re:spring~もしも有馬公生が中学1年生の頃に逆行したら~ 作:東雲るぅ
中学三年生の冬、宮園かをりがこの世を去った。
「ありがとう、有馬君。かをりの人生をカラフルにしてくれて」
1週間が経ち、公生は、かをりの墓へ足を運んだ。
そこでばったり、かをりの両親と出くわす。
彼らは、公生に一枚の手紙を渡した。
──有馬公生様
それは、宮園かをりが有馬公生に宛てた手紙だ。
かをりの両親に感謝の言葉を伝えたあと、公生は墓地から抜け出す。
公生は、手元にある手紙に視線を送る。
この手紙には彼女の想いが、言葉が残されている。
読みたい。だけど読むのが怖い。宮園かをりのすべてを知ってしまいそうで。
少しだけためらったあと、公生は手紙を読むことにした。
歩きながら、封を切る。中身をのぞこうとした、その瞬間であった。
────ブロロロロ。
エンジンをふかした音、動く物体が空気をのける音。
気が付いた時には遅い。歩道に、車が。公生にめがけて一直線に。公生は身動きができない。
「……あ」
公生の視界が、真っ暗になった。
意識を失う寸前、道路の向こう側で、座りこんだ黒猫が公生を見つめていた。
★
「ううっ、うわぁ!!」
公生は叫んだ。パニック状態のまま周囲を見渡す。
「あ、あれ? ここは、僕の部屋……?」
ベッドから起き上がった公生は、違和感を覚える。
まずは冬とは思えないほど、室温が温かい。まるで春のようだ。
「ん、んん。声が変だな……? 風邪でも引いたのかな?」
それに心なしか、自分の声が普段とは違って、少し甲高い。
公生は部屋を出て、洗面所に向かう。そして鏡で自分の姿を目にした瞬間、仰天する。
「……なんだこれ?」
鏡に映った公生は、いつもより少し幼い顔立ちをしていた。なにより身長が縮んでいる。
まるで12、13歳の頃に若返ったようだった。
★
「公生! 起きてるー!? 早くしないと遅刻するわよー!」
聞きなじみのある、幼馴染の声だ。玄関口にいるのだろう。
公生は、ばたばたと朝の身支度を終える。
玄関のドアから顔をだした公生は、二人の人物を見かける。
「今日は中学の入学式なんだから! 早めに行かないと、青春の良いスタートダッシュを切れないわよ!」
ひとりは、澤部椿である。
公生は、椿の姿を視界にとらえて、硬直する。
椿も、公生と同じように、数年前の姿だったのである。
市立墨谷中学校の制服に身を包み、両手に腰を当てて、ふんぞりかえっている。
「おおっと、主役は遅れて登場ってわけか?」
もう一人は、渡亮太だ。
渡の爽やかな整った顔立ちが幼く見える。
そのせいか、いつもの軽薄な雰囲気が一切なく、子供っぽい印象を与えてくる。
(中学の……入学式?)
そんなまさか、と公生は思った。
深呼吸して心を落ち着かせてから、二人にこう尋ねる。
「……椿、渡。今日は何年の何日なのか教えてくれない?」
★
どうやら自分は、タイムリープによって過去に戻ったらしい。
それも2年前の、中学一年生の4月1日に巻き戻ったのだ。
公生はこめかみに手を当てる。
(僕は頭がおかしくなってしまったのか?)
こんなバカげたことは夢に違いない。しかし夢にしては意識が鮮明すぎる。
やはり幻覚か? 頭がおかしくなったのか?
学校へ向かう通学路を、椿と渡と共に歩く。
2人は、これからの中学生デビューに胸をふくらませて、あれやこれやと話に興じていた。
そんな2人に反して、公生はどこかおぼつかない足取りで進む。
「ねえ、公生」
「どうかしたの椿?」
「何か、変な感じ」
「変な感じって、なにが?」
公生の問いかけに、椿は、むむむ、と眉を寄せて口にする。
「うーん、どう言葉で表現すればいいのか分かんないんだけど……すごく大人っぽくなったというか」
「お、おとな?」
「おーそれそれ! 俺も思った! なんというか、男として一皮むけた感じ?」
椿と渡の言葉に、公生は首をかしげる。
(確かに昔の僕はいつも俯いてばかりなやつだったけれど……)
かつて公生の視界は、譜面のようにモノトーン色で染まっていた。
母を失い、ピアノを弾けなくなり、ついには心を閉ざしてしまった。
だがあの春の日に、宮園かをりと出会い、モノトーンだった視界がカラフルに色づいた。
(そうだ、宮園さんがいなければ今の僕はいない……だけど、彼女にはもう感謝は伝えられない)
感傷に浸りかけた公生だったが、ふと思考が止まる。
(……いや、待てよ。どうしてこんな簡単なことが、今までわからなかったんだ!)
ここは2年前の過去だ。
なら、宮園かをりは生きている。
気が付くと、公生は走り出していた。
★
全力疾走で5分。公生は、市立墨谷中学校の校門までたどり着く。
学校の敷地内は、新入生で溢れかえっている。
(どこだ、宮園さんは? もう校舎の中に行っちゃったのかな?)
公生は、かをりの姿を必死に探す。
だがいくら駆けずり回っても、かをりは見つからない。
「公生ー! いきなり走り出して、どうしたの?」
「まあ落ち着けよ、椿。公生はワクワクしすぎて走り出しちまったんだ」
渡と椿が公生の元にやってくる。そんな二人をみとめた公生は、落ち着きを取り戻していく。
「……う、うん。そうだよ渡。ごめんね、椿。ちょうど今、冷静になったところだから」
「もー、やっぱり今日の公生は変だよ」
「あはは、それはきっと椿の気のせいだ」
公生は、頭の中が急に冷めていくような感覚を覚えた。
もし宮園かをりと会ったところでどうなる。
2年前の時点で、かをりと公生は面識がない。話しかけたところで、変な奴だと思われるだろう。
なにより、かをりは自分のことなど見向きもしないはず。
──『かをちゃんは、渡のことが好きなの!』
宮園かをりは、いずれ渡亮太に恋をする。
そこに自分が入る余地はなく、どこまで行っても自分は、彼女の友人Aにしかなれないのだ。
「ごめんね、それじゃあ二人とも行こうか」
公生は笑って、自分の心情をごまかした。
★
公生に、衝撃が走った。
その少女を一言でいえば、どこにでもいる女の子だ。
金髪のおさげ。黒縁の眼鏡。うつむきがちな顔は、少し陰気な雰囲気を漂わせている。
靴箱がある玄関口。たくさんの人だかり。公生は、二人と他愛もない会話をしながら、上履きに履き替える。
その時である。人混みの中にいる一人の少女と目が合った。
「宮……園さん」
髪型も違う。
雰囲気も違う。
顔立ちも少し幼い。
初めて出会った時の彼女とは、まるで別人だ。
それでも公生は、一目見て、彼女だと分かった。
「……え」
公生のつぶやき声に、宮園かをりは目を見開いた。
「宮園さん!!」
公生は大声を張り上げて、かをりに近づく。
周りにいる生徒たちは、突然叫んだ公生に注目している。しかし今の公生にとって心底どうでもいいことだ。
「君は、宮園かをりさんだよね」
「は、はい」
「そうか、そうなんだ……本当に生きているんだよね」
「……い、生きている?」
思わず公生は、かをりの手を取って、固く握った。
かをりの手は、あの冬の日のように細くやつれておらず、艶があって生命を感じる。
「ふぇっ!?」
かをりは顔を紅潮させ、びくりと体を震わせる。
冷静になった公生は、すぐに、かをりの手を放す。
「わ、ごめん。つい……」
それから公生は押し黙る。
近づいて、手を握ってしまった。
初対面で最悪な印象を与えてしまった。彼女に嫌われてしまったかもしれない。
ところが、かをりの反応は、公生の予想していないものだった。
「こんなの嘘。どうして公生君が、私のことを……?」
かをりは、ありえないものを見かけたような、そんな驚きの表情を浮かべていた。
それに対して、公生も驚愕する。
「……え、なんで君が僕のことを知っているんだ?」
「あ、えっとそれは……」
かをりが話を続けようとしたところで、公生は背後から衝撃を受ける。
「こらー! 公生ー! なにしてんの! 入学早々女の子をナンパするなんて!」
後ろから椿が、公生の背中に頭突きしたのである。
そのさらに後方から、渡がカラカラと笑いながら、歩いてくる。
「マジかよ、公生。まさかお前が女の子を口説こうとするなんてな。男子三日会わざれば……ってやつか?」
「もう、渡、茶化さないの! お姉ちゃんは公生をこんな子に育てた覚えはありません」
ひとまずこの場を収集しなければ。公生はそう思った。
その瞬間である。かをりは暗い表情で目線を下げ、踵を返した。
「あっ、待って!」
そのままかをりは、逃げるように廊下の向こうまで走り去る。
公生は、どんどん遠のいていくかをりに、手を伸ばした。
──待って、もう置いていかないで。
公生の頭の中で、フラッシュバックする。
太陽のように輝かしかった彼女。
春の日差しのようだった彼女は、しだいに冬の空のように、薄く、白くなって、やがては雪のように消えていく。
また、いなくなってしまうのか。
公生は、ひどく悲しく感じた。
★
──ありえない、こんなことはありえるはずがない。
宮園かをりは、全力で校舎の階段を駆け上がる。
「どうして、公生君が……」
かをりは、動揺していた。
それは当然のことだった。
あの有馬公生が、ずっと憧れていたあの少年が、自分に話しかけてきたのだから。
全ての始まりは、かをりが5歳の時である。
当時、かをりが通っていたピアノ教室の発表会。そこで一人の少年が、ピアノの演奏をする。
少年の名は、有馬公生という。
公生が一音を奏でた瞬間、かをりは、その演奏に心を奪われる。
──『おとうしゃん、おかあしゃん、ヴァイオリン買って! コーセー君にピアノ弾いてほしいの!』
かをりは、熱心にヴァイオリンに打ちこんだ。
すべては有馬公生と一緒に演奏するため。
それから8年が経ち、かをりは、偶然、同じ中学校に公生が入学することを知った。
かをりは舞い上がった。
どうやって声をかけよう。どうすれば仲良くなれるだろう。
そんな思いを抱えつつ、登校初日、かをりは公生の姿を見かける。
だが、かをりは話しかけることができなかった。
公生のそばには、2人の幼馴染がいたのだ。
彼ら3人はぴったりと固まっている。
かをりは、ただ、眺めていることしかできない。
諦めて、公生から視線を外しかけたその時、不思議なことが起きる。
────「宮園さん!!」
公生がなぜか、自分の名前を叫び、自分の元に近づいてきたのだ。
ずっと憧れていた彼が自分をまっすぐ見つめてくる。
かをりは気が動転して、その場から逃げた。
「……どうしよう、私、最悪だ」
校舎の屋上までたどり着いて、かをりはその場で座り込む。
逃げてしまったのは、かをりの、自信のない性格のせいだ。
幼少期の頃、かをりは天真爛漫な性格であった。
だがある日、手術を受けたことをきっかけに、定期的に通院することとなる。
その時から、自分の体があまり良くないことに気がついた。
そうして、しだいにかをりの明るい性格は暗くなっていった。
(きっと公生君に嫌われた。あそこで彼と話をすればよかったのに)
かをりは壁に背を預けて、快晴の空を見上げていた。
しばらくすると、屋上の扉が開いた。
かをりは、息をのむ。
有馬公生だ。
息を切らした公生はこちらに近づいてくる。
かをりの心臓が、どくん、と鳴った。
「あの……さっきはごめんね」
「……い、いいの。私はぜんぜん、気にしていないから」
「ううん、君が気にしていなくても、僕は気にしている。君に迷惑をかけてしまった」
それから数秒間、おたがいに沈黙する。
次に「あの……」と、2人が同時に声を出す。お互いの声に覆いかぶさって、またしても二人は沈黙する。
だが、その緊張した空気はすぐに壊れる。
「くしゅんっ!」
いきなり公生がくしゃみをした。おそらく花粉症なのだ。
かをりは、そんな公生の姿を見て、思わず笑ってしまう。
あの忘れられないピアノコンクールの日、5歳だった公生はイスにお尻をぶつけて、周囲の笑いを誘った。
目の前の彼は、あの頃の彼と何も変わっていない。
どこか不器用で、だけどすごく優しい目をしている。
彼は、まぎれもなく、宮園かをりが憧れた有馬公生その人だ。
(やっぱり、君がいい。君じゃなきゃ嫌だ!)
今ここで逃げ出せば、死ぬまで後悔する。
かをりは、一生分の勇気を振り絞って、口にする。
声音が震える。
緊張と、興奮。
それから、どうしようもないほどの喜びで。
「有馬公生君、私と友達になってください」
★
「あらためて、私は宮園かをりといいます。澤部さんと渡さんも、私と仲良くしてくれたら、すごくうれしいです」
そう言って、かをりはぺこりと頭を下げた。
「宮園さん、そんなに大仰しくしなくていいよ」
公生が優しげに言えば、かをりは恥ずかしそうに顔をそらす。
「だって、初対面の人だし、有馬君の友達だもん。緊張しないわけがないよ……」
それを見かねたのように、椿がフォローを入れる。
「全然っ、気にしないで! 公生の友達は私の友達だもん。私のことは椿って呼んで! 私はかをちゃんって呼ぶから!」
渡は、自分の髪をかき上げて、言い放つ。
「やっぱり俺の目に狂いはなかった。宮園さんは一見地味に見える。だがその素朴な感じたまらなくイイ!」
かをりは、ぽりぽりと頬をかく。
「えーと、椿ちゃん、渡君、ありがとう……」
それから公生たちは、一つの机を囲うように4人で席に座り、昼食をとった。
時刻は、お昼休み。
4限のチャイムが鳴ったあと、新入生たちが詰め込まれた教室は一斉に騒がしくなった。
食堂で昼食を買った公生は、隣の教室に移動し、そこで三人と一緒に昼食をとることとなった。
(まさか、宮園さんがいきなりあんなことを言うなんて)
公生は、食堂で購入したたまごサンドをほおぼりながら、かをりを眺める。
突然、かをりは「友達になってほしい」と言ってきたのだ。
公生は、意表を突かれつつも、その頼みにうなずいてしまったのだ。
(どうして彼女は『友達になりたい』だなんて言ったのだろうか……?)
かをりからすれば、公生はいきなり接近してきたストーカー野郎である。
彼女の言動が不可解でならない。
じっと公生がかをりを見つめていると、視線に気が付いたのか、かをりも公生を見つめ返す。
かをりが「あ」とつぶやいて、頬を朱に染めながら、下を向いた。
そんなかをりの態度を不審に思ったのか、椿は公生とかをりに質問する。
「やっぱりだけど……公生とかをちゃんって、知り合いだったの?」
「え?」
「ん?」
「だって公生、かをちゃんの名前を呼んでいたじゃん。それにかをちゃんも『公生君』って言っていたし。そもそも変な話だよ。人見知りの公生が女の子にナンパするわけがないもん」
公生もたしかに耳にした。
かをりは公生と面識がないはずだ。
それなのに公生のことを知っていたのだ。
もちろん、かつて公生は同年代の間では有名だったので、顔を知られていることもある。
だが、それでも違和感をぬぐえない。
かをりは、もじもじしながら、打ち明ける。
「実は、ずっと昔に有馬君の演奏を聞いたことがあって──」
そしてかをりの口から語られたことは、公生にとって驚愕の真実だった。
なんと宮園かをりは、公生が5歳の時に参加したピアノ教室の発表会に参加していたのである。
椿は納得したのか、満足げな顔でうなずいた。
「ふーん、じゃあ、かをちゃんもあの時、一緒だったのね。公生と、私と、渡と」
あの5歳の日に、自分と彼女はとっくに出会っていたのだ。
公生は、なんともいえない不思議な感覚に圧倒された。
場が少し和んだところで、渡が疑問を挟んだ。
「あれ? それはそうと、公生がなんで、かをりちゃんを知っているんだ?」
公生は焦った。
まずい。なんと答えようか。
「2年半後の未来の世界で彼女と友人だった」といえるわけがない。
「……実は、ずっと昔に、ヴァイオリンの発表会で、宮園さんを見かけたんだ」
「どこの発表会だ?」
「忘れちゃった。もう昔のことだから。もしかしたらコンテストかもしれない」
「へえ」
そこで渡の追及が終わり、別の話題に移る。
公生は安堵の息をついた。
★
放課後を迎えたあと、公生は一人で帰路についた。
残念ながら、椿と渡は部活の勧誘にあったせいで、一緒に帰ることはできなかった。
「宮園さん?」
「……有馬君」
偶然だろう。その途中で、公生はかをりを見かけた。
公生は、かをりを前にして、口を閉ざす。
どう言葉を紡げばいいのか、わからなかった。
「宮園さん、せっかく仲良くなったんだし、一緒に帰らない」
「えっ、いいの!?」
「良いも悪いもあるもんか。こっちからお願いしているんだよ」
「う、うん!! よろしくお願いします!」
かをりは、嬉しそうに声を上げる。まるで飼い主にしっぽを振る子犬みたいだ。
公生の心はかき乱される。
(なんでそんなに喜んでいるのだろう)
いきなり自分の友人になりたいと言い出したことといい、かをりの言動が腑に落ちない。
それから公生とかをりは、並んで、通学路を歩いた。
並木道には、桜が咲き誇り、路面には桜の花びらが散乱している。
(昔の宮園さんは、こんな感じだったんだなぁ……)
公生は、隣を歩くかをりに対して、そんな感想を抱く。
公生が出会った頃の、かをりは、一言でいうならば、印象最悪。暴力女。
だけど、カヌレが好きで、演奏家で、渡亮太に恋をしていて、人を惹きつける雰囲気と、掴みどころのないミステリアスさがある、素敵な女の子。
だが2年前の、今の宮園かをりはどうだ。
容貌は、黒縁の眼鏡に、控えめなおさげの金髪。性格は真逆で、おとなしい。
公生の記憶にいる彼女は、もっと豪快でズケズケとしていた。
あの時の宮園かをりとは、大違いだ。
(僕は、宮園さんのことを全然知らないや)
自分と出会う以前は、彼女はどんな生き方をしていたのだろう。
最後まで、彼女は何を考えていたのだろう。
ずっと黙りっぱなしだったかをりが、質問をする。
「あの、有馬君はもうピアノを弾かなくなったの?」
「うん?」
「もうずっと、有馬君がどこのコンテストにも出場しなくなって、いったいどうしたんだろうってずっと思っていたの」
「なぜそんなことを……?」
「実は、あのピアノ教室の、有馬君の演奏がすごく印象に残っていて……有馬君がコンテストに出るたびに、ちょくちょく見に行っていたから……」
「あ、ごめんね、聞かない方がよかったかな」とかをりはうつむく。
公生は、衝撃を受けた。
5歳の時の、初めての人前でのピアノ演奏。
公生にとっては、あれは、うっかり椅子にお尻をぶつけて笑われるという、苦い過去の思い出だ。
しかし宮園かをりにとっては、そうではなかったらしい。
(君はそんな風に思っていたのか……)
印象は違えど、公生が知る宮園かをりと、すぐそばにいる宮園かをりは同じ存在だ。
なので、最後まで謎だらけだった彼女の本心を、またひとつ知れた気がする。
「宮園さん……」
「はい」
「大丈夫だよ」
「え?」
公生は言い切る。
「僕はもう、ピアノが弾けるようになったんだ」
「本当に……?」
「すごく時間がかかった。だけど、色んな人に支えられて、また弾けるようになったんだ」
「よかった、よかった……」
心底嬉しそうにつぶやくかをり。公生は目を細めた。
「実はさ、学校の音楽室にピアノがあるんだけど、もしよかったら……」
だから、ついこう口にしてしまった。
「……僕と演奏しない?」
「私と有馬君で……演奏?」
「そうだよ、君がヴァイオリンを奏でる。僕がピアノを弾いて伴奏をする。きっと、すごく楽しいと思う」
公生の言葉に、かをりは、あっけに取られたのかポカンとしていた。
★
「ど、どうしよう。勢いで公生君の誘いに乗っちゃった……」
翌日の早朝。かをりは、いつもより一時間ほど早く、家を出て、学校に着く。
ヴァイオリンを入れたケースをひっさげ、かをりは、音楽室の扉の前で深呼吸していた。
かをりは、心臓がバクバクしっぱなしだった。
昨日と今日で、かをりにとって、信じられないことばかりが起きている。
あの有馬公生と知り合い、あまつさえ友人になった。
それどころか、公生から一緒に
(ずっと、公生君と演奏してみたかった。それが今日に叶うなんて……)
憧れの、公生と一緒に演奏をする。
それは宮園かをりの、幼い頃からの夢だった。
意を決して、かをりは音楽室の扉を開ける。
室内にいる公生の姿を見つけて、心拍数が跳ね上がる。
「おはよう、有馬君」
「うん、今日は良い天気だね。宮園さん」
公生は、グランドピアノの前に腰かけて、リラックスしている。
かをりは、ドギマギを隠しながら言う。
「……有馬君、これでいいかな?」
かをりは、肩にかけていたピンク色のケースを開き、ヴァイオリンを公生に披露する。
公生は、目を瞬きさせる。
「よく手入れされたヴァイオリンだね。きっとこのヴァイオリンは宮園さんが持ち主で喜んでいる」
「え、えへへ、そうかな……」
「絶対そうだ」
公生の誉め言葉に、かをりは、思わず舞い上がりそうになった。
「あ、あの、じゃあ、不束者ですがよろしくお願いします」
「うん! よろしくね」
公生はニコリと笑う。
かをりの、心臓の音はますます早まった。
★
(落ち着け、落ち着け! 平静を取り繕って、こうクールな感じで!!)
公生は、息を深く、吸って吐く。
────『もう一度、僕と演奏してください』
あの冬の日、病院での屋上でかをりと約束を誓った。
だがその約束は、彼女の死によって果たされなかったけれど、今こうやって、過去の世界で実現しようとしている。
たしかにここは舞台ではなくて、どこかホコリの匂いがする音楽室だけれど。
それが、言葉にならないほど、嬉しい。
「ところで有馬君、何を演奏するの?」
かをりがおずおずと尋ねてくる。
「私は正直、有馬君みたいなすごい演奏ができないし。だから、有馬君はガッカリするかもしれないよ」
そんなわけがあるものか、と公生は思った。
「じゃあ簡単な曲を弾いてみよう」
「簡単な曲?」
「きらきら星だよ」
「……きらきら星」
弾けるかい? と公生がたずねる。かをりは、うんと頷いた。
きらきら星は、かをりがヴァイオリンを始めて、一番最初に練習した曲であるという。
念のために楽譜を持参していたが、かをりは必要ないと言った。
2人の演奏が始まった。
静寂な音楽室に、どこか拙いヴァイオリンの主旋律と、それを見守るようなピアノの伴奏音が響く。
「Twinkle、Twinkle、Littlestar、How I wonder what you are──」
ピアノの伴奏に、公生の低めのボイスが、のっかる。
ぱらぱらと、カラフルな旋律が現れる。
まるで一流の絵描きが、色彩を付け足していくみたいに。
ふと、ヴァイオリンの音色が止んだ。
公生が、かをりの方に視線をやる。かをりは演奏をやめて、公生にくぎ付けになっているみたいだった。
「わぁ、すごい……やっぱり公生君のピアノは……」
と、ひとりごとを口にして。
公生はそんなかをりの言葉に、むずがゆくなる。
そして、公生は言葉をつむぐ。きっと彼女が同じ立場だったら、こんなこと言うだろう。
「さぁ、もう一度。アゲイン」