翌朝、そこにはテントの前に寝不足でふらつくゴブリンの姿があった。
俺である。
あほである。
降ってわいた幸運に興奮し、まさかそのまま夜が明けるまで読めもしない本をめくり続けるなんて、神様だって思うまい。
ひとしきり自分を恨んでから、俺は魔法陣に触れてテントをたたみ、鞄を袈裟にかける。ずっしりと重く、バランスがうまく取れない。そりゃそうだ。あくまで人間用なのだから、これを作った人は、まさかゴブリンが使うなどとは夢にも思うまい。
重い身体を引きずるように立ち上がり、再び森へと向かった。途中で水場を見つけ、何度も頭を洗い流す。冷たい水が火照った頭を冷ましてくれる。
「ふうー……さて」
顔を振って水気を払い、干し肉をかじりながら俺は思案する。
降って湧いた幸運により俺はテントという人類の英知の結晶たる持ち運び可能な寝床を手に入れた。つまりそれはいちいち寝床に戻る必要がなくなったことを意味する。
しかし、だからといって数か月もの間自分を受け入れ、守ってくれた場所に何の言葉も告げずに去るというのは、いささか気が引けた。
せめて何か言葉を送りたい。これは単なる自己満足の類ではなく、ケジメである。
「なら早く行こうか。善は急げともいうしね」
硬い干し肉をゴブリン特有の咬合力で強引に噛み千切って咀嚼し、水筒の水で流し込む。それから飲んだ分を水場で補充し、かつての自分の寝床へと歩を進める。
青の森は依然して生命の気配に満ちていた。草花や虫は当然として、木の上を見ればほら、すぐそこで二頭のアオイロリスが木の実を巡って噛みつきあったりしており、それを狙いすましたブルーオウルに二頭まとめてかっさらわれたり、木の根のあわいからアオウサギが顔を出し、意を決して駆けだしたとたんに機を窺っていたブルードックに丸呑みにされたり、一頭のゴブリンを三匹のヒノコノキツネが囲んで火の粉をぶつけまくって嬲り殺しにしていたりしていた。
「ゴブバババーッ!?」
「「ヘハハハハ!」」
哀れな悲鳴と邪悪な嬌声を背に、俺は弱肉強食の森の中を注意深く進んでいく。
何度か危うく敵と鉢合わせしかけたが、どうにかやり過ごしつつ前進すること数時間ほど。ようやく住処にしていたこの森でも一際大きな木の近くまでたどり着いた。
「おーおー着いた着い―――ッ!」
が、その瞬間に人を超えるゴブリンの聴覚が音を拾った。とたんに襲われる強烈な既視感。それはフクロウにそそのかされてハカセ・ゴブリンの住処へ向った時に感じたものと同じ類のものだった。
心の中にあった物見遊山感覚を完全に消し去り、俺はそろりそろりと忍び足で歩き、そっと木の陰から自分の住処を覗き見た。そこには俺の住処を取り囲む三頭ほどのブルードックと、腰ぎんちゃくめいて纏わりついているヒノコノキツネがいた。
「ガフッガフッ」
三頭の内の一頭が俺の住処に頭を突っ込み、それからアオウサギの死骸を引っ張り出した。俺は苦い顔でそれを見ていた。脳裏に浮かぶのは、丸々半日かけて追いかけっこを制した苦労の記憶であった。干し肉にして数日の食糧にしようという目論見は、今この瞬間に水泡に帰した。
「ぺっ、糞ったれめ。これだけかよ」
と頭を突っ込んでいたリーダー格と思わしきブルードックが振り返ってヒノコノキツネを睨みつけた。
「グレイ・ゴブリンの塒だから沢山の食いものをため込んでるっていうから住処からこんなところまで足を運んできたっていうのにウサギ一羽だけか、あ?」
「舐めてんのか、コラ。お前から食ってやろうか?」
もう二頭のブルードックが毛を逆立ててうなりながらヒノコノキツネへとにじり寄る。
「は、ははは、ま、まあ? そういう事も、あるさ」
ヒノコノキツネはあからさまに動揺しながら、必死になって弁明していた。イヌたちは互いに顔を見合わせた。
「「……」」
「そ、そうだ! ここからもう少し行った先にゴブリンどもの群れの巣があってさ、きっとアンタらも満足すると思うぞ!」
じりじりと寄ってくる三匹のブルードックに、ほとんど叫ぶようにヒノコノキツネは訴えかけた。イヌたちが近づくたびにヒノコノキツネの声量はどんどん上がってゆく。しかしキツネを見るイヌたちの視線は実に冷ややかなものであった。
これからどうなるのかは火を見るよりも明らかだった。俺は耳を塞いだ。
それと全く同時にヒノコノキツネは悲鳴を上げ、それを皮切りにブルードックたちは一斉に飛び掛かった。
キツネはあっという間にバラバラに引き裂かれ、次の瞬間には真っ赤な血飛沫があたり一面に舞い散っていた。
つまり、俺の住処は無事である。
「ふぅ……危なかった」
心底安堵し、息を吐く。自分が寝泊まっていた場所が残っていたことに、少なからず感動すら覚えた。ここは俺の家だ。守るべきものがある。それだけで、こんなにも勇気が湧いてくるとは思わなかった。
ヒノコノキツネの死体は完全に食い尽くされ、ブルードックたちは再び森へと帰っていったようだ。もう大丈夫だろう。俺は改めて住処の中へと入った。
「おかえり」
そんな声が聞こえたような気がして振り返る。当然、そこには何もいない。空耳だったのかもしれない。つまりそれだけ思い入れがあるということに、我ながら驚いた。
数カ月間、ひたすらに過ごした森での生活。楽しい記憶ばかりでは決してなかったが、どこか心安らぐ場所だった。ここを離れるのは確かに名残惜しい。だが、今の俺には目的がある。それに、この世界を知るために必要な本も手に入れた。まだ読めはしないが、いつかは読めるようになるだろう。後ろを振り返る時間はもう終わったのだ。
必要なものはそう多くない。見よう見まねで作った干し肉もどきをひっつかんで鞄に入れれば、それで終わりだ。
住処から這い出した俺は振り返り、改めて大樹を見上げる。大木は相変わらず青々とした葉を茂らせ、太陽光を受けてキラキラと輝いていた。
抜きんでて大きなこの木は生命力に満ち溢れ、きっとずっと何百年経とうともここにあるに違いない。そして幾度も俺のようなか弱きものを覆い隠し、守り続けるのだろう。
「ありがとう」
俺は小さく呟き、それから深く深く頭を下げた。
「さよなら、どうか健やかで」
頭を上げ、軽く手を振って、それから踵を返し、歩きだした。