8月1日
うだるような暑さと衰えることを知らない熱射。
まさに夏真っ盛り。道行く人はハンディファンを回して少しでも気を紛らわそうとするも、湿気を孕んだ風では汗を乾かすこともできない。熱に耐えかねて空を見上げれば、カンカン照りの太陽と巨大な入道雲が視界を覆う。暑苦しい空から目を背けようと視線を下げれば、アスファルトの照り返しが陽炎や逃げ水と共に待ち受ける。
夏だな。
誰もがその感想を漏らす日々。だが、今年の夏は異常だった。
ニュースでは観測史上過去最高気温が日々更新され、熱中症患者が次々と病院に運び込まれる。線路が熱で歪んで電車が止まり、電線が溶けて停電まで起きた。地面の上にチキンの脂を落としたら燃え上がったなんて話が冗談にも聞こえなくなってくる。
誰もがおかしいと疑問に持つものの、温暖化だの氷河期の先駆けだのという学者様のもっともらしい言い訳を聞きかじり、『もう終わりだよ、この国』と
夏が熱いのは当たり前。年々上昇する気温も誰も手が出せない自然の理。毎年来るこの季節がいつもと変わらぬ日常であると思って彼等は日々を過ごしている。
そんな熱波に襲われた都心の一角にその学校は建っていた。
都心まで出るのに電車一本で済むベッドタウン。土地が安いというだけで小高い丘の上に建てられた進学校。
その名は『慶風学園』
夏季休暇中にも関わらず教室には生徒が溢れているのは進学校特有の登校期間だ。
一週間に渡る授業と最終日の試験を内包した登校期間の始まりに1年生の教室は不平不満が溢れていた。
その中に黙々と夏季休暇の宿題に取り組む1人の女子がいた。
『
彼女は決して目立つタイプではなかった。物静かで、読書を好み、運動が苦手。顔立ちは整っているものの、ウェーブのかかった長い髪が影となって周囲からの視線が通らない。その肌は太陽を浴びたことがないのではないかと疑わしい程に白く、病的にすら見える。顔も身体も手足も細く、全体的に小柄で、今にも消えてしまいそうな程に存在感が希薄であった。
だが、そんな者にも友人というものは総じて存在する。
「は~すみ~!」
ガン、という大きな音が鳴り、羽澄の前の席に誰かが勢いよく座った。
羽澄がノートから顔をあげるとこんがりと日焼けした笑顔が目の前にあった。
「……ミカ」
「1週間ぶり!夏休みどう?」
夏という季節に相応しい元気な声でそう話しかけてきた彼女の名は『日笠 ミカ』。
彼女を前にしてまず目を引くのは大きなアーモンド型の瞳と口元から覗く八重歯である。髪はショートに整えられ、快活に喋るたびに微かに塩素の匂いが漂う。だらしなく開いたブラウスの胸元からは競泳水着の日焼け痕がのぞき、健康的な肉付きの手足が水泳部で鍛え上げられたものであることを示していた。
彼女と羽澄はなにからなにまで正反対であった。
それでも、2人は良き友人同士であった。
「……私は……いつも通り……」
「そっか。今年のお盆はどうする?いつもみたいに私のおばあちゃんとこ来る?」
「……ご迷惑でなければ」
羽澄は一言一言の言葉に独特の間を置く話し方をする。それは昔からの癖であった。
「OK!それじゃあさ、今年は海行こう!海!」
「……私……泳げない」
「海は泳ぐ場所じゃなくて遊ぶ場所だよ!はい、決まり!OK?」
「……OK……」
羽澄は表情筋をほとんど動かさずに頷いた。というよりも、一連の会話の中で羽澄の顔色にまるで変化がない。能面のように動かない彼女の顔からは何一つ感情を読み取れない。だが、ミカは気にすることなく話を進めていく。
「よしっ!それじゃあ、最終日に予定立てよ!例のアイス屋行こうよ。出張店舗が出たらしくて今お得なんだって」
「……うん……いいね……」
二人して週末の予定を立てていく。羽澄の表情はわかりにくい方であるのだが、夏を満喫することを楽しみにする気持ちに嘘はなかった。
そんな時、小さなバイブレーションの音がした。
「……あ……」
「ん?どした?」
「……うん……ちょっと」
羽澄は鞄から携帯端末を取り出し、アプリを起動した。画面が横向きになり、画面一杯にゲームのロゴが表示される。それを横からのぞき込んだミカが声をあげた。
「え?羽澄、そのゲームやってたの?」
「……うん……最近の……ブーム……ミカも知ってる?」
「いや知ってるもなにも……大人気な奴じゃんそれ。やってない人の方が珍しいよ」
「……そうなんだ」
「いや知らんのかい」
羽澄が起動したアプリはとあるMMORPGであった。モンスターを育て、装備品を集め、自分の拠点を大きくしていくありふれたものだ。
「……これ……少し……進めておかないと……」
「へぇ……って、うわっ、すごっ。なにこれ?どんなレベルでやり込めばこんな装備のモンスターになるの?課金してる?」
「……小遣いの範囲で……効率重視にやればこれくらい……」
「それができれば苦労しないっての。っていうか、やってるなら言ってよ。フレンドなろ。次のイベント手伝って欲しいんだけど。ほら、今日の夕方実装のやつ!」
「……いいけど……ダメかも……」
「どっち!?」
「……フレンドになるのは……いい……でも……イベントは……」
そんな時だった。
「おい」
低い声がした。
その瞬間、教室全体にわずかな緊張が走った。
教室の雰囲気は変わらない。会話も切れることなく続き、騒がしさに満ちている。それでも、僅かに皆の声のトーンが落ち、教室全体のざわめきが薄れたのは間違いなかった。
それを引き起こしたのは1人の男子生徒。
若石 ウェイミン
それが彼の名前だった。
彼は教室の後ろのドアから入ってきたところであった。
その彼が羽澄の頭上からミカを見下ろしていた。
「そこ……俺の席なんだけど」
「ご、ごめん!!」
ミカがばね人形のようにその場から飛び上がり、席を開けた。
「ご、ごめんなさい、今日、来ないかと思って、その、ごめんなさい!」
ミカは素早く一礼し、羽澄に向けて「また、後で」と告げて一目散に逃げだした。
「…………っち」
小さな舌打ちが聞こえ、羽澄は身を縮こまらせた。
羽澄は若石 ウェイミンを視界の端で捉える。ざっくばらんに切り揃えた茶色い髪とやや色黒な肌。右頬に鋭い切り傷の痕があり、左の眉尻には真新しい縫い傷もある。肩幅の広いがっしりとした体格は高校1年生としては十分な恵体であった。彼はゆっくりとした動作で自分の席へと座った。白シャツに覆われた恰幅の良い背中が目の前に現れる。
彼が席に座った途端に周囲から人が捌けていく。
誰もが彼を警戒し、関わりあいになることを避けようと離れていく。
『若石 ウェイミン』
彼はこの辺りでは有名な非行少年であった。
中学の頃から喧嘩で鳴らし、悪ガキ共の中でも抜きん出て強く、高校生相手にも一歩も引かない偉丈夫。中学の卒業式ではその道の人間が花束を持って迎えに出てきていたとの噂もある。そんな彼が『進学校』を肩書に掲げる学校に入学してきたのは新入生にとっても、在校生にとっても、教師にとってもまさに青天の霹靂であった。
「……………」
彼はため息をつき、おもむろに身体を机に預けて背中を丸くした。居眠りの体勢に移行した彼を見て周囲の生徒達は安堵の息を吐く。
羽澄もまた表情こそ動かすことはなかったが胸の内でホッと息を吐いていた。そんな時、羽澄の携帯にミカから謝罪のメッセージが入る。
『逃げ出してゴメン。最終日の予定はまた今度相談しよう。あと、誕生日おめでとう!!』
羽澄は『気にしないで』とだけメッセージを返し、再びゲームを起動した。片手で画面をタップして単調なアクションを繰り返してレアアイテムが手に入るまで敵に挑み続ける。
無表情のままゲームを続ける羽澄に声をかける者は誰もいなかった。
―――――― ※ ―――――― ※ ――――――
日の長い夏では下校時間でもまだ夕焼けとは呼べない程には明るい。それでも、下校を促す音楽が流れれば荷物をまとめなければならないのが学生という身分だ。羽澄はその段になってようやく教室の席を立った。
授業など午前中で終わっている。閑散とした教室内に残っているのは羽澄1人だけだ。
そんな時間まで何をしていたかというと、単なる趣味の読書だ。
夏休みに図書室は閉まっているので、彼女が持っているのは近くの市立図書館から借りてきた文庫本。
羽澄は手にした本を鞄にしまい、1つため息を吐きだした。
「……はぁ……」
窓の外に広がる夕焼け空は澄んでいるのに、彼女の瞳にそれらは映らない。
羽澄は重い足取りで帰路への一歩を踏み出した。
昇降口で靴を履き、校門を出て、丘を下る。通学路には部活終わりの生徒達が点々と列を作り、羽澄を次々と追い抜いていく。羽澄は見知った顔がいないか探してみたが、この学校における彼女の友人は日笠 ミカ1人だけで、その彼女の姿はなかった。
生徒達の大部分は最寄り駅に向かうため国道方面へと歩いていく。そんな中、羽澄は道を逸れて近くの住宅街へと向かった。
自分の足先を見つめながら歩く羽澄の足取りはやはり重い。遅々として進まないその足は自宅に帰ることを拒んでいるかのようだった。
どれ程の時間が経ったであろうか。
普通に歩けば20分とかからない距離を彼女は1時間以上かけて歩き、ようやく自宅近くの公園へと辿りついた。都心の真ん中に作られた『自然公園』。サッカーやラグビーができるようなグランドも併設された大型の公園だ。中にはランニングコースもあり、老若男女問わず走っている人をよく見かける。だが、熱波が続く真夏の中でわざわざ熱中症になりに来る人はそういないようだった。
既に日は沈みかけ、群青色の空の下、街灯の明かりに照らされた公園内には人影はほとんどない。公園内で遊んでいた数人の子供達も日没と共に別れの挨拶を交わして去っていく。
羽澄はその公園に足を踏み入れた。
この公園は自宅への近道だ。ここを抜ければ彼女の家まではもう目と鼻の先だった。
「…………」
人工林の間に作られた石畳の道を歩く。耳に届くのは蝉の鳴き声と自分の履いているローファーの足音だけだった。
そんな公園のちょうど真ん中に広場があった。
公園の中の大きな道を進んでいけば必ずこの広場にたどり着く。そこには小型の噴水があり、広場の端には石製のベンチが並んでいた。少し前までは常に水が循環していた噴水であるが、猛暑の中で節水が求められるようになって真っ先に元栓を閉められた。今となっては噴水とは名ばかりの干からびた石の器だ
羽澄は広場の端に並ぶベンチの一つに腰を下ろした。
歩き疲れた老人のような仕草で肩を落とし、ため息をつく。とはいえ、彼女の表情は変わらない。教室にいる時と変わらない、能面のように固い無表情のままだ。だが、その端々には確かに疲労の色が乗っていた。
「…………」
羽澄はベンチの隣に佇む街灯を見上げる。小さな虫達がその強い光に向かって飛んでいき、ぶつかっては鈍い音をたてていた。羽澄が見ている間にも一匹の羽虫が街灯の熱に焼かれて地面へと落ちる。
「…………」
羽澄は小さくため息を吐きだし、携帯を取り出した。既に現在時刻は20時を回っている。それでも彼女は帰路につかない。
羽澄はゲームを起動した。タイトルロゴを経て、MMORPGの世界へとログインすればチャット欄からは有象無象の声が次々と流れていった。
『おつ~、ヤナギ』
『ヤナギ様!待ってました』
『でたな重課金野郎。すみません調子乗りました助けてください』
『ヤナギさん、一足先にもぐりましたが、今回のダンジョン……』
チャットで話しかけてくる多くの人間が羽澄の登場を心待ちにしていた。
今日からこのゲームの『夏イベ』が始まるのだ
期間限定で特別なダンジョンが開き、そこで倒した敵の総ポイント数で報酬が変わる。
特に複数名のプレイヤーがチームを組んだ『クラン』のランキング報酬は格別だ。
既に他のクランメンバーは最高難易度のダンジョンに挑み、道中の情報を確認してきてくれていた。
羽澄は流れ続ける情報を頭の中で組み立て、攻略掲示板での情報と照らし合わせる。今回のダンジョンの敵のパターンを大まかに把握した羽澄はすぐさまクランメンバーに呼びかけて仲間を募った。すると、ものの数秒でパーティの枠が埋まる。
羽澄はこの『クラン』におけるトッププレイヤーだ。ポイントの稼ぎ頭であり、上位プレイヤーからも一目置かれている。羽澄がこの『クラン』に所属してから、メンバー募集に難儀したことはない。
学校で常に1人の彼女と、ネットの中の彼女はまるで違う。
そのはずなに、羽澄の表情はやはり学校にいる時と変わらない。
携帯の薄明かりが、彼女の固い顔を照らしていた。
羽澄は集まったメンバーのチーム編成を確認する。
「……フォワード2人……サポート1人……十分かな……」
その時だった。
メンバーの一人が突然パーティを弾かれた。それも、不思議な抜け方だった。先程まで普通にメンバー達とチャット欄で会話をしていいたプレイヤーが会話の途中で突然抜けたのだ。
通信障害や、機材トラブルを疑うような抜け方だった。
だが、それぐらいはオンラインゲーム上では珍しいことではない。
羽澄はもう一度募集をかけ、仲間を募る。やはり枠はすぐに埋まったが、ダンジョンに挑もうとしたところでまたもや1人の回線が落ちてチームに空きができた。
「………?」
羽澄は首を傾げる。
こんなことは今までに一度もなかった。
『アップデートによる新手のバグだろうか?』
羽澄がそんなことを考えた時だった。
ポン、という電磁音と共にメンバーが埋まる。
「っ……」
羽澄の全身が急激に強張った。
新たに入ってきたメンバーの名は『いかんちゅ』。名前の横には配信チャンネルで配信中であることを示すマークがついていた。
羽澄の吐息が止まる。
チャット欄に現れた『いかんちゅ』は羽澄に向けて馴れ馴れしい言葉を投げかけてきた。
『ヤナギさん。今日はゆっくりのログインでしたね。ずっとお待ちしてました~』
『リアルお仕事が忙しかったんですか?一生懸命働く男性って好きです~』
『今週末空いてます?私、一日大丈夫なんでイベのお誘いお待ちしてます。もちろんオフイベも歓迎です~』
『いかんちゅ』はその他にも次々とこちらのリアルを探るようなコメントをいくつも流してきた。ネットリテラシーなど念頭にすらなく、『ゲーム内にリアルを持ち込まない』というオンラインゲームの暗黙の了解すら無視。ともすればネットストーカーに近い言動だ。その言葉の数々は人によっては恐怖の対象にすらなるだろう。
だが、羽澄はその態度を受けても眉1つ動かさなかった。
「…………ふぅ……」
羽澄はその『いかんちゅ』に当たり障りのない返事をして、ダンジョンへと向かう。
だが、いざ本格的にゲームがスタートしても『いかんちゅ』のチャットは止まらない。
『ヤナギさん、また今度ボイチャしません?ヤナギさんのイケボ聞きたいな』
『最近、人と会話する機会が極端に減っててリアル会話に飢えているんですよ~』
『いつでも平気ですよ~ストリーマーですから基本終日暇してますので~』
モンスターが次々と襲い掛かってくるラッシュ地帯であっても、『いかんちゅ』はチャット優先で行動する。当然、『いかんちゅ』の動きは鈍い。その『いかんちゅ』をフォローする為に仲間達に負担がかかっていた。
『いかんちゅ』はゲーム内で煙たがられていた。
実際に他の仲間達は『いかんちゅ』に対して幾度となく苦言を口にしている。だが、『いかんちゅ』は改める気配がない。『いかんちゅ』はゲームそのものより、羽澄との会話を楽しんでいるようだった。
だが、羽澄は気にしなかった。
『いかんちゅ』の分、自分が頑張ればいいのだ。
羽澄は華麗な指捌きと的確なスキル回しで誰よりも敵を多く屠っていく。しかも、羽澄にはその上で『いかんちゅ』のチャットに対して返事を書く余裕まであった。
「…………」
『夏イベ』のダンジョンを攻略し、更なる上位のダンジョンが出現する。羽澄は『いかんちゅ』達を引き連れてそこに挑み、大きな戦果を挙げて帰ってきた。
『ヤナギさんカッコイイ~ゲーム上手い人ほんっとに尊敬します』
『知ってます?ゲーム上手い人って脳の出来が人と違うんですって。親の教育が良かったんでしょうかね』
『いかんちゅ』は羽澄を褒め称える言葉を次々と並べ立てる。
傍から見れば下心が見え透いた言葉達だ。『いかんちゅ』の本心はもちろん羽澄もわかっている。
むしろ、そうなるように仕向けたのは羽澄の方だった。
わざわざボイスチェンジャーまで用意してボイチャで低い男性の声を出し、会社員を偽ってログイン時間を調整し、『いかんちゅ』が好きそうな人物像を演出した。
そこまでして、羽澄の方から『いかんちゅ』に近づいた。
羽澄は自分のキャラクターである『ヤナギ』が『いかんちゅ』に好かれているという現状に満足していた。
羽澄は『いかんちゅ』のチャット欄の言葉を読み、少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。
だが……
『ヤナギさんに子供がいたら、きっとゲームが上手な陽キャのイケメンに育つんでしょうね』
携帯を手に持つ羽澄の手に不自然な程に力がこもった。
『いいですよね~かわいい子供と優しい旦那がいる生活』
『私はそういう経験は全くないんですけど、やっぱ憧れだけはあるっていう』
『ヤナギさんの子供とか、強く躾とかしなくてもめっちゃいい子に育ちそう』
ギリ、と音がした。
噛みしめた羽澄の奥歯の音だった。
『あれ?ヤナギさん?反応なし?落ちた?』
『とりあえず。ヤナギさんにプレゼント送っておきますね。ダンジョン攻略のお礼です』
ゲーム画面に通知が鳴る。開いたプレゼントにはメッセージが付いていた。
『プロフィールで誕生日だって知りました。誕生日プレゼントも兼ねてSSRアイテムを送ります』
「…………………………………」
一瞬、頭の中にアンガーマネジメントという言葉が巡った。
だが、頭蓋内に流れ込む大量の熱がそれらの思考を全て脇へと押しやった。
「………………………っっ!!」
羽澄の中で何か大きな感情が決壊しようとしていた。『いかんちゅ』の言葉の『何か』が羽澄の最も柔らかく、大事な個所を刺激した。
頭の奥で血が沸騰する
身体の内に煮凝った感情は一片でも吐き出してしまえば言葉と共に胃液まで吐きだししてしまいそうだった。
羽澄は何も吐露すまいと自分の二の腕を口に押し付けた。目を見開き、骨と皮だけの腕に噛みつき、嗚咽を飲み込み、羽澄は全ての感情をそのやせ細った身体に押し込んだ。
だが、どれだけ外に出る感情を抑えたとしても、その身に巡る憤りだけはどうにもならなかった。
羽澄は左手に持っていた携帯を感情のままに投げ捨てた。携帯はわずかな放物線を描き、石畳の上に落下する。携帯はそのまま大きく跳ね、噴水の縁にぶつかって止まった。それでも、携帯はゲーム内のBGMを律儀に流し続けていた。
「………………」
いつの間にか蝉の鳴き声は消えていた。虫達が電灯にぶつかる音も消えていた。時折、遠くを車が走る音だけが響く。閑静な住宅街の人通りの少ない公園に羽澄の吐息の音だけが流れていた。
「………………」
羽澄は二の腕に噛みついたまま深呼吸を繰り返す。
迸る感情は次第に落ち着き、段々と冷静な自分が戻ってくる。
「……………っ…」
羽澄は静かに自分の腕から口を離した。赤く歯形のついた腕は皮膚が一部切れて血が僅かに滲んでいた。
強引に感情を押し殺し、数多の言葉を呑み込み、後に残ったのは酷い虚無感と極度の疲労感だけだった。
羽澄は無感動な目を携帯に向けた。
液晶画面の割れた携帯が枯れた噴水の傍に転がっている。
このまま携帯を捨てて家に帰ればどうなるだろう。
羽澄はそんなことを思った。
連絡先を登録してあるのは友人の『日笠 ミカ』だけだ。価値のあるデータは何もない。携帯を捨てても困る人間など自分だけだ。
だが、そんなことができるはずもなかった。
その携帯は羽澄が唯一持つ『繋がり』なのだ。これを失えば本当に大事なものが消えてしまう。
それがわかっていても、羽澄は動けなかった。携帯を取りに行く気力が湧いてこない。今はただ、全てを忘れて横になって、眠ってしまいたかった。
その時だった。
バチン
静電気の音を数十倍にしたような音がした。
それだけなら羽澄は気にしなかったであろう。最早、ラップ音程度では羽澄の興味を引くことはできなかった。だが、視界の中にある光が急に点滅を繰り返せばその限りではなかった。
「え…………」
公園の街灯が明滅を繰り返し、バチバチと不吉な音を立てていた。枯れたはずの噴水の金属部分に稲妻が走り、汚れた水が僅かに噴き出る。羽澄の携帯にも紫電が走り、液晶が赤黒い光を放ちだした
「え……え……」
周囲には誰もいない。流石の羽澄の顔に怯えが走る。気味が悪くなり、羽澄が立ち上がろうとしたその時だった。
真横にあった街灯の電球が唐突に割れたのだ。
「っ………」
ガラスの破片が羽澄のすぐ隣に降り注ぐ。慌てて飛びのいたが、飛び散った細かい欠片が羽澄の足に当たった。
その瞬間、またガラスが割れる音がして、明かりが消えた。
羽澄がいる広場を中心に周囲の街灯が次々に割れていく。10を越える街灯が全て破損すれば、周囲は一気に暗闇へと引き込まれた。
「………なに……なに……これ?……」
あまりの唐突な出来事に羽澄の声が震える。
『何かがおかしい』
それがわかっているのに羽澄の身体は縫い留められたようにその場から動けなかった。
公園を照らすのは三日月の頼りない輝きと、星々の僅かな光。その程度では闇に慣れてない現代人の視界は確保できない。周囲にある唯一の人工的な明かりは噴水の傍に転がった羽澄の携帯だけだ。
「……っ……」
羽澄はほとんど転びそうになりながら携帯のもとへと走った。
「あかり……あかりを……」
震える手で携帯の液晶を動かそうとする。だが、携帯の液晶はひび割れ、赤いノイズだけが映り、操作を受け付けない。
「……っ……っ……」
感情任せに携帯を投げたことを心底後悔するがもうどうにもならない。
涙が出そうになり、鼻をすする。
明かりが欲しくてたまらない。この暗闇が怖くてたまらない。なんでもいい、誰でもいい。この恐怖から救ってくれるのならなんでもいい。
本来なら走り出せばいい。公園なんてものの数十秒で外の世界に繋がっている。
そう思うのに、足が動かない。
光が欲しい。
闇が重い。
だが、携帯は動かない。
その瞬間だった
空気が変わった
「っ!!!」
携帯を操作していた羽澄の手が止まった。
夜の世界にまとわりつくような『熱』が現れた。
肌に感じたのは生温い吐息。
近い。
息が肩にかかる。
鉄の臭いが鼻を突く。
滴り落ちてきた粘つく何かが、背中を伝う
『何か』が背後いる。『何か』の大きな頭が頭上にいる。
「っ…………」
息ができない。
奥歯がガチガチと鳴る。
動けない。
それでも――――
振り返ってしまった。
「キシャァァァァァァアアアアアアアア」
巨大な『鉄の蜂』がそこにいた