「──────はっ!?」
唐突に目が覚めた。俺はがばっと起き上がり空を見た。
空には朝陽が昇っており、それはすなわち丸一日もの間眠りこけていたことの証左であった。
慌てて周囲を見回した。場所は俺が気絶していたところから変わっておらず、つまりそれは誰にも発見されず、この場所で安全に気絶できていたことの証であった。
運の良い奴。
溜息を吐き、それから口の端にしびれる痛みが走り、呻いた。それで顔を顰めるわけで、それでまた痛みが走るもんだから、痛みが引くまでその場で七転八倒する羽目になった。
ようやく落ち着きを取り戻した俺は、自分の格好を確認した。血まみれだった上に土埃にまみれ、あちこちあざだらけだ。膨らんでいた顔面も腫れが引いているものの痛みは引いておらず、今もか細く痛みの信号を律義に伝えてきている。
(……)
ふと、昨日の出来事がフラッシュバックした。少年達へ行った通じるはずのない希い。案の定言葉は通じず、当然のように行われた暴力の行使。それに対する反射的に行った抵抗。技術もへったくれもない泥仕合と化した乱闘。
思い返せば思い返すほど、背筋に冷たいものが走った。何故あんなことをしてしまったのだろう。
たまたま出会ったのが増長した素人であったからよかったものの、仮にかつて対峙した明らかにベテランと思わしき者たちだったらどうなっていた?
考えるまでもなく出会った瞬間に俺の胴と首は泣き別れをしていたに違いない。
あの時俺がすべきことは疑問に足を止めるのではなく、他の獣どもに倣って回れ右して逃げ去るべきだったのだ。
なんという軽率! なんという危機管理能力の低さ! 獣としてこの森で生きていくのならば、俺は疑問など棚に上げて脇目も振らずに逃走してしかるべきなのだ。
本当に、本当に、俺は、運が良かったのだ。
「ハア~~~~~~……」
腹の底から息を吐く。深く、深く。絞り出すように長々と。口の端が傷みを発したが、それどころではない。死を退けた重みは、痛み程度で止めきれはしない。
心臓がうるさいくらいにバクバクと鼓動を刻む。体中に冷汗が流れ、青あざを濡らし、鈍い痛みが全身を駆け巡る。しかし俺はそれを拭う事すらできずに、ただ苦しいほどに暴れのたくる心臓がある胸に手を置き、呼吸を荒げた。
『もしかしたら死んでいたかもしれない』
そのことにようやく思い至った俺の心と体は、遅ればせながらようやく死の恐怖というものの絶対的恐怖を味わっていた。底なしの闇に落ちていくかのようだ。手足の感覚が消え失せ、震えが止まらない。
暗黒の虚無に捕らわれまいと、俺は体中から発せられる痛みの信号に集中した。
痛い。痛くてたまらない。怖い。恐ろしい。死とは恐怖である。無限の闇に包まれたが如き恐怖は、想像を絶する。しかし俺には痛みがある。痛いということは、それすなわち生きているということの証明だ。死の恐怖にとらわれたとて、俺はまだ生きているのだ。
息を荒げながら自分に言い聞かせることたっぷり一時間ほどか。あるいはもっと時間がかかったかもしれないし、その実一秒程度しかたっていないのかもしれない。
ともかく俺は落ち着きを取り戻した。いつの間にか痛みはすっかり引いていた。額の汗をぬぐい去り、立ち上がろうとして、ふと視界に入った物に目を留めた。
「ん?」
それは剣士の少年が落としていった新品同然の鞄であった。乱闘の拍子に放り出されて開いてしまったのか中身が散乱し、用途不明な薄緑色の液体が満たされた小瓶や、何らかの書物が開かれた状態で落っこちていた。
そうだ。書物。本だ。人間の、本。
「本!」
俺は一も二もなく本に飛びつき、開かれたページを読んだ。そして落胆した。
「──────読めない」
頭をひねるが読み方がさっぱり分からない。異世界言語か何かだろうか。いくつか知っている単語を探してみるが、一致するものはなかった。
当り前である。俺はこの世界の文明の知識など何一つとして持っていないのだから、読める訳がない。
意気消沈した俺は、他の物品に目を向けた。今度は小瓶である。中身は薄緑色の液体だ。ラベルに何やら文字が書かれているが、もちろん読むことはできない。鼻を近付けて匂いを嗅いでみる。
「うげっ」
なんだかむかむかする匂いだった。森の中ならばたいていこういう不快臭がした場合、十中八九腐ったものか、あるいはマーキング用途の糞の山であったりする。
不快な臭いは危険信号の合図だ。要するに良くないものを識別する最たるものが臭いだった。
ではこれは何のためのものなのだろうか? 俺はとっくりと考えたみた。
彼らは見るからにピカピカのド新人だ。ならばそんなド新人が、用途不明なものを持ち歩くだろうか? 新人ならば大抵は新人が持つ物を持っているはずだ。では新人が持つ物とは何だろうか?
武器、防具は言わずもがな。あとは迷った時のコンパス(がこの世界にあるかどうかわからない。少なくともこの鞄の中にはそんなものは入っていなかった)、森の中なら虫よけも必須だろう。ならこれは虫よけの類か?
……考えても埒が明かない。俺は小瓶の蓋を開け、今度は直に臭いを嗅いでみることにした。
「うげっ!?」
途端に鼻腔を突く不快極まりない強烈な刺激臭。あまりの強さに思わず手放しそうになった。良く手放さなかったものだと自分をほめてやりたい気分だ。
「ヴゥ゛~……!」
本当に何なんだこれは。こんなものが虫よけなのか? いや、逆に虫を呼び寄せる効果があるのだろうか?
理解不能な代物を前に再び頭をひねるが、答えは出ない。結局俺は諦めて小瓶を元通りにした。触らぬ神に祟りなし、だ。同じ小瓶がまだ四つもあったが、触れるつもりはなかった。
他に入っていたのはナイフ。ピカピカの新品だ。恐らくは解体用か、あるいは藪を切り開いたりするものだろう。それから干し肉が二個と水の入った水筒。あとはまたまた用途不明な白い球体だった。
恐る恐る手に取ってみる。サイズとしては精々が野球ボールと同程度か少し大きいくらい。見かけに反してずっしりと重い。比較対象はボーリングの玉だろうか。それくらいの重さがあった。
おっかなびっくりに上げ下げしながら、白い球体をじろじろ眺めた。変化なし。顔を近づけてクンクンと臭いをかぐ。先の薬品ほどではないが、なんとなく嫌な感じの臭いがした。それからなんというか、こう、良く分からない感覚器官のようなものが
この感覚を、俺は知っている気がした。というか、直近で感じたことがある。うんうん頭をひねって記憶を引きずり出してみると、それはあのローブ姿の少年が魔法を行使した時に同じようなモヤモヤを感じたのを思い出した。
「ということは、これは魔力というやつか」
口に出して、それから納得がいった。ともすればこれは魔力を帯びた道具。いわゆる魔道具というものかもしれない。ハカセ・ゴブリンが口にしていた言葉が脳裏に過る。
曰く、魔道具とは人間が作り出した道具の一つであり、魔力を注ぎ込むことによって火を放ったり、光を放ったりするそうだ。彼は終ぞ本物の魔道具を拝むことができなかったが、どういう縁か、俺はその実物と出会うことができたようだ。
「しかし……」
問題はこれを使う知識と技術が自分にないということだ。魔道具を使用するには相応の教育が必要であろう。そんなものを受けた記憶はない。無知ほど怖いものはない。取り扱いを誤れば爆発するかもしれないし、人を傷つけるかもしれない。
とりあえず頭の片隅に入れておこうと、俺は白い球体を再び鞄へと戻そうとした。しかしふとした拍子に地面に落っことしてしまった。その瞬間、ボン、という音とともに白い球体が膨張した。
「うひゃあ!?」
俺は驚きのあまりひっくり返ってしまった。目を白黒させて上半身を起こすと、そこには小さめの三角形上の物体、すなわちテント、としか形容できない物体が出現していた。
「なんてこった!」
俺は驚愕と感心で言葉を失った。こんなすごいものをこの世界の人々は作り出すことができるのかと、俺は畏怖と尊敬を感じずにはいられなかった。
「……しかし戻し方が分からんぞ」
感動もそこそこに、俺はテントを前にして途方に暮れた。どうやって元に戻すのだろうか? 魔道具という以上何らかの魔力的な操作が必要な気がするが、さっぱり分からない。
色々試してみたが結局無駄だった。時間ばかりが過ぎ去っていく。辺りは暗くなり始めており、一刻も早く住処へ戻らねばならない。テントを放置して行くわけにもいかず、俺は頭をひねり続けることにした。
陽が完全に落ち切る寸前。ふとある考えが浮かんだ。そうだ、このテントの中心部分に描かれてあるあからさまな魔法陣に触れてみよう。というか、これしか手がない。
勇気を出して魔法陣に触れると、またしてもボン、と音が響き渡り、テントが縮んで消失した。
「はえ……」
拍子抜けだった。肩透かしもいいところだった。さすがに感動も冷めてしまったほどだ。しかし、今回は戻せた。成功体験は重要だ。次からは大丈夫だろう。
そうこうしているうちに陽は完全に落ちてしまい、世界に夜の帳が下がった。途端に聞こえはじめる血なまぐさいやり取り。
「やべ……」
今から戻っている暇はない。仮に戻ったところで、道中の危険は計り知れないものとなるだろう。
ならば丁度良い。せっかく夜を越す道具があるのだ。ありがたく使わせていただろう。
「悪いね、はじめて使われるのが人間じゃなくてさ」
再び白い球体を手に取りながら笑いかけ、それから地面へと放る。ぼん、と音を立てて何事もなくテントが生成された。
俺は鞄をひっつかみ、テントの中へと素早く身を滑らせる。中は人間からすれば狭く、成人男性が入るのがせいぜいだろう。だが、ゴブリンならば十分なサイズである。むしろ広すぎるくらいだ。
テントの入り口から頭だけを出し、空を眺める。相変わらず無限の星々が瞬く美しい夜空だった。
ふと思いつき、テントの中へと引っ込んで鞄をあさり、三冊あるうちの一冊をひっつかみ、またぞろテントから顔を出し、ぺらぺらと本のページをめくった。
異なる文化の異なる文字が無数に羅列され、規則正しく並んでいる。毎ページに挿絵のようなものが書かれており、それで漸くこの本が武術の指南書であることを理解できた。
理解できたこと。それがたまらなくうれしかった。まだ一文字たりとも理解来ていない中で、理解できたことが一つ増えた。それはつまり、この世界について、一つ解き明かしたに等しい。
分からない。けど分かる。
暗闇の中で手探りだった日々に、漸く光明が差し込んだ気がした。
全く単純なことだと苦笑いを浮かべる。つい少し前に命の危機があったというのに、今ではそのことも忘れ無邪気に喜んでいる。
なるほど、そういう意味では、俺は確かにゴブリンなのだ。
降って湧いた希望が引っ掛かりを溶かしてくれたようで、今まで拒絶し、目を背けていた内容がすとんと腑に落ちた。
肩にのしかかる疲労や未だ響く鈍い痛みすらも忘れて、理解できない本をめくり続けるのだった。