宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
ガイア星系での、帝国を二分する大内乱が終結した。
旗艦《アマテラス》の広大な元帥執務室には、戦場の喧騒が嘘のような静けさが漂っていた。
ケイイチ・フォン・タチバナ帝国元帥は、分厚いマホガニー製のデスクに突っ伏すようにして、重い息を吐いていた。勝利の美酒を味わう余裕などない。
極度の緊張と恐怖。そして長時間の胃痛に耐え続けた結果、彼の体力と精神力は完全にすり減っていた。
(終わった…本当に終わったんだな。俺は生き残った。なんとか死なずに済んだ…)
タチバナは、冷や汗で張り付いた前髪を重々しく掻き上げた。
敵の門閥貴族たちは壊滅し、彼らの強大な艦隊は宇宙の塵となった。タチバナの身を脅かす最大の障害は排除されたはずだ。
だが、彼の心はちっとも晴れない。一万五千隻の大艦隊の頂点という座は相変わらず彼の肩に重くのしかかっている。
(これからどうなるんだ。皇帝が死んで、貴族たちも片付けた。ってことは、今、帝国で一番権力を持ってるのは…俺ってことになるのか? 冗談じゃない、そんなのまた暗殺の標的にされるだけだ。誰か代わりにやってくれないか…)
タチバナが現実逃避の思考に耽っていたその時、執務室の分厚い電子扉が静かに開いた。
入室してきたのは、首席副官のフィリア・アージェント大将だった。だが、彼女は一人ではなかった。その後ろから、もう一人の人物を連行してきている。
「閣下。残敵掃討の過程で、特筆すべき捕虜を確保しました」
フィリアの感情を排した声に、タチバナは顔を上げた。
フィリアの背後から姿を現したのは、腰まで届く艶やかな黒髪を持つ、人形のように美しい女性将校だった。彼女の纏う軍服には、敵対した貴族連合軍の紋章が刻まれている。
リン・シャオラン少将。
タチバナの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
彼女は、かつてタチバナが絶望的な包囲網の中で沈黙していた際、ブリッジの隅で一人だけ純粋な微笑みを浮かべていた女だ。あの時の底の知れない不気味な視線を、タチバナは忘れてはいない。
今の彼女の状況は、あの時とは異なっていた。
リンの両手首は体の前で合わせられ、重厚な特殊合金製の軍用手錠で固く拘束されている。手錠の表面には青白いエネルギーのラインが走り、彼女の筋力や特殊な動きを完全に封じ込めていることを示していた。
完全な捕虜の姿である。
(なんで手錠されてるのに、そんなに堂々としてるんだ!)
タチバナは、内心で激しく後ずさった。
拘束され敵の総司令官の前に引きずり出されたというのに、リン・シャオランの態度には恐怖や屈辱の欠片もなかった。彼女の背筋は真っ直ぐに伸び歩みは優雅で、何よりその切れ長の瞳は静寂に満ちた湖面のようにタチバナだけをじっと見つめているのだ。
(怖い! 目の据わり方が尋常じゃないぞ! なんでこんな奴を俺の部屋に連れてきたんだ、フィリア! さっさと一番分厚い壁の牢屋にぶち込んでくれよ!)
タチバナが引きつった表情を必死に抑え込んでいると、フィリアはデスクの上のホログラムプロジェクターを操作した。
戦術テーブルにリンが率いていた分艦隊のデータや、彼女に関する膨大な情報が青白く浮かび上がる。
「リン・シャオラン少将。彼女の艦隊のデータを解析した結果、非常に厄介な事実が判明しました」
フィリアは、ホログラムの一部を拡大してタチバナに示した。そこには、帝国正規軍の規格とは異なる、特殊な兵装モジュールの設計図が映し出されていた。
「彼女の艦船には、『ノマシッピンググループ』から密かに供与された最新鋭の兵装システムが多数搭載されていました。ノマシッピングは、帝国最大の海運・兵器開発企業であり、徹底した資本主義で動く巨大なメガコーポレーションです」
フィリアの紫水晶の瞳が、リンを冷たく射抜いた。
「貴女は、ノマシッピングと癒着した最高幹部たちの『監視役』として、かつて我が艦隊に潜り込んでいたのですね。そして、今回の内乱でも彼らの一翼を担っておきながら、なぜこうもあっさりと投降したのですか?」
フィリアの追及は鋭く、一切の逃げ道を塞ぐものだった。
(そうだ! こいつはスパイだ! 企業とズブズブの貴族の手先じゃないか!)
タチバナの心の中で、警戒のサイレンが鳴り響いた。
(敵のスパイをこんな近くに置くなんて危険すぎる! 腕を縛られてるからって安心できないぞ、いつ隠し持った毒針とかで俺の首を狙ってくるか分かったもんじゃない! 早く、一刻も早く俺の視界から消してくれ!)
タチバナは、ただ無言でリンを見据えた。本当は「早く連れて行け」と叫びたかったのだが、声を出せば恐怖で震えてしまうため、口を閉ざすしかなかったのだ。だが、その沈黙は、リンの目には「底知れない威厳と洞察力を備えた総司令官の態度」として映っていた。
リンは、重い特殊手錠の金属音を微かにカチャリと響かせながら、ゆっくりと口を開いた。
「お答えいたします。フィリア・アージェント大将。そして、タチバナ元帥閣下」
彼女の声は鈴の音のように清らかで、感情の起伏を一切感じさせなかった。
「私は確かに、門閥貴族の命を受け、ノマシッピンググループの意向を反映する駒として動いておりました。ですが、私は彼らに失望したのです」
リンの黒い瞳が、タチバナの姿を真っ直ぐに捉える。
「老朽化した貴族たちは、自らの特権を守ることしか頭にない愚か者たちでした。そしてノマシッピングの重役たちもまた、目の前の利益の計算しかできない、浅ましい商人たちに過ぎません。彼らの命じるままに艦隊を動かすことに、私はどれほどの虚無感を感じていたか…」
彼女は一歩だけタチバナに近づいた。フィリアが警戒して少し身を乗り出すが、タチバナは椅子に縛り付けられたように動けなかった。
「ですが私はあの日、あの絶望的な包囲網の中で、タチバナ閣下のお姿を拝見いたしました」
リンの言葉に、タチバナの背筋を冷たいものが走った。
「四千二百の敵を前にして、閣下は一切の動揺を見せず、ただ深淵のような沈黙を保っておられた。そして、的確な指示で敵を各個撃破していくあの冷徹な采配。私はその時、確信したのです。この停滞した銀河に嵐を呼び、真の秩序をもたらす指導者は、タチバナ閣下をおいて他にはいないと」
(何を言ってるんだ、こいつは)
タチバナは、内心で激しく首を横に振った。
(あの時はただ怖くて声が出なかっただけだ! 采配なんて俺は指を震わせていただけだし、実際に敵を倒したのは味方艦隊の暴力だろ! なんでそんな見事な勘違いをしてるんだ!)
「私は、自らの意志で投降いたしました」
リンは手錠をはめられた両手を胸の前に添え、美しい微笑みを浮かべた。その微笑みは、戦場の殺伐さには似合わない純粋無垢なものだったが、同時に、タチバナに向けられた逃げ場のない執着を含んでいた。
「手錠をかけられたままでも構いません。疑われるのは当然のことです。ですが、私の艦隊と、私の命のすべては、もはやタチバナ閣下…あなた様だけのものです。どうか、この命を閣下の大義のためにお使いください」
静かな執務室に、彼女の熱烈な帰順の言葉が響き渡る。
(もう嫌だ…!!)
タチバナは、頭を抱えたい衝動を必死に抑え込んだ。
(また別のベクトルのヤバい奴が来た! カレンやヒナたちの狂信だけでも胃が痛いのに、なんで俺の部下になる奴は、こんな重い愛情と勘違いを抱えた奴ばっかりなんだ! ノマシッピングとかメガコーポとか、そんなヤバい組織を敵に回すような面倒事まで背負い込んで! 頼むから、ただ命令に従ってハンコを押すだけの普通の軍人になってくれ!)
タチバナは、無言のままフィリアに視線を向けた。「助けてくれ、こいつを追い返してくれ」という懇願の目だった。
だが、フィリアはタチバナの視線を冷徹に受け止めると、手元のタブレットを操作し始めた。
「閣下の沈黙は、彼女の『有用性』を天秤にかけておられるということですね」
フィリアは、タチバナの恐怖による硬直を、またしても極めて冷酷に「深謀遠慮」として翻訳した。
「確かに、ノマシッピングの最新技術を搭載した彼女の艦隊をそのまま我が軍に編入することは、戦力の大幅な増強に繋がります。また、巨大企業の内部情報を持つ彼女の存在は、今後の政治的交渉において強力なカードとなる。閣下が彼女の忠誠を『本物』と見なされたのであれば、私が異を唱える理由はありません」
(違う! 俺はそんな計算一ミリもしてない! ただ関わりたくないだけだ!)
タチバナの心の絶叫を無視し、フィリアはコンソールの一つを操作した。
カシャリ、と冷たい金属音が響く。リンの手首を固く縛っていた、エネルギー拘束機能付きの特殊手錠のロックが外れ、床に音を立てて落ちた。
自由になったリンは、手首をさすることすらせず、その場で静かに、そしてこの上なく美しく片膝をついた。彼女は深く頭を垂れ、タチバナに対して恭しい臣下の礼をとった。
「感謝いたします、タチバナ元帥閣下。このリン・シャオラン、命の尽きるその瞬間まで、貴方様の忠実なる影としてお仕えいたしましょう」
リンの「鞍替え」が完了し、彼女は正式にタチバナの麾下に入ることとなった。
物理的な手錠という鎖は今、確実に外された。タチバナは椅子の上で微動だにできず、顔面を蒼白にしていた。
(手錠は外れたかもしれないが、代わりに『狂信』っていう、もっと重くて絶対に外せない見えない鎖に俺が縛られたじゃないか…!)
タチバナは、自分の首にまた新たな縄が巻き付けられたのを感じた。
メガコーポレーションの影、そして底知れない忠誠を誓う不気味な美女。彼を囲む環境は、また一段と危険で複雑なものへと進化してしまったのだ。
タチバナは誰にも気づかれないように、深く重い溜息を心の奥底で吐き出し、ただ無言で天を仰ぐことしかできなかった。
「感謝いたします、タチバナ元帥閣下。このリン・シャオラン、命の尽きるその瞬間まで、貴方様の忠実なる影としてお仕えいたしましょう」
リンが恭しく頭を垂れたまま、美しい黒髪を揺らす。
タチバナは、目の前で起きた事態の重さに、ただ冷や汗を流しながら固まるしかなかった。スパイかもしれない元敵軍の将官を、自分の側近として迎え入れてしまうという最悪の展開。
自ら自陣に毒を招き入れたも同然の状況に、彼の胃袋は限界を訴えるようにキュウと音を立てて縮み上がった。
(おいおいおい、待て待て待て…! なんでスパイ疑惑のある危険人物を、あっさり俺の部下にしちまうんだよ! あいつ、絶対に俺の寝込みを襲う気満々だぞ! 命の尽きるその瞬間までとか、怖すぎるだろ! 完全にホラーだ!)
タチバナが内心で絶叫し、どうにかしてこの狂った人事を取り消させようと口を開きかけた、その時だった。
『──ふふ。お疲れ様です、タチバナ元帥閣下』
脳内に直接響いてきたのは、愛らしいお祝いの言葉…ではなく、冷徹なまでに響く、フィリアの圧倒的な嘲笑だった。
物理的な声ではなく、思考共有を通じて流し込まれてきたそのテレパシーには、主君を敬う気配など微塵もなく、ただ目の前の惨めな状況を楽しむサディスティックな歓喜の色がベッタリと貼り付いていた。
『自らの一声で、危険な元敵の女性士官を自らのお傍に縛り付けるとは、さすがは我が主君です。これほど見事な「敵の懐柔」を見せつけられては、私のプログラムも嫉妬でショートしてしまいそうです。……命がいくつあっても足りませんね、閣下?』
(テメェ…ッ! 人の心がないのかお前は!)
タチバナは、頭の中で叫び声を上げた。
怒りと恐怖に震える主人の心など意に介さず、フィリアのテレパシーはさらに容赦なく冷酷なトーンへと切り替わる。
『心より、お悔やみ申し上げます。いえ、失礼。心より、貴方のこれからのご健闘を祈り申し上げますね。まさか、美人に囲まれて暮らしたいという貴方の低俗な願いが、ここまで一方向の殺意に満ちたハーレムへと進化するとは、私も予想外でした。せいぜい、背後から刺されないようにお気をつけください。ふふ』
(笑ってやがる! こいつ、完全に俺の不幸をエンタメとして消費しやがっている…!)
タチバナの顔面は、恐怖だけでなく、副官に対する怒りと絶望によって複雑に引きつっていた。
その表情の変化すらも、目の前でひざまずくリン・シャオランの目には全く違って映っていた。
リンはゆっくりと顔を上げると、潤んだ瞳でタチバナを見つめ、うっとりとした溜息を漏らした。
「…ご覧になられましたか。フィリア大将ですら、私の帰順を認めた瞬間から、閣下の深遠なるお考えの前に言葉を失っていらっしゃいます。あぁ、なんと慈悲深く、なんと気高いお方…」
(いや、あいつは今、心底から俺をバカにして笑ってたぞ!? お前の耳はどうなってんだ!)
タチバナがツッコミを入れようとしたが、声帯は恐怖と怒りで完全に固まっており、ただ「う、うむ…」と唸り声を漏らすことしかできなかった。
その唸り声すらも、リンにとっては至高の御言葉として脳内変換されたらしく、彼女はさらに身体を震わせ、頬を赤らめて陶酔の表情を深める。
『あぁ、見ていられませんね』
フィリアの冷ややかなテレパシーが、再び脳内に滑り込んできた。
『これ以上、彼女の妄想を放置すれば、閣下の精神が先に崩壊するか、あるいは本当にベッドに押し入られるかでしょう。安心してください。彼女には、明日からクロエ少将の特務偵察艦隊と共同で、最も危険な辺境宙域の星図作成任務を与えておきます。当分の間、あなたの視界から遠ざけて差し上げましょう』
(おっ…!? お前、たまには良いこと言うじゃねぇか!)
フィリアの予想外の慈悲(?)に、タチバナは思わず心の中で喝采を送った。どれだけ性格が歪んでいようとも、自分を致命的な修羅場から遠ざけてくれるのであれば、今のタチバナにとってフィリアは紛れもない女神だった。
「リン少将」
タチバナは残されたわずかな威厳をかき集め、冷徹な英雄を演じながら低い声を発した。
「その忠誠しかと受け取った。だが、我が軍に加わったからには、生半可な態度は許さん。明早朝より、貴公には特務部隊での新たな任務に就いてもらう。心してかかれ」
「はっ! この命、すべてはタチバナ閣下のために!」
(…やれやれ。これで何とか一つ目の火種は片付いたか)
タチバナは大きく息を吐き出し、深く椅子に身体を預けた。