「「ワオオオォーーー!!!」」
「うわっなんだ!?」
群れのリーダーらしき他よりも一回り大きなブルードックが飛び上がった。それもそうだろう。突如として奇声を上げながらゴブリンの群れが突っ込んでくれば誰だってびっくりする。
ただ、その次に続くブルードックの反応は、俺の予測とは大きく異なるものだった。迫りくる緑色の塊に対し、そのブルードックは
「やった、キツネの言った通りだ!」
言うや否や、そいつは錆びたナイフを掲げ威勢よく突っ込んできたタケシ・ゴブリンの攻撃をひょいとよけ、タケシ・ゴブリンがかわされた事実に気が付く前にその頭を大きな口でガブリと噛み千切ってしまった。
鮮血が間欠泉めいて迸り、その真後ろについていたゴブリンの緑色の肌を真っ赤に染め上げた。途端に周囲に生々しい血の匂いが立ち込めた。その匂いを嗅いだ他のブルードックが飛び上がり、ニオイの出どころへ一斉に顔を向けた。
頭部を失ったタケシ・ゴブリンの体がぐらりと崩れ、ばたりと倒れ、二度と動かない。腰ぎんちゃくのスネオ・ゴブリンが事態を理解できずに目をしばたたいた。
スネオ・ゴブリンの喪失など気にも留めずに、むしゃむしゃと口を動かして咀嚼するブルードックは久々の血肉の味にご満悦だ。
「「―――え?」」
奇襲が失敗に終わったばかりか、旗印だったタケシ・ゴブリンが一撃で殺されたことで冷や水をかけられたがごとく熱狂の炎は消え失せた。
代りに灯るのは、飢えた野獣の狂おしい貪食の炎。ぎらついた四つの視線が、捧げられた贄に突き刺さる。
「なあこれ逃げたほうがいいんじゃ―――」
ようやく事態が飲み込めた出っ歯が特徴のゴブリン、ヤンス・ゴブリンが声を発した時には、すでに手遅れであった。
「ひ、ひえー」
いの一番に逃げ出したスネオ・ゴブリンの背に青い影が覆いかぶさり、絶叫とともに鮮血が飛び散ったのを皮切りに、地獄が始まった。
血肉を引き千切り、骨を噛み砕く音が、絶叫と命乞いが森中に響き渡る。死肉の臭いが充満し始め、視界に入るだけで気分が悪くなるほどだった。
目の前の阿鼻叫喚に目が離せない、というより腰が抜けて硬直してしまったというのが正しい。俺が腰を抜かしている間にも事態は粛々と続いてゆく。
「ゴブブアバーッ!」
腕を食いちぎられ芋虫めいて地を這っていたスネオ・ゴブリンが別のブルードックに足を嚙まれ、それを渡すまいと頭に嚙みついたブルードックとで綱引きめいて引っ張られ、耐え切れなかった胴体が千切れ、腸が零れて落ちた。
「ひぎゃあっ!」
押し倒され、腹を食い破られたヤンス・ゴブリンが断末魔を吐きながら凄惨に絶命し、殺したブルードックは獲物死んだことを確認すると無我夢中で腹の中に頭を突っ込み、がつがつと中身を貪った。
他のゴブリンどもも例外ではない。次々とブルードックにより肉塊へと変わってゆく。仲間を守ろうと立ち向かおうとした者は一人もいない。誰もが我先にとこのキリングフィールドから逃げ出そうとしたが、そうするとそれまで無我夢中で貪っていたブルードックどもは一斉に食む口を止め、競うようにその背に群がって叩き殺すのであった。
そうして一匹一匹が瞬く間に殺され、貪られて平らげられてゆく。十九匹もいたゴブリンの群れが、残るところあと数匹にまで減っていた。
ここまでくると、絶叫の声は聞こえなくなった。代りにすすり泣く声と、くちゃくちゃがつがつという下品な咀嚼音が聞こえるばかりである。
「……うへ」
絶句した俺は、それだけしか言えなかった。弱い弱いと思っていたが、数の利や奇襲というアドバンテージがあってなおこのざまとはまさか思うまい。
と、ここで俺は咀嚼音やしょんべんを漏らす音のほかに、何か押し殺したような声がすることに気が付いた。
そちらへと首をめぐらすと、はたして紅葉色が特徴のキツネ、ヒノコノキツネ二頭が、ひっくり返り、腹を抱えて笑い転げているではないか。
「ひーっひっひっひ、馬ッ鹿でー!」
「ぷぷぷ、まじウケるwww」
……そんなことだろうと思った。俺は今日何度目かの溜息を吐いた。最近よく溜息を吐く。溜息を吐くと幸せが逃げるというが、こればかりはどうしようもない。
「はあ……ん?」
もう一度息を吐く。その時俺の視界の端に、小さな青がちらついた。注視してみると、それはブルードックであった。そいつは広場の真ん中で優雅に飯にありつく五頭の同族を恨めし気に睨みつけ、しかし睨むばかりで食事に加わろうとせず、横たわって呪詛を吐くばかり。……その真横には、丁度ゴブリン一頭がすっぽりと入れる茂みがあった。
そのことに気が付いた途端、心臓が強く脈打ち、主観時間が鈍化した。種族差故、奇襲の類はほぼ失敗することはたった今学習した。しかし、比較的健康な俺と、ブルードックの中でひときわ小さく、虐げられてボロボロで、その上飢餓でやせ細った個体ならば、どうだ?
武器の類はない。あるのは己が身だけ。
―――虎穴に入らずんば、虎児を得ず。
ごくりと、生唾を飲む音がひどく大きく聞こえた。額を流れる汗が顎を伝い、大地に落ちた。
とても長い一瞬だった。決断するのにかかったのはおそらくほんの一秒二秒だったはずだ。しかし俺には永劫にも感じられた。それだけこの決断は俺にとって重かったのだ。
俺は、震える足を一歩踏み出す。獲物に向けて。初めての狩りのための一歩を。偉大な一歩である。表彰されてしかるべきものだ。
くだらない冗談を考えて恐怖に心がとらわれぬようにしながら、俺は牛歩めいて緩慢な動きで横たわるブルードックへと近づいてゆく。
心臓が早鐘を打ってうるさい。血流の流れが瀑布のようだ。体中が汗で湿り、体が震える。それは失敗への恐怖か。はたまたこれから起こる争いへの武者震いか。
「…………」
茂みの目の前に来る。ゆっくりと身を沈める。がさがさと音が鳴り、心臓が止まりそうになる。視界が遮られ相手が反応しているかどうかもわからない。祈るしかない。どうかバレないでくれ。
祈りが通じたのか定かではないが、俺はまだ現世にいて、獲物はそこに、世界は変わらずここにあった。
目の前に来る。手を伸ばせば届く距離。息が止まるほどの緊張感が襲う。獲物は未だ我が存在へ気づかず。同族へ呪詛を吐くのに忙しい。
呪いか。俺も吐き出してやりたい。ここにいない誰かへ。かつての自分へ。この世界へ。
勝負は一瞬。手を伸ばし声が出ないように首を締めあげ、群れに気づかれないように茂みに引きずり込んでから首の骨を折る。
又聞きのゴブリンは人間の成人個体と同等の身体能力があるというのを信じて。
二度の深呼吸の果て。俺は。意を決して。ブルードックの無防備背後から奇襲に打って出た。
がさりと茂みから飛び出した俺は、目の前の獲物の首に腕を伸ばして締め上げた。予想以上に逞しく固い毛皮に俺の腕が絡みつく。心臓は今まで生きてきた中で最も激しく脈動しており、全身の血管が破裂するのではないかと思うほどだ。
渾身の力でもって締めあげながら、自分でも驚くほどの速さでブルードックを茂みの中に引きずり込む。見える視界はほんのわずか。しかし、彼の仲間たちは腹の中を満たすのに忙しく、こちらに気が付く素振りすら見せなかった。
「ガアアッ!?」
突然の奇襲にブルードックは対応できず、されるがままに茂みの中に引きずり込まれた。しかしうまくいったのはそこまで。
「放せ、放せえええ!」
死を予感したブルードックが激しく身をよじった。すごい力だった。渾身の力で締め上げていなければ、あっという間に振り払われていたことだろう。
一度首に手をかけた以上、もう後には退けない。ここで失敗すれば俺は次の機会を得られる保証はない。今日だけで十分過ぎるほど学んだ。生存本能が叫び続けている。やれ。殺せ。今しかない!
脳内麻薬が出ているのだろう。冷静な思考は消し飛び、ただ目の前の獲物への執着心だけが膨れ上がっていく。俺は全身の血が沸騰するような高揚感に包まれながら、必死に首に回した腕に力を籠める。
「カ゜ア゜ア゜ァ゜ァ゜ア゜ア゜……!」
潰れた咆哮が轟き渡る。ブルードックが牙をむき出し、爪を振り回して抵抗する。俺は体を起こされまいと力を込める。
敵は必死に暴れ、頭を振り回す。その度に振り回される足に強打され、爪でひっかかれ、体中擦り傷まみれのありさまだ。それでも放さない。今世で、否、前世ですら出したことのない力を振り絞り、俺は締め上げ続ける。
痛い。痛くて苦しい。しかし、止まらない。もう後戻りはできない。俺は力任せに首を締め上げ続けた。ブルードックの足がばたつくが、もう逃がさない。
だが。
「カ゜ア゜ア゜ァ゜ァ゜ア゜ア゜……!」
力が。
「カ゜ア゜ア゜ァ゜ァ゜ア゜ア゜……!」
強い!
なんて力強さだ! もう喉が潰れかかっているっていうのに力が弱まるどころか増すばかり。これが火事場の馬鹿力というやつなのか!?
「グ゜ア゜ア゜ア゜ア゜……!」
ブルードックが滅茶苦茶に体を捻って振り払おうとしてくるのを、俺もありったけの力を振り絞って抵抗する。だがこのまま拮抗が続けば、先に力尽きるのこちらだろう。その確信がある。
何か打開の術はないのか!?
酸欠と興奮で視界が明滅する中、カランという音がして、それが俺のすぐ真横に降ってきた。それはあの故タケシ・ゴブリンの持っていた錆びたナイフだった。
直後に耳をつんざく悲鳴。獣の歓喜の咆哮。
「―――っ!!!」
不意に閃く天啓。考える間もなく手が動いた。絞める腕とは逆方向の腕を伸ばしてナイフをとり、ブルードックの眼球に向けてナイフを突き刺した。
「グ゛ル゛ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!」
先ほどの比ではないほどにブルードックは体を震わせた。文字通り命を燃やした抵抗だ。当然組み付きなど剝がされたが、握りこんだナイフの柄だけは離さない。ぐりぐりとねじって傷を広げ、その先へと少しずつ押し込んでゆく。
「「ガ゛ア゛ア゛ア゛ア゛……!」」
俺と敵はたがいに口の端から泡を吹きながら、押し合いへし合い、激しく上下を奪い合いながら死に物狂いで殺しあった。
「ア゛ア゛ア゛!」
敵は強い。素早い。本来ならばゴブリンという種では逆立ちしたって勝てない相手。
だからどうした!
鋭い爪でのひっかきも、打ち据えられる痛みも、脳裏を占めるかつて人であった意地と生存本能が塗りつぶしはるか遠くへ。
気が付けば俺はブルードックの上をとり、ナイフの柄を掌で何度もたたき、根元まで押し込んでいた。
「カッ……カッ……」
獣は断末魔めいたかすれ声を何度か放つと、びくりと痙攣したかと思えば、ついに動かなくなった。
勝ったのか? 殺し合いの余韻に浸る間もなくよろよろと立ち上がり、ほんの少し前までは恐ろしく蠢いていた怪物の死骸を見た。
それは肉だった。あとは朽ち、蛆に貪られ大地へと帰ってゆくばかりの肉塊だった。あの死地の淵に立たされてなお命を燃やして生き残ろうとしていた熱狂は、どこにもなかった。
それは俺も同様だった。あれだけ胸を占めていた敵への憎悪と殺意はいずこかへと消え去っていた。胸の中にぽっかりと穴が開いたみたいだった。何も感じない。
口を開けて、しばらくの間呆けていた。まだ信じられなかった。たった今演じていた死闘。ただ敵を殺せという熱狂。絶対に生き延びるという狂おしい生存本能が、どこか他人事のように感じられた。
……そして胸の内の空洞に流入し、急速に満たしゆき、体を突き動かした、耐え難い空腹と食欲も、やはりどこか他人事のようであった。
人間らしい解体も、火を使った調理もへったくれもなく、
腹をナイフで裂き、亀裂を素手でこじ開ける。ぶちぶちと筋繊維が音を立てて千切れてゆく。そうして目の前に映るのは、赤赤赤。肉肉肉。
夕日に照らされてらてらと輝く血潮。もう動かない臓器。もう流れない血液。中でも一番目を引くのが大きな心臓と、その横に埋まる黒紫色の石のような物体だった。
当然俺は、一も二もなく心臓を引きちぎった。逡巡すらもない、本能的行動。敵を殺し、その心の臓を食らう。狩猟本能の発露。
頬まで裂けた口を限界までこじ開け、一口で頬張り、咀嚼し、口の中一杯に溢れる血と油を舌で味わい、ごくりと音を立てて嚥下する。
食道を通る塊は焼けた鉛のようであった。胃へ到達したモノはヘドロめいて重かった。
俺の中の「人」の部分が拒絶反応を発し、今すぐにでもそれを吐き出してしまいたかった。
しかし、飢餓と本能により圧倒的にまで膨れ上がった獣性がそれを塗りつぶし、取り込んだ栄養をすぐさま分解し、体へと吸収してしまった。
だがあっという間に消化吸収された、はずなのに、腹の底に何かが溜まる感覚があった。
樽の底にたまった澱みのように、腹の奥底で留まる「何か」。
それが何なのか、俺には答えられない。それを考える時間も暇もない。
高まった獣性は人の理性をたやすく端へと押しのけ、血を肉を欲した。人ならば矯正必須の乱杭歯を突き立て、腹に空いた穴の中へと顔を突っ込んでがつがつと食う。
腕で内臓を引き出し、頭を突っ込んで目玉をほじくり、皮をはいで骨をしゃぶりつくす。
なんてこった。
その様を目の当たりにした俺は愕然とした。自分がどこまでも
人間として当然持ち合わせている道徳や倫理、そういったものが一切役に立たない世界。生きる為なら手段を選ばず、他者を踏み台にして進む強さ。
本能と暴力に支配された、理性も道徳も持たない生物。かつて人であった存在が身に着けた、狩猟本能そのもの。
これが今の俺か。こんな醜い獣が俺なのか? いや、否。そんなはずはない。俺はまだ人間なのだ。そう信じたい。こんな風になってしまった以上、今更完全に元に戻ることはできないかもしれない。でも、これが全部じゃないはずだ。
気付けばブルードックの死骸は全て食べ尽くされていた。残ったのは黒紫色の石のような物体だけ。
口元に着いた血飛沫を腕で拭い(もともと血で汚れていたため余計に血にまみれた)、力を使い果たしたせいか急激に疲労感が押し寄せてきた体に鞭打って、震える腕を伸ばしそれを手に取った。
初めて見る代物だった。大きさは親指ほどで、表面はつるりとしていて触ると冷たい。中心部分に微かな光を放っている。
「何だ、これ……」
思わず呟いていた。
直感的に重要なモノだと理解した。気が付けばその石を口の中に放り込んでいた。
「ッング!?」
自分のした行動が信じられなかった。理性を獣性に支配されて獣に近づきつつあるとは思っていたがここまでか? それとももうとっくの昔に俺は獣に成り果てていたとでもいうのか。良く分からないものをそのまま口に入れるだなんて!
喉からのひどい異物感と自己矛盾の苦しみによって吐き気に襲われた。
四つん這いになり、目を白黒させながら吐き気と格闘してむせていると、それは起こった。
「―――ンッッッ!?!?!?」
喉を傷めながら石はゆっくりと下に向かって落ちてゆき、とうとう胃の中に納まった時、腹全体が熱を持った。それはまるで内部で爆発が起こったかのような感覚。
「オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」
突然の激痛に跳ね上がるほど体を仰け反らせた。何が起こったのか理解できず混乱する頭の中でも、一つだけ分かる事があった。
俺はとんでもない阿呆で、本能なんて糞食らえってことだ。
形容しがたい痛みが腹を起点に、瞬く間に全身に波及する。絶叫が口からほとばしり出る。
あまりの声量に鳥たちは訳も分からずその場を後にし、全てのゴブリンを食い終えてくつろいでいたブルードックが、笑い転げていたヒノコノキツネが飛び上がり、恐れをなして逃げてゆく様を見た。
それすらもが激痛という名の圧倒的現実が押し流し、俺はただ痛みの奔流に身もだえた。
鬩ぎ合っていた人の理性が、獣の本能が、痛みという名のもとに等しく屈した。全身が痙攣し、口からは悪魔じみた絶叫が出るばかり。
「アァアァアァアァアァアァ!」
獣と称するのすらおこがましい怪物が絶叫を上げ、その周りをおびただしい血飛沫が取り囲む。これを地獄と呼ばずになんという?
叫びすぎて視界が狭窄してきた。もう何も考えられない。……やがて全身を走る痛みをはるかに超える痛みが頭の芯に走ると、ぶつんと音を立てて、意識は途切れた。