羽澄が携帯を取り落とす。携帯はカウンター席の下に潜り込み更に勢いを増して黒い瘴気を噴き上げる。その画面には昨日と同じ、赤い色のノイズが走っていた。携帯の画面から稲光を纏って黒い風が吹き荒れる
「これは……くそっ!!」
「ぬぉぉぉお、吹き飛ばされる」
ウェンとゴツモンは荒れ狂う力の奔流に押しやられていく。
そして、その黒い瘴気はまるで一本の火柱のようにいきり立ち、その内側で何かの形を作り出そうとしていた。
「羽澄!こっち来い!」
「……え……あ……」
ウェンは羽澄の腕をつかんで引き寄せ、そのまま店の裏手へと押しやった。
「そのまま店の裏から逃げろ!ゴツモン!先手必勝!」
「おうよ!『アングリーロック』」
ゴツモンは頭を大きく振り、巨大な石礫を瘴気に向けて放った。だが、ゴツモンの石は瘴気に触れた途端、わずかな燐光と共に砕け散った。
その反応にウェンの息が止まる。
ウェンにはその赤い光に見覚えがあった。
「……まさか……ゲートか……」
それは、地球と『デジタルワールド』を繋ぐゲート。
ならば、中から現れるのは新たなデジモン。
ウェンが「やばい……」と呟いた。
次の瞬間、瘴気の中から真っ赤に燃え盛った炎の足が現れた。
続いて、同じ色の炎をまとった身体が出現する。『それ』は『人型の輪郭を持った炎』だった。その炎の塊は天井に届かんばかりの体躯を持ち、頭部には氷のように冷たい青い瞳と人形のように縫い合わせられた口がついていた。
そのデジモンの名は『メラモン』。
店内が暖炉の中に放り込まれたかのように真っ赤に染まる。室温が急上昇し、窓ガラスがパリンとひび割れた。
ウェンの全身から汗が噴き出す。
だが、それは体温を下げる為の生理的な発汗ではなく、背筋を凍らせるような冷や汗だった。
「新規様一名ご来店……当店、Philip.Dではデジモンのお客様も分け隔てなくお迎えいたしますが、全席禁煙になっております。火元は消すようお願いします」
どうせ通じるわけがないとわかりながらもウェンは軽い冗談を飛ばす。
それに反応したわけではないだろうが、メラモンはウェンに視線を向けた。
メラモンが縫い合わされた口を大きく開く。
「テニイレル……テニイレル……ダレモニガサナイ」
手に入れる?
ウェンがそう思った刹那、メラモンが両手を広げた。次の瞬間、喫茶店を取り囲む巨大な火柱が立ち上がった。それは喫茶店の周囲を取り囲む壁となり、全ての窓や出入り口を塞いだ。
「てめっ……」
「……う、ウェン……」
裏口から逃げ出そうとした羽澄が後ずさる。
裏口は扉もろとも完全に炎に呑まれていた。
しかもその炎は蛇がのたうち回るように廊下へと燃え広がり始めている。
「くそっ、やっぱこいつをどうにかするしかねぇってことか……」
ウェンが引き攣った笑みを浮かべながらエプロンを引き裂き、両手の拳に巻きつけた。
ゴツモンもウェンの隣で脇を締めたボクシングスタイルの構えを取る。
「ウェン、相手は『成熟期』だ!こっちも進化だ!」
「おめぇ……ここどこだか忘れたか?」
「えっ……あっ!!」
ゴツモンは周囲を見渡し、ハッとしたようにファンビーモンの方へと視線を向けた。
「もしかして!!」
「サーバーが動いてた。『ダークタワー』だったか?あれの応用で作った進化を封じるシールドが張られてる。ここじゃ、進化はできない」
「くそぉぉおっ」
それは『マスター』が仕掛けたファンビーモンが暴れ出した時の保険だった。
店の中でファンビーモンに進化されないようにする対策のつもりが、今やこちらを縛る枷となっている。
『マスター』も店の中に『成熟期』のデジモンが突然現れるなんて事態は想定していなかった。おかげでゴツモンは進化できず、状況は最悪の一言だった。
客席が並ぶ店の中央でウェンとゴツモンがメラモンと対峙する。メラモンは二人を指さし、唇の端を吊り上げた。
「オマエラハ……ハイジョ……」
「俺達……は……ね」
ウェンは腰を落とし、猫足立ちの構えを取る。
ウェンの腕に巻いたデジヴァイスが光を上げる。
『デジヴァイス』
人間とデジモンという全く違う生物との出会いはその関係の良し悪しに関わらず、お互いに強い影響を与える。それにより生じるネルギーを出力する装置こそが『デジヴァイス』だ。
例えば、人間とデジモンの身体の動きを
昨晩の闘いでゴーレモンがウェンの動きを完璧にトレースしたのもこの力によるものだった。
今回、ウェンが用いたのは『ボディ・リンク』。その力により、ウェンの肉体は一時的にゴツモンと同じような岩の肌と化す。
だが、相手はゴツモンよりレベルが一つ上のメラモン。その炎を無効化するにはゴツモンの力ではあまりに弱すぎる。いくらデジヴァイスの力を使おうとも、メラモンの攻撃を受ければウェンもただでは済まない。
それはウェンも理解していた。だが、逃げ道がないのだ。なら戦うしかない。
ウェンは腹をくくり、拳を握りしめた。
「てめぇ、これでカレーが焦げたらマジで許さねぇからな」
「そんなことになったら、オイラも許さねぇからなぁ!おらぁあぁ!」
ウェンとゴツモンはほぼ同時にメラモンに向かって突っ込んだ。
メラモンとの距離は一歩半。ウェンは一気に奇襲を仕掛けるべく、渾身の飛び蹴りを放った。一切の躊躇の無い攻撃は油断していたメラモンの腹に見事に突き刺さった。
「グオッ!!」
メラモンの顔が大きく歪む。
ゴツモンとリンクしたことでウェンの膂力が底上げされているのだ。そんなウェンの一撃を受けてメラモンがたたらを踏む。その直後、ゴツモンが同じ場所めがけて強烈な頭突きを叩き込んだ。
「グオッッ!!」
メラモンの背中が店の扉に当たる。
「叩き出してやんよ!!」
ゴツモンが一気に前に出る。
だが、相手は『成熟期』。メラモンはすぐさま応戦する構えを取った。
「ヤキツクス……ヤキコロス……ヤケシネェ!!!」
振りかぶられた灼熱の拳。火傷しそうな程の熱風が店内に吹き荒れる。
だが、ゴツモンは怯むことなくメラモンの懐に飛び込んだ。
次の瞬間、メラモンの腕が爆発的に加速した。メラモンは肘部分から後方に炎を放ち、ブースターにして攻撃速度をあげてきたのだ。
「げっ!!」
ゴツモンが殴り飛ばされ、そのままウェンに激突する。
「ぐおっ!!」
ウェンはその衝撃を止めきれず、二人は店の奥へと叩き戻された。
「くっそ……やっぱ伊達じゃねぇよな」
ウェンは滝のように流れ落ちる汗をぬぐい、再び構えを取る。出入り口付近まで押し込んだメラモンは再び歩を進め、ウェン達に迫り来る。
ここで受けに回るのは性に合わないとばかりにウェンとゴツモンは再びメラモンへと向かっていた。殴り、蹴り、殴られ、回避し、更に踏み込む。
ウェンの身体にはみるみるうちに火傷の痕が増え、ゴツモンの岩肌が焼けこげていく。
そんな彼らの戦いを羽澄はカウンターの裏で壁に張り付き、震えて見ていることしかできなかった。
「……はっ……はっ……」
彼女には『何が起きている』のかがわからなかった。
メラモンが現れた理由も、自分達を捕まえようとしている理由も、何もわからない。
だが、『なぜこれが起きた』のかはハッキリとわかっていた。
自分が開いたアイテムだ。自分が不用意に開けたメールがこの状況を作り出してしまった。
前兆はあった。
昨日公園で襲われた時も全ては『いかんちゅ』である母から送られたアイテムを開いた時に起きたのだ。
警戒すべきだった。気づくべきだった。
いや、本当は気づいていのだ。
だが、どうしても認められなかった。信じられなかった。
だって……
「……お母さんが……『私』を……」
娘としての自分ではない。
これは『ヤナギ』への攻撃だった。
『ヤナギ』は母の為に必死に積み上げてきたもう一人の自分だ。母にもう一度構って欲しくて産み出した存在だ。母との間に紡いだ偽物であるが実態を伴った絆。
それが拒絶されたのなら、私は……
「…………っ」
羽澄は自分の頬を強く張り倒した。
痛みで自分の思考をリセットする。
今は、絶望している時ではないのだ。ウェンとゴツモンが目の前で戦い、今まさに傷ついている。
羽澄は必死に周囲を見渡した。少しでも炎の弱い場所、少しでも逃げられる可能性がある場所を探す。だが、メラモンの炎は完全に店を覆っており、逃げ道はない。だったら火を消すしかない。羽澄はカウンター裏の水道のレバーに手を伸ばした。
だが、その取っ手を握った瞬間に肉の焼ける音がした。
「………っあぁっ!!!」
羽澄はすぐさま取っ手から手を放し、痛みに顔をしかめた。店内の金属製品はメラモンの炎に煽られて灼熱と化していた。羽澄の手は真っ赤に焼け爛れ。数か所に水泡が浮かんでいた。だが、火傷としては軽い部類だ。羽澄はそれを経験則で知っていた。
羽澄は火傷も構わず、水道に再び手を伸ばす。
「………っ!」
羽澄はレバーを殴るようにして跳ね上げた。
「…………なんで……」
だが、水道から水は一滴も流れ落ちてこなかった。
何度レバーを上げ下げしてもその結果は変わらない。
「………っ!」
羽澄はすぐに水道を放棄し、店内を見渡す。
「……なにか……なにか……」
羽澄が悩んでいる間にも状況は刻一刻と変化していく。店内ではゴツモンが殴り飛ばされ、テーブルと激突して激しい音を立てていた。ウェンが蹴り上げられ、壁に叩きつけられた。激しい戦闘音が羽澄に焦りを産み、更に思考が鈍っていく。
「……どうすれば……どうすれば……」
そんな時だった。
「羽澄さん!」
甲高い声が、羽澄の足元から聞こえた。
「……え……あ……」
「私はファンビーモン!ファンビーモンです!」
それは拘束されたままになっていたファンビーモンだった。どうやったのか、ファンビーモンはダクトテープで簀巻きにされたままカウンター裏まで転がってきたのだ。
ファンビーモン羽澄を見上げ、必死の形相で訴えかけてきた。
「このテープをはがしてください!私にあなたを攻撃する意図はない!!」
「……え?」
「昨日の夜は脅かすような形になって申し訳ありません!!本当に、私は、あなたを守るために……とにかく!今は、これを、このテープをはがしてください!私は、私は……」
そして、ファンビーモンは羽澄の目をまっすぐに見て声を張り上げた。
「あなたの力になりたいのです!」
「…………」
それはあまりにも突然の申し出だった。
昨日の公園で、ファンビーモンは羽澄の頭上に巨大な腕を振り下ろそうとした機械蜂と同一の存在だ。
そのファンビーモンが今度は羽澄の味方になりたいと言ってきた。
困惑するなという方に無理がある。
「羽澄さん!お願いします!」
ひっくり返りながら律儀に頭を下げるファンビーモン。
羽澄の混乱はピークに達していた。
『本当に助けていいの?今は助けになるなら猫の手も欲しい。戦力が増えるなら解放すべき。だけど、ファンビーモンが嘘をついていて、解放された途端に自分やウェンに襲い掛かってきたら?そうなったら本当に打つ手がなくなる。でも、このままじゃ……』
思考の深みに嵌り、羽澄の動きが止まる。
『どうしたらいい?何をしたらいい?……何をすれば……』
「羽澄!!」
強い声が
野太く、深く響くウェンの声が、羽澄を思考の渦底から引きずり上げた。
羽澄が顔をあげる。
殴り飛ばされたウェンが、椅子を蹴散らしながら立ち上がり、叫んだ。
「羽澄!そいつを解放しろ!」
「……え……」
ウェンはメラモンに向かって床を蹴った。
「解放しろ!!手が足りねぇんだ!!」
ウェンの動きに合わせてゴツモンが先手を取ってメラモンに一撃を入れ、ウェンがその隙に素早く懐に入り込む。ウェンはメラモンの胴体に鋭い前蹴りを叩き込み、メラモンを窓際まで押し返す。
「どうせ、ここにいたらそいつも焼け死ぬ!それに……」
ウェンは一瞬だけ、羽澄とファンビーモンに視線を向けた。
「……俺の時もそんな感じだった」
「え……」
「とにかく急げ!!」
ウェンがファンビーモンの言葉を切り、そのままメラモンへと再び向かっていた。
羽澄とファンビーモンの目が合う。
初めて直視するファンビーモンの瞳はとても綺麗なオリーブ色だった。強い輝きを孕んだその瞳が羽澄を射抜いていた。
「羽澄さん!私を信用できない気持ちはわかります!」
ファンビーモンは身体を反るようにして声を張り上げた。
「でも、でも!!今、私は動かないといけないんです!!このまま……黙って見てられない!!!」
「…………っ」
羽澄の喉奥が詰まる。
その時、ウェンが叫んだ。
「伏せろぉ!!」
ウェンの声に羽澄は咄嗟にファンビーモンを抱え込むように床に伏せた。直後、羽澄の頭上を巨大な火球が通りすぎる。火球はカウンター裏の棚を直撃し、炎の渦となって燃え上がった。
カウンターの裏が真っ赤に炎で染まる。
羽澄は身体を起こし、自分の手の甲を見つめた。薄く、細く、頼りない手だ。その手が躊躇うことなくファンビーモンを守ったことにある種の驚愕を覚えていた。
「…………」
羽澄がファンビーモンを見下ろすと、ファンビーモンは涙目になって、律儀に頭を下げていた。
「あ、ありがとうございます!羽澄さん!」
「……ファン……ビーモン……だよね?」
「はいっ!」
「……どうして……」
その先の言葉は上手く形にできなかった。
目の前の存在は信用できないはずだった。
そう判断する材料ならいくらでもある。
なのに、思考や感情とは別のところが身体を突き動かす。
「……ファンビーモン……」
「はいっ!」
メラモンの火炎弾が再び羽澄の背後で爆発した。羽澄の頬を揺れる炎が照らしていた。
羽澄は意を決したようにファンビーモンの手を取った。
「……力を……貸して」
「もちろんです!私は……その為に来たんです!!」
羽澄はダクトテープを掴み、力いっぱい引き剥がした。
その瞬間、強烈な光が周囲を包み込んだ。