社会神10年目の俺と、社会神2年目の狐。 作:宮原ワタル
働きたくない。
心の底から、そう思う。
朝起きて、満員電車に揺られて、上司から仕事を大量に振られて、俺いる?という会議に出て。
帰る頃には日付が変わっていて、コンビニ飯を胃に流し込んでシャワーを浴びれば、それで一日が終わる。
そんな生活を繰り返すたびに、「このまま電車止まんねぇかな」とか、「明日隕石落ちねぇかな」とか。
叶うはずもない願望ばかりが、頭に浮かんできた。
しかし、社会に属する大人として、労働は義務だった。
そもそもとして。何より、飯を食うにも、部屋に住むにも、金がいる。生きるだけで金が飛ぶのだ。
そして金を得るには、働くしかない。
仕方無いこととは言え、遺憾である。
──そんな中、俺は死んだ。
過労死だったのか、事故死だったのか。コンビニの袋をぶら下げながら、家までの道を歩いていたところまでは覚えているのだが、最後の死因はよく分からない。
ただ、1つだけ。
確かなことがある。
〝仕事なんかのために、人生を潰すべきではない〟。
だからこそ、心に決めたのだ。
今度の人生では、仕事に人生を食われない。
のんびり昼寝して、飯を食って、誰にも急かされず生きる。
そんな人生を絶対に手に入れる。
だから来世では、せめて定時で帰れる会社に就職するぞ、と。
***
**
*
まだ、冬の寒さがわずかに残る、やわらかな陽光の午後。大きな桜の木の下。
地面には、人が踏みしめるたびにかすかな音を立てる、春色の絨毯が広がっていた。
そんな、〝いかにも重要イベントが起きそうな場所〟で、卒業式を終えたばかりの高校生の男女が向き合っている。
「その、まぁ……なんだ。……付き合って、くれないか。恋人として」
「……うん!」
少年の言葉に、少女は満面の笑みとハグで応えた。
緊張でわずかに震えていた彼の身体は、その一言でふっとほどけていく。
風に煽られた長い髪がふわりと舞い上がり、重なった二人の顔を外界からやんわりと遮る。
まるで、この瞬間だけ切り取られたかのように、周囲の音が遠のいた。
「なんか、思っていたより恥ずかしいな。これ」
「でも……とっても、温かい」
ひらひらと舞う桜の花弁が、2人だけの世界を一層鮮やかに彩る。
まるで、ラブコメ作品のクライマックスシーンのようだった。
この時間を、未来永劫忘れない。2人の胸中を占めるのは、そんな確信にも似た感動だろうか。
「あぁ~……やっっっっっと今月のノルマ達成だぁ……」
そんな、感動的な光景のすぐ脇で。
雰囲気を台無しにする存在が、1つ──というか、俺。
本日6つ目の〝イベント〟を無事に終え、解放感に身を任せるように、その場で桜の絨毯に寝転がる。
「帰りてぇ……」
もちろん、オフィスではなく、自分の家に。
喉から粒の混じった声が漏れた。
正直に言えば、このまま直帰して定時までここで寝ていたい。許されるなら、迷わずそうしている。
しかし残念ながら、それは難しい。成果を出して一定の評価を出さないと、給料が減るのだ。
悲しい現実に思わず言葉にならない声をあげてしまう。
傍から見れば、最悪の空気の読み方だろう。自分が彼らの立場なら、きっと文句を言っているに違いない。
しかし彼らは、まるでこちらが見えていないかのように、見つめ合ったまま笑顔を崩さない。
これは、恋人になった瞬間に周りが見えなくなってしまう、いわゆるバカップル現象……というわけでは当然なく。
本当に、彼ら……いや、
同じ桜の木の下で寝転んでいるはずなのに、この身体には花弁ひとつ触れず、枝の影すら擦り抜けて地面に映る。
その代わりに、輪郭は曖昧で、淡い光の粒子が静かにこぼれ落ちている。風に乗るでもなく、重力に従うでもなく、ただそこに“在る”という奇妙な存在感だけがあった。
もし地球の人間がこの姿を見たなら、幽霊とか精霊とか、そんな風に呼ぶかもしれない。
傍から見れば、どうしようもなく神秘的な存在である。
「あー……定時まだかよ」
ただ、どれだけ見た目が神秘的であろうとも、俺が〝働いて〟いる事実に変わりはない。
腕時計に目をやると、終業まであと40分ほど。
戻れば雑務の1つや2つ、簡単に飛んでくるだろう。
しぶしぶ身体を起こしかけて──やめた。
面倒くさい、という感情が、思考よりも先に身体を押し戻す。
「……寝るか」
上司には、思ってたよりも進行に手間取ってしまったとか言っておけば良い。
視界いっぱいに広がる薄桃色をぼんやりと眺めながら、再び身を沈める。
意識が緩やかにほどけていく感覚がし始めた。
「タイヨー先輩!まさかサボってるっすかー!?」
──もうすぐ意識を手放せそうだ、と感じた瞬間。
鼓膜を叩いたのは、場違いなほど元気な少女の声だった。
反射的に片目だけ開け、声のした方へと首を傾ける。
音の発生源に首を傾けると、視界いっぱいに広がったのは、思った通り
柔らかな光を帯びた毛並み。
背中からは、5本の尻尾がゆらゆらと揺れている。
やや吊り上がった目は、鋭さと愛嬌が同居した顔立ちを成立させている。
前脚を伸ばし、後ろ脚を折りたたんでちょこんと座るその姿は、どう見ても、正真正銘〝狐〟だった。
よく見れば、スーツを着ている。
黒のジャケットに、きっちりと上まで止められたボタン。地球の基準で考えると獣の体躯に似つかわしくないはずのそれが、不思議と破綻なく馴染んでいる。
「うーわ出た」
「『うーわ出た』って何すか!ゴースト族じゃないんで喜ばないっすよウチは!」
うがー!と騒ぎながら、狐は勢いよく前脚を振り上げ──そのまま俺の腹へと連打を叩き込んできた。
ズドドドドド、と効果音でも付きそうな勢いで、小刻みに押し込まれる感覚。
「俺ら一応死んではいるじゃん」
「あ、たしかに」
納得するんかい。
そのまま勢いは収まったものの、今度は胃のあたりを深めに押され、流石にそろそろ苦しさが込み上げてくる。
じゃれついてくる狐に呆れた声を出しながら、その前脚を「やめい」と片手で軽く振り払って身体を起こした。
狐は「わっ」と小さく声を上げると、その勢いのまま前脚をばたつかせ、くるりと一回転。毛並みがほどけるように宙へと散り、粒子となって渦を巻き、中心へと収束していく。
一瞬目をすぼめるも、すぐにその光は収まった。
そこに立っていたのは、人の姿をした少女。幼い、とまでは言えないが、
とはいえ、完全に全てが人間の姿ではない。
頭の上にはぴんと立った狐の耳。背後には、先ほどと同じ5本の尻尾が、ゆらゆらと機嫌よさげに揺れている。
耳と尻尾は感情に応じて微妙に動きが変わるため、表情を見るよりも分かりやすかった。
「……で、何の用だ。イネ?」
狐改め、狐の
イネは胸を張り、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「今日の残りのタスク、今からこの世界で進めるんで、手伝ってくださいっす!」
「嫌だけど」
「即拒否!?」
当たり前である。
こちとら、オフィスに戻って業務が増えるのが嫌だったから、ここで定時まで寝ようとしていたのだ。
後輩とは言え、定時前に追加業務を持ってくるなんて、俺からしたら敵以外の何者でもない。
「お前もう大分前に教育期間終わっただろ?ソロでやってくれ」
「たしかにそうっすけど……モスさんから、タイヨー先輩が定時で帰るためにサボりそうになったら教育担当って名目で一緒に仕事させとけって」
「あんのカピバラ上司……」
頭の中に浮かぶのは、白いスーツを着たカピバラの姿。
のんびりとした口調と無表情の裏で、こういう指示だけは的確に飛ばしている。定時で帰りたい俺にとって、天敵みたいな上司だった。
イネはさらに身を乗り出し、キャッキャッと笑う。
「それに、先輩いると仕事早く終わるんすよね!」
「……つまり俺を使って早く退社したいと」
「はい!」
「素直か」
大きな、大きな息を吐く。
肺の中の空気をすべて押し出すような、深いため息だ。
急に黙り込んだ俺を、イネが首をかしげて見上げてくる。
その無防備な仕草に、ほんのわずかだけイラッとした。
視線を合わせたまま、無言で片手を持ち上げる。
そして、そのまま、ぽす、と彼女の頭に手を乗せた。
「……先輩?」
一瞬の静止。
次の瞬間、指先にぐっと力を込める。
「痛だだだだだだ!?パワハラっす!あとセクハラっす!」
「うるせぇ、生意気な狐がハラスメントなんて言う資格は存在しない」
「理不尽っす!?」
ぐりぐりと押し込むたびに、身体と尻尾がばたばたと暴れる。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ声が、ラブコメの舞台に響いていた。
ひとしきり抗議を受け流したあと、手を離す。
「手伝って欲しいなら、せめて前もって共有しろや。
「はいっす……」
イネの耳がしゅん、と垂れる。
尻尾の動きも露骨に弱まり、さっきまでの勢いが嘘みたいにしぼんだ。──かのように見えたのも、つかの間。
「サボろうとしてた先輩も、社会神的にはダメじゃないっすか?」
「………………?」
「『それが何か?』みたいな顔しないでくださいっす!」
自分の頭をさすりながら、えぇ……という表情を浮かべるイネ。
そこで、手伝いをするかしないか、自分の中で折り合いがつく。
ずっと無言なのが気になったのか、イネが顔を覗き込んでくる。
「先輩?」
「手伝う」
「マジっすか!」
イネの耳と尻尾がぶわっと跳ねた。
「やっぱ、先輩は何だかんだ言っても手伝ってくれるんすね~」
「お前を手伝った方が、オフィス戻って仕事振られるよりマシってだけだ」
変わらず視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに答える。
自分でも言い訳じみている気がするが、事実、イネの業務を手伝う方が、雑務を変に振られるよりもマシだった。
「…………男のツンデレは需要無いっすよ?」
「手伝わんぞこら」
「あー!すんませんっす!思わず本音が!」
「本音じゃねーか!」
即座に返すと、イネは耳と尻尾を揺らし、楽しそうに笑う。
その様子に、俺は小さくため息をつくしかなかった。