「―――」
ぱっちりと目が覚めた。視界一杯に、青空が広がる。見知った木々が風に揺れている。
「……生きてる」
自分で自分に確認するように呟く。手を開閉させ、足を動かしてみる。問題なく動いた。
(夢じゃないよね……?)
心の中で呟く。まだ状況は理解できない。だけど今は確かに生きている実感があった。
起き上がり、周囲を見渡す。ブルードックの死骸は消え失せており、代わりにおびただしい血の跡があたり一面にぶちまけられていた。
「……俺がやったんだよな」
改めて己の行為を思い出し、背筋に冷たいものが走る。人間としての行為ではない。だが、現実として目の前にその結果がある。
落ち込む気持ちと、同時に何故かふつふつと湧き上がってくる達成感。本能に忠実に生きた結果、敵を打倒することができたのだ。
(……自分を褒めるべきか、それとも非難するべきか)
判断に困る。自分が何者なのか分からなくなってきた。
取り敢えず立ち上がり、住処に戻る前に半ば私物化している泉へと寄ることにした。喉がカラカラに乾いている。どれだけ叫んでいたのかも分からない。だというのに体は不自然なほどに軽快に動いた。あれほどの痛みが、夢幻のように消え失せていた。
その代わりといっては何だが、頭、特に額の部分に何だか違和感がある。痛みはない。ただ変なのだ。
触ろうという勇気はなかった。何なら見たいとも思わないが、状況が状況だ。そうも言っていられない。自分のことは完璧に把握しておかねば、いざって時に致命傷になりかねない。先のタケシ・ゴブリンの前に立った時のようなのはごめんだ。
進み続け、ゴブの実が実る茂みを通過し、例の泉へと、俺が俺を取り戻した切っ掛けの泉へと向かっていく。
「……」
泉の前に立つ。すぐには覗き込まず、一時目をつむって呼吸を整える。そして、意を決して水面に顔をさらす。
「なに、これ?」
素っ頓狂な言葉が口をついて出た。水面に映る自分の顔はひどい有様であった。血にまみれ、目元は大きく腫れ上がり、口の周りは真っ黒だ。そこまではいい。名誉の傷だ。酷いものだが、覚悟の上である。
予想の外だったのは、額の右端から、骨めいた突起物が突き出していたのだ。
「これって、角、だよ、ね……?」
自問自答を口にしながら思わず手を伸ばし、触ろうとする。だが何故か怖気が走り、触ることができなかった。
(落ち着け、落ち着け)
もう一度深呼吸し、勇気を振り絞って指先でツンッとつつく。
「ん……っ」
微かに頭に響く感覚。初めて生えた角の存在感は意外にも不快ではなかった。むしろ、心地良いほどである。
「なんで、角なんか生えてるんだよ!」
我慢できずに叫ぶ。状況が理解できない。自分が今まで積み上げてきた人生が音を立てて崩れ落ちていくような気持ちだった。精神的にひどい不快感を感じたが、肉体のほうはとっくに順応していた。こういうもんさ。ま、黙ってあきらめるってこったな。そんな具合に。
「一体全体何がどうなってんだ……?」
頭を抱えたくなる気持ちを必死に抑える。こんなゴブリンは見たことがない。それとも、この森の外にはいたりするのか? 情報が少なすぎる。でも、これが事実だ。受け入れるしかない。
「はあ~……」
大きく息を吐くと少し冷静になれた。俺の中で何かが変わり始めている。それが良い方向へ向かうか悪い方向へ向かうかは分からないけれど。
鏡代わりにした水面から視線を外し、泉の水を手ですくう。冷たさで思わず顔が引きつった。生き返るようだ。
一気にごくごくと飲み干す。冷たい水が体内に染み渡り、生命力が漲る感じがした。
冷たさが火照った体と心を冷ましてくれた。おかげでようやく落ち着いて物事を考えられる余地が生まれた。
(一度住処に戻って考えるべきか)
新しい角のこと、ブルードックを倒したこと。頭の中に浮かび上がる疑問や不安。まずは一度整理する必要があるだろう。
「……」
もう一度泉に目をやる。映る自分の顔は相変わらずひどい有様であった。額の右側には角が生え、口の周りは真っ黒で血まみれ。そんな自分の顔を見てふと思う。
(俺は今、何者なんだろう?)
人間だった。そのはずだ。でも、今の自分は人間と言い切れるだろうか。確実に何かが変わった。それが何かは分からない。
結論は出なかった。考えるのは後回しにして、水をもう一度すくって飲んだ。冷たさが気持ち良い。このまま時間を忘れて浸かっていたい気持ちに駆られたが、そうも言っていられない。住処に戻り、食料を確保し、次の行動を決めよう。人に戻るための次の一手を。
気力を振り絞って立ち上がり、泉から離れていく。ダダ下がりする心象と裏腹に、肉体は戸惑うほどに活性化していた。身体能力は目を見張るほどに高まっているらしく、以前なら苦戦していた距離を、息切れ一つせずに走破できた。
「……」
森の中を進む。頭の角がぶつかりそうになる度にヒヤッとする。触れる勇気は未だにない。受け入れる勇気も、まだ、ない。
いつか受け入れられるだろうか。こんな自分を。こんな有様を。
なんて、考えていたからだろうか。ぼんやりした様子で歩き進み俺の背中は、他の生物にとって見れば恰好の獲物にしか見えない。
小柄な生物ならば余裕で二匹は入るであろうサイズの茂みを通過した時のことだった。
かさりという微かな音を、耳が拾った。今までならば絶対に拾うことのなかった小さな音だった。
瞬間、毛なんか生えていないのに全身が総毛立つような感覚がした。背後で殺気が膨れ上がり、怒りと憎悪が迸った。
咄嗟に振り返ると、それは歯を剥き出しにしてとびかかってくるヒノコノキツネであった。その奥にはもう一頭のヒノコノキツネがたたずんでおり、あの嫌らしい笑みを浮かべて事の成り行きを見守っていた。
「シャアアアアア!」
「え、うわっ」
それは反射だった。目の前を飛んでいた蠅を払うように、俺は腕を振っていた。無意識かつ反射ゆえ、全力ではないものの加減の無い行動だった。
拳が衝突し、ごきりという鈍い音が鳴り、ヒノコノキツネの頭部が明後日の方向を向いた。
「「……は?」」
俺と、後方で待機していたもう一頭のヒノコノキツネの声が重なった。奴はそれまで浮かべていた笑みを引っ込め、ただ目の前の現実が信じられずに目を丸くしていた。多分、俺も同じような顔をしていることだろう。
生きているヒノコノキツネと目が合う。呆けた顔で、キツネも俺のほうを見る。奇妙な沈黙が、死体を挟んで流れはじめた。
今、何が起こった?
理解できないまま、眼前の光景に目を疑う。地面に倒れ込むヒノコノキツネ。その向こうで硬直するもう一頭。
俺は顔をそらさず、眼だけを動かし殴りつけた拳に視線を落とす。
血飛沫は付いていない。怪我もない。次に息絶えたヒノコノキツネへと目をやる。外傷もない奇麗なものだった。これで首が捻じれていなければ生きていると言われても信じられるだろう。実際今だってそうだ。そのうち起き上がり、あの意地の悪い笑みを浮かべたって驚かない。
折れた首はこちらを向いていた。生気の失われた目は憎悪で見開かれていた。自分が殺されるだなんてこれっぽっちも思っていなさそうな目だった。
(―――成長の上り幅がおかしくない?)
真っ白になった頭がかろうじてはじき出した言葉だった。
実際あれほど苦労して奇襲攻撃をしたにもかかわらず、結局膂力ではかなわず道具に頼らなければ瘦せこけたブルードック一匹にすら苦戦していたというのに、良く分からない石ころ一つ飲んだだけでブルードック並みの生き物を腕力だけでたたき殺せてしまったのだ。
信じられないのも無理はないと思う。
「て、てめえ、何してんだ、こらっ」
驚愕と困惑で動けない俺に、精一杯凄んで見せるヒノコノキツネ。しかしその足は竦んでいるのが丸わかりで、声も上ずっていたので、まったく怖くもなんともなかった。……もっともそんなのがなくったって、多分変わりはなかったと思う。
これがゴブリン特有の自信過剰なのか、それとも妥当な評価なのか、俺には分からない。でもとにかく、目の前の存在は全く脅威ではないということは何となくだが分かってきた。
おっかなびっくりに一歩踏み出す。
「あわあわあわ」
キツネは泡を食って二歩後退った。
一歩目が踏み出せれば、後はどうとでもなった。
やや動揺が残る二歩目。ヒノコノキツネは三歩下がる。
「「……」」
再び視線が合う。伝わるのは動揺。そして恐怖。
急速に心が落着きを取り戻し、名状しがたい冷たさが胸に満ちる。
間合いを詰めていく。逃げ出そうとするキツネだったが、俺の動きは速かった。結局すぐに捕まった。
「おい」
「畜生くそったれ!」
問いかける。しかし返答はない。代わりに悪態を吐き、ぎゃんぎゃんと喚き散らす。意味は理解できないが、言葉の意図は伝わってきた。明確な敵意だ。
キツネは四肢を滅茶苦茶に動かし、身をよじり、頭を振って藻掻いた。ブルードックと格闘した時のあの死に物狂いの抵抗でないにしてもゴブリンでは絶対に敵わない力だった。
でも俺は拘束する腕に力を籠め、その抵抗を完全に抑え込めた。余裕はあまりないが、でも抑え込めたのだ。
腕の中で虫のように藻掻くキツネは、あまりにもちっぽけに見えた。こんなくだらない生き物によってあんな大勢の同胞が破滅させられたと思うと虫唾が走る。
胸の内に燃える黒が、さらに一段深みを増した。
(このまま殺してしまおうか)
普段の自分ならば絶対に考えない暗い考えが、当然のように脳裏をよぎる。俺の考えをキツネは察知でもしたのか。より一層に抵抗の強さは増す。俺も応じて力を強めた。
まるでブルードックとの死闘の再現のようだ。互いに力の限りを尽くして抵抗しあい、喰らい合う血みどろの戦い。しかし、あの時と明確に違うものがある。
あの時はあくまであちらが上で、こちらが下だった。しかし今はこちらが上で、あちらが下だった。とどのつまり、上が下を組み伏せて欲しいままにするという、ごくごく平凡な、自然の摂理が働いているということだった。
一呼吸置き、ゆっくりと力を込め直す。それと同時に腕の中のキツネが小さく叫んだ。
「やめろ!」
声音には切実さが含まれていた。何か言おうとしているようだったが、俺は耳を貸さずに、ぎりぎりと力を籠め続けた。
「待ってくれ!」
「待つわけないでしょ」
冷たい口調で答える。
「お前たちがやったこと、忘れたとは言わせない」
「クソたれそれでもお前はゴブリンか!?
「……」
力を籠めなおす。
「やめろ、やめてくれたのむ! お願いだ聞いてくれ、俺たちは死肉喰らいだ。犬どもに比べて俺たちはそこまで体が強くない。火を起こせるっていったって所詮火の粉を飛ばすだけだ。よほど集中しなけりゃ火傷させるのがせいぜいさ。話ほど俺たちは強くない。強くない俺たちはああやってアホをそそのかして殺させてその死肉をあさるしかない。おこぼれをもらうしかないんだ」
切羽詰まったキツネの声音は真摯だった。
「なあ俺の言っていること、分かるだろ? 。俺たちはただ、生き延びたいだけなんだ。それは何も俺たちキツネだけじゃなくってブルードックも、お前らゴブリンだって変わらないはずだ。違うか?」
「……」
「違うか? ……違わないはずだ。だって生き物なんだから生き延びたいのは当然のことだろ? 俺たちみたいな弱い立場のやつらは特にな。そのために必要なら他の生き物を酷い目に合わせる。そうしなきゃ俺たちは飢えて死んでしまう。犬どもだってそうさ。食べなきゃ死ぬんだからな。そんな当たり前のことも理解できないのか?」
言葉に詰まる。自分が何者であるかも定かではないのに、相手の言葉に対して反論できない。否定できない。
「犬どもが殺した奴らだって同じさ。食べるために生きてたんだよ。だから俺たちは責められる筋合いなんてない。ないはずなんだ」
キツネの目に力が宿る。その目は真っ直ぐに俺を見つめていた。
返答に窮する。
腕に力を込めたまま、俺はキツネから顔をそらし、とっくりと考えてみた。
……彼の言うことはもっともである。生きるか死ぬかの野生の中では卑怯もくそもない。獣の生きる目標は子孫を残し次代につなげること。その為に彼らは何でもする。
這いつくばって泥水を啜り、腐肉をあさり、時に同族ですらも手にかけて喰らう。そこに理屈もくそもない。何をしてでも生きる。生き延びねばならない。子を成し、自分の血を残すために。
生きて子を成す。実にシンプルである。やれ同族を殺して食うのは悪いこと、だの、あの人はタイプじゃないから、だのあれこれ理屈をつけて善悪に分けようとするのは人間だけだ。
と、するとだ。同族が謀殺に近い形で殺されたことに憤りを覚える俺は、やはりまだ人間なのだ。
図らずしも思い至った俺の心境は、しかし微塵も喜びの感情など湧いてこなかった。
「そうだね……うん、そうだ。お前たちは間違っちゃいない」
「──―だろ! なら」
「……じゃあどうして俺を襲ったりなんかしたのさ。死肉は十分残っていたはずだろう? 飢えは十分に解消されていたはずだよね? なんで襲い掛かってきた?」
俺の問いに、今度はキツネのほうが答えに窮した。あからさまな動揺がその顔に現れていた。眉間にしわが寄っていく。
「クソ、あの意地汚い犬どもめ! 骨までしゃぶって碌に肉を残しやしねぇ! 時間かけたってのにとんだ無駄骨だ! そんな時にお前だ。急に大声出しやがって、ビビって逃げちまったじゃねえか! ふざけやがってゴブリンのくせに黙って食われろよ!」
俺のいら立ちを察知したのか、キツネはやけくそじみて白状した。俺は呆れて果てた。要するに彼らは計画を立てたものの食いっぱぐれ、腹いせ兼捕食のために俺を付けていただけだ。それで返り討ちに会い、今まさに彼らが捕食されようとしている。
(……)
何かを言おうと思ったが、結局何も言葉は出なかった。そうこうしている間にも、キツネはもがき続ける。
「ちょっと顔を見せろ」
「畜生! 離せ、離せぇ!」
暴れ続けるキツネを無理やり起こし、顔面に手を当てる。そこには貧相な毛皮と小さな目があった。つぶらな瞳に映る自分の姿は、少し滑稽であった。
ふとすればささくれ立っていたが気が落ち着き始め、状況を冷静に観察できるようになっていた。よくよく見ればキツネの毛皮は薄汚れており、押さえつける手のひらから伝わる感触はじつに貧弱だった。
喚き散らしながら身もだえるキツネの姿は滑稽を通り越して哀れですらあった。
結局俺はキツネを解放することにした。
「……行きなよ。一匹あれば、十分だ」
手を離すと、キツネは地面に転げ落ちる。息を切らせながら振り返り、不思議そうな顔をした。
「何でだ? 俺を殺さないのか? 食わないのか?」
「言ったろ? 一匹あれば十分さ。それに、さっきはまるで敵討ちみたいなことを言ったけど、実のところ彼らにそこまで情は持ってなんかいないんだ。あんたの相棒を殺したのだって殺意があったわけじゃないしね。事故みたいなもんさ。……多少の罪悪感こそあれ、あんたに恨みなんてないよ」
「……人間みたいなこと言いやがって」
キツネは目を細める。その眼光はまだ鋭い。
「人間だよ。……元は、だけどね」
「なんだそりゃ? そんなゴブリン聞いたこともねえや!」
キツネは吐き捨て、前足で地面を搔いて苛立ちを隠しもしない。
結局、キツネは恨み言をいくらか吐いた後、何もせずに森へと帰って行った。俺は暫くその場に留まり、後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
そして、俺は一人残された。
手元に残ったのは、図らずしも手に入った二頭目の獲物と、酷い精神的疲労だった。
「ふう……」
大きな息をつく。身体中が痛む。特に腕の筋肉が酷使された感じだ。思わず腕を擦る。あのキツネ、意外と力強かったな。先ほどまで疲労や痛みがなかったのは、単にアドレナリンが出てごまかされていただけなのだろう。
顎を撫でるとベタつく血がついていた。それをペロッと舐め取る。塩味が口内に広がった。
気分は複雑だった。自分の心が人間であることにほんの少しだけ安心した。同時に、人間らしい情や理性を失いつつある自分に不安も感じていた。
冷静に考えれば、生き残るために必要なことを優先するべきなのだろう。それはキツネのように自己保存本能に従うことなのかもしれない。俺がこだわる『人間』という概念は、実は無意味なものかもしれない。本能に従えば、ある意味では楽になるのかも。
だけど、それでも―――。
(俺は……)
人間に戻りたい。環境は何もかも違い、仮に人に戻ったとしてかつての生活など望むべくもないだろう。
だがそうじゃない。そうじゃないんだ。
俺は人間だということ。それそのものが重要なのだ。俺が俺としてあるための重要なアイデンティティ。それが、俺が人間に戻りたい理由なのだ。
思わず笑みが漏れる。変な話だ。さっきまで死に物狂いで生き延びることに必死だったというのに、いざ生き残ってみると急に哲学的な問題に頭を悩ませる。
その苦悩こそが人間足らしめるもので、しかしそれゆえに苦しむ。
「……俺は」
どうすればいいのだろう。つぶやいた言葉や風に乗って消え、静寂だけが残される。
「……」
考えたところで答えなんて出やしない。溜息を吐くと、キツネの死骸を引き摺りながらとぼとぼ歩きだした。今度は誰も襲い来ることはなかった。
住処につく頃にはすっかり陽が暮れていた。月明かりが照らす中、生存争いの音がひっきりなしに聞こえてくる。
すっかり慣れてしまったそれらの音を務めて無視しながら、俺は引き摺ってきたキツネの死骸を一瞥した。しかし腹が減っているのにもかかわらず食べる気が起きなかった。脳裏に獣じみて獲物を貪る自分が過った。
腹の底から息を吐き、住処の奥のほうへ死骸を引っ張り込んで木の葉をかぶせてにおいをごまかし、俺も住処の中へと引っ込んだ。
頭だけを住処から出し、空を見上げる。
夜空に浮かぶ月は美しかった。木々の間から差し込む光は心を落ち着けてくれた。静かに時は流れ、いつしか俺は微睡んでいた。
かすむ視界の中、どうにかカモフラージュ用の木の板と木の葉をかぶせ、体を引き摺りながら寝床へと体を沈めた。
暗闇の中、目を閉じればすぐに睡魔が襲い来た。抗わずに身を委ねれば、穏やかに意識は暗闇にとらわれた。
夢を見た。生前の記憶。友達と共に過ごした日々。青春の思い出。
……幸せだった。
あの時の俺は確かに人間で、充実した日々を送っていた。大学に通い、バイトをして、同じような境遇の友達がいて、馬鹿をして、笑って泣いて、生きていた。
誰も死ぬことなど思いもせず、何も考えずに生きてきた。
なんで、こんなところに居るんだろう。何度と繰り返した疑問を、性懲りもなく思った。自分が何のためにここにいるのか、なんでこんな目に合わなくちゃいけないのか全く理解できない。意味もわからないまま、野生動物の中で必死に生き残ろうと足搔いている。
本当に嫌になる。人間をやってた時が、遠い遠い過去の話のよう。
ふと、友人のことを思い出した。最後に会ったのはいつだったか。卒業式以来、一度も会っていない。もう会うこともない。もう二度と会えはしない。
それは何も友人だけではない。愛すべき家族にも。あのいけ好かない上司にも。愛想の良かったパートのおばちゃんにも。二度と。二度とは。
……
ひとり。
ひとりぼっちだ……。
何かが目元を伝って落ちてゆく感覚があった。
そして、この瞼の裏に広がる暗黒のように、うっすらと残っていた意識すらもが、闇の中へと溶けていった。