「実際角を持つゴブリンというのは珍しいが、珍しいというだけでいないという訳ではないんじゃ。噂では遠い火山地帯に住むゴブリンの額には角らしきものが生えているという話をどこかで聞いたのう」
「そっか」
「そもそもワシらゴブリンはあらゆる生物と子を成すことができ、果ては石ころのような無機物とすらも子を成すとまで言われておるんじゃ。そんな中で角が生えているとか生えていないとかはあまりにも些細な問題でしかないとワシは思うのじゃ。というかゴブリンなぞこの森の中のヒエラルキーで最下層に位置するどうしようもない取るに足らない生物に角が生えていたところで、だからなんだというんじゃ?」
「……」
割れたジョッキや風雨にさらされて風化したテントの廃材、錆びた斧にどこからか拾ってきた人間用の書物といったものが所狭しと散乱し、足の踏み場がないほど雑然としたこの場所が『ハカセ・ゴブリン』の住処である。
傍から見たらゴミ捨て場とした思えないが、この住処の主からすれば、ここは竜の巣の中の宝物殿に等しい。
あのあと俺は藁にも縋る思いで彼の住処へと赴きこの身体的特徴について聞くためにここへと赴き、そして心底後悔した。
ハカセ・ゴブリンは噂ほどの賢人ではなく、また知性のほどもゴブリンの中では比較的マシというだけで、価値ある情報はたいして得られなかった。
それどころかこうして話せるゴブリンとの会話に飢えていたためか、ハカセ・ゴブリンは聞いてもいない蘊蓄や真偽不明の噂話を延々くっちゃべる始末だ。
俺は嵐が過ぎ去るネズミみたいに、いつ終わるとも知れない彼の話を聞きながら耐えしのぎ続けている。
「見ろ。こいつは人間へこっそり忍び寄って盗ってきた書物じゃ」
まるで信心深い信徒が聖書を持つような手つきでハカセ・ゴブリンが一冊の書物を自慢してきた。
「内容は分からんが、これはきっと秘密暗号が描かれた儀式書に違いない。見たまえ、この恐ろしい絵を!」
目を剝いて興奮しながら本をパラパラとめくって見せるハカセ・ゴブリンであるが、どう見てもそれは儀式書でもなんでもなく、だれが見ても童話の絵本のそれであった。
基本的にこの本は絵がメインであり、でかでかと書かれた象徴的な絵と、その下半分に申し訳程度の長さの文章が見て取れた。
残念ながら俺はこの世界の文字は読めはしないが、しかし絵の内容から何となくその物語がどういうものかは推測できた。
何か黒くて大きな影がどこかの王国を覆いつくした。その後に同じくらいの大きさの白い影が剣を持った騎士に力を与え、黒い影を追い払う、そんな、創作としては実にありきたりなお話だった。
そのことをそれとなくハカセ・ゴブリンへ伝えようかと思ったが、血走った目で戦利品を睨め下すおかしな様子のゴブリンの姿を見て、そんな気も失せた。
「……」
無言でハカセ・ゴブリンを見やる。老いたゴブリンは相変わらず童話本をパラパラめくり続けていた。
ハカセ・ゴブリンはもうすでに俺のことなど眼中になく、ただ自分の世界に閉じこもって自らの考えを、考えという名の願望をまくしたてている。
……ならばこちらも自らの世界に入ったってかまわないはずだ。俺は老人の世迷言を聞きながら、自らの世界に閉じこもってゆく。
ハカセ・ゴブリン曰く人間の持つ物には魔力が宿っていると言い、これを集め続ければやがて人と同程度の知能を獲得できると信じている。
この世界には魔力というものがあるらしいが、こんなガラクタにそんな上等なものが宿っているとはとてもじゃないが思えなかった。
脳裏に浮かぶのは自己を思い出す直前に見た灼熱が爆ぜ、熱波が舐める破滅の光景。
恐ろしくも神秘的ですらあった殺戮を起こしたローブ姿の女の持つあの杖と、足元に落ちているかび臭い杖を見比べる。
こんな物に魔力が宿っていると主張するやつなど、目の前の老ゴブリン以外に居るとすれば物狂いか詐欺師くらいのものだろう。
正気を疑うというが、まさにそれだ。俺はもともと人間だったからこそその本の内容が分かり、彼の言うことが嘘っぱちだと判断できる。所狭しと置かれた、彼が知恵を得る聖杯だと信じてやまない物品が、無価値なガラクタだと判断できる。
そうだ、俺には判断ができる。人の知恵があるゆえに。
だが、とも思う。
彼の話す内容のほとんどは真偽不明のホラ話としか思えないが、それは他者から見た俺だって変わらない。
自らは元人間だとのたまう他のゴブリンと何ら変わらない見た目のゴブリンを、いったい誰がその話を真実だと信じるのだろう。
人の言葉を解すことなく、かといって何か特殊なことができるわけでもなく、革新的な考えもなく、誰かの益になるようなこともしない。
そんな説得力のかけらもないゴブリンが発する言の葉を、誰が信じるというのか。誰がそいつの正気を疑うというのか。
要するにだ。
この目の前の自分の願望交じりの推測を朗々と語る老いたゴブリンへの嫌悪の根本にあるものは、なんてことはない。同族嫌悪なだけなのだ。
とどのつまりは俺は俺自身の自らは人間であったという前提が、根本に揺らぎが生じていた。
本当に俺はかつて人間だったのか? 魔力なんて言う不可思議なものがあるのならば。魔法という人知を超えた事象があるのならば。この記憶がただのゴブリンに植え付けられただけの架空のものでしかないと、誰が断定できる?
本当に俺は俺なのか? 本当に俺はかつて■■■■という人間だったのか?
そういう考えに至ったのは力が付き、腹が満たされ、一人でじっとしている時間が長かったせいだ。呆けている時間が長いとつらつらと物事を考えてしまうのが世の常で、そのうえ一人であるのならばたいていは悪い方向へと思考が偏っていく。
俺はこの世界の知識が無い。この世界の人がどのような常識を持って生活しているのか、どのような哲学が形成され、どのように社会が回っているのか知らない。分からない。
であるのならば、かつての俺と、今の俺と、この目の前の老いたゴブリンとの違いはいったいどこにある?
人は、自らの常識の外にあるものを排除せずにはいられない。少なくとも今の俺やこのゴブリンを通常の個体と分けて考える人間はそうはいないだろう。かつての俺と同じように、全てを一緒くたにするに違ない。
それ以前に、今の俺はゴブリンだ。人間じゃなく、醜くて汚らわしい、吹けば飛ぶようなくだらない生き物。そんなものが友好的に接してきたところで、握手なんてしてくれるものか。
ルッキズムは悪だと言うが、じゃあ俺が人々に手を上げながら笑いかけたとして、にこやかに笑いかけ、よう調子はどうだい、などと語りかてくれるのか。
人間でなくば……人間?
そこではたと気が付く。没頭し、深く沈んでいた意識が唐突に浮上した。
そうだ。俺はここに人に戻る方法を、この角について聞きに来た。
前者は収穫なしだが後者についてはある程度信ぴょう性のある話は聞けた。なら俺がここにいる理由はもはやない。
俺は思わず顔を顰めた。あれからどれだけの時間が経った?
太陽はすでに真上にあった。朝一番にここにきて話を聞いていたことを考えるに、最低でも数時間はここで無駄な時間を使ってしまっているわけだ。
俺はハカセ・ゴブリンに先払いでヒノコノキツネの肉の一部を渡している。最低限の義理は果たしている。ならばこれ以上ここにいる意味はない。
彼にとっても、俺にとっても、大した情報は得られなかった。これ以上の長居は無用である。お互いにとって。
「……そろそろ行くよ」
「おや? もう行ってしまうのか。せっかく楽しい時間を過ごせたというのに……」
俺がそう言うと、気がふれたみたいにまくし立てていたハカセ・ゴブリンが正気付いてこちらへと顔を向けた。口の端から涎が垂れていたが、老人は気にした素振りすら見せない。
気だるげに立ち上がり、ハカセ・ゴブリンへ背を向けて出口へと向かう。
「そんなに急がなくてもいいじゃないか。折角久しぶりに友人との会話を楽しめたと思ったのにな。どうだ、一緒に昼食でもどうかね?」
俺が渡した肉を掲げるハカセ・ゴブリンへ振り返らずに答える。
「いやぁ、遠慮しとくよ。食欲無いんだ、ハハハ……」
「そうかね。ではな……。また会おう! ワシの研究が完成したら、必ず君の元へいの一番に報告に行くぞい!」
手を振る老いたゴブリンの声を背中で聞きながら、俺は彼の住処を後にする。
太陽の光が目に染みる。外はまだ夏の名残を感じさせるほどに明るく、空気は少し生温かった。
幾度も見たことかある景色。木々の匂い、風の音、小鳥のさえずり、雨上がりの地面の湿り気。それら全てに苛立ちを覚える。不快感を覚えないためだ。
この世界に来た当初は目に映るすべてが恐怖と嫌悪の対象だった。イヌ、キツネ、同族たるゴブリンは言わずもがな。果ては鬱蒼とした木々、実る果実や藪や茂みに至るまで。
低くなった視界。人のころよりもはるかに鋭敏となった聴覚や嗅覚が拾う悲鳴や新鮮な血のむせるような匂いに吐き気がした。
だが今はどうだ? 俺は無意識に周囲を警戒しながら、獰猛な生物が出没する森の中を平然と歩けている。あの時に比べれば、こんなものは
そうだ、大した事ではなくなってしまっている。
改めてその事実が突き付けられると、背筋に戦慄が走った。
自分が変わってしまっている。人としてのアイデンティティを失ってしまっている。悪夢のような現実を受け入れ始めてしまっている。
ああ、そうか。俺はこの世界の住人なんだ。他の人間やゴブリンと同じように、この世界に適応しつつある存在なんだ。
理解すれば、すとんと腑に落ちた。
……あまりにも滑らかに理解できたことが、たまらなく不快だった。
過去への情景はいまだ強くこびり付いてはいるが、いつかこの想いも薄れてゆくのだろうか。
想いは不変というが、それは語り継ぐ者がいることが前提だ。俺の物語を継ぐ者はおらず、そして俺はいつだって妥協を選んできた軟弱者である。
このままいけば確実に俺は妥協を選択することだろう。人の道をあきらめ、凡百のゴブリンと同じ方向を向き、ついには人としての矜持すらも忘れ、ゴブリンらしく感情の赴くままに刹那的に生きてゆく。
そうして今俺の横を勢いよく通過してゆき、そして茂みから飛び出してきたブルードックに押し倒されたゴブリンように誰にも顧みられることなく死んでゆくに違いない。
それはきっと遠い未来の話じゃない。このまま手をこまねいてじっとしている限りは。
成す術もなく頭を食いちぎられたゴブリンの壮絶な断末魔が耳に飛び込んでくる。何とはなしに振り返ると、丸呑みされる瞬間のゴブリンの頭部と目が合った。……その頭に引きちぎられた自分の頭の幻影が重なった。
ドクンと心臓が高鳴る。幻影は一瞬で、次の瞬間にはブルードックの大きな口はゴブリンの頭部をごくりと一飲みしてしまった。
だが俺の瞳に、今の光景が永遠に似焼き付いた。呪いのように。
焦燥感だけが胸の内に膨らむ。事態は何一つとして好転してはいないというのに。嫌な結果の想像だけが無限に再生されてゆく。
気分が沈めば自ずと頭が下がり、視界一杯に土色と草色を映しながら、足取り重く森の中を歩いていく。……そんなことをしていれば、何かにぶつかるのは必然で、そんなことは分かり切っていただろうに。
そう思った時には、俺は何か大きくて柔らかなものにぶつかって弾かれてしまっていた。
「なんだよも……う」
尻もちをついた拍子に白昼夢から覚めた俺は毒づきながらぶつかったものを見上げ、絶句した。
「おや? ……あぁ、こんにちは」
青色の巨躯が俺を見下ろしながら、そう言った。