夜の23時を回り、羽澄とウェンは住宅街を歩いていた。送っていく、というウェンの申し出はエスコートとボディガードの意味が半々だ。時間が時間なので『マスター』も同行しようかという話もあったのだが、そこはウェンが突っぱねた。
『マスターにはファンビーモンの監視をお願いしますよ』
『うぇっ!!あ~……そうだよねぇ、それは自分の役目だよねぇ……でも進化したらどうしよう』
『その為のシールドでしょうが。んじゃ、よろしくお願いしますよ』
『マスター』は縛り上げられたファンビーモン相手に心底ビビっていたが、ウェンは容赦なく簀巻きにしたファンビーモンを投げ渡していた。ウェンと羽澄は慌てふためく『マスター』を残し、『Philip.D』を後にしたのだった。
深夜近くとも街灯も多い住宅街はそれなりに明るい。
先頭を行くのはゴツモン。
ゴツモンは玩具の兵隊のように手足を直角に動かしながらきびきびと歩き、その後ろにウェンと羽澄が続く。ゴツモンなりの警戒状態ではあるのだが、閑静な住宅街ではあからさまな死角は少ない。ウェンも周囲に意識を張っていたが、デジモンが襲ってくる気配はみられなかった。
しばらく歩き、先程襲われた公園の方に近づくにつれ、少しずつだが周囲の住宅の様子が変わっていく。
一棟の大きさが目に見えて大きくなり、門構えも立派な造りのものが目立つようになる。
「お前、この辺りに住んでんのか?」
「……うん……中学は南ヶ丘中学」
「あのお高くとまった学校か……」
「……ウェンは?」
「知ってて聞いてるだろ。どうせ俺は西中だよ」
そこは近辺の悪童の吹き溜まりとして有名な中学だ。そんな中学で過ごした青春はお世辞にも上品とは言い難かった。そのことを思い出し、ウェンは苦虫を数十匹まとめて噛み潰したような顔をした。
「言っとくが、俺は喧嘩は腐るほどしてきたけど、誰かをパシリにしたり、公共物壊したりとか……
「……将来有望だ」
その言い方にウェンはさらに眉間の皺を深くする。
「その言い方はやめろ。嫌いなんだ」
「……あ……」
本気で嫌そうな顔をするウェン。
その横顔を見て、羽澄はすぐに頭を下げた。
「……ごめん……冗談だった」
「……冗談?」
「……うん……その……本気で言ったわけじゃ……なくて」
「別に俺も本気で怒ってるわけじゃねぇよ……ただ、その言い方に良い思い出がねぇんだ。2度と使わねぇでくれ」
ウェンはそう言って、額をもみほぐしながらため息を吐いた。
「お前の冗談っていつもそんな感じなのか?」
「……普段……喋らないから……多分、今日5年分くらい喋った」
「マジか……」
「……冗談」
ウェンは羽澄と目を合わせた。
羽澄は一切表情筋を動かさないまま、ウェンを見上げていた。
「冗談?」
「……うん……冗談」
「……なるほどな」
ウェンは自嘲するように笑った。
ウェンと羽澄はその後も会話の中に『冗談』を交えながら静かな住宅街を歩いていく。
念のため『自然公園』は通らずに少しだけ遠回りし、2人は羽澄の家の前までたどり着いた。
「ここか?」
ウェンが目の前の建物を見上げる。
その視線を追い、羽澄は息を呑んだ。
「……あ」
羽澄が声を漏らす。
目の前にあるのはオートロックの8階建てマンション。高校生の一人暮らしには、いささか不釣り合いな建物であった。
「……親が……過保護で」
羽澄が言い訳じみた言葉を口にする。
ウェンはしばし困ったようにそのマンションを見上げていたが、最終的に触れないことに決めたようだった。
「そうか、じゃあな」
「……うん、また明日」
「あっ、そうか明日も登校日か……じゃあな」
ウェンは手を振り、ゴツモンも「また明日ねー」とのんきな声で手を振ってくれた。
羽澄は二人に手を振り返す。
「…………」
羽澄はオートロックを開け、自動ドアの向こうに進む。
『家へ帰る』
本当なら自分の安全圏に戻る行為のはず。
それなのに、羽澄の表情は浮かない。
もとから乏しかった表情筋は更に動かなくなり能面のような硬さとなり、エレベーターの前で僅かに俯く姿は決して安息の地に向かう者の顔ではなかった。
羽澄がエレベーターの中に消え、ウェンは一人オートロックの前に取り残される。
羽澄が見えなくなるまで律儀に手を振っていたゴツモンが不思議そうに首を傾げた。
「なんだか、帰りたくなさそうだったね」
「そう、だな」
ウェンは難しい顔でマンションを見上げ、苛立ちを吐き出すように道端に唾を吐き捨てた。それをゴツモンが見咎め、眉を吊り上げた。
「ウェン、お行儀悪いぞ」
「お前は真似すんなよ」
「オイラの話は今してないぞ。ウェンの話だ」
「うっせぇな、お前は俺のかあちゃんか」
ウェンとゴツモンはお互いを小突きあいながら深夜の住宅街へと消えていったのだった
―――――― ※ ―――――― ※ ――――――
マンションの最上階である8階、エレベーターから最も遠い角部屋。
そこが和歩 羽澄の自宅だった。
3LDKの賃貸マンションは羽澄の父の名義で借りているものだ。だが、この家に羽澄の父は住んでいない。羽澄は玄関の鍵を静かに開け、物音を立てないように靴を脱ぎ、忍び足で廊下を歩いていく。
辿りついたリビングは電気が消えていた。リビングには洗濯物が生乾きのまま所在なさげにぶら下げられ、キッチン裏のゴミ袋には空の弁当箱が水洗いもされないまま放り捨てられていた。
羽澄は弁当箱を手に取り、ボウルに水を貯めた。水音すら極力出さないように器を洗い、水分を拭き取り、再びゴミ袋の中にそっと戻す。音を立てず、存在感を出さず、この家に羽澄が住んでいるという痕跡を決して出さないように。羽澄はそれらを無表情のまま淡々とこなす。
羽澄はシャワーを浴びようと、再び廊下に出る。すると、ある一室からわずかに明かりが漏れていた。
中からは明かりと共にゲームの爆音が漏れだしている。耳をすませばその中に女性が誰かに話しかけ続けるような声が混じってるのもわかる。
そのゲーム音には聞き覚えがあった。
それは、羽澄がデジモンに襲われる直前までやっていたオンラインゲームであった。
羽澄はこの部屋の中にいる人のことを知っている。
その人のゲームのプレイヤーネームも知っている。
だから、羽澄はゲームの中で彼女に近づいたのだ
『
彼女は羽澄の実母であり、羽澄が幾度となくチャットを交わしていた『いかんちゅ』その人であった。
羽澄は彼女の扉の前で立ち止まる。
中にいる女性は羽澄が摩訶不思議な生物に襲われたことを知ったらどういう行動をするだろうか?
心配してくれるだろうか?
嘘だと思ってせせら笑うだろうか?
それとも完全に無視を決め込むだろうか?
答えがどれでもないことを羽澄は身を持って知っていた。
羽澄は静かにその場を通り過ぎ、洗面所に向かう。制服を脱ぎ、下着を脱ぐ。アバラが浮いた身体に病的なまでに白い肌。
そして、鏡に映ったその背中には大きな火傷の跡が残っていた。
羽澄は洗面器に水を貯め、音を立てずに身体を洗っていく。
母はいわゆる『ネット・ゲーム依存症』であった。
『ゲームにハマっているだけの人』を揶揄する時に冗談のように使われる単語であるが、これは列記とした『病気』だ。だが、この『病気』と『ゲーム好き』の間の線引きは酷く曖昧だ。そこに明確な基準を設けるとするならそれはおそらく『生活に支障をきたしているか否か』であろう。
その点で考えると、羽澄の母は『病気』ではない。
彼女は洗濯も掃除も食事も全て普通の一般女性のようにこなす。最低限の部屋の掃除はしているし、食事もコンビニ弁当とはいえ維持している。彼女は『生活』をこなしてはいるのだ。
ただ、それは彼女が『独身女性』であった場合の話だ。
彼女の『生活』の中に『和歩 羽澄』という存在は入っていなかった。
最初に兆候が出たのは羽澄が5歳の頃だった。母がゲームに夢中になり、次第に一緒に過ごしてくれなくなった。幼稚園の卒園式や小学校の入学式には顔を出してくれたが、彼女が学校行事に参加してくれたのはそれが最後だ。次第に彼女はネットの世界にはまり込んでゆき、家庭を省みなくなった。父と母が喧嘩する日が増え、パソコンが幾度となく投げ捨てられ、掴み合いの喧嘩になることも珍しくなくなった。
そして、小学3年生のある夏の日に父が消えた。
父がいなくなってからの母はますますゲームの中にのめり込んだ。
配信を始め、独身女性を演じ、画面越しの視聴者からのコメントに一喜一憂する。
そして次第にネットの世界に『出会い』を求め始めた。
一緒にゲームをした男性プレイヤーに迫る言動を見せたり、オフ会を頻繁に匂わせたり。
そんな、彼女にとって、自分に子供がいるという状況はマイナス要素でしかない。彼女は実の娘である羽澄に家の中で物音を立てないよう厳命した。『娘がいる』という事実を画面の向こうにいる視聴者に決して悟らせないように、彼女の存在を消そうとしたのだ。
もちろん、生活の中で音を消すというのは容易ではない。
廊下を歩けば床が鳴る
水を使えば飛沫が飛ぶ
食事をとれば食器が触れる
日常の全ては音を伴う。
そして、その音が少しでも母の耳に届けば『罰』が待っている。
特に、配信に聞こえるような物音を立ててしまった時はただでは済まなかった。
張り手一発であればまだいい方で、鼻血が出るまで殴られたり、熱湯をかけられたことも一度や二度ではない。時には髪の毛を掴まれ、ベランダの外に叩き出されたこともある。
家を出たい
羽澄は何度もそう思った。
だが、締め出されたベランダから見える外の景色はあまりにも広大だった。目の前に広がる夜の帳の中に頼れる人間など誰もいない。『公共機関や友人を頼るべきだ』という選択肢もあったが、羽澄はどうしても踏み出せなかった。
それは、全てを終わらせるという意味だからだ。
母がゲームに飽きて私に構ってくれるという未来。
父が戻ってきてくれるという未来。
また家族3人で楽しく過ごせるという未来。
羽澄が誰かに頼り、全てが明るみに出ればその未来を全て自分でぶち壊すことになる。そう思ってしまったら、羽澄は動くことなどできなかった。
羽澄は洗面器にお湯を貯め、泡だてたシャンプーで髪を丁寧に洗っていく。綺麗好きというわけではなく、これが最も音を立てない洗い方だからだ。羽澄は身体を流し、ついでに汚れた制服を手揉みで洗い、ようやく身体を拭いて自室に向かう。
窓を開け、扇風機の弱風の中で髪を拭き、髪が完全に乾く頃には既に夜中の2時を回っていた。
それでも隣の部屋から聞こえてくるゲーム音は途切れることなく続いていく。
そういえば、今日はゲームの中で新イベの開催日だった。
羽澄はそんなことを思ったが今更ゲームを起動して『ヤナギ』としてログインする気力は残っていなかった。
あのゲームを始めたのもゲームの中で母と話をするためだった。
少しでも母に構ってもらうために、母の配信から導いた彼女の理想像を詰め込んだのが『ヤナギ』という架空の人物だ。
羽澄は携帯のメモ機能に残された『ヤナギ』の設定資料を眺める。
会話に齟齬が出ないよう徹底して作り上げたデータ。
そこに乗っている『ヤナギ』の誕生日は羽澄のものと一緒だった。
だが、母は『ヤナギ』の誕生日にプレゼントを贈ることは忘れなくとも、羽澄の誕生日を祝ってくれることはなかった。
メールで渡された『ヤナギ』への誕生日プレゼント。
あれを見た時に浮かんだ感情は何だったのだろう?
憤怒?悲哀?憎悪?憐憫?後悔?
そのどれも当てはまっているようであり、どれも違うものであるように感じる。
ただ、行き場をなくした感情が爆発したのは確かだった。
だから、デジモンに襲われたのだろうか。
羽澄は疲れた身体を静かにベットに横たえ、目を閉じた。脳裏に浮かんだのは、火花で照らされた巨大な機械蜂の姿。赤黒い光の中に感情の読めないバイザーを被った顔。真下から見た姿はあまりにも恐ろしく……
「…………」
ふと、目を開く。
「……そうだ……真下から見た……」
私が振り返ったとき、フォージビーモンの顔は羽澄の真上にあった。顎の下から私はそれを見上げた。
「……あのデジモン……私を見ていなかった」
あの場にはもう一体デジモンがいた。
すぐに消えてしまったから頭から抜け落ちていたが、黒い炎のような姿のデジモンがいたはずだ。
機械蜂は羽澄ではなく、あのデジモンを見ていたのでは?
「………」
だが、それ以上のことを考えることは羽澄にはできなかった。
羽澄は夏の夜風に促されるままに、瞳を閉じる。
微かに花の蜜のような甘い香りが鼻孔をくすぐった。
それはどこか安心するような香りで、羽澄は心の導きのままに意識を手放したのだった。
翌朝、朝日の光と共に目を覚ました羽澄は人生で一番とも思える熟睡というものを経験したのだった。