宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
(1日目・2日目)
「痛ぇ。全身の骨が軋む…あのニコニコ筋肉ダルマめ、マジで殺す気か…」
湿気を帯びた熱風が吹き抜ける未開拓惑星『シグマ・セブンス』の密林。降下ポッドの中で、ケイイチ・フォン・タチバナは全身の筋肉痛に呻きながら身を捩っていた。前回の【電子戦演習】での一件により、教官からたっぷりと三時間、地獄の「特別倫理指導」を受けた代償である。
今回のカリキュラムは、原生生物が跋扈する過酷なジャングルを五日間生き抜き、自力でゴール地点まで踏破するという【野外サバイバル行軍】だ。
「おい、いつまで寝転がっているつもりですか。さっさと支給されたサバイバルスーツに着替えてください。あなたの無様な体臭がポッド内に充満して不快です」
タチバナのすぐ頭上から、絶対零度の声が降ってきた。見上げれば、同じく特別指導を受けてボロボロになった精霊フィリアが、氷のような蔑視の目を向けている。
同人誌の件を暴露された彼女の怒りは、未だに収まる気配がなかった。
「うっさいな! 誰のせいだと思ってんだ! …あ〜クソ、着替えるからお前は外に出とけ」
「原生林の致死性バクテリアが飛散している外気に、無防備な制服のまま出ろと? 嫌です」
フィリアは頑としてポッドから出ようとしない。狭い降下ポッド内での着替え。それは少年漫画における王道の「お色気ハプニング」が発生し得るシチュエーションである。
しかし互いに殺意の波動を放ち合っている今の二人には、そんな甘酸っぱい空気など微塵も存在しなかった。
「じゃあ後ろ向いてろ! 絶対見んなよ!」
「誰があなたのような貧相な肉体を見ますか。自意識過剰も甚だしい」
二人はポッドの極小スペースの中で、背中合わせになって窮屈に着替えを始めた。
ガサゴソと衣擦れの音が響く。背中越しに、フィリアの滑らかな肌の気配や、インナーを脱ぎ着する微かな吐息が伝わってくる。
普通ならドキドキする距離感だが、タチバナの頭の中は「いかにしてこの過酷なジャングルで汗をかかずにサバイバルするか」で一杯だった。
「なんだよこのタクティカル・ハーネス! バックルが多すぎてどこに腕を通せばいいか分かんねえ!」
「本当にどんくさいですね。貸しなさい」
苛立つタチバナの背中から、不意にフィリアの手が伸びてきた。彼女はタチバナの肩越しに腕を回し、まるで「一緒に着せ替え」をするかのように、複雑なハーネスのベルトを次々とタチバナの身体に巻き付けていく。
背中に彼女の柔らかな体温が密着し、耳元でふわりと甘い香りがした。
(おっ、なんだよ。冷たいこと言いながら結局世話焼いてくれんじゃん。こいつも根は──)
タチバナがそう勘違いしかけた、次の瞬間。
「これで、よし、と…ッ!」
「ぐおぉぉぉふッ!?」
フィリアは容赦のないフルパワーで、タチバナの胸と腹のベルトを限界までギリギリと締め上げた。肋骨が軋むほどの万力締めである。
「て、てめぇ! 殺す気か! 息が、息ができねえ!」
「タクティカル装備は身体に密着させないと実戦で命を落としますよ? 私はあなたの安全を第一に考えて『適切に』装着してあげただけです」
「絶対私怨入ってんだろ! ゆる、緩めろ!」
そんな低レベルな小競り合いを経て、ようやく二人はジメジメとしたジャングルへと足を踏み出した。
他の同級生たちは「野生動物を狩って食料にするぞ!」「一番乗りでゴールしてS評価を狙う!」と意気揚々とジャングルの奥へ消えていったが、タチバナにはそんなモチベーションは一ミリもない。
「聞いてんのかフィリア。そもそもお前が変なことチクらなきゃ……あれ?」
タチバナが振り返ると、三歩後ろを歩いていたはずのフィリアの姿がなかった。
いや、いないのではない。彼女はタチバナから十メートルほど離れた大木の陰に、一切の足音を立てず、そそくさと流れるような動作で「避難」していたのである。
その紫水晶の瞳は、タチバナの『背後』をじっと見つめていた。
「おい、なんでいきなりそんな遠くに逃げてんだよ。置いてくぞ…」
タチバナが訝しげに首を傾げた時。
ポタッ…、と。
生温かく強烈な酸の臭いを放つ粘着質な液体が、タチバナの肩口に落ちてきた。
「…ん?」
タチバナは嫌な予感に全身の産毛を逆立てながら、首だけをギギギ…と後ろへ回した。
そこにいたのは、体長四メートル、六つの赤い単眼を不気味に光らせ、鋭い牙の並ぶ巨大な顎から滝のように涎を垂れ流している、この星の食物連鎖の頂点──エイリアン・パンサーの成獣であった。
「お前っ、気づいてたなら教えろよおおおおおおッ!?」
タチバナの悲鳴がジャングルに木霊した。直後、エイリアン・パンサーが咆哮と共に飛びかかってくる。タチバナは白目を剥きながら己の極限の生存本能だけを頼りに、泥だらけの斜面を猛烈な勢いで転がり落ちていった。
「ゼェ…ハァ…ッ、死ぬ…水…」
斜面を転がり落ち、奇跡的にパンサーを振り切ったタチバナは、谷底のシダ植物の群生地で大の字になっていた。喉はカラカラで胃袋は空っぽだ。
「無様な逃走劇でしたね。…ほら、あちらから川の音がします。水を汲み、ついでに食料となる野鳥でも狩ってきなさい」
木の上からふわりと舞い降りたフィリアが、冷ややかに顎で川の方向をしゃくった。
「嫌だ…絶対に猛獣の待ち伏せポイントだろあんなの。俺は一歩も動きたくない…」
タチバナは地面に寝転がったまま、すぐ横に生えていた巨大なウツボカズラのような植物をじっと見つめた。そして、サバイバルナイフを抜き放つと、寝転がったまま横着にその植物の根元にナイフを突き立てた。
「なっ…バカなことを! 未知の植物の樹液など猛毒の可能性が──」
フィリアが制止するより早く、植物の裂け目から、天然の濾過フィルターを通った極めて澄んだ冷たい水が、寝転がるタチバナの口元へチョロチョロと直接流れ込んだ。
「ぷはぁっ! あっま! 最高級のミネラルウォーターじゃんこれ!」
「……」
さらにタチバナは、起き上がりもせず周囲の地面を手探りし、不気味な紫色をした巨大なキノコをもぎ取った。
「よし、メシはこれだ」
「狂ったのですか!? 色からして致死性の毒キノコです!」
「いや、さっきパンサーから逃げてる時、草食の小動物がこれ食ってたの見たから絶対安全。しかもこれ、めちゃくちゃ肉厚だぞ」
タチバナが携帯用バーナーで炙ってかじりつくと、それは地球圏の高級ステーキにも匹敵する高タンパクの「プロテイン・マッシュルーム」であった。
水場へ赴くリスクも、狩りをする労力も一切ゼロ。寝転がった半径一メートル以内で、彼は完璧なカロリーと水分の補給を完了させてしまった。
『対象は、己の怠惰と「一歩も歩きたくない」という執念のみで、この未開のジャングルにおける最も安全で効率的な完全栄養補給ルートを確立した。これが生存能力のバグでなくて何だと言うのか』
フィリアは深いおののきと共に、脳内の手記を更新するしかなかった。
「もう歩かん。俺は二度と、この外の空気を吸いながら歩くことはしない」
翌朝。
タチバナの瞳には、かつて【兵站学】や【艦船工学】で見せたあの「狂気のインスピレーション」が宿っていた。
彼は不時着した降下ポッドの残骸エリアまで戻り、狂ったような勢いで解体作業を始めた。耐熱・耐衝撃の複合装甲板を剥がし、生命維持用の断熱材を引っ張り出し、サバイバルキットの「光学迷彩タープ」を組み合わせていく。
「一体何を作っているのですか。それはただのゴミの山にしか見えませんが」
「フフフ、笑いたければ笑うがいい! これぞ究極のサバイバルギア、名付けて『ヤドカリ式・絶対安全移動シェルター(全自動補給機能付き)』だ!」
数時間後。タチバナが錬成したのは、大人が四つん這いになってギリギリ入れるサイズの、装甲板と迷彩布で覆われた『重装甲の箱』であった。
見た目は周囲の岩や倒木にしか見えない完璧な偽装。上部には夜露を集めて水筒へ直接流し込む「雨水自動回収ファンネル」が備わり、下部には小さな隙間が空いている。
光学迷彩の岩を「安全な日陰」だと勘違いした小さなトカゲが、勝手に中へ入り込んでくる『全自動捕獲トラップ』だ。
「さあフィリア、お前も入れ! これでゴールまで這って進むぞ!」
「本気ですか? 私は嫌です。そんなみすぼらしい箱に入って泥を這いずり回るなど、精霊の誇りにかけてお断り──」
「教官の追試で、またお前の同人誌の趣味を大画面で公開されたいか?」
「入ります」
フィリアは屈辱に顔を歪ませながら、タチバナが作った箱の中へと四つん這いになって潜り込んだ。
箱の中は、想定以上に狭かった。二人で並んで四つん這いになると、肩と肩、腰と腰が完全に密着してしまう。
「ちょっと! あなたの肘が私の脇腹に当たっています! もっとそっちに寄ってください!」
「無茶言うな! これ以上右に行ったら装甲板の角が顔に刺さるんだよ! っていうかお前、意外と幅とってんな! 太ったんじゃないのか!?」
「っ…! 次その単語を口にしたら、あなたの脳髄に直接ノイズを流し込んで破壊しますよ!」
真っ暗で狭い重装甲の箱の中で、男と女が密着しながら低レベルな罵り合いを展開する。
その最中、カサコソと、下部の隙間から一匹の丸々太ったジャングル・リザードが這い込んできた。タチバナはそれを素手でサッと捕まえると、狭い箱の中で器用にバーナーで炙り始めた。
「あなた、私の真横でそのゲテモノを食べる気ですか」
「生きるためだ、我慢しろ。…うん、鶏肉みたいで美味いぞ。足一本食うか?」
「結構です!!」
「いいから前進するぞ! せーの、右! 左! 右!」
タチバナの掛け声に合わせて、謎の迷彩柄の岩が、ジャングルの泥濘をカタツムリのような遅さでズリズリと進み始めた。
「限界だ…」
タチバナのうわ言のような呟きで、過酷な【野外サバイバル行軍】の三日目の朝は幕を開けた。
ジャングルの泥濘を這い進む『ヤドカリ式・絶対安全移動シェルター』の中は、外敵からの絶対的な安全を確保している代償として、深刻な問題を抱えていた。
それは「衛生と生理現象」である。
タチバナの全身は、密林の湿気と二日分の冷や汗でドロドロのギトギトになっていた。制服の隙間には砂や枯れ葉が入り込み、気持ち悪くて発狂しそうだ。
さらに深刻なのは、下腹部から込み上げてくる強烈な便意と尿意である。どんなに装甲を分厚くしようと、人間の生理現象だけは防ぎようがない。
(クソッ漏れる。限界だ。でも外に出たらエイリアン・パンサーが…いや、このままだと俺の尊厳がパンサーに食い破られる…!)
タチバナが脂汗を流して身悶えしているすぐ隣では、フィリアが涼しい顔で膝を抱えて座っていた。
彼女は伝説の聖剣に宿る精霊である。人間としての実体を持たせているとはいえ、新陳代謝という概念が存在しないため、汗を一滴もかかないし、トイレに行く必要もない。
二日間密閉空間にいたというのに、彼女からは微かにフローラルな良い香りすら漂っていた。
(理不尽だ! なんで俺だけこんな臭くて不快な思いを…!)
「どうしたのですか、タチバナ。先ほどからウネウネと芋虫のように身をよじらせて。あなたの不快な体臭と脂汗が私の制服に付きそうなので、もう少し壁側に寄ってください」
「寄れるか! 限界なんだよ! いろんな意味で!」
タチバナは叫ぶと装甲板を蹴り開けた。
「俺はトイレに行く! そして絶対に風呂に入る! こんなギトギトの身体のまま、あと三日も這いずり回ってたまるか!」
「ハァ…勝手にすればいいでしょう。野生動物の餌食になるのがオチですが」
フィリアの冷ややかな視線を背に受けながら、タチバナはシェルターを飛び出した。
幸いなことに、すぐ近くからせせらぎの音が聞こえる。タチバナは周囲に猛獣の気配がないことを五秒だけ確認すると、茂みの奥へと駆け込み、自然の恩恵を済ませた。
(ふぅぅ。危なかった。尊厳は守られた…)
スッキリした顔で茂みから出てきたタチバナは、そのまま音のする方へ歩き、岩陰に隠れた美しい滝壺を発見した。透明度が高く、水底の砂利までくっきりと見える。
「最高だ…! まるで天然の露天風呂じゃないか」
タチバナは歓喜の声を上げ、泥だらけの制服とサバイバルスーツを脱ぎ捨てて水に飛び込もうとした。しかし、水面を見つめてふと動きを止める。
(待てよ。ただの水浴びじゃ、この二日分の泥と皮脂汚れは落ちないぞ…石鹸だ。石鹸が必要だ)
サバイバルキットに石鹸などという軟弱なものは入っていない。だが、タチバナの「快適に過ごしたい」という欲望は、常に彼の頭脳に神がかり的なインスピレーションをもたらす。
「よし、作るか」
タチバナは服を着直すと、滝壺の周辺で乾いた木の枝を集め、小さな焚き火を作った。そして、昨日捕まえて食べたジャングル・リザードの残った内臓と脂肪分を取り出し、空き缶の中で煮詰め始めた。
「またゲテモノ料理ですか? 呆れて言葉も出ません」
いつの間にかシェルターから出てきていたフィリアが、焚き火の前にしゃがみ込むタチバナを見てため息をついた。彼女もずっと狭い箱の中にいたため、少し外の空気を吸いたかったのだろう。
「バカ言え、これは料理じゃない。石鹸を作ってるんだよ。動物の油脂と、草木の灰を混ぜて煮詰めるんだ。おら、ぼーっと見てないで灰をかき集めるの手伝え!」
「は? なぜ私がそんな泥臭い真似を…」
「いいから! お前だって俺の体臭が臭い臭いって文句言ってたろ! 俺が綺麗になればお前も快適なんだよ!」
その一言に、フィリアはピクリと眉を動かした。
「確かに、あなたの悪臭をあと三日も嗅がされるのは私の精神衛生上、重大なバグを引き起こしかねませんね。手伝いましょう」
そこからの二人の作業は、不思議なほど息が合っていた。
タチバナが脂を煮詰め、フィリアが焚き火から良質な灰をより分けて不純物を取り除く。精霊である彼女は火や熱に対する耐性が異常に高く、素手で熱い灰をサラサラと選別してみせた。
「お前、意外と家庭的というか、手際いいな」
「勘違いしないでください。私は悠久の時を生きる中で、人間たちの錬金術や原始的な生活の営みを見てきただけです。それに、早くあなたを洗浄して無害化しなければなりませんから」
憎まれ口を叩き合いながらも、二人は木の棒で脂と灰をペースト状になるまでこね合わせた。やがて、見た目は泥のようだが、確かな洗浄成分を持った「サバイバル手作り石鹸」が完成した。
「よっしゃあ! これで風呂に入れるぜ!」
タチバナは今度こそ服を脱ぎ捨てると、パンツ一丁になって滝壺へとダイブした。
「うひょー! 冷たくて気持ちいい! フィリア、ちょっと背中流してくれ! 手が届かない!」
「本気で言っていますか? この私に、人間の、しかもあなたの背中を流せと?」
「いいじゃんか、石鹸作りで謎の一体感生まれただろ! ほら、タオル代わりの大きな葉っぱ!」
タチバナが水面から大きなシダの葉を差し出すと、フィリアは深い、深いため息を吐きながらも、制服の袖をまくって水辺にしゃがみ込んだ。
「私のストレージに『主人の背中を流す』という屈辱的なログが刻まれること、末代まで呪いますよ」
口では文句を言いながらも、フィリアの手に握られた葉っぱは石鹸の泡と共にタチバナの背中の泥を的確に、そして意外なほど優しい力加減で擦り落としていった。
(おお…極楽だ。まさかこの地獄のジャングル行軍の中で、こんなリゾート気分が味わえるなんて…俺ってばマジでサバイバルの天才なんじゃないか?)
ふと振り返ると、水辺にしゃがみ込んでいるフィリアの姿が目に入った。
彼女は汗もかかないし生理現象もない。だが、二日間もタチバナと一緒にあの狭く泥だらけの箱の中を這いずり回っていたため、彼女の端正な制服の裾や、白いふくらはぎには、べっとりとジャングルの泥がこびりついていた。
「おいフィリア。お前、精霊のくせに物理アバターはしっかり泥だらけになってるじゃないか」
「…! これは、あなたが狭い箱の中で無理やり動くから跳ねた泥です」
フィリアはハッとして、自分の汚れた制服と脚を見て眉をひそめた。清潔を尊ぶ彼女にとって、物理的な汚れは精神的な不快感に直結する。
「しょうがねえな。さっき背中流してもらったお礼だ。お前も洗ってやるよ」
「結構です! 気安く私に触れ──きゃっ!?」
タチバナはフィリアの抵抗を無視し、水の中から手を伸ばして彼女の足首を掴むと、そのまま手作り石鹸の泡でふくらはぎの泥を洗い落とし始めた。
「ほら、じっとしてろ。精霊だろうがなんだろうが、泥がついたまま箱に戻ったらまた中が汚れるだろ。俺の快適な引きこもり生活のためだ」
「や、やめなさい! 自分で洗えます!」
フィリアは顔を真っ赤にして足を引っ込めようとしたが、タチバナの無駄に手慣れたマッサージのような手つきに、思わず動きを止めてしまった。
滝壺の澄んだ水と、手作り石鹸の滑らかな泡が、彼女の白い肌から汚れを落としていく。タチバナは邪心など微塵もない真剣な顔で、彼女のふくらはぎから膝裏にかけて、丁寧に泥を拭い去っていった。
(…剣の精霊って言うからもっと鉄みたいに硬いのかと思ってたけど、普通にすべすべしてて柔らかいんだな)
タチバナが内心で呑気な感想を抱いていると、頭上からフィリアの震える声が降ってきた。
「もう、十分です。綺麗になりましたから、それ以上触ったら腕を斬り落としますよ」
「お、おう。わかったよ」
タチバナが手を離すと、フィリアは逃げるように岩場の奥へと姿を消した。
(なんだよ、照れ隠しか? まあいいや、これで俺もあいつもピッカピカだ。あとはこのまま5日目まで箱の中で寝てれば、完璧なサバイバル達成だな!)
すっかり綺麗になった身体を自然乾燥させながら、タチバナは心地よい疲労感とともに深く息を吐き出した。
彼らは自分たちが「死と隣り合わせのサバイバル訓練の真っ最中」であるという事実を完全に忘却し、まるで温泉旅行の三日目のような謎の達成感と連帯感に包まれていた。
(5日目ゴール)
5日目の「手作り石鹸での水浴び」という謎のリフレッシュを経て、タチバナたちの過酷なサバイバル行軍は、ついに最終日である日目の夕刻を迎えていた。
【野外サバイバル行軍】のタイムリミットが刻一刻と迫る中、ゴール地点として設営されたベースキャンプの入り口に、奇妙な「迷彩柄の箱」がズリズリと這い出てきた。
「ぜぇ…はぁ…っ! ゴ、ゴールだ…!」
箱の中から、タチバナの歓喜に満ちた掠れ声が響く。
(長かった…マジで地獄だった…!)
この五日間、タチバナはフィリアと共に『ヤドカリ式・絶対安全移動シェルター』の中に引きこもり、ひたすら四つん這いで密林を這い進んできた。
途中、巨大なワニのような原生生物に箱ごと踏みつけられそうになって死を覚悟したり、フィリアと寝返りのスペースを巡って三時間ほど小声で罵り合ったり、通り雨で箱の中が浸水してパニックになったりと、様々な苦難があったが4日目も無事に過ごせた。
ガコンッ、という音と共にひしゃげた装甲板が蹴り開けられ、中からタチバナが這い出してきたその直後、同じく箱の中から這い出してきたフィリアが、これ以上ないほど不機嫌な顔で泥だらけになった制服の裾を払っている。
ベースキャンプには、すでに到着していた同級生たちの姿があった。
彼らは皆、猛獣の襲撃や過酷なジャングルの環境によって満身創痍となり、泥と血に塗れながらも「戦い抜いた」という戦士の顔つきをしている。手当てを受けながら、互いの健闘を称え合っている者もいた。
そんな彼らの視線が、這いつくばって現れたタチバナへと集まる。
「タチバナ候補生」
心底呆れ返った顔の教官が歩み寄ってきて、手元のデータ端末のログをタチバナに突きつけた。
「交戦記録ゼロ。狩猟記録ゼロ。移動距離、合格ラインの最短距離のみ。…貴様、本当に五日間、その箱の中に引きこもって這ってきただけなのか」
「はい! いかなる危険も冒さず、安全第一で生還いたしました!」
タチバナは堂々と胸を張った。教官は深いため息を吐き、頭痛を堪えるようにこめかみを揉みほぐした。
「確かに、本カリキュラムのクリア条件は『リタイアせず、生きてゴール地点に到達すること』だ。生存という規定を満たしている以上、最低限の合格点はやらざるを得ん。だがな…私の長い軍歴の中で、ここまで矜持を持たず、害虫のように泥を這い回って生還した兵士は初めて見たぞ。恥を知れ!」
周囲の同級生たちからも、隠す気のない失笑と嘲笑が漏れる。
(へっ、笑いたきゃ笑え! 痛い思いをして手に入れる名誉なんてクソ食らえだ。要は赤点さえ回避できれば俺の勝ちなんだよ!)
タチバナは周囲の冷ややかな視線など痛くも痒くもないといった様子で、泥だらけの足をプルプルと震わせながら立ち上がり、心底満足げに鼻を鳴らした。
そんな主人の緩みきった横顔を見て、同じく泥だらけになったフィリアが、絶対零度の声で言い放った。
「まさかとは思いますが。この害虫のような逃避行で『後方事務官の椅子に一歩近づいた』などと、おめでたい勘違いをしていませんよね?」
「げっ。なんでわかったんだよ」
「あなたのその締まりのない顔にデカデカと書いてあります。断言しておきますが、こんなプライドも何もない泥まみれのクズを欲しがる事務局など、全銀河のどこを探しても存在しません。私の経歴に拭い去れない泥を塗ったこと、絶対に許しませんからね…」
「うるさいな! 生きて無傷で帰ってきたんだから、大勝利だろうが!」
フィリアの殺気を帯びた的確なツッコミにも、タチバナはどこ吹く風であった。