「はあ! はあ! 糞ったれめ!」
「「バウバウ!」」
住処を後にして早一年、俺は絶賛逃走中であった。
こうなった経緯に理由もくそもない。卑しいイヌはいつだって臭いに敏感で、間抜けな俺はいつものように間が悪かったのだ。
糞ったれのイヌは俺が苦労して仕留めたアオウサギやブルーバードを食い荒らすだけでは飽き足らず、俺自身にまで牙を向ける始末である。
当然俺は必死に逃げ回り、時折放った石を前足に直撃させて一頭を倒すことも出来たが、残り二頭はそんな程度でへこたれるようなヤワな連中ではなかった。激昂したイヌたちは更に追い立てるように雄叫びを上げ、地面を蹴り上げながら距離を詰めてくる。
「グルルル……ガァァァッ!」
「うおお!?」
一匹のイヌが飛び掛かってくる。振り下ろされる鋭い爪を間一髪でかわし、再び走り出す。木々の合間を縫うように進み、時折背後を振り返りつつイヌたちに石ころを放って撃退を試みる。しかし学習したのか、俺の放つ石礫は悉くかわされてしまった。
そうこうしているうちに拾い集めていた石ころのストックが無くなってしまった。次第に呼吸が乱れ始め、足取りも重くなる。体力的に限界が近付いてきたのだ。
「こうなったら……っ!」
もう俺に長時間戦闘をこなせるだけで体力はない。ここでケリをつける!
「オラあ!」
「ギャウッ!?」
考えに至るや俺は強引に急停止、急反転し、勇み足で突出していたブルードックに殴り掛かった。生命の危機が迫った時特有の火事場力頼みの強引な攻勢である。当然無茶の代償として全身の筋肉が悲鳴を上げ、足の骨がミシミシと嫌な音を立てた。明日はきっと筋肉痛だろう。生き延びられたらの話だけれども。
だがそのかいあって不意を突くことには成功し、反射的にブレーキをかけたブルードックの横っ面に、俺の必殺の右フックが突き刺さった。
大木に激突するような轟音が周囲に響き渡り、イヌがくずおれる。一瞬の静寂の後、力尽きたイヌの死体を飛び越えて最後の一頭が飛び掛かってきた!
「ガァアッ!」
「うわああ!?」
体力が底をつきかけていた俺に、避ける力はなかった。咄嗟に腕を突き出して盾代りには成功したが、思い切り噛みつかれて地面に押し倒された。
「ガルル! グルアア!」
「痛でででで!」
イヌ畜生は俺の腕に噛みついたまま首をぶるぶると振った。あまりの痛みに視界に火花が散った。どうやら奴さんは相当頭に血が上っているようだ。イヌは卑しくて執念深いが、仲間がやられたらたいていは尻尾を巻いて逃げ去るものだ。
それをしないということは、あまりにもキレすぎて状況判断する事すら出来なくなっているということ。
もう俺にこいつを押しのける力はない。今の急制動と右フックに体力の殆どを持ってかれてしまっていた。
「ガアア!」
「このっ……このぉ!」
俺は痛みに耐えながら胴体に拳を打ち付ける。しかし押し倒された体勢で放たれた拳の威力などたかが知れている。
そうこうしているうちに牙の突き刺さった腕からは血がどんどん失われてゆく。奴の咬合力は留まるところを知らず、腕の骨から悲鳴のような音が上がり始めていた。
程なくすれば腕は噛み砕かれ、守るすべを失った俺の喉笛にイヌは牙を突き立てることだろう。
「冗談じゃない!」
こんなところで終われるか!
途端に鎌首をもたげる獣性に、俺は抗わずに身を委ねた。
「ガアアアア!」
「ギャン!?」
その瞬間、凄まじい力が血流に乘って循環し、あっという間に全身へと行き渡った。俺は噛みつかれていない方の手でブルードックの下顎を掴み、抉じ開けた。
それだけに飽き足らず、俺はそのまま噛みつかれていたほうの手で上顎を掴み、渾身の力でもって逆方向へと引っ張った。
「ギャッ―――」
バリッという音を立てて、ブルードックの顎が裂けた。
「ギャ……ギ……」
ブルードックは嚙み合わない顎をぶらぶらと揺らして後退り、しばらくしたのち、ばったりと倒れ伏した。倒れ伏した体はびくびくと痙攣していたが、やがて動かなくなった。
「はぁ……」
そのさまを見届けたのち、俺は息を吐いて大の字で寝そべった。
地獄のような戦いが終わりを告げる。俺はひたすらに生き残ることだけを考え、結果として三つの命を葬り去った。
ゴブリンからすれば過ぎた戦果だ。大金星と言っていい。しかしその代償に体中がボロボロで、特に片腕は完全に使い物にならなくなっていた。
結果と代償が全く釣り合っていない。理不尽だ。俺は怒った。だが誰に怒りを向ければいいのか。俺を傷付けたイヌは全員死んだ。つまり恨みはすでに晴れている。
やり場のない怒りが体内を循環する。だが、それもすぐに失せた。今まで生きてきてそういうことはままあったし、それをやっつける術は当の昔に学んでいる。
目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸をした。昔から頭に血が上った時、俺はいつもこうしていた。アンガーマネジメントというのは社会に出たら必須の技能で、それはこの森の中でも同じらしい。
「さて」
よろよろと立ち上がり、無事な方の腕を天に掲げた。
視界一面に木々の葉っぱが舞う。青空が見える。森は平和そのものだ。俺は勝利者だ。
しかし、状況は非常に深刻である。俺は致命的な怪我を負い、行動力は激減した。進むべき道もわからず、食料も限界に近い。
不幸中の幸いは食糧の足しになる肉塊が二つ、目の前にあることくらいか。……しかし。
俺は振り返って、どこからかぎつけたのか、嫌らしい笑みを張り付けたヒノコノキツネがゆっくりと、さながら大スターのような勝ち誇った足取りで、歩み寄ってきた。
「見っちゃった、見っちゃった☆瀕死のゴブリン見っちゃった~☆」
「……近寄るなよ。今の俺でもお前くらいなら首の骨を折るだけの余力はあるぞ」
「イヒヒヒヒ~!」
凄んで見せると、キツネはおどけたように体をゆすり、一定の距離で立ち止まった。
「はあ……」
俺は息を吐き、ヒノコノキツネを視界に収めたままゆっくりと後方へ下がり、ブルードックの死骸の前まで来た。
それからかけていた鞄の中からめっきり切れ味が悪くなったナイフを取り出し、ブルードックの胸に突き立てた。
ヒノコノキツネの視線を感じる中で、俺は難儀して胸を切り開いて心臓と魔石を引きずり出すと、それに向けて顎をしゃくった。
「ほらよ、あとは好きにすればいいさ」
「……」
怪訝な表情でその様を見つめていたヒノコノキツネは鼻を鳴らし、それからぱっくりとブルードックの死骸を咥え、ずるずると茂みの中へと退散していった。
ヒノコノキツネの気配が完全に消え去ったのを確認した俺は手に持った心臓と魔石を丸のみした。
「うっ!」
途端に腹の中が熱を持ち、体全体へと広がっていった。初めのころに比べればずいぶんとましになったが、この不快感と苦痛は抗いがたいものがある。
「はあ~……」
息を吐き、それから額から噴き出した脂汗を拭うと、嚙まれていたほうの腕を見た。傷跡はすっかり消えてなくなり、倦怠感もずいぶんと薄れていた。
「やれやれ、ひどい目にあった」
ずっしりとした何かが腹の奥底でわだかまる感覚に顔を顰め、残った最後の一頭へと歩み寄り、同様のことをした。
「うえっ」
活性化する肉体と正反対に、気分は最低最悪だった。口の中が血と油と石の味でどうにかなりそうだ。
「くそったれめ」
毒づきながら額の角に触れる。あれからすっかり成長したそれは今や人差し指ほどの長さがあった。これも魔石を取り込み続けて自身を強化していった結果の賜物である。
「……」
心境としては複雑だ。喜びとは程遠い。身体能力が上がった代わりに得たものは不快感と言う名の代償ばかりである。その上取り込めば取り込むほど、人とはかけ離れたモノとなってゆく。
今でこそ角が長くなる程度だが、その先は? 腕でも生えるか? 目が増えるのか? なんにせよ、碌な末路は望めまい。
だけどもう後戻りは出来ない。この身体は俺自身なのだ。受け入れるしかない。そうしなければ俺は殺されてしまう。だって俺は弱くて薄汚いゴブリンなんだからね。
ていうかそれならば魔石だけ食べればいい。心臓をわざわざ引きずり出して食う理由は? と問われれば、俺はどうしてだろう、としか答えられない。
理由は分からないが、心臓。出来れば生きている奴のを引きずり出して食うのが、理由はいかんとも説明しずらいが『良い』気がするのだ。
野蛮の極み。というか黒魔術みたいだな、というのが俺の感想だ。
黒魔術。邪法。禁術。ほうら。
所詮は素人の憶測だ。でももしかしたら。そう思わせる何かがあるのがこの世界だ。なんたって魔法があるのだ。そういったあからさまな禁じられた魔法がないなんてことはあり得ない……はず!
「よし」
気合を入れ直す。今は休むべき時だ。傷は治ったが、疲労は限界に近い。もう一度体力を回復させねばならない。
ブルードックの死骸を手早く解体し、必要な分だけ持ったらそそくさと離れた。そして十分な距離が取れたと判断し、テント球をカバンから取り出して放った。
ボンと音を立てて現れたテントの中へ滑り込み、俺は素早く横になった。身体が重く、疲れていた。心臓の拍動がやけにうるさい。
目を閉じる。木々が揺れ、風が葉を鳴らす音が聞こえる。どこか遠くでキツネの声がした。森の中は静かで、深く、そして不気味だった。つまりいつも通りという事だ。
後物凄く今更の話になるが、このテント、どうも魔物除けがされているらしく、今まで一度として襲撃を受けたことがない。初めてこの球の匂いを嗅いだ時に不快な臭いがしたが、恐らくはそれだろう。
今更気が付くだなんて、本当に鈍い奴だこと。
なんてことを考えながら俺は睡魔に身を委ね、意識を手放した。