登校日2日目
例え非日常を経験したところで、学校の景色は普段と変わりはしない。
命の危機を乗り越えたことで自分の中で何かが変わるかとも思ったが、日常が輝いて見える程に価値観を変えてはくれなかった。
羽澄はいつものように自分の席に座り、授業の予習をしていた。
「……よう」
そんな羽澄は低い声に呼びかけられ、顔をあげた。
「ウェン」
ウェンが教室内に入ると、いつものように教室内の空気がわずかに緊張感を帯びる。
ウェンは羽澄と目線を合わせないように席に座り、廊下側の壁に寄り掛かった。そして、携帯を見ながら、小さな声で喋りかけた。
「昨夜はなにもなかったか?」
「……うん……よく眠れた」
「そりゃよかった」
ウェンはこらえきれなかったかのように喉奥で笑う。
「……冗談じゃないよ」
「わかってるよ。ただ、襲われたその日に安眠とは肝が据わってると思ってな」
「……確かに……」
羽澄はどこか他人事のようにそう言い、ウェンは遂に声をあげて笑った。
「お前はただ喋ってるだけの方がおもしれぇな」
「……褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。あっ、そうだ。授業が終わったら『Philip.D』な。マスターが話があるってよ」
「……うん」
ウェンは羽澄の返事を聞き届け、大きく伸びをして机を枕に眠る体勢を取った。
「…………あ……」
羽澄はその背中に向けてわずかに手を伸ばす。
彼女は昨日思いついた『機械蜂の視線』のことを話そうとしたのだ。だが、眠ろうとしている彼を起こすだけの強引さを羽澄は持ち合わせていなかった。羽澄は行き場のなくなった腕をそっと引き戻した。
その時、どこからか視線を感じた。
ふと、ウェンの鞄を見るとチャックの隙間から黄色い瞳がこちらをうかがっていた。羽澄はその瞳に向けて小さく手を振る。すると、ウェンの鞄が手を振り返すように小刻みに揺れたのだった。
「………」
ウェンがいる。ゴツモンもいる。
一人では代り映えのしなかった教室が急に心地よい居場所のように感じられた。
ウェンが寝息を立てると、友人のミカが忍び足で近寄ってきた。羽澄は少しばかり明るい気持ちで友人との時間を過ごしたのだった。
午前で授業が終了し、チャイムと同時にウェンが起き上がる。その瞳は充血しておらず、本当に眠っていたわけではない。寝たふりをしているのは『授業を真面目に受けたくない』という教師へのアピールであった。そんなウェンはゴツモンの入ったカバンを軽々と持ち上げ、羽澄には目もくれずに教室を後にした。
そして、羽澄はすぐに彼を追いかけた。
「…………」
「…………」
ホームルームを終えた廊下には人があふれていたが、ウェンの姿を見ると自然と道が開く。羽澄はそんなウェンの隣を何食わぬ顔で歩いて行く。
人々の好機の視線があちこちから飛んでくる。だが、羽澄は今更そんな視線など気にしない。むしろ、ウェンの方が苛立ちを隠せない様子であった。
「……お前な……」
人がいなくなった昇降口で、ウェンはようやく口を開いた。
「人が気を遣ってやってんだから、他人のフリしろよ!帰るタイミングをズラすとか、距離を置くとか」
「……私は……困らない」
「……ったく。どうなっても知らねぇからな」
学校を出たところで早速羽澄の携帯に友人のミカからウェンの関係を尋ねるメールが届いていた。羽澄は彼女に『ウェンとは茶飲み友達になった』と返す。
ウェンは羽澄がメールを打つのを横目にこっそりため息を吐いた。今頃教室では様々な憶測が飛び交っていることだろう。噂はもう止められない。
ウェンは全てを諦めたように青空を仰ぎ見る。夏の太陽はそんなウェンを嘲笑うかのように輝いていた。
真夏の太陽の下を歩き、ウェンと羽澄は『Philip.D』にまっすぐ向かった。平日の昼時だったが、『Philip.D』の表口は『close』の看板がかけられ、鍵がかかっていた。
「……あれ……」
「今日は臨時休業だと。こっち来い、裏に回ろう」
ウェンはそう言って裏口の方へと回った。
「靴は持ってあがってくれ。店の方に回る」
「……うん」
「マスター!来ましたよ!!」
ウェンが奥に向けて呼びかけるが中から返事はない。
店の方には電気がついており、空調が回る音はしている。だが、肝心の店の主人の気配がなかった。
「……まだ戻ってきてねぇのかな……サーバールームは動いてるが……ってか、店の電気は消せっていつも言ってんのに」
ウェンはそうぼやきながら廊下を歩いて行き、羽澄も後に続く。その廊下は店のカウンター裏へと続いていた。昨日と変わらぬ『Philip.D』の店内。唯一変わったことと言えばテーブル席の上にクッションが置かれ、そこに気絶したファンビーモンが乗せられていたことだった。
ウェンが鞄をおろすとゴツモンが「よっこいしょ」と顔を出した。
ゴツモンは鞄の中から手足を引っ張りだすようにして出てくる。どうやらゴツモンはヨガのような姿勢で関節を折り畳み、鞄の中に入っていたらしい。関節駆動が人間のそれとは異なるゴツモンならではの隠れ方だった。
「しかし、ファンビーモンはまだ目を覚まさないのか……ゴツモン、お前どんな勢いでぶちのめしたんだ?」
「オイラも全力だったからな。というか、動きが鈍かった気がするんだよな」
「……鈍かった?」
「ああ、無抵抗とまで言わねぇけど、なんか気が抜けてたみてぇな」
「……気が抜けてる……ねぇ……」
ウェンはファンビーモンのテーブルの方に歩いていき、その頬を指先で突っついた。だが、ファンビーモンは起きる気配はなく「きゅ~……」と間の抜けた音を立てるばかりだ。
羽澄もウェンの後ろからファンビーモンを覗き見る。
命を狙われた相手だが、羽澄には気になることがあった。
「……この子……死んでは……ないよね?」
「それはねぇな。デジモンは死ぬと消えちまう」
「……消える?」
「ああ、データの粒子になって消えちまう。んで、消えたデジモンはデジタルワールドで卵になるんだ。デジモンはそうやって命を循環させてるんだと。そうだよな?」
ウェンは体をほぐしていたゴツモンにそう尋ねる。
「そうだぞ」
ゴツモンはそう言い、大きく身体を反らし、首ブリッジを始めた。
「オイラ達デジモンは死ぬと『デジタマ』なって蘇る。でも、一度死ぬと前の記憶が残ってることはないって話だ。オイラも自分が産まれる前のことは覚えてないしな」
羽澄はそんなゴツモンを見て首を傾げた。
「……ゴツモンって……ストレッチする意味……あるの?」
「ねぇぞ!」
ゴツモンはそう言ってニカっと笑った。あまりに屈託のない笑顔に羽澄はそれ以上続ける言葉を失ってしまった。
「気にすんな。こいつの趣味みたいなもんだ」
「……趣味」
「それよか腹減ったな。なんか食うか?俺は仕込んでたカレーにするけど……」
「……ウェンが作ったの?」
「ああ、店のメニューは一通り作れるぞ。希望があるなら言ってみ」
「……じゃあ……ハヤシライス」
「カレーがあるって言ってんのになんでそっちなんだよ。辛いの苦手か?」
「……冗談」
「だからおめぇはよう」
ウェンががっくりと肩を落とす。
「まぁいいや。で、カレーでいいのか」
「……うん」
「ゴツモンは?」
「カレー!オイラカレー大好き!!」
「はいよ。準備してくるから。ゴツモンと遊んでてくれ」
ウェンはエプロンを身に着け、店の厨房の方へと入っていった。
「…………ゴツモンと……遊ぶ?」
I字バランスをしていたゴツモンは勢いをつけて飛び上がり、1回転して着地した。そして、店の奥から取り出してきたのは古き良きカードゲームだった。
「ハスミ、ハスミ、花札!花札やろうぜ!」
「…………」
「あれ?ルールわかんねぇか?なら、将棋でもチェスでもオセロでもいいぞ!」
「……こういうの……好きなの?」
「おう!」
『デジタル』モンスターは『アナログ』ゲームが好き。
これは、デジタルモンスター全てに言えるのか、それともゴツモンがそうなのか羽澄には判断がつかなかった。
だが、ひとまず羽澄は差し出された花札を手に取った。
PCの無料ゲームに並んでいるようなゲームは羽澄も一通り知っていた。父がいなくなってから、家で過ごす時に羽澄に許されていた遊びそれぐらいのものだったからだ。だが、実際に『対人戦』をするのは産まれて初めてだった。
羽澄はカウンター席にゴツモンと並んで座り、山札を置いた。
「……じゃあ……先行決めよっか」
「おう!5回勝負な。ほい、『桜に幕』!」
「……『松のカス』……私が先行……」
羽澄は手触りの柔らかな小さな札を並べ、札を獲得していく。ゴツモンも負けじと札を取っていく。ゲームが白熱していくうちに喫茶店の中にはカレーの香りが漂いはじめていた。
「ぬわぁぁぁ!それ取らないでくれ!」
「……ごめん……三光……これで3文差で……私の勝ち」
「負けたぁぁ……」
持っていた札をばらまき、ゴツモンが諸手をあげた。
「もっかい、もっかいやろう!」
「……ゴツモンは……こういうの……ウェンともするの?」
「ウェンは……あんま遊んでくんねぇな」
「……そうなんだ?」
ゴツモンはその岩の指で器用に花札を混ぜながら、山札を作った。
「ウェンはよく本読んでる」
「……本?」
「分厚い本広げてさ、色々な難しい単語をぶつくさ呟きながら唸ってるぜ。将来のためのべんきょう、なんだってさ」
「……へぇ……」
「余計なこと言ってんじゃねぇよ」
ウェンが厨房から顔をのぞかせる。
「……ウェンも……勉強するんだ」
「そりゃ俺だって勉強ぐらいする。それよか羽澄、マスターから連絡があったんだが、お前がやってたオンラインゲーム……えと……」
「……『FoC』?」
「そうそれ。お前、昨日家に帰ってから一度でもログインしたか?」
「……してない……けど」
「そうか。いや、マスターがそれを聞きたかったらしくて……」
ウェンはそう言って携帯にメールを打ち込んでいく。
羽澄はふと気になって携帯を取り出した。
昨日、マスターに携帯を新調してもらった後、動きを確認するために一度ログインしたがそれ以降はそのまま放置していた。家に帰ってからはもちろん、朝起きてからも一度もゲームを起動していない。羽澄は何気なくゲームにログインしてみた。
母である『いかんちゅ』のことが気になるのも確かだったが、『ヤナギ』のアカウントにはネット友達が少なからずいる。羽澄自身はゲームそのもに楽しさを見出しているわけではなかったが、フレンドが羽澄を頼りにしている局面も多く、彼らに迷惑をかけるのは羽澄としても本位ではなかった。
羽澄は『ヤナギ』のアカウントでログインする。
フレンドから次のログイン時間を尋ねるメールが届いていた。
「…………」
羽澄としてはデジモン事件が解決するまで時間をとってゲームをする余裕はないと思っていた。
だけど、少しぐらいなら……
羽澄はそう思い、今日の深夜にログインすることを伝えるメールを打とうとした。
そんな時だった。
「……あ」
電子音がなり、『いかんちゅ』がログインしたことが通知される。
「…………」
それはまるで、『ヤナギ』がログインしたことに気づき、反応したかのようなタイミングだった。
だが、『ヤナギ』がログインしたことを事前に知ることはできないはずだ。
ただの偶然だろうか。
「……偶然……」
羽澄の脳裏にウェンから言われた言葉が蘇る。
『偶然』ならそれでいいんだが、こういうのは往々にして『必然』であることが多い
「……偶然……だよね……」
それ以外あり得ない。
あり得ないはずだった。
『いかんちゅ』からメールが届く。アイテムが添付されたメールだった。
件名には『昨日の戦利品のおすそ分け』と書かれている。
『いかんちゅ』からのメールにはだいたいアイテムが添付されているので、決して珍しいことではない。
羽澄は胸の内にわずかに引っかかった違和感を呑み込み、届いたアイテムを開こうとした。
その時だった。
「それに触ちゃだめだぁぁああああ!!」
聞きなれない声の警告。
声をあげたのはファンビーモン。
だが、その声に宿る危機感は本物だった。
ゴツモンとウェンがすぐさま反応する。
ウェンの手が伸びる。ゴツモンの石礫が飛ぶ。
だが、間に合わない。
既に羽澄の指は液晶に触れていた。
アイテムが開く。
その瞬間、携帯の画面から黒い瘴気が吹きあがった。