「──────」
気が付くと、俺はモノクローム色の荒野のど真ん中に立っていた。
「……」
右を見ても左を見ても、あるのは果てしの無い荒れ地だけ。地平線の彼方まで目を凝らして見ても、何一つとして存在する物はない。命の気配は皆無で、風音一つ聞こえない。ここは本当の虚無の世界だった。
空を見上げれば曇天が広がっており、その向こうの空は見通せない。まるで雲そのものが巨大な天蓋となって空に蓋をしているかのようだった。
ここはどこだ? 夢か? それとも死後の世界か?
俺は自分の身体を確認するために手を動かした。手触りは現実感に欠ける不思議な感触だったが、取り合えず怪我や変化は見受けられない。
次に目を閉じて、自分の呼吸音を意識する。ふぅーっと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。吐き出す音が無音の世界に響き渡る。
何度も行う。呼吸の音が聞こえる。……呼吸の音しか聞こえない。俺しかない。何も無い。
「ソリャソウサ。ダッテココハ俺ノ心ノ中ナンダカラネ」
「え゛っ!?」
突然背後から声が聞こえてきた。反射的に振り返れば、そこには粗末な服を着こんだ灰色の肌をしたゴブリンが、小さなカウンターに一席だけある椅子に腰かけて座っていた。カウンターの上にはブラウン管テレビが置いてあり、荒野と同じ色の砂嵐が流れるばかりで何も映してはいなかった。
「え……俺……?」
「ソウ俺」
目の前に唐突に現れた
「ここが俺の、心の中……」
「ソウダヨ俺。コノ果テノ見エナイ虚無ノ荒野ガ俺の心ノ世界ソノ物サ」
「……」
そんな馬鹿な! とか、そんな訳があるか! という感想は、一切浮かばなかった。むしろ素直に納得できた。
「ここから出られる?」
「俺ノ心ダ。願エバスグニデモ」
「そっか」
俺は立ち去る前に、もう一度
「じゃあ、行くよ……」
返事は返ってこなかった。踵を返して歩き出そうとしたのだが、目の前に黒い影が立ちふさがったので足を止めた。
「―――」
それは黒い靄だかヘドロだか分からない奇妙な物体だった。それが無理やりに人の形を取ろうとしては失敗して崩れ去り、また同じ動作を繰り返してはまた崩れ去って足元に堆積した。
「……」
驚き、はなかった。それの正体もまた俺にはすぐにピンときたからだ。これもまた俺だった。
いや、正しくは俺になろうとしているもの、とでもいうか。
「一緒に来る?」
「―――」
崩壊と形成を繰り返すそれに声をかけてみるが、それは何も答えず、ただあるがままにあった。俺は歩き出した。
歩き出したところで、何かがある訳ではない。音も無く、何者かの気配も無く、道しるべすらも無く、何か目的がある訳でも無い。
歩いて、歩いて、ただ歩き続けた。延々と続く虚無の荒野を永遠に続くような時間をかけてただひたすら歩き続けた。不思議と疲れることはなかった。
俺は歩いた。歩いて、歩いて、歩き続けて。そして歩いて歩き、歩くだけだった。
歩き歩き。歩く。歩いて歩いて、そして歩く―――。
歩き歩き。歩く。歩いて歩いて―――。
歩き歩き。歩く―――。
歩き―――。
―――。
■
「──────」
「うわあ起きたっ!?」
目を開ければ知っている天井が映るとともに知っている声が聞こえた。ぐるりと顔をめぐらせてみれば、それは村の会計士のトンガリーだった。
「……ナンダイ、トンガリー、マタゾロ金庫カラ金ヲカッパライニデモ来タノカイ? オ生憎様、俺ン家二金庫ナンカアリャシナイヨ」
と俺が言えば、トンガリーは顔を真っ赤にして憤慨した。
「ざけんな、もうやらねーよ。村長に言われてお前の顔を見るように言われてんのさ。で、お前は起きた。それで俺のお役目は終わりってわけだ。あばよ」
「ソリャドーモ」
上体を起こし、周囲を見る。よくよく見ればこの部屋は俺の家ではなく、村長宅の一室だった。
「……」
清々した顔でトンガリーが出ていけば、入れ替わりで入ってきたのはスカというグレイと同年代の無口な子供で、無言で俺の顔を見れば、ペタペタと触ってきた。
「……異常は、なさそう」
黒髪をボーボーに伸ばし表情は窺い知れないが、どこかほっとした感情は伝わってきた。
彼は無口で運動ができないし人付き合いもすこぶる苦手な子供だったが、その代わりに頭が良く、あのトンガリーが次に不祥事を起こした際の会計士として抜擢され、今では権限の殆どが彼が握っているといってもいいほどだ。
トンガリーの権威は年を得るごとに失われてゆき、今ではすっかり村の小間使いとして顎で使われていた。
「マアネ。寝起キニシチャ元気ビンビンサ」
「……なら、よかった」
スカの口の端が上がった。笑っているようだった。
「おう、起きたか」
しばらくスカとつたない会話を繰り広げていれば、村長がやって来た。その背後には物見遊山の村人たちがぎっしりで、それを押しのけてクレスが入ってくれば、普段の自信家気取りが見る影もなくみっともなく泣き喚きながら俺へ飛びついてきた。
「無事で良かった! 本当に! 良かった!」
「アァ、心配カケタネ親友。御覧ノ通リ元気一杯ダ」
部屋に入り込んで俺とクレスのやり取りを黙って見ていた村人たちは皆一様に涙ぐんでいたり、鼻をすすったり、十字を切って神への祈りを捧げたりしていた。
「えぇいじゃまだボケども。むさっ苦しいわ!」
キレた村長が押しかけてきた村人全員を部屋の外へと叩きだすと、村長は改めて俺へと向きなおり、意識を失っていた間の出来事をかい摘んで話してくれた。
俺は丸一日寝ていたこと。討伐は成功し、報酬は満額冒険者たちへ支払われた事。冒険者三人の怪我がまだ完治しておらず、特にスルケープの足のケガが深刻で、歩くに支障はないが二度と戦闘はできないであろうこと。冒険者パーティ『鉄壁の盾』はこれ限りで冒険者家業を引退すること。三人はそのまま村に残り、スルケープは牧師へ、カセマージとヌイセラの二人は結婚してこのまま村の用心棒として暮らすそうだ。
討伐成功の届けは出している最中で、今日にでも使いに出していた若者が返ってくる予定だという。
報告を終えた村長は、俺の身体を見回して不安げな表情を浮かべた。泣き止んだクレスも同様に俺を見た。
「で、お前はどこまで自分の体の異常を理解している?」
「……全部」
ずいぶんと長くなった角を撫でて見せれば、村長はそうか、とだけ呟き、それ以上は言及しなかった。
「これで本当に名前の通り
「アァソノ通リ、コレデ人間ドコロカ通常種ノゴブリンニスラ
それまでの醜態をごまかすようにクレスは笑みを浮かべながら言った。やけくそ気味に返してやれば、クレスはくすくすと面白おかしく笑いこけた。
「じゃあもう動けるんだな? 働けるんだな?」
「今スグニデモ外ヘ出テッテヤリタイネ」
「じゃあとっとと出てけボケー! このごくつぶしがーっ!」
「「うわあああああ!?」」
村長が俺を突き飛ばして部屋の外へと放り投げると、クレスが追いかけてきた。
「アノ爺メ、イクラモウ大丈夫ダカラッテ、俺ハ病ミ上ガリダゾ全ク」
「爺さんなりの照れ隠しだろ。あれで結構心配してたんだぜ?」
「ダトイインダケドネ」
俺とクレスは互いに顔を見合わせ、それから互いに肩を組んで笑いあった。それはいつかのあの日、俺とクレスが出会った時と同じように。
「「「おーい!」」」
遠くから三兄弟とネズが、手を振りながらこちらへと向かってくるのが見えた。俺たちは彼らの背中をバシバシ叩き、ゆっくりと歩き出す。兄弟たちは互いに見やり、俺たちにあやかってネズの背中をぶっ叩きまくり、それからぐったりとして動かないネズを掲げて追いかけてきた。
「よう、ヒーロー、やったな!」
「やっと起きたか寝坊助め。仕事手伝えや」
「よさんか馬鹿垂れ、彼は起きたばかりじゃ。あんま無理させんといかんぞ」
「何が無理だ。俺が風邪拗らせた時はそんなこと一言も言わなかったくせしてよ!」
「ホー抜かしよるわ! お前のような洟垂れ相手になんでそんな事いわにゃならん?」
気さくに話しかけてくれたり労いの言葉をかけてくれたと思ったら、唐突に始まった若者連中と爺様連中の小競り合いをやり過ごし、クレスの家へとやってくれば、フンターさんとリーネさんは家の前に立ち、俺たちの姿が見えるや駆け付けたリーネさんにクレスとまとめて抱きしめられた。
「お疲れ様グレイ。よく頑張ったね!」
「……ウン」
その、掛け値なしの称賛と労いがかけられた途端、数瞬だけ体の力が抜けた。視界が滲み、それを零すまいと天を仰ぐ。空は抜けるほどの晴天で、雲一つない青色を見せていた。
種族が違えば考えることも違い、大なり小なり埋められぬ溝というものはある。完璧に分かり合うことは出来ないかもしれないが、しかしそれでも分からないなら分からないなりの歩み寄り方というものがある。
俺の苦しみと人に戻る事への執着は、きっと彼らが理解する事は出来ないだろう。ゴブリンという種族がどれだけ生き延びるためならば手段を問わないかも理解できないだろう。それでも、俺たちは共有できる時間を持った。互いに笑い合い、励まし合い、時には言葉が通じずに衝突し合う関係を築いてきた。
この二年と少しという短い時間の中で、俺は確かに彼らと繋がりを持つことが出来たのだ。それが何よりも価値ある宝物であると気付いた。
何という幸運。何という素晴らしき事だろう。
俺はこの巡り合わせをもたらしてくれた全ての者へ、物へ、傷つき、森の奥へ引っ込んでいった異種族の友へ、ゴブリンという生物の儚さと執着するという事の大切さを説いてくれた老人へ、そして神へと感謝した。
「なんだゴブリン、泣いてんのか?」
「泣イテ無イヤイ」
「「「わはは、小鬼が泣いてら!」」」
「うわ~揺らすなあ~!」
クレスや兄弟に茶化されて、なんだか急に恥ずかしくなって、乱雑に目元を拭って、リーネさんの抱擁から抜け出す。そうすればクレスは目元をのぞき込んではやっぱり泣いてるんじゃないかと囃し立てて笑った。
俺も笑った。リーネさんも笑ったし、フンターさんも、三兄弟も、ネズも、村のみんなも笑った。
村は暖かく、きっとこの日常は続き、一年か二年後に俺は円満に村を出ていくことができるんだろう。そう思っていた。
「大変だー!」
暖かな雰囲気を引き裂くような大声が、村の入り口より聞こえてきて、何事かと顔を向ければ、使いに出していた若者が荒い息を吐きながら汗を拭う間も惜しいとばかりに俺の下へと走り寄ってきた。
「な、なにが」
疑問符を浮かべる俺に、若者は肩を掴んでその体を揺らしてきて、衝撃的な発言を、村中に聞こえる大音声で解き放った。
「教会の騎士どもがお前を狙ってやって来てる! 早く逃げろ!」
抜けるような青い空の中心で、燃えるような直射日光を放つ太陽が真上に居座る真夏日の午後。それまでやんややんやと騒ぎ立てていた青の村から、音が消えた。