてくれ…!)
タチバナが内心で泣き言を垂れ流していると、不意に傍らのフィリア・アージェント大将がコンソールの表示を見て無機質な声を上げた。
「緊急事態です、タチバナ」
「ひっ!?」
タチバナはビクッと肩を跳ね上がらせた。緊急事態という言葉は、彼にとって「死」と直結するNGワードだ。
「今度は何だ!? 防衛線が突破されたのか!?」
「いいえ。正面の戦線は膠着状態を維持しています。しかし、敵はその隙を突いて別働隊を編成し、デブリ帯に隠れて大きく迂回するルートで、本基地の後方死角へ肉薄させています」
「後方!? 後ろから来るってことか!?」
タチバナは慌ててホログラム星図を見た。
フィリアの操作によって拡大された基地の背後。味方の防衛網が手薄になっている宙域に、赤い光点の群れが音もなく迫ってきているのが表示されている。
「あれは…」
タチバナは目を凝らした。
ホログラムに表示された敵艦のシルエットは、全長二百九十六メートル。フリゲートという艦種にしては異常に大柄で、ずんぐりとした無骨な形状をしている。
ノマシッピンググループ製の特殊艦、《ノマM470級 重量級揚陸艦》の群れであった。
「揚陸艦…? なんでそんなものが……」
「対艦戦闘を目的とした部隊ではありません。狙いは、当基地への直接的な『攻城』と『占領』です」
フィリアの冷徹な解説が、タチバナの脳内に最悪の想像を膨らませていく。
「あの艦には、強力な『CST-4型 攻城UAV』が多数搭載されています。あれが基地の装甲に取り付けば、外部から施設を破壊され、ドックゲートをこじ開けられるでしょう。さらに、あの巨体にはおびただしい数の重武装兵士が乗っています。装甲が破られれば、彼らが基地内部へと雪崩れ込んでくるのは火を見るより明らかです」
「な…っ!」
タチバナは息を呑んだ。
基地に直接乗り込んでくる。
それはつまり、モニター越しのミサイルの撃ち合いではなく、生身の人間がレーザーライフルを持って、自分を殺しにやって来るということだ。
(冗談じゃない! 基地の中まで敵が入ってくるのか!? こんな広い基地、どうやって防ぐんだ! もしこのブリッジに突入されてこられたら、俺なんて一瞬でハチの巣にされるじゃないか!)
タチバナの脳裏に、黒ずくめの武装兵士たちがドアを蹴破ってなだれ込み、自分に銃口を向ける恐ろしい光景がありありと浮かんだ。
親衛隊の「戦乙女」たちが戦ってくれるとはいえ、敵は何千人もいる揚陸部隊だ。万が一撃ち漏らしがあれば、丸腰のタチバナなどひとたまりもない。
(ここにいたら殺される! 絶対に殺される!)
恐怖が臨界点を突破したタチバナの身体は、生存本能という名の原始的な衝動によって突き動かされた。
彼はうずくまっていた状態から、バネのように弾かれたように立ち上がった。
そして、ブリッジの正面──戦闘が行われている方向とは真逆の、後方へと視線を向けた。
(逃げる! このブリッジはもう駄目だ! もっと奥の、一番装甲が厚くて、絶対に誰も入ってこれない脱出シェルターに逃げ込むんだ!)
タチバナの頭の中には、己の命を守ることしかなかった。
司令官としての威厳も周囲の目も、もはやどうでもいい。彼はブリッジの後方にある分厚い扉に向かって、震える右手を真っ直ぐに突き出した。
「あ、あっちだ! あっちに行くぞ!!」
それはフィリアに対して「俺はあっちへ逃げるから、お前もついてきて護衛しろ」という意味の、極めて情けない逃亡の意思表示だった。
タチバナは腕を突き出したまま、今にも後方へ向かって猛ダッシュしようと身構えた。
だが、その時。
通信モニターに分割されて映し出されていたヒロインたちの顔色が一変した。
タチバナが立ち上がり、後方へ向かって鋭く腕を突き出すその姿。それは恐怖に駆られた逃避行動に過ぎなかったのだが、モニター越しに見る彼女たちには、全く別の意味に受け取られてしまったのである。
『! 閣下が、後方を指し示された!』
第七機動艦隊のカレン・マクシミリアン大将が、鋼鉄のような瞳を見開いて叫んだ。
『まさか、正面の膠着状態は囮…!? 敵の真の狙いが、後方からの揚陸部隊による奇襲だと見抜かれたというのですか!? 我々ですら気づかなかった死角への脅威を、一瞬で…!』
カレンの声が、通信回線を通じて他の指揮官たちにも共有される。
『本当ですわ! 基地の背後に、敵の《ノマM470級》の反応が多数!』
第五遊撃艦隊のアデライード大将が、戦術レーダーを確認して青ざめた。
『なんという恐ろしい慧眼…。我々が正面の敵に気を取られている間に、閣下はすでに戦域全体の盤面を俯瞰し、敵の別働隊の動きを完全に読み切っておられたのですね!』
『しかもあえて無言で後方を指し示すことで、我々に迎撃の指示を下された! 敵の通信傍受を警戒しての、無言の合図!』
(違う!!)
タチバナは内心で激しく絶叫した。
(全然違う! 俺はただ逃げようとしただけだ! 後ろから敵が来るから、もっと安全な場所に逃げたいって言っただけなんだよ! なんでそんなカッコいい解釈になってんだよ!)
タチバナの心からの否定は、当然ながら誰にも届かない。
『全艦、反転! 閣下のご指示通り、後方の揚陸部隊を迎撃します!』
カレンの号令とともに、正面の《ST59級》と対峙していた味方艦隊の一部が、まるで一つの生き物のように素早く回頭し、タチバナが指差した基地の後方──敵の揚陸艦隊が迫っている宙域へと向かって急速に陣形を整え始めた。
タチバナは、後方の扉に向かって腕を突き出し、右足を一歩踏み出したという、何とも間抜けで不格好なポーズのまま、完全に固まっていた。
(えっ…? なんで味方が、俺の逃げ道の方に向かって移動してるの?)
自分が逃げ込もうとした安全な後方ルートが、味方の迎撃部隊の移動によって塞がれていく。それどころか、味方が後方に移動したことで、タチバナが逃げようとした方向が、そのまま「新たな激戦区」へと変貌しようとしていた。
「見事な戦力配置の転換です、元帥閣下。これで後方の憂いは断たれました。貴方はどこへも逃げる必要はありません。この玉座に座ったまま、結果をお待ちください」
フィリアの、どこか冷ややかな響きを持った声が背後からかけられる。
(逃げられない……も後ろも、全部戦場じゃないか……!)
タチバナは突き出した腕をゆっくりと下ろし、そのまま糸が切れた操り人形のように、再び司令官席へと力なく崩れ落ちた。
自分の生存本能が生み出したただの逃避行動が、味方の過剰な忠誠心によって「完璧な迎撃指示」へと変換されてしまった事実。
結果として彼は逃げ道を失い、最も危険な戦場の中央に釘付けにされることになったのである。
タチバナは胃袋が限界を超えてねじ切れるような激痛に耐えながら、これ以上何も起こらないことを祈って、ただ冷や汗を流し続けるしかなかった。