次の日も、その次の日も、少年はやってきた。気が付けばほぼ毎日俺たちは顔を突き合わせては異文化コミュニケーションに取り組んでいた。最初はお互いに誤解と勘違いで揉めることも多かったが、徐々に理解が深まり、親交も深まっていった。
「~、~~!」
「ああ、分かったよ」
身振り手振り、時には地面に絵を描きながらコミュニケーションを続ける。不思議なもので、何度も失敗を重ねれば、言葉が通じずとも意志疎通は可能だということが実感できるようになってきた。どうやら彼はおしっこへ行きたいようだ。
「~~~!」
そのことを絵に描いて伝えれば、ぽかりと頭をひっぱたかれた。どうやら違ったらしい。異文化コミュニケーションは今日もまたディスコミュニケーションのようだ。相互理解に達するにはまだまだ道は遠い。
そんな調子で毎日を過ごしていく中、ふと俺は自身の体調に変化が現れ始めたことに気が付いた。最初は微かだったものが徐々に大きくなっていき、一度気になり出すともう無視できないほどになっていた。
心なしか身体も少しずつ軽くなっているような気さえする。先ほどまでは息切れするほどだったのに、今では同じ距離を走っても全く疲れなくなった。食事も以前よりも格段に美味く感じるし、目覚めも非常に良い。目に映る景色が違って見える。世界に色彩が戻ったかのようだ。
それでようやく気が付いた。そして同時にそりゃそうだという納得も。
この森に味方はいない。同族たるゴブリンだって、その価値観の違いから忌避されている。何なら時折襲撃だってされた。まあ強化されていないゴブリンなど雑魚なので、いくら群れようが脅威足りえなかったが。
要するに信頼できる誰かがいなかったから心身共にストレスは溜まる一方だった。吐き出す先がなかったんだ。
しかし彼の登場により、攻撃されない他者とのコミュニケーションにより、俺のストレスはずいぶんと緩和されていた。むろん悩みの種は尽きないし根本的な解決には程遠いが、それでもずいぶんと心が軽くなったのは確かである。
そして当然の様に今日もやってきた。最早この場所で会うことが日課になってきている。相変わらず言葉は通じないけど、身振り手振りで楽しそうに話をする姿を見ているだけで幸せな気持ちになってくる。
今日こそ彼から言葉の一つでも学んでやろうと意気込んでいたのだが、今日の彼はいつもと違った。背中にリュックを背負っており、何やらずいぶんと難儀そうに顔を顰めながらよたよたと近寄ってきた。
「ふい―……」
「なんだい、やけに重そうなもん持ってきたね」
へたり込んだ少年へねぎらいを込めて肩に手をやりながら、ドスンと放り投げられたリュックを見やった。
「んっ」
少年は顎をしゃくって中身を空けるように促した。
「はいはい、ゴシュジンサマの仰せの通りにってね」
促されるままにバックを開くと、どうやら中身は本のようだ。判別不可能な文字が表紙に書かれてある何冊もの本を取り出し、丁寧に地面に並べてゆく。
「これは?」
問い掛けると、少年は得意気に自分の頭に指を向けて、それから本に向けた。つまり「本だよ」と言っているわけだ。
「見りゃ分かるよ。読んでみろって?」
「~!」
ジェスチャーで読む仕草をしてみれば、少年は得意げな笑みを浮かべてみる。
「~~~~~~……」
それでうすうす察した。この子はずいぶんとやんちゃで、恐らくその調子で良く叱られいるのだろうなと、彼の後頭部にあるタンコブを見て思った。
一応試みてみるが、予想通り文字は理解できなかった。それでも本を持ってきてくれた理由が分からない訳ではない。どうやらこれを読んで勉強しろというらしい。
「いや無茶言うなよ……」
思わずぼやいてしまう。確かに挿絵や文脈から何の本科は大体予想ができるが、しかしそれで内容を理解できるかと言えば、当然理解などできはしない。
というか彼が持ってきた本は本当に無造作に選んできたもののようで、図鑑や歴史本、擦り切れてぼろぼろの絵本、あとは小説と思わしき本数冊、それから魔法陣が拍子に描かれてある本で、これはおそらく魔法の指南書か何かだろう。
彼が特に押してきた本は擦り切れた絵本であり、ページをめくり、とても興奮しながら主人公と思わしき英雄を指さしては分からぬ言語をまくしたてた。
「~~~~~~!」
「あ~はいはい! 分かった分かった! 分かったから! もう!」
絵本を片手に熱弁する少年を前に、俺は大変苦戦していた。
言葉が通じずともコミュニケーションを取れるとはいえ、それでも限界はある。異文化交流における理解というのは一方的なものだ。こちらが受け入れようとしなければどんなに近付いても決して真の意味での理解には至らない。
その点でいえば、今回のこの行為はいささか無茶振りが過ぎる。本を読めと言われても、それを読むための言語の下地がなければどうしようもないのだ。
「……はあ」
結局、俺は返事代わりに頭を搔きながらため息をついた。少年は残念そうに目を細め、他の本へと視線を移した。思いを共有できないのがたまらなく残念なようだ。
その気持ちは俺だって感じている。だったらせめて言葉を学ぶための本を持ってきてくれればいいのに……。
「……」
半目で彼を見つめれば、少年はようやくピンときたようでバツが悪そうに頭を掻き、誤魔化すように笑った。なに笑ろうとんねん。
それから少年は回れ右して元来た道をウサギの如く駆け出して行った。呼びかける間すらもなかった。
俺は呆けた顔で伸ばしかけた手を引っ込め、それから彼が戻ってくるまで分からぬ本を眺め、頭をひねって少しでも内容を解読しようと試みた。
頭をひねって本と格闘していること数十分、ある本を抱えて少年が戻ってきた。……頭にタンコブをもう一つ増やして。
「~! ~~~!」
何やら興奮気味に言葉を伝えようとしている少年だが、当然の様に理解不能だ。俺からすれば言葉の内容よりも腫れあがったタンコブのほうがよほど心配だった。しかし彼はそれが気にならないほどに高まっているらしい。
熱意と圧に押され、少年が地面に開いた本へ目を向ける。―――息が止まった。
眼が限界まで見開かれる。少年が指さすページへ目が釘付けとなる。
「~~~、―――ア!」
「──────ッ!!!」
少年はしきりに開かれたページに描かれてある絵、蟻の絵の下にでかでかと書かれてある文字を執拗に指さしながら、一つの言葉を言い続ける。
『ア』と。この世界における、『ア』という意味を持つ語を。
頭の中でその音が反響する。何度も何度も、飽きずに発せられる声に引き込まれ、徐々に体が熱くなっていく。呼吸が早くなり、視界がぼやけ始める。
(『ア』……)
だんだんと理解が追い付いてきた。そして同時に感じ取った確信。俺が求めていた答えが、ここにあるという確信。
血流が加速し、全身がかっと熱くなる。鼻息は荒く、獣の様に。しかし頭の中は驚くほどの冷えを見せた。人の如く。
「あ、あ、あ……ウ、ウフ」
「……」
何度か発言を試み、嗚咽で詰まりながらも何度も口に出す。二度三度。少年は固唾をのんで見守っている。
そして、ついに。
「―――『ア』」
「!!!」
少年が目を見開いて破顔した。それを見て、俺はついにやり遂げたことを悟った。
即ち、文字を、一つ、覚えたのだ!
「オォ……オォ……!」
涙でぼやける視界で少年を見る。嬉しそうに飛び跳ねる姿が遠くからも見えた。
感動的な達成感が心中を支配する。今まで味わったことのないような充足感が全身を包み込む。これが喜びってやつか。生きていて良かった。本当に良かった。
ふと我に返り、自分の手元にある本へ目を落とした。この数十分間必死に解読しようとしていた本が、急に愛おしく思えてきた。
言葉の壁を越える一歩を踏み出せた喜び。新しい世界への門を開いた喜び。人類が長い歴史の中で求め続けてきた、コミュニケーションの可能性を切り開いた喜び。
俺はその瞬間、確かに前進したのだ。
「―――『ア』」
何度も口にする。徐々に発音が上手くなっていくのが分かる。その度に少年は「ウフ! ウフ!」と叫んで跳ね回る。
気が付けば二人で笑い合っていた。互いの心が通じ合った証だった。言葉が通じなくても、共有できる感情はある。それを実感した瞬間だった。
俺は今までの停滞によって沈んでいた気持ちを吹き飛ばすような勢いで学習に励んだ。少年も根気よく付き合ってくれて、そのページの単語を発音して俺を助けてくれた。
しかしたったの一日で全てを完璧に覚えられるはずもなく、陽が暮れ、空が茜と暗闇の
それでも俺に失望はない。今まで足踏みするか後退するかしかなかったのだ。それに比べれば、小さな一歩でも前進した今、俺の心には一筋の希望の光が差し込めていた。
「『マ』……『タ』……『ネ』……」
「~『イ』~『イ』! 『マタネ』!」
本を見ながら、なんとか絞り出した、たどたどしい別れの言葉に、少年は飛び跳ねながら喜んでくれた。
明日も来てくれることだろう。そう信じて、夜空に輝く月を見上げながら、俺は深い安堵感に包まれつつ気を引き締める。
さあて、お勉強頑張るぞ!
■
この世界の言語を少年と協力して覚えているある日、少年がまた荷物を持ってやってきた。
「『ナ』、『二』、『ソ』、『レ』」
たどたどしい俺の言葉に、少年は黙って見てろと言わんばかりににやりと意味深な笑みを浮かべながら中身を見せる。
それは真っ白なシーツだった。人一人ならばすっぽりと包み込められそうなシーツを、少年は渾身のどや顔で広げて見せる。
「……何する気?」
「エイ!」
俺の疑問に答えず、少年は問答無用でそのシーツを俺の頭にかぶせてきた。
「うわわっなんだ!?」
暗くなった視界は、しかしすぐに明かりを取り戻した。
「なん、何?」
どうもこのシーツに二つの穴をあけてあるようで、それが丁度俺の視界に重なるようになっているらしかった。
「え? え? なに、ナニ?」
困惑する俺をよそに、少年は笑みを浮かべたまま手を引っ張った。どうやらどこかへと案内したいようだ。
俺は少年に半ば引き摺られるように歩かされた。不安定な足元に苦戦しながらも、必死について行く。シートのお陰で視界が限定され、そのせいでしょっちゅう転びかけ、挙句の果てには耳ざといキツネやイノシシに見つかって尻を焼かれそうになったりどつかれそうになった。
様々な困難をかろうじて退けること数十分、視界の中に映ったものを認識し、固まった。
振り向いてにっと笑う少年の先に、俺が求めてやまなかったもう一つのものが映っている。人の寄り合い場所。即ち、村が。
突然のことで真っ白になった頭であったが、すぐに我に返った。
「いや待ってよ! 今の俺はゴブリンなんだ! 村になんか入れてくれないよ!」
「『へーキ、ヘーキ!』」
俺は当然止めようと踏ん張ったが、しかし突然のことで体の力が抜けてしまっており、あれよあれよと二名の守衛がかためる村の入り口まで連れていかれてしまった。
「~~~?」
「^ー^」
少年は守衛の一人(もう一人は舟をこいでいた)と一言二言、それから俺を見て鼻を鳴らし、なんとそのまま素通りさせてしまったではないか。何ちゅーザル警備じゃ!
動揺が収まらない中、少年に引きずられるように村に足を踏み入れた。
簡素な木造建築が立ち並び、活気あふれる声が至る所から上がっている。男衆は畑仕事に精を出し、女どもは家事に追われ、子供達は元気に走り回っている。
その光景は俺が望んだものそのものだった。この世界に来て初めて目にする人間社会に、文明に感動する。
「すごい……本当に、村があるんだ」
思わず口をついて出たその言葉に、少年は得意げに胸を張った。