「「「──────」」」
使いの若者から聞かされた知らせに、グレイ・ゴブリンはしばしの間、理解が追い付かずポカンと口を開けていた。彼だけでなくそれを聞いた全ての者全員が同じ状態だった。
グレイ・ゴブリンの頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
騎士団? 教会の騎士団が何故この村へ? 一体どのような理由で?
彼は例によって村長の家で埃を被っていた本棚の中からキシリトール教の聖書を発見し、一通り読んでいた。故にその教えについては理解があった。そしてこの世界の宗教についてもある程度は理解していた。
この世界の宗教はある一つの唯一神に端を欲する世界創世の神話が元となっており、そこから様々な宗教に枝分かれしていったという経緯を持つ。
その中で最も弱者、すなわち大衆向けに調整し、入信の敷居を下げたキシリトール教が最も多く信者を獲得するに至り、世界一の信者数を誇る巨大宗教となったのである。
グレイ・ゴブリンはそこまでは知っている。彼は教えさえ知っていれば、そのタブーを理解さえしていれば、ボロさえ出さなければ大丈夫と高をくくっていた。前の世界ではそうだったから。
しかし本当に恐ろしい差別や偏見というものは、自分からやってくるものだ。彼にとっての真の問題は教えからくる迫害よりも、異端排除を目的とした騎士団の方にあった。
世界一といわれるほどの巨大宗教であるならば当然武力も充実しており、その中でも教皇庁直属の騎士団の戦闘能力は屈指である。此度の襲撃者である第二隊『白犬騎士団』は『聖獣ホワイトドック』(彼らの駆使するホワイトドックは魔物であるが祝福が施されてあるためこれは魔物ではなく聖獣であり、ありがたい存在であるから何の問題も無いというのが彼らの主張である)を斥候として使うのが有名で、その名の通り一度喰らい付いたら対象が死ぬまで離れないほど執念深いという。
「……一体全体何ダッテソンナ物騒ナ連中ガコノ村ヘ? 確カニ村二来ル前二俺ハ冒険者連中ト小競リ合イシタ事ハアッタケド、村二来テカラハ一度ダッテ接触ハシテ無イゼ?」
額の汗を拭いながらグレイ・ゴブリンが疑問を口にすれば、若者は渋面で答えた。
「あのくそったれのコメットのババアだよ! あの畜生がお前の事を青の町の教会にチクりやがったんだ!」
「何ダッテ!?」
これにはグレイ・ゴブリンは仰天した。いつの間にか集まって来ていた村人たちも同様に、この裏切りとすらいえる恥知らずな行為に開いた口が塞がらないとばかりに呆け顔だ。そして始まるのは老コメットを呪う罵詈雑言の嵐である。
だからあのババアがイカレちまう前に追放しろって言ったんだ、おいあのくそたれはチャーリーがくたばる前からとんだ碌でなしだったろうが、わしゃあいつが狩りの成果に難癖付けてきたのを忘れちゃおらんぞ、どうでもよすぎてあのくそババアの事なんざ頭から抜け落ちてたぜ、さんざ世話になったくせに恩知らずのコンチキ野郎め、俺がぶっ殺してやる。
だが同時にこういった主張も上がっていた。
ふざけんじゃねえ、教会との面倒ごとなんて御免だぜ、こいつをとっととばらして家畜の餌にしてやれば知らぬ存ぜぬで押し通れねえか? 厄介なこと持ち込みやがって、このゴブリン野郎が生かしちゃおかねえ、考えてみれば魔物を殺せなんて当たり前の事じゃから、あの婆さんのやったことは罪でもなんでもないのう。
場は紛糾し、意見は真っ二つに分かれ荒れの大荒れを見せ、しまいには刃物を持ち出すものが出始め、たちまちの内に両陣営は濁った殺意をぶつけ合いの睨み合いだ。
「グレイ、出てっちゃうの……?」
剣呑な空気の中で、クレスはまるで気にした様子も無く、蒼白となった顔でグレイ・ゴブリンを凝視した。
「……ッ」
グレイ・ゴブリンは込み上げてくる感情を、せり上がるそれを、しかし喉元で押し留め、呑み込み、それから重い息を吐いた。
「……ドウヤラ……ソウミタイダ」
「そんな! なんでだよ!」
クレスはグレイ・ゴブリンに掴みかかったが、それを背中から止めたのはフンターだった。フンターはグレイ・ゴブリンを見た。息子に劣らず顔面を蒼白にしながら。額から冷や汗を流しながら。
「―――フンターサン、アンタニハ世話ニナッタ。リーネサンモ、村ノ皆モ……一人ヲ除イテダケド」
「イヤだイヤだ! グレイはまだまだ俺と一緒にいるんだ!」
「クレス、クレスっ聞け」
暴れるクレスを強引に正面を向かせると、フンターは目線の高さまで屈み、肩に手を置いて真剣な眼差しで我が子を見つめた。
「魔物相手や山賊とかなら今回みたいに冒険者を雇えば良い。最悪は貴族や国に訴える事は出来る。だが教会は駄目だ。こういった宗教関連のトラブルは表立って戦っちゃあいけない。それに教会は力が強すぎる。奴らの機嫌を損なえば、こんな鼻くそみたいな小さな村なんか一瞬で消し飛ばされちまう」
「じゃ、じゃあどうすりゃいいんだよ!? 追い出すってのか!? 散々世話になったくせに!? グレイが居なきゃ今頃俺達は―――」
クレスは拳を振りかぶった。フンターは首を振った。
「残念な事だがもう打つ手は無い。俺達じゃあ太刀打ちできないんだ。だから……だから……」
フンターはそこで口を閉ざした。その顔は苦渋に滲んでいた。そんな様を見たクレスは振り上げていた拳を下ろし、呆然としたように立ち尽くした。こんなに追い詰められた父を見たのは初めてだった。トロル退治の助太刀に行った時ですらこんな顔はしていなかったというのに。
父の必死な姿を見て、クレスもそれ以上何も言えなかった。出来ることも何もなかった。クレスに出来ることは、服の端を握りしめ、嗚咽が漏れないように唇を噛み締めることだけだった。二人は互いに黙り込むと、視線を落としたまま硬直した。
「……」
「グレイ……」
何を言っていいのか分からず手を伸ばしたり引っ込めたりしていたリーネへ、グレイ・ゴブリンはただ頭を振るい、おろおろと狼狽える三兄弟の脇を抜け、早足に自宅へと向っていった。
「何だこの墓場みてえに辛気臭え空気は。おいクレス、フンター、どういう状況だ? 何があった?」
「あぁ、村長とにかくやべえんだ、聞いてくれ!」
入れ替わりでやって来たのは村長と未だ療養中の冒険者三人で、先ほどまでのバカ騒ぎが消え失せていることにすっかり困惑した様子である。村長に応えたのは伝令役を務めていたマーラソンという若者で、事のいきさつを大声で話し始めた。
「なんてこった! あのくそババアめ!」
話を聞き終えた村長は顔を真っ赤にして憤慨し、拳を固く握り締めて忌々しげにコメットへの呪いの言葉を吐きまくった。
「チャーリーの遺言で生かしてやったってのに、あの恩知らずの偏屈のノータリンの耄碌妖怪が! こんな事になるならチャーリーの遺体と一緒に埋めちまえばよかった! クッソぉ~!」
「教会か……」
「あーそうか、あの人はゴブリンだったものね。理性的過ぎて忘れてたわ」
「ふん」
地団太を踏んで怒り狂う村長とは対照的に、冒険者たちの反応は淡白ですらあった。というより今日昨日会ったばかりの存在にそれほど感情移入しろと言えば無茶な話で、とりわけキシリストであるスルケープの反応ときたら当然だろうと言わんばかりである。
「何だとコラ! グレイは俺の兄妹分なんだぞ! そんなこと言うな!」
「そりゃ分かっちゃいるが、お前だってあいつは人間じゃねえ事くらいは分かってんだろ? 遅かれ早かれさ。俺たちが自主的に切り殺さなかっただけありがたく思いな」
激怒したクレスは両手を振り回しながらスルケープへと突撃したが、怪我をしたとはいえ歴戦の冒険者、あっさりと受け流されて地面に叩きつけられてしまった。
「うぅ~……」
叩き伏せられたクレスは四つん這いになり、悔しさで涙をこぼしながら繰り返し地面に拳を叩きつけた。
「やめろよ、クレス」
落ち着かせようとするネズの声も今のクレスには届かず、ただひたすらに荒れ狂っていた。
「グレイが居なくなるなんて……そんなの……」
「おやめクレス」
血が滲む拳を止めたのはリーネの掌だった。
「うぅ~……うわあああああ!」
泣きじゃくるクレスを見てリーネは優しく背中を摩ってやりながら抱きしめた。わんわん泣くクレスを黙って受け止めながら、リーネは鼻をすすりさめざめと泣いた。父親は深いため息を吐き出し、額の汗を払った。
「オヤオヤ、チョット目ヲ離シタ隙二随分ト混沌トシタ状況ニナッタモンダネ」
「ッ!」
クレスが弾かれたように顔を向ければ、そこには当のグレイ・ゴブリンが旅支度を終えて立っていた。簡素な装備で身を固め、背負っている大きな旅行鞄がまるで自分の全てを捨て去ろうとしているように思える。
「……グレイ、これを持っていけ」
打ちのめされて動けないでいるクレスを一瞥し、もう一度ため息をついてからフンターはグレイ・ゴブリンへと包みを手渡した。それを開けてみれば、新品の小型鉈だった。
「本当ならもっと格式張って渡してやりたかったんだがな」
「マサカ、十分ダヨ。アリガトウ」
照れくさそうに鼻を掻くフンターへ礼を言い、グレイ・ゴブリンは早速ブーツの中の鞘へと鉈を納刀した。それは彼のブーツの中へとしっかりと納まり、それはつまりずいぶんと前から準備していたことの証明でもあった。
「なんじゃ餞別か? ならわしからとっておきをくれてやろう」
いつの間にかにらみ合いを止めていた老人衆の一人がそんなことを言い出し、すたすたと自宅へと向い、またぞろ戻ってくればその手には酒瓶が握られていた。
「村一番の酒造り秘蔵の酒じゃ。もってけ」
「なんだと!? だったら俺はこれだ!」
「待てコラ、俺のほうがスゲーぞ!」
途端に餞別品の押し付け合いという名の乱痴気騒ぎが始まった。
ほいブルーボアの干し肉だ、噛めば噛むほど味が出て旨いぞ、はっイノシシ臭くてかなわねえや、何だとコラ、生かしちゃおかねえ、非常用の回復薬だ、持ってけよ、ミートパイはいかがかね? ブルービーの蜂蜜は忘れちゃいけねえぜ、薪割り用の斧!
「あわあわあわ」
次々と押し付けられ、しまいには小山ができそうなほどに積み上げられた品々に、グレイ・ゴブリンはただ狼狽えるばかり。
「待て、待てっつってんだろ! そんなに渡してどうすんだ! 荷馬車でも引かせろってか!」
見かねた村長が止めに入るが、村人達は一向に構わず、我こそはと次々と様々な物を運び出してきた。グレイ・ゴブリンはそれら全てを断り続けた。必要最小限以外は何も持たないと言って。
結局三十分以上も続いた餞別品押し付け合戦は、村長とフンターによる説得でしぶしぶといった形でお開きとなった。
「まさかこんな事になるたあなぁ」
「イツカ出テイクツモリダッタンダ。遅イカ早イカノ違イデシカナイサ」
大人子供入り乱れながら各々の持ち出してきた物品を戻してゆく村人たちを目を細めて眺めながら、グレイ・ゴブリンは肩をすくめた。
「すまんグレイ、俺たちはまだ町から荷物を運び終えてないから渡せるものがないんだ」
「ごめんなさいね」
「気持チダケデ十分ダヨ」
カセマージとヌイセラとそれぞれ握手しながら、グレイ・ゴブリンは頷きかけた。
「俺にはあるぞ」
とスルケープが言いながら、腰に吊ってある道具袋から黒いフード付きのローブを取り出し、それを渡してきた。
「あるって、それ処分に困ってたっていう変装用のもんじゃねーか。ずるだろそりゃ」
「うるせえな」
「……」
くっちゃべる男二人を横目に、スルケープからローブをひったくったヌイセラが手慣れた様子でグレイ・ゴブリンにローブを着せていった。そうすれば素性の分からぬ立派な不審者がそこに立っていた。
「……コレアカラサマニ不審者ナンダケド、余計狙ワレナイ?」
「冒険者っていうのは自分を大きく見せるために奇抜な格好をしていることが多い、何より面倒ごとを避ける傾向にあってな、そんなあからさまな訳ありの恰好をしている奴に、賞金首でもなきゃ突っかかってくる奴なんかいない」
「そういうこった」
「フーン」
まだ納得がいっていない様子のグレイ・ゴブリンであったが、どのみち素顔を曝したままではいられないので、しぶしぶといった調子でこの格好を受け入れた。
「……行くのかよ?」
村長が聞けば、グレイ・ゴブリンは頷いた。
「イツ教会ノ騎士達ガ来ルカ分カラナインダ。発ツナラ早イ方ガイイデショ?」
「……そうだな」
村長は手を差し伸べた。グレイ・ゴブリンも同様に伸ばし、二人は固く握手を交わす。
「お前を拾って二年とちょっと。短い間だったが、悪くなかったぜ。人間に戻れるといいな」
「俺ダッテアンタニハイクラ感謝シタッテ足リナイヨ。本当二アリガトウ」
やがてどちらともなく手を放し、最後にグレイ・ゴブリンは母親に支えられるクレスの下へと歩み寄った。
「クレス」
「うぅ……グレイ」
名前を呼び合った二人は固く抱き合った。今まで互いに言葉に出来なかった想いを込めて。
「俺……おれ! 絶対冒険者になるから! 遠くに行ったお前の耳に入るくらいの凄い奴に! だから……だから……!」
「アァ、アァ! 友ヨ! イツカ俺モ人間二戻ルカラ! ダカラ……!」
「「また会おう!」」
そして別れの時が来た。グレイ・ゴブリンは一番の親友に背中を押されて、村の出口へと向かってゆく。
「……」
出ていく直前で、彼は一度だけ振り返った。そこにあるのは、自分の居場所だった友達たちの姿。彼らは皆腕が千切れんばかりに大きく手を振っていた。
「──────」
グレイ・ゴブリンはしばしの間動けなかった。万感が胸に満ちた。込み上げてくる無限めいた激情の濁流に胸が軋みんだ。ともすれば戻ってしまいたくなる衝動を、彼は万力の如き力で押さえつけた。
ここは自分の居場所、
彼はずっと準備をしていた。ふとした拍子に追い出されてもいい様に。いつでも離れられるように。
だが、結局彼が想定していたようなことは起きなかった。一人を除いて誰も彼を追い出そうとしなかったのだ。
何故か? その理由は彼がずっとヒトであったからに他ならない。彼は一度として獣の力を他者に振るわなかった。一度として人間の常識的行動から逸脱しなかったから。だから彼らは礼を尽くした。彼はずっとヒトであったから。だから村人たちは彼を獣ではなく人として扱ったのだ。
彼の行動が、思想が、彼らの認識を変えた。この村にいる間、グレイ・ゴブリンは確かに人間だったのだ。
「──────ッ!!!」
フードの奥。隠された素顔。濁った黄色一色の獣の瞳から、滂沱の如く涙が溢れた。決別の時だった。これまで感じたことのないほど強烈な決別の時だった。喪失感と共に、そこに在った幸福感が侵食してきた。
グレイ・ゴブリンは嗚咽をこらえ、崩れ落ちそうになる体を気力で支えながら、深く一礼した。尽くしてくれた礼に対する、精一杯の感謝を込めて。最後に、もう一度だけ振り返った彼の背中は、風に流される草原の様に揺れていた。
顔を上げたグレイ・ゴブリンは流れ落ちる涙を払えば、その双眸に未練は無い。
力強く大地を踏みしめ、堂々と立ち、村人たちへと背を向ける。もう振り返りはしない。
一匹のゴブリンは最後にもう一度笑みを浮かべると、村の外へと飛び出していった。足音はすぐに小さくなって、やがて完全に見えなくなる。
残された村人たちは静かになり、空を見上げた。太陽は高く昇り、雲ひとつない青空が広がっている。
「ふう……」
「寂しくなるわね」
「ハッキリ言って予想以上に長い間一緒だったからなぁ」
「何年間、私たちと共に過ごしていたの?」
「二年と少しってところだったかのう」
それぞれが口々に感想を述べ合い、時折笑い声を漏らした。その中で村長は誰にも気付かれないように小さく鼻をすすった。
「……」
フンターがふと視線を落とせば、そこには未だ涙を流し続けるクレスの姿があった。
「グレイ……」
いくら呼びかけても、グレイ・ゴブリンの反応は返って来ない。当然だ、既に遠く離れてしまったのだから。
フンターは優しくクレスの頭を撫でた。
「大丈夫だ、グレイはきっと戻ってくるさ」
「当り前さ。あいつは帰ってくる」
「ああ、その時はもっと強くなった、格好良いお前が見られるはずだ。あいつもそれを望んでいる」
「うん……」
小さくつぶやくと、クレスは未だ手を振っている村人たちから背を向けて、少し離れた場所に立つ三人の冒険者の前まで来ると、頭を下げた。
「俺に冒険者の事を教えてくれ!」
突然切り出された言葉に、カセマージとヌイセラは目を丸くする。そして顔を見合わせると同時に笑みを浮かべた。
「良いぜ、任せろ!」
「私たちも村長から訓練は受けているからね。あなたを一流の冒険者へと育て上げてあげるわ」
「やるからには厳しくいくぞ、
三人は快く了承してくれた。これから始まるベテランの冒険者から受けられる訓練に心を躍らせながら、クレスは大きく頷いた。
「見てろよグレイ・ゴブリン。俺はでっかくなってやるぞ! 滅茶苦茶強くなってやるぞ! だからお前も、早く人間になって戻ってこい!」
叫び声が響き渡り、空に向かって手を振る。いつか再会するその日まで、忘れずに待ち続けると決めた。
森のどこかで、ぼぉーというクマの鳴き声が聞こえた。それを皮切りに、青の森のあちこちで呼応したように鳥獣たちの鳴き声が聞こえた。森を去る一匹の小鬼を見送るかのように。