社会神10年目の俺と、社会神2年目の狐。 作:宮原ワタル
脳が処理を間違える音が鳴った気がした。
遺憾……ではなく、混乱である。
「……あぁ、隙か!お前隙だらけだから舐めやすくて良いね、って意味だよな?」
「〝好み〟とかの好きっすよ?」
「………………先輩として、って意味だよな?」
確認するように聞く。
いや、確認するまでも無い筈なのだ。
だってこいつは、ただ懐いているだけだ。
初めて受け持った後輩で、仕事を教えて、飯にも付き合って。
その延長線上で距離が近くなっただけ。
「異性としての好きっすね」
「……………………」
「大体、好きでも無い男と、
それは……たしかに?
よくよく考えれば、こっちの世界に来てから、異性とサシで飲みに行ったのなんて一度も……あぁ、モスさんとはあるな?いやでもあのカピバラ既婚者だし、そもそも向こうは1万歳を超えてるはずだし……。
自分が混乱していることを客観視できている筈なのに、考えれば考えるほど思考が散らかっていく。
「……それで、まだっすか?」
「…………何をだ」
「そりゃ、告白OKの返事っすけど」
あまりにも自然な口調だったが、よく見ると、耳が落ち着きなく動いている。
五本の尻尾も、恐らく本人の意思とは関係なく小さく揺れていた。
今まで、仕事のことならいくらでも答えられた。
分からないことがあれば調べればいい。判断に迷うなら、誰かに相談すればいい。
でも、これはそういう種類の問題じゃないのだ。
「…………なんでOKが前提になってんだ」
「え!?」
結果、口から飛び出たのは、なんてことの無いツッコミの言葉。
イネの耳がぴん、と立つ。同様に尻尾もぴたりと止まった。
「OKしてくれないんすか!?」
「いや、それはだな……」
「…………」
「…………」
しばらく沈黙が続く。
すると。
「……って言っても、分かってたっすけど」
「…………は?」
今度はこっちが間抜けな声を出す番だった。
「だって先輩」
イネは呆れたように笑う。
「結婚、みたいなワード出しても。本名じゃなくて愛称で呼んで良いなんて言っても。ぜーんぜん意識してくれないじゃないっすか」
そう言うと、イネはソファから「よっ」と小さく声を出しながら身体を起こした。
そして、五本の尻尾をぱたぱたとはためかせながら、玄関へ向かって歩いていく。
「今日の所はここで退散するっす!じゃ、また明日っす~!」
「お、お~……またー……」
俺の返事を聞くと、イネは満足そうに耳を揺らした。
そのまま軽い足音を残して、玄関の扉が閉まる。
部屋にいつもの静けさが戻った。
「…………」
数秒。
いや、もしかすると数分。
カーテンの隙間から入ってきた光が目に当たっても、俺はその場から動けなかった。
そして、ようやく一つの疑問が浮かぶ。
「……え、明日も部屋来んの?」
***
ピーンポーン
「タイヨー先輩!お出かけしようっす!」
「お前メンタルどうなってんの?」
衝撃の告白から一日。
結局、何一つ整理できないまま迎えた翌朝。
いつもの休日なら、昼過ぎまで寝ているはずの時間に、インターホンが鳴った。
嫌な予感を覚えながら扉を開けると、案の定そこに立っていたのは、昨日とは違ってどこか小綺麗な恰好をしたイネ。
耳も尻尾もいつも通り……いや、よく見ると少しだけ動きが早いような気がする。
緊張しているのか、興奮しているのか。そんな考えが一瞬浮かんだが、本人がいつも通りに振舞おうとしているなら、俺から無理に触れることでもない。
……というか。昨日告白して、返事ももらってない相手の部屋に来るか普通?
いや普通かどうかは知らないが、少なくとも俺には理解できない行動だった。
とりあえず、扉を開けたまま話しているのも近所迷惑なので、イネを部屋へ招き入れる。
「いやいや、今日は先輩にお礼しようと思ってるんすよ」
「お礼?」
「昨日朝ご飯作ってもらったじゃないすか。その分、食材も減ったっすよね?」
「それはまぁ……そうだが」
確かに使い切った食材はある。
でも、量としては大したものじゃない。
食費を切り詰めなければ生活できないほど困っているわけでもないし、正直そこまで気にするほどのことではなかった。
「いや、別に気にしなくていいんだが」
「……まぁ、建前っすよ」
「?」
イネは悪戯っぽく笑った。
「普通に先輩とデートしたいだけっす」
「マジでメンタルすごいなお前?」
「いやぁそれ程でも……」
「褒めてねぇんだわ、むしろちょっと引いてんだわ」
「えぇ!?」
いつものやり取り。
昨日あんな告白をされたとは思えないくらい、イネは普段通りだった。
「……てか、外に出るのが嫌なんだが……」
「じゃ、告白OKしてくださいっす」
「……それとこれとは別」
「先輩」
じっと見られる。
いつものように有無を言わさず断ろうと思っても、昨日の告白が頭にチラつく。
だからなのかは分からないが、誘いを断ろうと考えると、どこか居心地の悪さを覚えてしまった。
「…………はぁ……わーったよ。ただ、昼からな?」
「……!はいっす!」
満面の笑みを浮かべるイネ。
……こいつ、本当に分かりやすいな。
その表情を見て、いつも通りそう思う。
まぁ、ただ出かけるだけなのだ。
どうせ飯を食って、何か買い物でもすれば終わる。
大したことじゃない。こっちの世界に来て10年目にして初めて、休日を誰かを過ごす日になるだけ。
そう、そのはずだ。
***
──誰だ、出かけるだけで終わるとか言ったバカは!
俺の見立ては甘かった。
イネは、完全に吹っ切れていたのだ。
デパートへ着いてからというもの、あいつは一切遠慮をしなかった。
服屋へ入れば、試着もそこそこに俺を引っ張り回し。
「せんぱーい、どっちが好きっすかー?」
「……どっちでも良いんじゃね?」
「じゃーこっちにします~」
「…………?同じの2着買うのか?」
「そりゃそうっすよ。ウチと先輩でお揃いコーデにするんで」
「ちょっと待て!」
店員が「仲良しなんですねぇ」と微笑んでいる。
いや待ってくれ違うんだと否定しようと口を開いた頃には、イネはもうレジへ向かっていた。
途中で小腹を満たすために入ったカフェでも。
「先輩、あ~ん」
「いやいや……」
「ん!」
「………………」
「ん!」
「はぁ…………ぁん」
「間接キスっすね!美味しいっすか?」
「…………変わんねぇ」
わざとらしく頬を緩めるイネとは対照的に、俺は深々とため息を吐く。
店内の学生らしき女の子2人が「アレ見て……」とひそひそ話している声が聞こえてくる。
やめろ。違う。頼むから、これ以上目立つ行為をしないで欲しい。
そう願ったが、この狐に届くはずもなかった。
帰り際に寄った公園でも。
「先輩、一緒に写真撮りましょ!」
「嫌だ」
「じゃあツーショットじゃなくて先輩だけ撮るっす」
「それも嫌だ」
「じゃあ一緒に撮るっす」
「話聞いてたか?」
「はい、ポーズ!」
返事を待つ気なんて最初から無かったらしい。
勢いのまま俺の腕へ抱きつくと、そのまま携帯を掲げる。
柔らかい尻尾が背中へ触れ、ぱしゃり、と軽い電子音が鳴った。
「意外と綺麗に撮れたっす」
「お前さぁ……」
画面を見つめながら、嬉しそうに口元を緩めるイネ。
撮り終えた写真を嬉しそうに何度も拡大している。
その隣で、俺は額へ手を当てて天を仰ぐ。
朝からずっとこんな調子だ。
こういうことに疎い俺でもわかる。今日のイネは、告白の返事を返していない相手に対する距離感じゃなかった。
「……俺、撮って良いって言ってないよな?」
「言ってないっすね~」
「今日1日やってたこと、ほぼ付き合い立てのカップルなんだが……」
呆れ半分でそう言うと、まるでその言葉を待っていたみたいにイネは「えへへ」と照れたように笑う。
「え~だって先輩、1度も本気で嫌って言ってないっすよね?」
「…………嫌とは言った記憶があるんだが」
「結局全部折れてやってくれたっす」
「…………」
反論できない。
服だって、あーんだって、写真だって。
本気で拒否しようと思えば、いくらでもできたはずだ。
なのに結局、全部付き合ってしまった。
もしかして:俺って甘い?
「──でも」
イネの勢いが、急に萎む。
「多分、こんぐらいやんないと……先輩はウチの告白、うやむやにするだろーなって」
その一言と同時に、耳がぺたりと寝る。さっきまで楽しそうに揺れていた尻尾も、徐々に勢いを失う。
表情こそ笑ってはいるのもの、姿には力なく、昨日「休日の過ごし方が分からない」と零した姿を思い出させた。
イネはふっと視線を逸らすと、俺の横をくるりとすり抜ける。
そのまま、ただ背中側へ回り込んで軽く尻尾を当て、もたれかかってきた。
顔を見られたくないのだと、何となく分かる。
少しだけ息を整える音も耳に入った。
「分かってるんすよ」
震えを押し殺した声だけが、静かな公園に落ちた。
「今ウチは先輩を困らせてるんだろーな、って」
その言葉を聞いて、ようやく合点が行く。
今日1日、あいつはずっと笑っていた。
俺を振り回して、からかって、強引に距離を縮めて。
——その全部が、吹っ切れたからでも、余裕があったからでもない。
返事を待つのが怖かった。考えさせている間に、俺がそのまま逃げてしまうんじゃないか。
そんな不安を誤魔化すために、いつも以上に笑って、いつも以上に距離を詰めていた。
「でも、ウチはワガママっすから」
一拍置いて、イネは小さく笑う。
「困らせてでも、ウチが好きだってことは、ちゃんと分かって欲しかった……っす」
「…………あぁ」
口にすると、自分でも情けないくらい歯切れが悪かった。
断る理由なら、いくらでも並べられる。でも、好きじゃないと言い切ることもできなかった。
だから結局、中途半端な言葉しか出てこない。
「イネの言う通り、今すぐには」
「タイヨウさん」
いつもの〝先輩〟ではなく、〝さん〟とつけられて名前を呼ばれる。
振り向くと、イネは俺を真っ直ぐ見ていた。
「せめて、休みの日のどっちかは、一緒にご飯食べて良いっすか?」
その願いはきっと、彼女が欲しい答えからすると、驚くほど小さいのだろう。
週に一度。
休日に、一緒に飯を食うだけ。
……それぐらいなら。
寝たいとか、面倒くさいとか。
そんな言葉より先に、その考えが浮かんでしまった時点で、答えは決まっていたのかもしれない。
「…………わかった」
俺がそう答えると、イネは一瞬だけ目を丸くした。
すぐに耳がぴくりと立ち、尻尾が嬉しそうにふわりと揺れる。
「……やった」
本当に小さな声だった。
聞こえていないと思ったのか、その一言だけ零すと、イネは慌てて口元を引き締める。
そして何事もなかったように、いつもの調子で笑った。
「じゃ、そのまま毎週デートっすね!」
「……おい調子乗んな」
「ウチは今キープってヤツっす!」
「外聞悪過ぎんだろ!」