巨大な黒い球体が、空を覆っていた。
遠くから見ても、それは異質な存在だった。
黒く塗り潰された壁面。
その表面を走る、色鮮やかなノイズ。
三角形の模様が揺らめき、まるで意思を持つかのように形を変えている。
周囲の空間は歪み、時折、内部で紫色の光が瞬いていた。
それは自然に存在するものではない。
世界に開いた異常な領域。
――ホロウ。
男は言っていた。
「あれは、人が入る場所じゃない」
ホロウの内部は未知のエネルギー――エーテルに満たされている。
長く留まれば精神を蝕まれ。
身体は変質し。
最後には人ならざる怪物へと変わる。
それほど危険な場所。
普通なら近づこうなどとは思わない。
しかし。
少女の足は止まらなかった。
「……。」
胸の奥に残る、説明できない感覚。
誰かに呼ばれているような。
何かを待っているような。
理由も分からない衝動。
それだけが、少女を前へ進ませていた。
少女はゆっくりとホロウへ手を伸ばす。
指先が黒い壁へ触れた瞬間。
世界が揺らいだ。
音が消える。
風が消える。
身体の感覚が曖昧になる。
まるで自分という存在そのものが、別の場所へ引き込まれていくようだった。
そして――。
少女はホロウの内部へ足を踏み入れた。
◇
静かだった。
あまりにも静かだった。
少女は周囲を見渡す。
そこには街があった。
崩れたビル。
ひび割れた道路。
放置された車両。
壊れた看板。
一見すれば、外の世界と何も変わらない。
しかし。
決定的に違うものがあった。
空気。
肌にまとわりつく、重く異質な感覚。
呼吸するたび、身体の奥へ何かが入り込んでくるような不快感。
少女は足元へ視線を落とす。
道路の亀裂。
建物の壁。
瓦礫の隙間。
そこには淡い光を放つ結晶が広がっていた。
黒紫色の結晶。
高濃度のエーテルが凝縮したもの。
少女は触れようとは思わなかった。
理由は分からない。
だが。
本能が告げていた。
――近づいてはいけない。
少女は再び歩き始める。
しかし。
数分後。
足を止めた。
「……。」
目の前に広がる景色。
見覚えがある。
壊れた信号機。
横転した車。
崩れた建物。
先ほど通った場所だった。
少女は後ろを振り返る。
戻った覚えはない。
それでも。
同じ場所へ辿り着いていた。
「……。」
理解できない。
ここでは。
普通の道も。
距離も。
方向すら意味を持たない。
空間そのものが、変化している。
その時だった。
――ガリッ。
何かを引きずる音。
少女は振り返る。
瓦礫の奥。
黒い影が蠢いた。
ゆっくりと姿を現す。
結晶に侵食された異形。
エーテリアス。
少女はその名前を知らない。
だが。
身体は理解していた。
――敵。
一体。
二体。
三体。
異形たちは少女を取り囲む。
逃げ場はない。
少女は翼へ手を伸ばした。
カチリ。
静かな駆動音。
四枚の翼のうち、二枚が展開する。
その付け根から、二挺の巨大なライフルが姿を現した。
エーテリアスが咆哮する。
少女は静かに構える。
なぜ使えるのか。
なぜ扱えるのか。
何も分からない。
それでも。
手だけは迷わなかった。
怪物が迫る。
少女は引き金を引く。
――閃光。
白い光がホロウの闇を切り裂いた。
一体のエーテリアスが消滅する。
しかし。
残った二体が左右から襲い掛かる。
少女は身体を動かす。
右へ。
左へ。
迫る爪を避ける。
振り向く。
撃つ。
二発目。
三発目。
白い光が暗闇を照らすたび、異形は消えていく。
だが。
終わらない。
遠くから、新たな咆哮が響く。
さらに増えている。
少女は静かに周囲を見る。
戦える。
力はある。
けれど。
ここは違う。
倒し続けても終わらない。
一人では。
その時だった。
「伏せて!」
声が響いた。
少女が振り向くより早く。
横から銃弾が飛ぶ。
迫っていたエーテリアスの頭部が弾け飛んだ。
少女は目を向ける。
瓦礫の向こう。
三人の人影が立っていた。
一人はナタを構えた少女。
一人は銃を手にした、機械の身体を持つ青年。
そして。
その前に立つ女性。
「まったく……。」
女性は呆れたように息を吐く。
「ホロウの中を一人で歩くなんて、随分と無茶するじゃない。」
少女は三人を見る。
敵意はない。
むしろ。
助けられた。
そう理解した。
ナタを持った少女が近づく。
「怪我は?」
少女は少し考える。
「……ない。」
「そう。」
女性が尋ねる。
「名前は?」
沈黙。
少女は記憶を探る。
何もない。
名前すら。
その時。
暗闇の中で聞いた声が蘇った。
――君は世界を救う"ゼロ"だ。
少女は小さく口を開く。
「……レイ。」
三人が見る。
「レイ?」
少女は頷いた。
我ながら安直だなっと思った。
けれど。
今の自分が持つ、唯一の答えだった。
「レイね。いい名前じゃない。」
女性も少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、レイ。」
「ここから出るわよ。」
少女は三人を見る。
不思議だった。
一人で歩いていた時とは違う。
胸の奥が、少しだけ温かい。
これが何という感情なのか。
まだ分からない。
だけど。
嫌ではなかった。
白い翼が静かに揺れる。
この出会いが、自分の運命を大きく変えていくことを少女、レイはまだ知らない。