ハカセ・ゴブリンと別れてから数日が経過した。
今日も今日とて森を彷徨い、魔物を狩って食料を確保する日々だ。
あの日以来、角の変化は一切見られない。それどころか、逆に徐々に大きくなっている。
ハカセ・ゴブリン曰く魔物ならば誰もが持っているという魔石。人間相手ならば魔道具の材料になるとかでそれなりの額で取引されるそれは、基本的に魔物にとっては無用の長物である。
理由は単純。毒となるからだ。他の魔石を魔物が取り込むと拒絶反応が起こり、最悪死に至るという。だから大抵は丸呑みした後に吐き出したり、そもそも食わないようにしているのだ。あの頭の悪いゴブリンですらそれをやる。
しかし、稀に魔石を取り込んでも拒絶反応が出ない個体もいる。そういうやつはぐんぐんと強く、大きくなり、手練れの冒険者でも苦戦するような個体になるという。
幸運にも、いやこれは不幸にも、か? ともかく俺は拒絶反応が出ない優良個体だったようだ。
「……」
自分の角を手で触りながら、俺は深い溜息を吐いた。
落ち込む理由はいくつか考えられる。まず第一に、元に戻る方法がまるで分からないこと。二つ目に、角が大きくなるにつれて人として大切な何かが薄れていく感覚があること。最後に、誰かに出会えないこと。
もし他の人間や知的生命体に出会えれば、何かしらの情報を得られるかもしれない。だが、この森にはほとんど人間の気配がない。魔物などは見かけるものの、人間の姿は全く見えない。
俺が記憶を取り戻す直前に追い回された人間たち、他のゴブリンたちが言うには冒険者という職業の者たち、は何らかの理由で不定期にこの森を訪れ、キノコとか薬草を採取したり、ゴブリンやブルードックを無造作に殺したりしては去っていくそうだ。
そういう知識だけは無駄に暗記している俺にはピンときた。おそらく冒険者を束ねる組織、ギルドのようなものがそういう依頼でもしているのだろう。
この『青の森』は魔物が跋扈する危険な場所だ。通りで民間人の気配がないはずである。まともな人間なら、こんな場所に訪れようなどとは思うまい。
俺は一人、森の中を歩き続ける。
自問自答を繰り返す。
今の俺は一体何者なのか?
人なのか? ゴブリンなのか? それ以外のなにかなのか?
考えても意味がないことは分かっている。生物学的に言えば俺は紛れもなくゴブリンで、それ以外の何者でもない。
だが、心理的にはまだ納得できていない部分がある。本当にこの身体と精神は俺のものなのか、確証が持てない。
そんな葛藤を抱えたまま俺は森の中を進んでいた。
「はぁ……」
再び溜息を吐いた時だった。
「ホー、辛気臭いしみったれゴブリンが歩いてら!」
厭味ったらしい声が頭上から聞こえ、思考を中断してそちらへと顔を向ける。そこには青い羽根のフクロウがいた。
「なんだいフクロウ。何か用?」
「ホー、人間気取りのあほゴブリン、グレイ・ゴブリンの間抜け野郎がこのブルーオウル一の狩りの達人たるアルキメデス・オウル様に生意気な口を利くんじゃない!」
自称狩りの達人たるフクロウはプンスカ怒っていた。それから聞き取るのが困難な罵詈雑言をひとしきり吐いた。なんとか聞き取ろうと努力した結果、どうやら彼は『アッチョンブリケ』と言ったようだった。
「ホーッ! ……フン、まあいいさ。もとからゴブリン野郎にまともな返答なんか期待しちゃいない。それよりも」
怒り顔から一転、それはもう楽しそうに笑いながら、アルキメデス・オウルは口を開いた。
「お前、元人間なんだってな」
「まあね」
否定せずに肯定する。
「ならそんなお前に
「……」
目を細める俺に、フクロウはせせら笑いを一つ漏らすと、用件は済んだとばかりに飛び立っていった。
みるみる小さくなっていくフクロウを見つめながら、俺はしばし黙考した。
人間が近くにいる。それも二人。
その人間がどんな種類の人間かは分からないが、今の俺にとってこれほど有り難い情報はない。直ちに向かうべきだろう。
だがあの意地悪なフクロウがタダでそんな情報を教えるかとも思う。……そういえば、ここから北に少し行ったところに、ハカセ・ゴブリンが住処としているごみ溜めがあった事に思い至った。
「……」
酷く嫌な予感がした。虫の知らせ、あるいは獣の直観とでもいえばいいのか。
別にハカセ・ゴブリンとはこれといって親しい訳ではない。あの日以来彼から声をかけられた事はあってもこちらから会いに行ったことは一度としてない。
しかし……。
「まあ、特にやることもないしね」
杞憂であればそれでよし。仮に杞憂でないのならその時は、……まあ、なるようになれ、だ。いずれにせよ、第一は自分の命。これは絶対に変えるつもりはない。
俺は北へと歩を進めた。期待はせず、でも少しの希望を持ちながら。
「ゴブブノブー!」
あと少しでハカセ・ゴブリンの住処にたどり着くというところであった。前方から知った声が聞こえた。悲鳴である。その後に続く、下卑た笑い声が二つ。
「―――」
はっとなって思わず口元に手をやった。悪い予感ほどよく当たるというが、こうまでドンピシャだと笑えない。俺は極力音を立てないように細心の注意を払いながら急ぎ足で駆ける。
見つかってはならない。見つかれば、おそらく自分は今度こそ死ぬだろう。それも目も当てられないような、無残な形で。
森の中を走り抜け、徐々に近づく声。悲鳴は次第に大きくなっていく。
「ヤメロー! ヤメるんじゃあー!」
「「ワハハハハハ!」」
近づくにつれ老人の悲鳴と、下手人と思わしき二人組の声も鮮明に聞こえるようになってきた。若い、おそらく成人も超えていないような子供の声だ。
「ッンンっと!」
危うく渦中に突っ込みそうになった体に急ブレーキをかけ、咄嗟に目の前の茂みに体を隠し、息を整え、そっと覗き見る。
「アッハハ! ~~~~~~~~~!」
「プハハ! ~~~~~~!」
「ゴブブアバーッ!」
視界に飛び込んできた光景はおおむね予想通りの光景だった。ゴミ溜めの中に這いつくばり、散乱した物をかき集めるハカセ・ゴブリンと、そのさまをあざ笑いながら甚振る二人の『冒険者』の姿。
一人は革鎧の軽装備の少年。腰には恐ろしいロングロードを収めており、しかし抜く様子はなさそうである。もう一人は黒いローブを身に着けたメガネの少年。その手に持つ木製の長杖でハカセ・ゴブリンをつつきまわしてご満悦だ。
両者はともに新品と思わしき肩から掛けるタイプのバックを持っており、そのアトモスフィアと相まって、まるで高校に入学したての学生が学生鞄を中学生に見せびらかして己を誇示しているかのようだった。
「ゴブーッ! ゴブーッ!」
ハカセ・ゴブリンはこの二人の狼藉者への糾弾と懇願の言葉を投げかけるが、少年たちはこの老ゴブリンの奇行が得たく気に入ったらしく、かわるがわる突き回しては下卑た笑い声をあげた。
胸糞の悪くなる光景だが、俺がその只中へと飛び込んでいくことはなかった。理不尽など、この森の中では日常茶飯の出来事だったし、何よりも今の自分はただのゴブリンでしかないのだ。間に割って入ったところであの物騒なロングソードでたたき割られるのがオチだ。
俺にこの状況を覆す手立てはない。俺にできることは、知人が嬲られるのを指をくわえて眺めていることだけだ。
「ゴブゴブ……」
「~~~……~~~~~~?」
嬲られ続け反応が弱くなってきたハカセ・ゴブリンをつま先で仰向けにしながら、剣士の少年は無感動に言った。彼らの言葉は分からぬが、その表情や目つきから『冷め』を感じ取った。
冷めきった、無感動な目。それまで楽し気に羽を足をちぎった後の羽虫を見るようなそれ。
「―――」
背筋に冷たいものが走る。体中から嫌な汗が止まらない。
「~~~。~~~~~~?」
「ゴブ……ゴブ……」
うわごとめいてヒトと同じ領域へと至る自身の夢をつぶやくハカセ・ゴブリンへ杖の先端を向けながら、メガネの少年は相棒へと聞いた。
「~~~、~~~、~~~~~~」
「~~~……『~~~』!」
あっという間の出来事だった。俺が「あっ」と言うあいだに、杖先から放たれた火の塊がハカセ・ゴブリンの胸のど真ん中にあたり、老いたゴブリンはたちまちのうちに火だるまとなった。
「ゴブバババーッ!?」
燃え上がる炎に包まれながら、ハカセ・ゴブリンは身体を左右によじり断末魔の叫び声を上げた。しかし、彼らはそんなことはお構い無しで、炎に包まれ続ける老人をあざ笑うだけだった。
数秒後、超自然の火は不意に消え失せ、残されたのは黒焦げになったかつてハカセ・ゴブリンと呼ばれていた骸だけ。
「~~~~~~」
「~~~~~~。~~~」
二人の少年は興味を失ったようにその場を後にし、その場には静寂が訪れた。
「──────」
俺は、彼らが去った後も、しばらく間動くことができなかった。 怒りや憎しみではない。ただただ、深い深い絶望感が心を支配していた
ハカセ・ゴブリンの最期。あれは俺だ。俺が迎える最期だった。彼の死を通じて俺が学んだのは、俺はただのゴブリンでしかないこと。そしてこのままいけば遅かれ早かれこうなるという確信であった。
漠然と感じていた想像がこうして現実として現れたときの感覚は、筆舌に尽くしがたいものがある。
胃の中がひっくり返り、血液が逆流するかのような感覚。視界がブレる。強烈な吐き気に襲われてたまらず膝をつく。
「ッ゛ェ……」
ハカセ・ゴブリンは俺の未来だ。あの死は俺の終わりだ。
もし俺があの場に飛び込んでいたら? 結果は見えている。俺も同じ運命を辿っていただろう。ゴミ溜めの中で燃やされるか、刺し殺されるか、どちらにせよ無残な最期を迎えていたに違いない。
それで終わりだ。顧みる者はいない。
だから俺のやったことは何ら間違ってはいない。勝算の無い戦いに身を投じるものは愚か者だけだ。嵐の前に立ちふさがったところで受け止められるわけもなく、ただバラバラに引き裂かれるだけだ。それは勇気ではなく蛮勇というのだ。
ひとしきり自己弁護を終えると、俺はゴミ溜めの中へと入ってゆき、その中からなんとか錆びた子供用スコップを取り出すと、土に突き立て、掘り返した。
バキンと音を立ててスコップが根元から折れた。
「~~~……」
天を仰ぎ、溜息を吐く。それから壊れたスコップをゴミ溜めの中へと放ると、素手で土を掘り返した。
無心で土を掘る。今はとにかく何かに没頭していたかった。余計なことを考えたくなかった。爪と指との間から血が滲んだが、構わなかった。今はこの痛みすらもがありがたい。俺は生きているのだ。
太陽が真上へと至るころ、俺の目の前にはゴブリン程度が入るには十分な大きさの穴が開いていた。額の汗をぬぐいながら一時天を見上げ、頭上の太陽を目を細めながら仰ぎ見る。奇しくもそれはハカセ・ゴブリンに初めて会いに行った時のそれと酷似していた。
目を閉じれば、あの瞬間の光景がありありと浮かんできた。時間にすればほんの一週間程度前の出来事なのに、遠い昔のように思える。あの頃の彼は、自分がこんな末路を迎えるなど予想していただろうか。
目を開けると、俺はハカセ・ゴブリンの遺体の前へと歩を進める。遺体は惨いありさまだった。全身黒焦げになっており、手足や胴体、そして顔面までもがひどく炭化している。特に酷いのは直撃した胴部分で、完全に炭化した一部が崩壊し、崩れた破片が風に乗って散っていった。
火傷によるショック死であったため、とてつもない苦痛だったに違いない。表情は炭化して分からないが、途方もない無念と底知れぬ憤怒を感じずにはいられない。
ここまで惨たらしい最期を迎える程のことを彼はしたか? 否、そんな訳がない。彼はただ生きていた。不相応な夢を抱いてはいた。そのために盗みを働いたこともあったろう。だが、ここまでされる謂れはない。断じて。そのはずだ。
そうでなきゃ、あんまりにも哀れじゃないか。
これ以上損傷しないように細心の注意を払って、俺は遺体を担ぎ上げた。その時の軽さに俺は驚愕を禁じえなかった。魂の抜けた体とはこんなにも軽いものなのかと。同時に俺は魂の重さをも実感していた。
ゆっくりと墓穴の前まで歩き、滑り落ちないように緩慢な動作で穴の中へと入ってゆく。そしてその真ん中にハカセ・ゴブリンの体を横たえる。穴から這い上がると、今度は土をかぶせてゆく。
土をかぶせるごとにハカセ・ゴブリンが消えてゆく。この森から消えてゆく。この森の住民たちの中から消えてゆく。
土をかぶせ終えた後、最後に墓石代わりの石を数個置く。ハカセ・ゴブリンの死体は森の中に埋もれ、元通りの風景へと戻った。ハカセ・ゴブリンは死んだ。これで俺が忘れてしまえば、彼の存在は完全に抹消されるだろう。そしてそれは俺の末路でもある。
他人事ではない。俺はこの死を決して忘れてはならない。他の者は刹那に忘れてゆくだろうが、俺は忘れる訳にはいかないのだ。
身をもって死と忘却の恐ろしさを教えてくれた老いたゴブリンへ手を合わせ祈りをささげる。せめて死後、これ以上苦しむことのない貴方に幸いあれ。
自己満足の極み。しかし、ああだからこそ、これこそがヒトの尊厳ではないのか? ヒトの意思を持つ者のとしての最低限の義務ではないのか? そう思えてならなかった。
閉じていた眼を開け、墓を視界に収める。傍から見れば、これを墓と思うものはおるまい。けれど、俺にとって、それは確かに墓なのだ。
最後に一礼し、俺はその場を後にした。