宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
帝国中央士官学校の広大な第4訓練場には、怒号と打撃音が絶え間なく響き渡っていた。本日のカリキュラムは「対人白兵戦訓練」。模擬ナイフと徒手空拳を用いた、実戦さながらのサバイバル格闘術である。
最新鋭の宇宙艦隊が主力のラグランジュ銀河とはいえ、敵艦や宇宙都市への移乗攻撃そして拠点の制圧においては、最終的に生身の兵士による白兵戦が勝敗を決する。そのため、士官候補生たちにも高度な近接戦闘能力が求められていた。
「ハァッ! シィッ!」
周囲では屈強な同級生たちが汗を散らしながら、親の仇でも見るような目で模擬ナイフを打ち合わせている。彼らの脳内は、昨日の歴史授業で注入された愛国心と功名心でパンパンに膨れ上がっていた。
そんな熱気あふれる訓練場の片隅で、ケイイチ・フォン・タチバナは、支給されたラバー製の模擬ナイフをへっぴり腰で構えながら、ガタガタと震えていた。
(なんで未来の宇宙時代に、原始的な殴り合いなんてしなきゃならないんだよ! 痛いのは嫌だ! 絶対に殴られない! お前ら近寄るな!)
タチバナの悲痛な心の叫びを他所に、彼の目の前に一人の大柄な男子生徒が進み出た。昨日の廊下でフィリアを嘲笑した、あのモブ貴族の取り巻きの一人だ。
「さあ、覚悟しろよタチバナのボンボン。実戦じゃ親の金もその美人な女の付き人も、お前を守っちゃくれないぜ!」
「あ、いや、お手柔らかにお願いしま──」
タチバナが愛想笑いで降伏の意を示そうとした瞬間、巨漢の生徒が猛然とダッシュし、模擬ナイフをタチバナの顔面めがけて振り下ろした。
(ヒィッ!?)
タチバナの生存本能が限界突破した。
彼は悲鳴すら上げず、首の皮一枚でナイフの軌道を逸らすと、そのまま床を転げ回って後方へ全力で飛び退いた。
「チッ、逃げるな!」
大柄な生徒が怒涛の連続攻撃を仕掛ける。右フック、左の蹴り、そしてナイフの突き。
しかし、そのすべてが空を切った。
「うわあああっ! 危ない危ない危ない!」
タチバナの動きは、武術の型などという高尚なものでは決してなかった。ただひたすらに「殴られたくない」「刺されたくない」という極限の恐怖と生存本能が生み出した、神がかり的な反射神経による『完全回避』であった。
大柄な生徒の右フックが顔面を掠める直前、タチバナは無様なカエル跳びで床に伏せ、続くローキックをゴロゴロと横転して躱す。
さらに追撃のナイフの突き下ろしに対し、なんと両手足を使って蜘蛛のようにカサカサと後ずさりするという、およそ帝国軍人らしからぬ軟体動物めいた動きで間合いを外した。
「て、てめぇ! チョコマカと這いずり回りやがって! 立て! 男なら堂々と打ち合え!」
「誰が打ち合うか! 命と顔面は金じゃ買えないんだよ! 俺の将来の夢はエアコンの効いた安全な個室でハンコを真っ直ぐ押すことなんだ、こんな泥臭い場所で顔に傷なんか作れるかぁっ!」
一方、そのすぐ隣のマットでは、もう一つの白兵戦が…いや、一方的な蹂躙が展開されていた。
「ぐあッ!?」
「隙だらけです。重心が高すぎますし、ナイフの握りも甘い。実戦であれば、あなたは開始0.5秒で頸動脈を切り裂かれていますよ」
タチバナと同じ士官学校の端正な制服に身を包んだフィリアが、冷徹な声とともに、自身の対戦相手であるもう一人の生徒をあっさりと床に沈めていた。
彼女は人間ではなく、伝説の聖剣に宿る精霊である。タチバナの付き人として士官候補生に扮してはいるが、その体術は神速にして完璧だった。
一切の無駄がない優雅な足捌きで相手の攻撃をいなし、ラバーナイフの柄で的確に関節を打ち据え、文字通り「秒殺」してしまったのだ。
早々に自身の訓練課題をクリアしたフィリアは、乱れ一つない制服の埃を軽く払い、隣のマットで繰り広げられているタチバナの無様な生存競争を、冷ややかな紫水晶の瞳で見物し始めた。
そしてタチバナの脳内に直接、容赦のないテレパシーを送りつける。
『本当に見苦しいですね、タチバナ。ただの模擬ナイフを持った鈍重な素人相手に、なぜそこまで無様に泥を這いずり回れるのですか。あなたのその極まりない逃避行動は、もはや芸術的な害虫の領域です』
(うっさい! ゴキブリとか言うな! こちとら温室育ちの超絶デリケートな人類の至宝なんだよ! 戦闘特化のお前と一緒にすんな!)
タチバナは脳内で必死に毒づきながらも、飛んできた大柄な生徒の飛び蹴りを、間一髪のブリッジで回避する。
「チィィッ! 逃げるな卑怯者! 逃げるなァ!」
「うるせえ! 戦略的撤退と言え! 痛いのは嫌なんだよおおおっ!」
怒りで完全に視界が狭まり、大振りな攻撃を繰り返す同級生。涙目になりながらも、決して相手の攻撃範囲内には留まらず、訓練場の端から端まで全速力で逃げ回り続けるタチバナ。
端から見れば完全なイジメの構図だが、タチバナの身体には打撃の痣はおろか、模擬ナイフの塗料すら一滴も付着していない。
『対象は恐怖のあまり、攻撃の意思を完全に放棄しています。ですが、その極まりない逃避願望が生存本能と結びつき、一時的に尋常ではない空間把握能力を引き出している。…相手の筋肉の収縮から初動を完全に読み切り、すべての攻撃をコンマ一秒の差で回避し続けている。見事なまでの、回避全振りです』
フィリアは脳内で冷静な分析をタチバナに共有しながら、微かに呆れのため息を吐いた。
『あなたがこの無駄な才能を少しでも前向きな目的に使えば、歴史に名を残す名将になれるかもしれないというのに。人間という種族のバグは、本当に底が知れません』
(だからバグって言うな! 褒めるならもっとストレートに褒めろ!)
「ゼェ…ハァ…ッ! ちょこまかと、ふざけやがって…!」
やがて、五分間の訓練終了を知らせるブザーが訓練場に鳴り響いた。大柄な生徒は、全力で攻撃を空振りし続けたせいで完全に体力を使い果たし、膝に手をついて肩で激しく息をしていた。
一方のタチバナも、顔面蒼白で床にへたり込んでいる。だが、その制服は埃に塗れてこそいるものの、彼自身は完全に『無傷』であった。
「そこまで!」
実技担当の教官が、険しい顔で二人の間に割って入った。
周囲の生徒たちが「あーあ、タチバナの奴、一度も攻撃しなかったぞ」「士官候補生として失格だな」「あっちの付き人の娘は一瞬で勝負を決めてたのに、主人のボンボンは逃げ回るだけかよ」と嘲笑のヒソヒソ話を交わす。
タチバナ自身も、(ヤバい、逃げ回ってただけで終わった。これで赤点になって退学になっちまったら、安全な後方事務官の道が…)と絶望的な気分になっていた。
だご教官はへたり込むタチバナを見下ろすと、信じられない言葉を口にした。
「見事だ、タチバナ候補生」
「…はい?」
タチバナは間の抜けた声を漏らした。教官は興奮したようにタチバナの肩をガシッと掴む。
「相手の猛攻を前にして決して熱くならず、自らの不利を悟るや徹底した防衛と遅滞戦闘に徹する。しかも、五分間もの間、決して相手に致命的な隙を見せない神業のような回避能力とスタミナ…! 素晴らしい空間把握能力だ!」
「えっ」
「実戦において、敵の移乗攻撃から『無傷で生き残る』ことほど困難で価値のある技術はない。お前のその泥臭くも完璧なサバイバル能力は、真の軍人にこそ必要な資質だ! 本日の訓練において、タチバナ候補生に最高評価を与える!」
訓練場が、水を打ったように静まり返った。
先ほどまでタチバナをバカにしていた同級生たちは、あんぐりと口を開けて呆然としている。秒殺劇を演じたフィリアでさえ、教官の斜め上の評価に微かに眉をひそめていた。
(…え? マジで?)
タチバナは瞬きを繰り返し、教官の顔と、驚愕する同級生たちの顔を交互に見比べた。
ただ「痛いのが嫌だ」と全力で這いずり回っていただけなのに、なぜか最高評価を得てしまった。
そして彼は、持ち前の凄まじいエゴイズムと自己肯定感によって、即座に現状を都合よく理解した。
(なるほど! つまりこの士官学校では、自分から攻撃しなくても『完璧に逃げ切れば』安全に高得点がもらえるってことか! なんだよ、最高じゃんか!)
タチバナはスッと立ち上がると、息も絶え絶えの対戦相手に向けてドヤ顔を向けてみせた。
「ふっ。君の攻撃もなかなか鋭かったが、俺の『戦術的撤退』の前には一歩及ばなかったようだな。次はもっと頑張りたまえよ」
「ぐっ、き、貴様ァ…!」
周囲からさらなる殺意とヘイトを買っていることにも気づかず、タチバナは「これで安全な事務官への道が一歩近づいたぞ」と内心でガッツポーズを決めていた。