背中に圧し掛かる重みを感じながら森の中を進んでゆく。
視界の端でアオイロリスが木の実を取ろうとして体を伸ばし、その横から勢いよく飛んできたブルーバードが哀れなアオイロリスの体をかっさらっていった。
悲鳴が地平線の彼方へと消えてゆく。甲高い声が森にこだまし、虫と鳥獣が奏でる合唱にかき消される。
今日も何も変わり映えのしない、誰かが不幸になって誰かが幸福になる平和な森の日常だった。きっと明日も同じだろう。来年も再来年も、ずっとずっと変わらない。俺たちゴブリンに待ち受ける未来は、この繰り返される日常と変わりはしない。
だけど、もしも可能性があるのならば。もしも本当にゴブリンがヒトになれると言うのならば。俺はその夢を抱いて歩き続けなければならない。あの老人が今際の際までそうしていたように。
しかし改めて思い返すとなんと軽率な行動であったことか。
あのくそったれのフクロウの言葉を真に受けて、ヒトがいると浮かれ調子で物見遊山をしに行って、結果はこのざまだ。
やはり俺は心のどこかで自分はほかのゴブリンと違うと思い込んでいたのではないか。ひょっこり顔を出しても攻撃されず、昔の調子で話しかけられるとでも思ったか。
そういう面では、ハカセ・ゴブリンの死は一つの契機となった。酷い話で、最低な話であるが、俺はここまでのことが起きてようやく現実を飲み込めるようになった。すなわち俺はゴブリンで、ヒトに気軽に命を狙われる存在であるという現実に。
「―――ッ」
カサっという音がして思考は強制的に中断された。白く消し飛んだ思考とは裏腹に、体は反射的に動いた。音を立てずに素早く動き、木の幹に体を隠す。
それとほぼ同タイミングでブルードックが草葉の陰からぬっと顔を出した。
「ガフッ! ガフッ!」
ブルードックはしきりに鼻を鳴らして周囲を伺った。
俺はただじっと息を殺して時間が過ぎるのを待った。ブルードックは警戒するように首を振り、嗅覚や視力をフル活用して探している様子だ。
数十秒後、ブルードックは再び草葉の中へと身を隠した。それと同時に俺も木の陰から身を引き出す。安堵感が心を支配するが、まだ油断はできない。卑しいイヌは臭いに敏感だ。少しでも近づけばすぐに見つかってしまうだろう。
俺は足早にその場を離れた。
「うわっ!?」
「ギャッ!?」
しかし慌てていたもんだから、足元への注意が疎かになっていた。危うく足元を横切っていたアオイロリスを踏んずけてしまいそうになった。
「気を付けろこの腐れゴブリンが!」
甲高い声でアオイロリスは罵り、振り向くことなく忙しなく走り去っていった。そして狙いすましたブルードックのアンブッシュがアオイロリスをかっさらった。俺は慌てて茂みの中へと体を投げ込んだ。
「た、助け、アバーッ!?」
「ンンーフフ!」
命乞いもむなしくアオイロリスはブルードックの大顎にバキバキと噛み砕かれて絶命した。当のブルードックは新鮮な血肉の味に浸るように目を閉じてご満悦だ。この様子じゃアオイロリスの命乞いを認識すらしていないだろう。
今日も森の中では様々な生き物たちが命を削って暮らしている。どんな生き物だって死は避けられない。それはゴブリンだってヒトだって同じことだ。
なんとも無情な世界だ。
嚙み砕かれた拍子に飛散った血の臭いが風に乗ってこっちまで届いた。ごまかすために道中で見つけたゴブの実を口に放り込む。凄まじい苦みが口の中に広がり、浮ついた気持ちが少しだけ落ち着いた。
しばらくの間余韻に浸っていたブルードックは、やがて酩酊が覚めたのか、口元に血をべったりと張り付かせたまま、どこかへと歩き去っていった。
「……ふぅ、さて」
身を潜めていた茂みから体を引っ張り出し、改めて前を向く。
俺は今、森の中を当てもなく彷徨っていた。
気持ちが浮ついている。墓を作り、拝み、手向けの言葉を送って気持ちに整理を付けたつもりでいた。しかし脆弱な俺の精神は、そのプロセスを通してなお未だに引っ掛かりを感じていた。
所詮は親しくもない他人。その上醜いゴブリンだ。仲良しこよしをするなんて馬鹿げている。そう思っていた。今までは。
では今は?
彼の死を通して得た自分はゴブリンでしかないという、覆しようのない現実。自分が人間であったという事実がはるか過去の出来事であるという目を覆いたくなる真実。
強烈な事実を受け入れた衝撃が、今なお俺の精神を揺らがせている。恐らくそれは、俺がヒトを求め続けている限り、永遠と続くのであろう。
と、そのときだ。
「ヒ、ヒィ~」
「うわっ!?」
ドン、と正面から何かしらの質量がぶつかり、俺はしりもちをついて転倒した。
「ギャッ!?」
ぶつかってきた何某も動揺にしりもちをつく、どころか、よほど急いでいたのか、ひっくり返って手足をばたつかせている始末であった。
「ど、どうしたアンタ? 何をそんなに慌てているんだ?」
「こ、このバカヤロー! どこ目ぇくっつけてやがる!」
ゴブリンだった。そいつは酷く慌てた様子で、しきりに後方を仰ぎ見つつ、こちらに顔を向けて押し殺した声で怒鳴った。眼は血走り、口の端から泡が飛んだ。生命の危機に陥った者特有の、鬼気迫る表情だった。
「あわあわあわ」
まくし立てるゴブリンの足元を、これまた慌てた様子のアオウサギが尻をまくって駆け抜けてゆく。
事態が飲み込めずにいると、ゴブリンはさらに言葉を重ねた。
「お前も見ただろ! アイツらが来たんだ!」
「あいつ?」
オウム返しする俺に、ゴブリンは信じられない間抜けを見たとでもいうかのように目を剥いた。
「くそったれめ、とんだ間抜けだ! お前に構っている暇はねえ! 退け!」
「うわっ」
ゴブリンは俺をドンと押しのけ、手足を滅茶苦茶に振り回して走り去っていった。その背中を、嬉々とした表情でヒノコノキツネが追いかけていった。
「―――いったい、なにが」
「~、~~~~~~!」
俺の疑問に答えるように、そいつらは木々の奥から姿を現した。
「~! ~~~~~~!」
「~、『~~~』~~~~~~!」
年若い人間二人が、自らの得物を高々と掲げ、ゴブリンを、俺を、単なる獲物としてしか見ていない目つきで見下ろしていた。
「──―」
強烈なショックが胸を貫いたが、差し迫った生命の危機がそれを上塗りした。
「よ、よせ、やめろよアンタら!」
「あっはは、~~~? ~~~~~~?」
無意識のうちに両手を突き出し、腰を後ろへ引いて後退りながら俺は彼らに訴えかけた。しかし、返ってきた返答は無情なものであった。
「~~~~~~、~~~~~~」
「~~~。~~~~~~」
「あわあわあわ」
剣士の少年が相棒のローブ姿の少年へ何事か悪態をつき、それから迷いない足取りで俺のほうへ向かってきた。……得物のロングソードの切っ先を俺に付きつけながらまっすぐに。
身体中が強張り、心臓がバクバクとうるさい音を立てる。呼吸が荒くなり、口の中がカラカラに渇く。視界が狭まり、世界がスローモーションに感じられた。
「おりゃ!」
素人目から見ても素人と分かる動作で振り下ろされるロングソード。しかし直撃は免れた。何故ならば体は無意識のうちに素早く後方に跳んで回避行動を取ったからだ。
「ぷっ~~~~~~」
「~~~。~~~~~~」
後方からのヤジめいた言葉に剣士の少年は悪態をつき、羞恥のためか乱暴な手つきで伸びた腕を引き戻し、再び俺へと目標を定めて前進する。
「~~~!」
「ちょっと!」
袈裟懸けに振り下ろされる刃を半身になってよけつつ叫ぶ。
「~~~!」
「アンタ!」
返す刀で繰り出される逆袈裟の斬撃を上体を逸らして避け、語り掛ける。
「~~~!」
「ヤメテ!」
懇願を続けるが、少年は俺が避ければ避けるほど躍起になって攻撃を当てようと追いすがった。
彼の攻撃は初めから精度の低いものであったが、振るえば振るうほどその精度は落ちてゆき、しまいには初めてバッティングセンターへ行った時の過去の自分を想起させるほどお粗末なものとなっていた。
「ハアーッ! ハアーッ!」
避け続けること数分。徐々に息が上がり始めた少年は、その疲労を誤魔化すように歯を食いしばった。
「~、~~~~~~。~~~~~~?」
「~~~! ~~~~~~!」
後方へ怒鳴り返し、少年は羞恥と怒りで真っ赤に染まった顔で俺を睨みつけてきた。
しかし残念ながら、剣士の少年は自身の状況を正確に把握できていなかった。彼の視界に映るのは、ロングソードを持った自分と対峙するゴブリンだけである。
……そう、ゴブリンだけ。ちょっと角の生えた、ただの、かつて人だったゴブリン。少なくとも実戦を何度か経験し、強敵と戦うための心構えが出来ているだけのゴブリンが。
そんなゴブリンにとって、警戒が薄く、疲労している、未熟な個体は、存外に脅威足りえなかった。
「~~~!」
しびれを切らした剣士の少年がロングソードを大上段に構えながら突撃してきた。
(ここだ!)
俺はそこで、今までの受けの姿勢を止め、少年へ向かって駆けだした。
「え!?」
まさか逃げずに向かってくるとは思わなかったのか、一瞬行動が遅れた少年へ、俺は低い下段蹴り、すなわちローキックを繰り出して軸足を蹴った。
「うひゃあ!?」
バランスを崩し、ゆっくりと後方に倒れていく少年。その光景を見ながら、俺は無意識のうちに少年のマウントポジションを奪い、胴体にまたがっていた。そこでふと気が付く。
(やべえ、ここからどうしよう!?)
俺は目を白黒させてしきりに周囲を見渡した。この後のことなど全く考えていなかった。
前提として俺にはヒトを傷つける気が毛頭なかった。だって、当り前じゃないか。
「~~~~~~!」
「フギャ!?」
当然、自分の腹の上にまたがるゴブリンを許容する人間はいない。剣士の少年はそのままの体勢で俺の横っ面を、固く握った拳で殴りつけてきた。
殴られた衝撃で視界が瞬き、星がチラついた。
「ウ、ウワーッ!」
「ふげっ!?」
俺は反射的に殴り返していた。
「あぁ、ご、ゴメン!」
「~~~!」
我に返った俺は謝罪をするが、怒り狂った少年は強引に俺からマウントポジションを奪い取り、殴りつけてきた。
「ウワーッ!」
さっきよりも強い衝撃が視界を一瞬黒に染め上げ、星が飛び散った。
気が付けば俺は少年から強引にマウントポジションを奪い取っており、その顔面に拳を打ち付けた。
「~~~!」
「ウワーッ!」
「~~~!」
「ウワーッ!」
「~~~!」
「ウワーッ!」
「~~~!」
「ウワーッ!」
「~~~!」
「ウワーッ!」
そして始まる泥仕合と言うべき激しい乱闘が始まった。互いに殴り、蹴り、投げ飛ばし合う。勝敗など二の次であった。目の前の相手を地面に倒すことだけに集中していた。
「あわあわあわ」
ローブ姿の少年のうろたえる声が、はるか遠くで聞こえた。俺は全く状況が理解できていないまま、ただ身を守るためだけに拳をふるった。
結局、戦いは両者共に立ち上がれなくなるほどの長期戦となった。最後はお互い力尽き、へたり込むように倒れこんだのであった。
息も絶え絶えの俺達は、向かい合いながら見つめ合った。
少年のあどけなさが残る顔は見るも無残に膨れ上がり、赤黒い風船のようだった。垂れ落ちる鼻血がなんとも痛々しい。ていうか俺も痛い。痛くてたまらない。視界だって腫れあがった瞼のせいで碌に見えたもんじゃない。
「フガフガフガ……」
倍以上に膨らんだ唇を懸命に動かし、剣士の少年が何事か言った。耳鳴りの酷い耳を澄まし、頑張って聞き取ったが、どうやら少年は「ポテトチップス」と言ったようだった。
「~~~っ!」
「ふがっ!?」
唐突に衝撃を感じ、俺はあおむけにひっくり返された。
「~~~!?!?!?」
「~~~~~~!」
手足をばたつかせて混乱していると、視界の端でローブ姿の少年が地面にかがみこみ、どうやら剣士の少年に肩を貸して立ち上がらせているようだった。
それから二人はこちらを見もせずに這う這うの体で逃げ去っていった。
あとに残されたのは、顔を風船めいて膨らませた変なゴブリンと、殴り合いの拍子に投げ出されて中身が散乱した剣士の少年の鞄だけである。
「……」
俺は鞄へと顔を向け、そして、白目を剝いて気絶した。