蛇に睨まれた蛙ということわざがある。恐ろしいものや大きなものと対峙してしまい、恐怖のあまりに体が動かなくなるという意味だ。
今の俺がまさにそれだ。俺はそれを前にした瞬間、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じたとともに体の制御が完全に失われた。
見上げるような巨躯。俺がせいぜい110センチと仮定すれば、明らかに2メートルを超え、下手すれば3メートルに届くか。ごわごわした質感の青い体毛は固い質感であり、打撃を繰り出したところでクッションのように衝撃を吸収して無効化してしまうことだろう。仮にそこを超えたところでたくましい筋肉の鎧が待っている。鉄壁の二重防壁。そしてそこで手をこまねいている奴は、そのでかい口でガブリだ。ブルードックを超える大口はゴブリン程度なら丸のみに出来るだろう。
死が目の前にそそり立っていた。あまりにも唐突だった。身構える暇さえない。身構えていない時にこそ死神が出てくるという話は、本当だったのだ。
「僕はブルーベアのテディ・ベア。君は?」
テディ・ベア。死神はそう名乗った。名前を教えるのは、せめて自分の命を奪った者への手向けか。
なるほど。死神というものは存外に慈悲深いらしい。
これからどうなるだろうか。あの恐ろしい爪で一薙ぎか、大きな足でぺちゃんこか。どちらにせよ同じことだ。
俺はすでにこれから起こる運命を受け入れていた。途方もない現実は、抗う術が入る余地すらない。
「せめて痛みの無い様にしてくれ」
死神に慈悲を希い、膝をつき、手をつき、頭を地につける。いわゆる土下座という姿勢だ。生まれて初めてやった。その割には意識せずとも自然とできた。
「えぇと……それは何だい?」
「せめて死ぬ瞬間は一瞬のほうがいいからさ、そうなるようにあんたに希ってるのさ。さあ一思いにやってくれ」
困惑したような声が頭上から降ってきた。なかなか焦らし上手な死神である。
「えぇ! お腹も減っていないのに殺さないよぉ~!」
さらなる困惑の声が降ってきた。そこでようやく俺の中に疑念が湧いてきた。もしかして目の前の存在は俺を殺す気がないのではないか?
緩慢な動作で頭だけを上げて死神の顔を見る。困惑にうろたえた顔がそこにあった。
「……食べないの?」
「クマはね、イヌやキツネみたいに肉を主食にするわけじゃないんだよ。木の実や草、時折山菜や果物を食べる程度さ。野菜大好きなんだよねぇ」
「本当に?」
「本当さ」
念を押して聞くが、答えが変わることはない。
「……助かった!」
「変なゴブリンだなぁ~!」
テディ・ベアは笑いながらそう言った。
「それで、君の名前は?」
テディ・ベアはドスンと腰を下ろし、片手に持っていたハチの巣から蜜を取り出しながら再度問うた。
「あ、あぁ……俺はグレイ・ゴブリンだ」
「グレイ? ……あぁ、君が噂のグレイ・ゴブリンなのかい?」
テディ・ベアは蜜をなめる手を中断してこちらを見た。その瞳は好奇心にキラキラと輝いていた。
こうして見てみると、彼に攻撃的な要素は皆無だということに嫌でも気づかされる。いやはや無知とは本当に恐ろしい。偏見とはやはり悪なのだとしみじみ思う。
「あの厭味ったらしいフクロウが、グレイ・ゴブリンは元人間だって言ってたよ。あの性悪なキツネも、嫌らしいイヌたちも、みんな口をそろえておんなじことを言うんだ。ねえねえ、あの話は本当なのかい?」
嫌味もなく、ただ好奇心から出た質問。
「うん、そうだよ」
考えるまでもない問いだ。俺は素直に答えた。
「ならさ、人間しか知らないことを教えてよ。それを聞かなくちゃ納得できないよ」
と、テディ・ベア。これもまた考えるまでもない質問である。
「いいよ。じゃあとっておきのを一つ……人間はうんこした手でものを食わない!」
「わあ!」
テディ・ベアは目を丸くし、信じられないとばかりに片手で口を覆う。
「スゴイ! 君は本能に元は人間だったんだね!」
「分かってくれて何よりだ」
俺は異種族の友人に頷きかけた。
そんな調子で意気投合し、結局三時間程度森の中を歩き回りながら様々な話をした。
ここから南へ行ったところにある花畑のことについて。ブルービーの巣から採れる蜜がいかに甘いかについて。あの麗しのファーファ・ベアへの抑えきれない恋慕について。
話しながら、俺はテディ・ベアに案内されて様々な場所へ連れて行かれ、多種多様な動物たちや森の特色などを学ばせてもらった。
例えば、果実は甘いものがあれば酸っぱいものもあり、木の実には毒が含まれているものもあるとか、山菜には天然のビタミンが豊富に含まれているとか、水源地に寄生するアオイロヒルは触れるだけで皮膚が溶ける危険性があるとか。ブルースライムを踏んずけてしまうとしばらくニオイが取れなくなって危険だとか。森の賢者は無知な俺に惜しげもなく知恵を授けてくれた。
知らなかったことばかりだ。人間だったころの記憶が残っているおかげで理解することができた。ゴブリンとして生まれ変わっていなければ、こうした知識は一生手に入らなかっただろう。
そして何よりも貴重だったのは、テディ・ベアのような異種族との交流が持てたことだ。俺はコミュニケーション能力が乏しい。自分から友好的に接近してくれたテディ・ベアには感謝せずにはいられない。
「そろそろ夕方だねぇ」
陽が傾き始める頃合いになって、テディ・ベアが言った。
周囲はオレンジ色に染まり、遠くの山々は赤く焼けている。日が陰ってきて暑さが多少和らいだが、それでも空気が生ぬるく、吹いた風がのせてくる生々しいにおいへの不快感は少しも薄まりはしない。
それでも俺の心は少しも揺らがなかった。久方ぶりの穏やかな時間が、俺のささくれ立った心をずいぶんと癒してくれていた。
「そろそろお腹もすいてきたし、ここでお別れだねぇ」
「なんだい、お別れって? もしかしてそういう意味かい?」
にやりと笑いかける俺に、彼も笑いながら口を開く。
「だからクマはよほど飢えていない限り肉なんか食べないよぉ~」
「ふぅん。じゃあよく聞く熊は人間を見たら食っちまうなんて嘘っぱちもいいところなんだな」
「人間を食べるだって!?」
とんでもない! とテディ・ベアは仰天した。
「君は知ってるかどうか知らないけど、人間は神様を模して造られてるんだって。ハカセ・ゴブリンが言ってたよ。でもね、彼に言われるまでもなく僕たちクマはそんなこととっくの昔に知ってるんだ。だから僕たちクマは人間を食べないんだ。食べてしまったら呪われて、人間しか食べられなくなってしまうからね!」
「呪われる……」
「そう」
俺のつぶやきに、テディ・ベアは大げさに首を振って見せる。
「だから僕たちは人間なんか食べないのさ。僕はブルービーの蜂蜜が大好きなんだ。人間の肉を食べてそれしか食べられなくなるなんて御免だね!」
「……」
ふんすと鼻を鳴らすテディ・ベアを前に、俺はうんともすんとも言わず、むっつりと黙り込んで考えこんでいた。そして口にする。
「呪いってのはいったい何なんだ? その神様とやらが人肉を食ったやつの前に現れて、そいつにチチンプイプイってかけるのか? 人肉を食うことの一体どこが罪なんだ? イヌだってキツネだってゴブリンだって人間を食うことがあるけれど、呪いがかけられるだなんて聞いたこともないぜ?」
「さあ? 僕に聞かれても分からないよ」
俺の長々とした疑問に、テディ・ベアは困惑気味に答えた。無知な子供になぜ空が青いのか問いただされた老人のようだった。何を当たり前のことを。彼の眼はありありと語っていた。
「曇ってきたら雨が降る。酸っぱい果物は毒になる。キツネは狡賢くて意地悪で、フクロウは厭味ったらしくて、イヌは卑しくて、ゴブリンは弱いくせに感情的。それと一緒。そういうもの。僕のお爺ちゃんのお爺ちゃんのそのまたお爺ちゃんのころから決められていたこと。だからいちいち疑問に思ってちゃきりがないよ」
「でも、そんなのおかしいぜ……」
「なんとまあ」
なおも食い下がる俺に、テディ・ベアは呆れ眼で口を開きかけ、そこではたと何かに気が付いたような顔をして、訳知り顔で頷いた。
「そっか、君は本当に人間だったんだね。これで確信が持てたよ」
「それは、どうして?」
俺が聞くと、彼は頭を振るった。
「ハカセ・ゴブリンが言うには死んだ者は必ず同じ種族で生まれ変わるんだって。クマが死んだらクマに。イヌが死んだらイヌに。ゴブリンが死んだらゴブリンに。……人間が死んだら、人間に」
「──────」
「なのに君は、人間だったはずなのにゴブリンになっている」
絶句して固まる俺にテディ・ベアは淡々と続ける。哀れみをその瞳に宿しながら。
「君は初めから呪われているんだ。それは神様がお与えになった祝福なのか、それとも君に与えた試練なのかは分からない。神の御心は僕たちに推し量ることができないから。ただ、君がその姿になったのは、何か意味があるんじゃないかなぁ」
「……」
口を開かぬ俺を、やはり哀れみに満ちた目で一瞥すると、クマは背を向け、のっしのっしと歩き出した。
「君がいつの日か人間に戻れることを祈っているよ。それじゃあね」
大きな尻を揺らしながら去りゆく巨躯を、俺はただ茫然と見守っていた。
「呪われている……? 俺が……?」
クマはクマに。イヌはイヌに。ヒトはヒトに。
じゃあ今の俺のありさまは? こうなった理由は? 俺はこんな試練を与えられるほどに大きな罪を犯したとでもいうのか? 怠惰はそこまで罪だというのか?
真っ赤に染まった空は、次第に黒い闇に支配され、夜が訪れる。獣たちの宴の時間だ。そこかしこで生存争いの音が聞こえ始めた。その只中にあってなお、俺は動けずにいた。
陽が落ち、冷たい風が森中に流れ込む。木々の葉がカサコソと音を立て、遠くで何かが跳ね回るような音がする。暗がりの中、獲物を探す目が油断したうつけを探して剣呑な光を瞬かせる。
俺は動かない。動けない。苦悶し、身悶えるだけだ。
そんなことしていたら恰好の的で、飢えた猟犬はいつだって獲物の匂いに敏感だ。油断した獲物の匂いには特に。
「グラアアアアア!」
突如として背後の茂みから成体のなブルードックが、残忍な牙を光らせて俺の首筋めがけて勢いよく飛び掛ってきた。
身の毛もよだつ殺気が浴びせかけられた瞬間、ヒトとしての苦悩は吹き飛び、獣は再び解き放たれた。
「グガァ!」
射的に体をひねって攻撃を避け、腹の内から湧き上がる衝動に身を任せて殴り掛かる。
「グォウ!」
大ぶりの殴打をかわしたブルードックは鋭い爪が備わった前足で俺を切り裂いた。
ブシュッと音を立てて鮮血が飛び散る。脳天を突き抜けるような痛みが電のように脳天を突き抜ける。
「──────!!!」
ぶつんと音を立てて、理性の手綱が千切れて堕ちた。
「ガアアアアアアアアア!!!」
憤怒で視界が真っ赤に染まる。気が付けば俺はブルードックのすぐ前にいて、その横っ面を殴りつけていた。
視界が明滅し、裂けた口から凶悪な牙をのぞかせるイヌの姿が断片的に記憶に焼き付く。
取っ組み合い、互いの体を上に下に激しく入れ替えながら俺とイヌはただひたすらに互いを傷つけあった。
体中がズキズキと痛む。だが、止まらない。
―――俺は一体何をやっているんだ?これが人間のやることか?こんな理性のかけらもなく相手を傷つけるのが。かつて人間だった者の行動か?
「……俺は!」
言葉にならない言葉を口にする。
頭の中で思考がグルグル回る。今まで感じたことのないほどの激情が心の内側から湧き上がってくる。
クマはクマに。イヌはイヌに。ヒトはヒトに。それは神様が決めたことだ。そうテディ・ベアは言っていた。つまり、これは神の与えた試練なのか? そうだとしたら、何のために? 何のために俺はこんな目に遭わされなければならないのか?
理不尽だ。納得がいかない。俺は何も悪い事をした覚えはない。他人を傷付けたこともない。自分勝手な振る舞いをした覚えもない。ただ平穏に生きたかっただけだ。どうして。
どうにもならない理不尽への憎悪を、やり場のない怒りを、目の前の相手へ全て叩き込む。
「ギャンッ! ギャンッ!」
いつしか俺はブルードックのマウントポジションを取っていて、獣めいて吠えながらただひたすらに顔面を殴り続けていた。
殴るたびに、何か大切なものが削り取られていく気がした。ふとブルードックの顔を見る。その目に宿るのは死への恐怖。そして相対する者への畏怖だった。
「―――ッなんだその目は……ふざけるな!」
形容しがたい感情に襲われた俺は、さらに強い力で拳を振り下ろした。
「ギャンッ! よせ、やめろ! た、助け」
「ガアアアア!」
命乞いごと顔面を殴りつぶす。悲鳴が消えてなお殴り続ける。またがった下半身に痙攣が伝わる。拳をふるい続ける。
振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし、振り下ろす。振り下ろし──────。
どれだけの間そうしていたのだろうか。
やがて夜が終わり、朝が来る。獣の時間が終わる。ヒトの時間が訪れる。
燦燦と注ぐ陽光を受ける。
獣たちは去り、ヒトはどこにもいない。
「ハアーッ……」
荒い息を吐き、空を仰ぐ。小鳥たちの忙しないさえずりを聞く。立ち込める朝靄が目に染みた。