第十八話 ――白翼と空腹――
零号ホロウでの一件から、数日後。
『Random Play』には、いつもの穏やかな時間が戻っていた。
……ただ一つ。
レイだけは例外だった。
「レイ。」
アキラが静かに口を開く。
その前では、レイがきちんと正座をしている。
リンも腕を組みながら隣に座っていた。
「さすがに。」
「今回はやりすぎだよ。」
レイは素直に頭を下げる。
「……はい。」
「勝手に零号ホロウへ行って。」
「しかも対ホロウ六課と戦うなんて。」
「本当に心配したんだから。」
リンもため息をつく。
「レイちゃんが強いのは知ってる。」
「でもね。」
「強いから心配しなくていい、とはならないんだよ?」
レイは黙って聞いていた。
約一時間。
兄妹から、たっぷり説教を受けた。
そして最後に。
アキラが静かに告げる。
「罰です。」
レイが顔を上げる。
「一週間。」
「ホロウへの立ち入り禁止。」
「それと。」
リンが笑顔で続ける。
「お風呂掃除、一週間担当ね。」
「…………。」
レイは数秒固まった。
「……分かりました。」
少しだけ残念そうだったが。
反論はしなかった。
◇
もちろん。
ホロウへ行けないことは少しだけ辛かった。
もっと強くなりたい。
もっと自分を知りたい。
その思いは変わらない。
それでも。
「心配を掛けるのは。」
「良くない。」
レイはそう考えていた。
兄妹との約束を守り続ける。
その代わり。
零号ホロウから持ち帰った奇妙な金属片などを自室へ飾って眺める毎日だった。
リンからは。
「ちゃんと掃除してね?」
と釘を刺されていたが。
レイにとっては、小さな宝物だった。
◇
夜。
『Random Play』閉店後。
レイは最後の片付けを終え、掃除道具を片付けていた。
「ふぅ。」
リンが伸びをする。
「夜遅くまでご苦労さん。」
レイは振り返る。
「はい。」
リンは何気なく尋ねた。
「そういえば。」
「今日、ご飯食べてるところ一度も見てないんだけど。」
「ちゃんと食べた?」
レイは少し考え。
真顔で答えた。
「朝から晩まで、一食も食べてません。」
「…………。」
リンの動きが止まる。
「えぇぇぇっ!?」
店内へ大声が響いた。
「ど、どうして!?」
レイは首を傾げる。
「仕事の効率が落ちると思い……。」
その瞬間。
――ぐぅぅぅぅ。
店内へ可愛らしい音が響く。
レイのお腹だった。
「…………。」
レイの頬がほんの少しだけ赤くなる。
「////」
「……ごめんなさい。」
リンは思わず吹き出した。
「あははっ!」
「やっぱりお腹空いてるじゃん!」
レイは恥ずかしそうに視線を逸らす。
リンは優しく笑いながら、レイの肩へ手を置いた。
「いい?」
「レイちゃん。」
「仕事って、頑張ることも大事だけど。」
「ちゃんと休むことも同じくらい大事なんだよ。」
レイは静かに聞いている。
「それに。」
「こんな言葉があるんだ。」
リンは人差し指を立てる。
「『腹が減っては戦はできぬ』。」
「どれだけ強くても。」
「ちゃんと食べて、ちゃんと休んで。」
「万全の状態じゃないと。」
「守れるものも守れないんだから。」
レイはその言葉を胸の中で反芻する。
「……。」
少しだけ考えてから。
小さく頷いた。
「……分かりました。」
その返事を聞き、リンは満足そうに微笑む。
「あ、そうだ。」
ポケットを探り、一枚の紙を取り出した。
「これこれ。」
レイへ差し出す。
「?」
受け取る。
『チョップ大将 ラーメン一杯無料券』
「チョップ大将のお店のクーポン。」
「今の時間なら、まだ開いてると思うよ。」
「せっかくだし、食べてきたら?」
レイは目を丸くした。
「……ありがとうございます。」
その声は。
少しだけ嬉しそうだった。
「いってらっしゃい!」
「はい!」
レイはクーポンを大事に握りしめる。
そして。
駆け足で店を飛び出した。
夜風が白い髪を揺らす。
目指す先は。
麺屋――『滝湯谷・錦鯉』。
初めての夜食。
◇
六分街。
夜の商店街は人通りが少なかった。
湯気と醤油の香り。
その匂いに導かれるように、レイは店内の席に座る。
**『滝湯谷・錦鯉』**
「……。」
店内は温かな灯りに包まれていた。
そして目の前で竹製のフレームを取り付けたメカアームが忙しく動いている。
「おっ!」
店主――チョップ大将がレイへ気付く。
「今日は何にする!」
「このチョップ大将が、直々に振る舞ってやる!」
豪快に笑う。
レイは渡された無料券を差し出した。
「これを。」
「おう! 好きなの選んでくれ!」
「……。」
レイは固まる。
いっぱいのメニュー。
醤油。
塩。
味噌。
豚骨。
つけ麺。
限定。
大盛。
替え玉。
辛さ変更。
トッピング。
情報量が多すぎた。
「…………。」
(分からない。)
人生初のラーメン屋。
何を頼めば正しいのか分からない。
店内に静かな沈黙が流れる。
すると。
暖簾が揺れた。
「失礼する。」
落ち着いた女性の声。
銀髪。
オレンジ色のゴーグル。
軍服姿。
11号だった。
彼女は慣れた様子で席へ腰掛ける。
チョップ大将が笑う。
「おっ!」
「いつものか?」
「ああ。」
11号は迷いなく答える。
「地獄激辛ラーメン。」
「激辛五倍。」
「麺大盛。」
「替え玉一つ。」
「了解だ!」
チョップ大将のメカアームが高速で動き始める。
レイはその様子をじっと見ていた。
(なるほど。)
(常連の推奨メニュー。)
(参考にすべき。)
そして。
レイは静かに手を挙げた。
「私も。」
チョップ大将が笑顔で振り返る。
「決まったか!」
レイは迷いなく答えた。
「地獄激辛ラーメン。」
「辛さ五倍。」
「麺大盛。」
「替え玉一つ。」
店内が静まり返る。
「…………。」
11号がゆっくりレイを見る。
チョップ大将も一瞬だけ動きを止めた。
「嬢ちゃん……。」
「本当にいいのか?」
レイは頷く。
「先ほどの方が注文していました。」
「人気メニューだと判断しました。」
数秒。
静寂。
そして。
チョップ大将は豪快に笑った。
「なぁっはっはっは!!」
「そういう理由か!」
「面白ぇ嬢ちゃんだ!」
11号もわずかに口元を緩める。
「……。」
「初来店だな。」
「はい。」
「ラーメンも初めてです。」
その一言で。
レイ以外の二人は驚いた。
◇
数分後。
チョップ大将の威勢のいい声が店内へ響く。
「へい、お待ち!」
「地獄激辛ラーメン、辛さ五倍!」
湯気が立ち上る。
真っ赤なスープ。
唐辛子。
花椒。
香辛料の刺激だけで目が痛くなりそうな一杯だった。
続いて。
「こっちもだ!」
「嬢ちゃんの地獄激辛ラーメン!」
レイの前にも同じ丼が置かれる。
真っ赤。
見た目だけでも危険だと分かる。
レイは箸を手に取った。
「……。」
しばらく眺める。
「?」
そして。
隣を見る。
11号が静かに手を合わせていた。
「いただきます。」
その一言を聞いたレイも真似をする。
「……いただきます。」
箸で麺を持ち上げる。
湯気と共に、刺激的な香りが鼻をくすぐった。
そして。
一口。
店内中の視線が集まる。
「…………。」
レイはゆっくり咀嚼する。
さらにもう一口。
三口。
四口。
止まらない。
「……おいしいです。」
真顔だった。
チョップ大将も思わず腕を止める。
「嬢ちゃん……。」
「本当に辛くねぇのか?」
レイは首を傾げた。
「辛い、とは?」
「舌が少し熱いですが。」
「問題ありません。」
「…………。」
店内が再び静まり返る。
隣では。
11号が黙々と麺をすすっていた。
彼女は一度だけレイを見る。
「……。」
「貴様。」
レイも視線を向ける。
「はい。」
「初めてラーメンを食べると言ったな。」
「はい。」
「なら。」
「その辛さを選ぶべきではなかった。」
レイは少し考える。
「注文されていました。」
「人気商品だと判断しました。」
「…………。」
11号は数秒沈黙した。
そして。
小さく息を吐く。
「合理的ではある。」
「だが。」
「普通の人間なら後悔する。」
レイは再びラーメンを一口食べる。
「私は後悔していません。」
「むしろ。」
「非常においしいです。」
チョップ大将が豪快に笑った。
「なぁっはっはっは!」
「気に入ってくれたか!」
「うちの秘伝のスープは"本物"だからな!」
レイは素直に頷く。
「はい。」
「温かいです。」
「体の内側から熱くなる感覚があります。」
「これが。」
「ラーメンなのですね。」
その言葉に。
チョップ大将の表情が少し柔らかくなった。
「そうだ。」
「腹いっぱい食えば。」
「元気も出る。」
「悩み事なんざ吹っ飛ぶ。」
レイは静かにスープを見つめる。
温かい。
辛い。
だけど。
嫌ではない。
むしろ。
どこか安心する味だった。
「……。」
自然と。
口元が少しだけ緩む。
その小さな変化を。
11号は見逃さなかった。
「……笑ったな。」
レイはきょとんとする。
「笑いましたか?」
「自覚はありません。」
11号は静かに頷く。
「ああ。」
「ほんの少しだが。」
「先ほどより、人間らしい表情だった。」
レイは少しだけ考える。
「……。」
「そう、ですか。」
そして。
もう一口。
熱いスープを口へ運んだ。
その姿を見たチョップ大将は満足そうに腕を組む。
「いい食いっぷりだ!」
「嬢ちゃん!」
「替え玉もちゃんと用意しといてやるからな!」
「ありがとうございます。」
レイは深く頭を下げた。
夜の『滝湯谷・錦鯉』。
温かな湯気に包まれながら。
レイは人生で初めて知った。
誰かが作ってくれた料理を。
ゆっくり味わって食べるという時間を。
◇
レイは静かに丼を持ち上げる。
残っていたスープを一滴残らず飲み干した。
「……。」
丼をゆっくり置く。
「ごちそうさまでした。」
チョップ大将は目を丸くした。
「おおっ!」
「替え玉まで平らげて、スープまで飲み干したか!」
「気持ちのいい食べっぷりだ!」
レイは素直に答える。
「とても、おいしかったです。」
「また食べたいと思いました。」
「なぁっはっはっ!」
「そう言ってもらえるのが一番嬉しいぜ!」
その隣で。
11号も食事を終え、席を立つ。
「……。」
レイの前で立ち止まる。
「貴様。」
「はい。」
「名前は。」
「……レイです。」
11号は小さく頷く。
「そうか。」
「私は11号。」
「覚えておくといい。」
レイも静かに頭を下げる。
「はい。」
11号は店を出ようと歩き始める。
だが。
直前。
足を止めた。
「一つだけ。」
振り返らずに言う。
「空腹で戦場へ立つな。」
「判断が鈍る。」
「それは。」
「自分だけでなく、守るべき者も危険に晒す。」
その言葉は。
どこかリンの言葉と重なった。
『腹が減っては戦はできぬ。』
レイは静かに頷く。
「……覚えておきます。」
11号は何も言わず、夜の六分街へ歩き去っていく。
その背中を見送りながら。
レイは胸へ手を当てた。
今日は。
アキラに叱られ。
リンに食事の大切さを教わり。
そして。
初めて会った人にも、同じことを言われた。
「……。」
「食事は。」
「大切。」
小さく呟く。
それは。
レイがまた一つ、人として当たり前のことを学んだ夜だった。