社会神10年目の俺と、社会神2年目の狐。 作:宮原ワタル
浴室の扉を開けると、シャワーで温まった肌を、ひんやりとした空気が撫でた。
掛けておいたタオルで手早く水気を拭き取り、最低限の下着だけ身に着ける。
そのまま耳をぺたりと寝かせ、タオルで頭と耳の水気を拭き取った。
ブオオオオオオ……
ドライヤーのスイッチを入れ、温風を五本の尻尾へ当てると、水を含んで寝ていた毛並みが、ふわりと起き上がる。
毛の根元までしっかり乾かすように、一本ずつ指を通しながら風を送り込んでいく。
生乾きのまま放っておくと毛並みが悪くなるし、何より気持ち悪い。
とは言え、この作業はすんごく時間がかかるのは結構面倒だ。
自慢じゃないが、ウチの尻尾は結構立派な大きさをしている。
見た目どおり毛量も多く、その一つひとつが水分を吸っているのだからまぁ大変……何より。
「腰重い……」
──水分を含んだ尻尾は、重い。
尻尾が5本になってから既に10年ぐらい経っている筈なのに、未だにこうやってぼやいてしまう。
さっき先輩に「重いって何すか!」なんて文句を言っておいてアレだが、シャワー直後の尻尾は、本当に重いのだ。
幸い、こっちの世界のドライヤーは非常に優秀で、毛に含まれた余計な水分だけを飛ばしてくれる機能がある。おかげで、五本もある尻尾でも10分ほどで乾かせることができた。
最後に軽く櫛を通して毛並みを整えると、黄金色の尻尾はふわりと膨らむ。その輝きには思わず口角が上がり、尻尾を左右へ揺らす。
用済みになったタオルを洗濯機へ放り込もうと蓋を開ける。
当然、そこにはさっき脱いだシャツが、そのまま中に入っている。
「…………うぇ」
先輩に言われた後からはずっと匂いが気になっていたが、シャワーを浴びて一度嗅覚がリセットされた後に嗅ぐと、さらに服に付いた匂いがひどいのがわかる。
洗えるタイプのシャツで良かった……なんて思いながらすぐに洗濯機の電源を入れ、再度ドライヤーの電源を入れ、今度は髪を乾かす。
……と、同時に。
ぐぅ~。
「……おなか、すいたっすね」
お腹から空腹の合図が鳴る。
そういえば朝ご飯まだ食べてないもんな、と思いながら鏡の下に置いてある時計を見ると、自分の部屋へ戻ってから、もう1時間近く経っていることに気づく。
「先輩、寝てないっすよね……?」
余裕でありえる。
与えられた仕事は比較的真面目にこなすし、言ったことは基本守る先輩なのだが、どうにもこうにも極度の定時帰りマンで、休日大好きマンだ。
ウチにシャワーを浴びてこいと言って、その隙に二度寝している可能性だって十分ある。
……まぁ、その時はその時。もう1回叩き起こそう。
***
緩めの私服に着替え、もう一度先輩の部屋へ向かう。
既に朝と昼の間ぐらいの時間で、日の光はすっかり高く昇っていた。
エレベーターで下の階へ降り、先輩の部屋の前に立つ。
ピンポーン
『開いてるぞー』
チャイムを鳴らすと、インターホンから気の抜けた先輩の声が返ってきた。
ドアノブを回して扉を開けた瞬間、ふわりと温かな空気が流れ出てくる。
鼻先をくすぐるのは、香ばしく焼ける匂いと、どこか優しい香り。
服にまとわりついていた酒場の匂いとは正反対で、思わずお腹が反応してしまうような香りだった。
「靴は脱いでから上がれよー」
「あ、失礼しましたっす」
この社員寮には、ウチらみたいな元生物の神たちが暮らしていて、それぞれの部屋は生前住んでいた世界の一般的な住居が再現されている。
だから先輩の部屋は、ウチの部屋とは構造が結構違う。家へ入る前に靴を脱ぐのも、きっと先輩が暮らしていた世界の文化なんだろう。
少し面倒だと思ったけれど、よくよく考えれば部屋が汚れにくいし、そのまま床へ座れるのは意外と便利だ。
部屋へ上がると、すぐ近くのキッチンでは、先輩が寝間着姿のままフライパンの中身を棒2本で器用に返していた。
じゅう、と油の弾ける音が響くたび、香ばしい匂いがまた少し強くなる。
「……もうちょいでできるから、ちょと待ってろ」
「っす!」
──待つこと数分。
先輩は出来上がった料理を1つずつテーブルへ運んできた。
まず目に入ったのは、中くらいの皿に並んだ料理。ふんわりと黄色く焼き上がった卵料理と、こんがり焼き色の付いた細長い肉。
その横には、真っ白な粒が山のように盛られた茶碗。さらに、小ぶりで深さのある器には、黄金色の汁物が入っている。
最初の2つはウチの世界でも似たような料理を見たことがある。でも後の2つは、初めて見る食べ物だった。
何なら、最初の2つだって、ウチが知っている料理よりずっと食欲を誘う匂いがしている。
「先輩って、料理できるんすね……」
思わず声が漏れる。
もっと適当に済ませる人だと思っていたために、少し意外だった。
しかし、それを聞いた先輩は複雑そうな顔をする。
「別に料理って程のもんじゃないと思うが……誰でも作れるぞ、これぐらいなら」
「そ、そうなんすねぇ」
基本的に肉を焼くだけだったり、出来合いのものを買って済ませているウチには、少し耳が痛い。
……それにしても。
「美味そうっす」
「んじゃ早く食え。冷めるぞ」
「!それは困るっす!」
そう言って、置いてあったフォークで肉を刺し、そのまま口へ放る。
パキッという心地よい音とともに皮が弾け、じゅわっと旨味が口いっぱいに広がった。
「うみゃいっす!」
「おう。ご飯……そこの白いのと一緒に食ってみ」
「……?ほれっすか?」
言われるまま白い粒も口へ運ぶ。
もぐもぐと咀嚼して、思わず目を丸くした。
「合うっすねこれ!」
「だろ?」
──その後も先輩に食べ方を教わりながら、初めて食べる料理を1つずつ平らげていく。
どれも派手な料理じゃない。でも、不思議なくらいほっとする味。
気付けば皿の上はすっかり空っぽだった。
「……美味しかったっす」
「ん」
「朝から、こんなに沢山、ありがとっす!」
「おう」
先輩は皿を重ね、そのままキッチンへ向かった。
「手伝うっすよ?」
「すぐ終わるし、別に良い」
「……じゃ、お言葉に甘えるっす」
そうして立ち上がるも、向かうは玄関ではなく、反対側。
気づけば足はリビングへ向いていて、そのままソファへぽすりと身体を預ける。
「ふぃ~~~……」
柔らかい。
朝から騒いで、シャワーを浴びて、ご飯を食べて。
たったそれだけなのに、この2年以内の休日で、一番充実した時間だった気がする。
何となく視線を向けた先では、壁に掛けられた大きな画面が映っている。
リモコンを適当に押すと、画面が切り替わり、知らない世界の映像が流れ始めた。
よく分からないけれど、ぼーっと眺めるにはちょうどいい。
五本の尻尾が、ソファの上でふわりと広がる。
このまま昼寝したら気持ち良さそうだなぁ、なんて考えていると、食器を洗う水音が止まった。
「おい」
声と同時に、先輩の足音が近づいてくる。
「何普通にくつろいでんだお前」
「……帰る理由が無いっす」
「いやここ俺の部屋だし……帰れよ」
「嫌っす!」
「なんでだよ」
いつも通り呆れたようなため息を吐いた先輩は、ソファの横まで来ると、そのままウチを見下ろした。
寝転がったまま見上げると、逆光で表情は少し見えにくい。
「……昨日も思ったんだが」
「?」
「お前、なんでそんな俺に懐いてんの?」
「…………」
懐くって……ウチはペットでは無いのだが。
──しかし、先輩の疑問はもっともだとも思う。
それでも、ウチの中では明確に理由があった。
ただ優しいから、ではない。
ただ面倒を見てくれるから、でもない。
タイヨー先輩だから、だった。
「んー……」
声に出しながら目を閉じる。
自然と浮かんできたのは、入社したばかりの頃の記憶。
*
2年前。
入社して間もない頃、教育係としてモスさんに紹介されたのが、タイヨー先輩。
教育係だと告げられた瞬間、先輩は隠そうともせず嫌そうな顔をしていたことは今でも思い出せる。
──そんな先輩への第一印象はやっぱり、“とにかく適当な先輩”だった。
「えーと……ロイネオさん、だっけ?」
「はい!」
「じゃ、現場行ってみよう」
「え?…………は、はい!」
先輩の一言に、他の先輩たちは一斉に頭を抱えていた。
「ちょーい、タイヨーくーん?」
「はーい」
モスさんが呆れたように目へ手を当てる。
「もうちょっとこう……あの子若いんだからさ、研修とかして、手心とかあるじゃん?」
「いや、どうせいつか現場行く必要あるじゃないっすか」
「そうだけどねぇ……」
「あと、最初に一通り終わらせとけば、俺もロイネオさんも定時で帰れる。ウィンウィンってヤツです」
「やっぱりそこかい!」
そんなやり取りを見ながら、この教育係で大丈夫か?と、本気で思った。
教育係って、もっとこう。優しくて、頼りになって、ちゃんとした先輩がやるものじゃないのだろうか。
生前、街の食堂でバイトしていた頃は、店長や先輩たちが一つひとつ丁寧に教えてくれた。だからこそ、この違いには大きな戸惑いがある。
そんな不安が顔に出ていたのか、近くにいた別の先輩が苦笑しながら声を掛けてきた。
「まぁまぁ、そんな心配しなくても大丈夫だよ」
そう言って笑いながら、タイヨー先輩の方を見る。
「あの子、残業だけは死ぬほど嫌がるけどね」
「残業は誰でも嫌でしょ」
「イワナカ君のは度が過ぎてんのよー」
先輩は反論するでもなく、「そうっすかねぇ」と気のない返事だけを返した。
「ま、でも残業したくないから仕事そのものは結構真面目だし。教育係としては安心していいよ。……多分」
周りの先輩たちは、違いないと苦笑しながら仕事に戻っていった。
本人は面倒くさそうな顔のまま、特に何も否定しない。
「(……ほんとっすかねぇ)」
当然、その時は半信半疑だった。
だって、自分が定時に帰るために何やらウチに無茶をさせようとしている教育係なんて、信用しろという方が難しい。
──そんな認識が少し変わったのは、先輩が教育係になって大体1週間経った頃。
「あ、タイヨーくん!クライアント用のデータまとめもお願いして良いー?」
「……期限は?」
「今日!」
「…………残業が見えるんで嫌なんすけど」
「大丈夫!タイヨーくんの手の早さなら定時内に終わるから!」
「了解っす……」
文句を言いながらも。
「モスさん、クライアントの資料アップデート終わったんで、ドライブ入れときました」
「お、助かる!やっぱ早いね~」
「定時に帰りたいだけっす。んじゃ、お先失礼します」
「はいはい、お疲れ~」
その日の夕方には、たしかに資料はきっちり完成していた。
やりたくないことは、やりたくないと言う。
嫌なものは、嫌だと言う。
それでも、引き受けた仕事を雑に終わらせることは絶対になかった。
むしろ、早く帰りたいからこそ、誰よりも効率よく片付ける。必要なところには手を抜かず、不要なところは徹底的に削る。
その姿を見て、少しだけ印象が変わった。
この人は、仕事が嫌いなだけで、仕事を投げる人ではないのだと。
そしてそれは、ウチへの教育でも同じだった。
「ロイネオさん、昨日教えた調整、やってみ」
「え、こ、これですか?」
「これ」
最初は、怖かった。
説明は必要最低限だし、褒め方も雑だし。
ウチが間違えたら、淡々と訂正してくるし。
「……なんで、こっちに変えちゃダメなんですか?」
「それにすると、因果の流れが悪くなり過ぎんだよ。結果だけ求めて途中経過も雑に調整すると、別のところにズレが出るから」
「……なるほど」
「あと、分からないまま進めるなよ。後で修正する方が面倒だから」
ただ、分からない所を聞けば、ちゃんと手を止めて説明してくれた。……やっぱり面倒くさそうな顔はされたし、言われたけど。
ウチが理解するまで、何度でも付き合ってくれた。
忙しい時でも、
「イワナカさん、これってどうすればいいですか?」
と聞けば、
「今ー?」
「……すんませんっす」
「いや、別にいい。どこ?」
と、なんだかんだ教えてくれる。
決定的だったのは、ついにウチは初めて、"妬み"を集めるイベントを担当することになったあの日。
ウチは対象となる子たちを探して、因果をほんの少しだけ動かす。本当に、それだけ。
本人たちからすれば、ただの偶然だったかもしれない。
でも、その小さなズレを起点に、少しずつ感情が変わっていく。
昨日まで笑い合っていた相手に、羨望が生まれ、比較になり、妬みになる。
イベントは予定通り終了。
調整にミスもなく、先輩からも、
「初めてにしちゃ上出来だろ」
なんて、いつもの気の抜けた調子で褒めてもらえた。
……でも、心に湧いてきたのは、達成感ではなく、吐き気にも似た重みだった。
もし、ウチがあの子たちを見つけなければ。もし、別の因果を選んでいれば。
今日もあの子たちは、何も知らずに笑い合っていたんじゃないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
仕事であると、必要なことだと、理解はしている。
ただ、自分の手で、誰かの人生を少しだけ変えた。その事実が、どうしても重くて。
結局、会社を出るまで、誰ともまともに会話することができなかった。
「…………こんなこと、やって、良いんですか」
帰り道。
ぽつりとようやく口から零れた声は、どこか掠れていたように思う。
「そりゃもちろん。仕事だからな」
ウチの様子を見て付いてきてくれた先輩は、いつもと変わらない。
その平然とした態度が、少しだけ羨ましくて。
少しだけ腹立たしくもあり。
「頭では、分かってます……。でも」
「あの子たちの人生だろ、ってか?」
「………っす」
先輩はボトルを鞄から取り出し、水を一口飲む。
そして小さく息を吐いてから、口を開く。
「死ぬ前、働いてたことはあるか?」
「い、一応……。バイトですけど……」
「そうか」
少しだけ考えるように後頭部を掻いて、それからボトルを鞄へとしまった。
「ロイネオさんがどんな世界で生きてたかは知らん。だから俺の考えでしかないけどな」
そう前置きしてから、先輩は肩を竦める。
「別に、会社の仕事ってのは特別なもんじゃない」
「…………?」
「神だから特別とかも無いぞ」
淡々と言葉を続ける先輩。
「この世界にも〝社会〟があって、そこで
「せき、にん……」
〝責任〟という言葉は、胸へ重くのしかかった。
俯いて拳を握ると、先輩は少しだけ困った様な声を出す。
「もし、本当に誰かを不幸にするイベントを受け入れられないなら、モスさんに相談しろ」
「…………ぇ?」
思わず顔を先輩に向ける。
そんな、〝逃げる〟選択肢なんて、働いて、お金を貰っている以上、ダメなんじゃないか。
「誰がどんな責任を負えるかなんて、それぞれ違うんだよ。だから、会社がある」
「そんなの、無責任じゃ……」
「無責任なわけあるか」
珍しく、少しだけ強い声だった。
「俺らは頼まれた自分の仕事を〝責任〟持って終わらせてんだ。それをほっぽり出して『こんな仕事したくない』って言う奴は無責任でも、やった上でどうしても受け入れられないなら、ただの『向き不向き』の話だからな」
淡々とした口調だった。
誰かを諭そうとするでもなく、自分がそう考えているから口にしているだけ。
先輩の中では、本当に当たり前のことなんだろう。
「そういう相談を受けて、配置を考えるのがモスさんみたいな上長の仕事……てか、そう考えとかないと、しんどいし」
その言葉を聞いた時、正直すぐには納得できなかった。
だって、ウチが今感じている苦しさは、もっと大事なものだと思っていたから。
誰かの人生に関わることを、「仕事だから」で片付けてしまっていいのかと。
後から考えれば、先輩は最初からずっとブレない。
残業は絶対にしたくなくて、休日は寝ていたくて、面倒なことは嫌い。
社会神ならあまり良い顔をされないことを、一切隠さない。
普通なら、良い顔をして
でも、先輩は違った。
サボりたいならサボりたいと言うし、嫌なら嫌と言う。
それでも、やるべきことからは、〝責任〟からは逃げない。
——本当に、裏表がない。
それが、ウチにとっては妙に安心できた。
「タイヨー先輩!これお願いしても良いっすか!」
「やだ」
「そこを何とかぁ!今日タスクやばくて、このままだと残業コースなんすよぉ!」
「…………はぁ……。1個だけな」
「!マジで助かるっす!」
こんな砕けたやり取りも、いつの間にか増えていた。
生意気な口を利いても、本気で怒られたことは一度もない。
思えば多分、ウチは前世から結構生意気な娘だった。
でも先輩は、そんなウチを怒らなかった。
生意気でも。失敗しても。少しぐらい甘えても。
それでも最後には付き合ってくれた。
先輩は十分ワガママだけど。
それ以上に面倒くさいはずのウチまで、受け入れてくれる。
だからウチは、先輩の後ろを付いて行きたくなった。
もっと、お喋りしたいな、と思った。
──休みの日も会いたいな、なんて、思うようになった。
*
目を開けると、そこは先輩の部屋の中。
未だに顔を覗き込んでいる先輩を見て、やはり答えはこれしかない、と思う。
「……それは」
「それは?」
言葉を復唱して、首を傾げる先輩。
ウチは寝転んでいた身体を起こし、先輩の顔を真っ直ぐに見つめる。
「……普通に、先輩のことが好きだからっすよ」
「???????」
あ、先輩壊れちゃったっす。