ウェイミンに連れられて案内された喫茶店『Philip.D』は住宅街の中にあるこじんまりとしたお店だった。
白く塗られた外壁に水色の扉。軒先には小さな銅製の看板がぶら下がり、そこには山高帽のマークと共に店名が草書体で印字されている。窓にはレース付きのカーテンが下げられ、店の中はよく見えない。いわゆる隠れ家的な店である。
店の中には明かりがついていたが、扉には『close』の掛札がかかっていた。
ウェイミンはその喫茶店になんのためらいもなく入っていく。
一歩店に入ると、柔らかな明かりが羽澄達を迎えてくれた。
そこはアンティーク調の家具が並ぶ小さな喫茶店であった。自宅の一室を改造したようなスペースにカウンター席が4つとテーブル席が2つ並んでいる。天井には大きな4枚羽の扇風機がゆったりとした速度で回り、店の奥にはお洒落なタペストリーが飾られていた。カウンターの裏には容器に詰められたコーヒー豆が並び、その隅にはポツンと小さなサボテンが飾られている。店内に流れ続ける静かなジャズミュージックが店の雰囲気にマッチしており、羽澄は一目見てこの喫茶店が気に入ってしまった。
「えーと、和歩、だったか?」
「……私の苗字……呼びにくいので……羽澄で……いいです」
「そうか?んじゃ、俺もウェンでいいよ」
ウェンはそう言って、羽澄をカウンター席に座らせた。岩の巨人であったゴーレモンはいつの間にかゴツモンの姿に戻っており、その腕で先程の小さくなった蜂を抱えていた。
「ウェン、こいつどうする?」
「とりあえず縛り上げて転がしとく、後の処理はマスターに任せる」
「りょーかい」
ウェンはカウンター裏からダクトテープを取り出してゴツモンと共に蜂へと巻き付けていく。最終的にその蜂は羽と手足を一緒くたにされた球体のような形状へと変えられてテーブルの上に転がされた。
「これでよし!」
ゴツモンはそう言ったが羽澄にはまだ不安が残る。
「……これで……いいんですか?」
「平気さ。ダクトテープは万能なんだ」
ウェンはそう言って笑ったが、羽澄にはそれがジョークかどうか計りかねた。ウェンはそれを視線から感じ取ったのか、小さくため息を吐き、面倒くさそうに肩をすくめた。
「……まぁ、応急処置だよ。後々ちゃんと拘束するさ」
ウェンはそう言ってエプロンを身に着けて羽澄におしぼりを手渡した。
「とにかく、ここは『安全』だ。一息つくといい」
「……は、はい……」
羽澄は小さく息を吐きながらおしぼりを自分の手のひらに当てた。
「……っ!」
僅かに痛みが走り、その時になって初めて掌に擦り傷があることに気が付いた。
「…………」
やはり、現実なのだ。
この小さな喫茶店はあまりにも普通で、あまりにも日常的で、先程起きた出来事なんて
だが、手に残る震えと脳裏に刻み付けられた恐怖がそれを全力で否定する。
擦りむいた傷の痛みも、体に残る疲労感も、その全てが先程の出来事が現実であったことの証明だった。
そんな羽澄に向け、ウェンは変わらぬ様子で声をかけた。
「コーヒーは飲めるか?」
ウェンはそう言ってポットに火をかける。
「あ……その……」
「
「……その……ウェンさんは……」
「ウェンでいいって。同級生だろうが」
「あ……うん……あの……ウェンは……その……ここでバイトしてるんですか?」
ウェンは「敬語もいらねぇっての」と言いつつ、コーヒーの準備を始めた。
「まぁ、バイトっていうか……社会勉強っつうか、校正プログラムの一環っていうか……」
「……?」
「まぁ、バイトでいいよ」
ウェンはそう言って、困ったように笑った。
「そんで?コーヒーは?なんならカフェインレスもあるぞ」
ウェンのその問いに羽澄はおずおずと答える。
「……カフェインは……平気……です……でも……ミルクが欲しいです」
「……了解。ゴツモンはいつものでいいか?」
「砂糖マシマシ!!」
「あいよ」
ウェンは淀みない動きでコーヒーカップを準備し、コーヒー豆を挽いていく。そして、カウンター裏から小さなフラスコと漏斗を取り出した。ウェンはそれらを化学実験器具のように組み立て、火をかけた。サックス主体の曲の中にポコポコと水が沸騰する音が混じる。不規則なはずの泡が弾ける音が、コントラバスの低音に溶け込んで、店内の空気を緩やかなものに変えていった。
数分の静かな時間。
その後、ウェンはカウンターにコーヒーカップを差し出した
「ほい、どうぞ」
「…………」
カップの中のコーヒーには既にミルクが注がれ、柔らかな湯気とほろ苦い香りをたたえていた。
「ほい、ゴツモンにも」
「わーい!ウェンのコーヒー大好き!」
「ありがとよ」
ウェンは嬉しそうに顔をほころばせ、自分のコーヒーを用意していた。
「………」
羽澄は差し出されたコーヒーを見下ろす。
カップに入った琥珀色の液体。泡1つない美しい液面には羽澄の疲れ果てた顔が浮かんでいた。
「どうした?毒なんか入れてねぇぞ?」
出されたコーヒーに口をつけようとしない羽澄に向け、ウェンが冗談めかしてそう言った。だが、羽澄は椅子に座ったままコーヒーを眺めるばかりだ。
「……口にする気になれねぇか?」
「…………」
小さく頷く羽澄。そんな彼女を前にウェンは吐息をこぼした。
「いいから飲んでみろ」
「…………」
「人間飲み食いしている間は死にはしない。疲れた時はなんでもいいから口に入れろ……ってな、俺も人の受け売りだけど」
ウェンはそう言って静かにマグカップを口に運ぶ。隣ではゴツモンも大きな口でコーヒーを一気に飲み干していた。
羽澄はもう一度、コーヒーカップを見下ろした。
飲み物を口に入れるというだけの行為。ただのミルクコーヒーなど珍しくもないはずなのに、何故かとても久しぶりに飲むような気さえした。
羽澄は二人に倣うように、カップを口に運ぶ。
途端にコーヒーの豊潤な香りと、ミルクの甘味が口の中いっぱいに広がった。
コーヒーの持つ香ばしさは損ねず、それでいて苦味は少なく、牛乳の柔らかな口当たりが均整の取れた味わいを生んでいた。
「……あ……おいしい」
ウェンはその言葉が世界最高の賛辞であるかのように嬉しそうな笑顔を浮かべた。
羽澄はもう一度カップを口に運ぶ。
温かなコーヒーが喉を通り、腹に落ち、指先に血の流れが戻ってくる。
物を飲み食いするという生物にとって当たり前の行為。それは最も『日常』に近いものと言っていい。
それが、緊張感で固まっていた羽澄の心を溶かした。
「……っ……」
ポタリ、と彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
羽澄はすぐさまおしぼりを手に取り、それを自分の口に押し当てた。だが、漏れでる嗚咽を押し殺せても流れ落ちる涙は止まらない。一粒落ちた雫は頬に筋を作り、とめどなく涙が流れていく。そんな羽澄の隣ではゴツモンがオロオロとしていたが、ウェンは何も言うことなく静かに彼女を見守っていた。
しばらくして、羽澄が落ち着きをみせたのはウェンがコーヒーを半分ほど飲んだ後であった。
「……落ち着いたか?」
「……うん……ありがとう……ございます」
「だから敬語じゃなくていいっての」
泣き目を腫らした羽澄は新しく出されたおしぼりで目元をぬぐう。
「……それと……ありがとう……ございます」
「あん?いいよ、そんな一杯のコーヒーで何度も礼を言わなくたって」
「……そうじゃなくて……さっきの……その……公園の」
「そっちか……」
ウェンは心底退屈そうにゴツモンの方を顎でしゃくった。
「なら、なおさら俺じゃなくて、ゴツモンに言ってやれ」
ウェンは顎で隣の席を示した。
そこにいるのは、カウンター席で足をぶらつかせている『岩の小人』である。
「……あ……」
「にひっ!」
ゴツモンは目を細めて笑顔を作り、親指を立ててウィンクを飛ばしてきた。その様子は先程、巨大蜂と対峙していたゴーレモンの印象とかけ離れていた。そのギャップに困惑する羽澄にゴツモンの方が困惑する。
「あ?あれ?オイラ、なんかまずった?」
「お前が進化前後でキャラ変わるから困惑してんだよ」
「あっ、そうか。でも安心してくれ!ゴーレモンの時も今のオイラもどっちも間違いなくオイラだからさ」
「…………」
にわかには信じられなかった。
だが、ウェンからはそれ以上のフォローはない。
ならば羽澄がすることは1つだった。
「……えと……本当に……ありがとうございました」
「おう!!でも、オイラにとっちゃあれぐらい朝飯前だぜ!」
ゴツモンはそう言って鼻高々に胸を張る。
不思議な存在だった。
ゴツモンは見た目だけなら完全に『岩石』だ。
だが、それが2足歩行で歩き、人格と意志を持って動いている。
羽澄は遂にずっと尋ねたかった質問を口にした。
「……あの……あなたは……一体……」
それを聞いた時、ゴツモンは待ってまいたと言わんばかりに椅子の上に立ち上がった。
「オイラは『デジタルモンスター』縮めて、『デジモン』」
「でじ……もん……」
「そう!そしてオイラはゴツモン、ウェンのパートナーだ」
「……ぱーと……なー」
羽澄は言葉の一つ一つを噛み締めるように復唱していく。だが、その言葉の意味を理解することはできなかった。ゴツモンは『世界で最もわかりやすい説明をした』という顔で満足そうに頷いており、これ以上の情報は望めそうにない。
「…………」
羽澄は助けを求めるようにウェンの方に視線を送った。
「そうだな……説明しようか」
ウェンはそう言って、店内に流れるジャズミュージックの音量を下げ、椅子に座った。
「どこから説明するか……まぁ……まずはデジモンのことからか」
ウェンはそう言い、話しを始めた
「まず、わかっていると思うが、こいつらデジモンは地球上の生き物じゃない」
「……うん」
羽澄は神妙な顔で頷いた。先程の『機械蜂』も隣にいるゴツモンも明らかに人類が出会ったことのない生き物だ。
「こいつらは……『デジタルワールド』っていうもう一つの地球……パラレルワールドからやってきた存在だ」
「…………」
「突拍子の無い話だろ?だけど、本当のことだ。『デジタルワールド』っていうぐらいだからデジタルネットワークが関わっているらしいんだが、俺にもよくわからん……まぁ、とにかく、こいつらデジモン達はなんらかの拍子にこっちの世界に出てきて、何かしらのトラブルを引き起こす。それが、さっきの『機械蜂』フォージビーモンのようなデジモン達だ」
「…………じゃあ……私が襲われたのは……『偶然』……あ……」
そこで羽澄は何かに気づいたように顔をあげた。
「……ウェンが言ってた……『偶然』ならいいけど……往々にして『必然』って……もしかして……」
ウェンは「そういうことだ」と言い、腕を組んだ。
「お前が『たまたま襲われた』のならそれでいい、お前は今日のことを全部忘れて、明日からまた普通の夏休みを過ごせ。だけど、これが『何か原因があって襲われた』ってなら話が変わってくる」
「…………また、襲われるってこと?」
「そうだな。ってなわけで」
ウェンがニカッと笑った
目を細める笑顔の作り方がゴツモンとよく似ていた。
「ちょいと一緒に夜更かししよう。対策会議といこうじゃねぇか」
「…………」
羽澄は言葉を探していた。
あまりにも不思議だったのだ。
この4か月、自分の前の席で常に退屈そうにしていた大きな背中が、こんな笑顔を見せること。
『不良』と呼ばれ、進学校で浮いていた彼は初対面の自分にもこんなに親切にしてくれること。
そのどれもが、つい1時間前の自分では想像もつかないだろう。
それ程までに、羽澄の抱いていた彼の人物像と、カウンター越しに微笑む彼の姿が似ても似つかなかった。
「……どうして……」
「ん?」
羽澄はウェンをまっすぐに見つめ、言った。
「……どうして……ここまでしてくれるの?」
「あん?どうしてって……そりゃ……」
ウェンは一瞬、奥のテーブルへと視線を向けた。
そこには縛られたまま蜂型のデジモンが転がっていた。
ウェンは『お前が困ってるから助けるんだよ』と、口にしようとした。
だが、羽澄の顔を見て思い直した。
羽澄の瞳には思った以上に力がこもっていた。
先程まで恐怖で涙を流していた瞳とは思えない。
彼女はそんな『わかりきった答』を欲してるわけではない。
ウェンは小さくため息を吐いた。
「……まぁ、そうだな……」
ウェンは自分の拳を見下ろした。その時にになって羽澄は気づいたのだが、彼の指にはいくつもの傷跡が走っていた。軽いケロイドのようになった傷は歪な形に盛り上がり、彼の指を一回り大きく見せていた。
ウェンはその指でこめかみを摩りながら、逡巡するように天井に視線を向けた。
「……言いにくい……ことなの?」
「あぁ、いや……別にそういうわけでもねぇんだが……」
そう言う割にはウェンは随分と迷った上で答えた。
「……俺は、トラブルにはできるだけ首を突っ込むようにしてるんだ」
「……え?」
それは羽澄にとって予想外の答えだった。
『トラブルに首を突っ込む』
それはヒーローを目指す少年のような言いぐさに思えたのだ。
それを察したのか、ウェンは渋い顔をして訂正を加えた。
「勘違いして欲しくねぇから言うんだが、別に特別な信条とか理念とかそんなんじゃないからな……単に俺にも都合があるだけだ」
「……都合?」
「そう、俺の都合。だから、お前に手を貸すのも、フォローすんのもその延長。お前がトラブルに巻き込まれてるから助ける。それだけだ」
それは冷たく、突き放すような言い方だった。
はっきりと線を引かれた、と羽澄は感じた。
だが、そんな言い方と裏腹にウェンはどこか申し訳なさそうな顔で笑っているのだ。
その笑顔はやはりゴツモンの笑い方によく似ていた。