霊と八百万の二人はクラスメイトたちと早々に別れた後、雄英高校の敷地を通って、隣接された来賓用の駐車場へと歩いて向かっていた。
「……疲れた」
「ふふっ、お疲れ様です、霊さん」
無表情ながら疲労困憊といった雰囲気を纏う霊に、八百万が微笑ましげに声を掛けた。
「生まれてから、今日が一番人と話したかも……」
霊は交友関係が限定的だったこともあり、今まで家族や八百万家の人間以外に、自分の意思を伝える機会があまりなかった。しかも、長年共にした人間であれば霊の纏う微かな雰囲気を正確に察知できるようになるため、短い言葉だけで容易に意思疎通ができていたのだ。
「オールマイト先生の仰られた通り、この先ヒーローを目指すのであれば、こういったことには慣れておいた方がいいですわ。将来的なヒーロー活動の為にも、皆さんとの交流の為にも」
八百万の言葉に、霊はゆっくりと頷いて見せた。
霊自身、オールマイトの言ったことには納得しかなかったし、実際、薄々自分でも気が付いていたことだった。幸い、中学とは違い、クラスメイトたちは気軽に接してくれている。この機会を逃さず、今まで培えなかった対人との交流という経験を補おうと心に決めた。
ただ、それはそれとして……。
「上手くできるか不安……」
「ふふっ、大丈夫ですわ。わたくしもできる限りのサポートしますから……霊さんならできます」
瞳を軽く伏せる霊に、八百万は優しく笑い掛けた。
霊はゆっくりと顔を上げ、その笑顔をじっと静かに見つめた。
ちょうどその時、目的の車のそばに辿り着いた。
「百お嬢様、霊様、本日もお疲れさまでした」
「ええ、ありがとうございます」
黒塗りの高級車のそばに立った老執事が霊と八百万に一礼し、後部座席の扉を静かに開いた。そして、八百万が老執事の差し出した手を取って車に乗り込んでいく。その光景を、霊は静かに眺めていた。
「もう時間も遅いですが、霊さんはどうされますか? お母様やお父様からも『是非うちに』と伺っていますが……」
「ん。今日は普通に帰る。また週末お邪魔するって伝えて」
「はい、確かに。伝えておきますわ」
実家が愛知にある霊と八百万は、入学を機にこちらに引っ越してきていた。八百万は家族と別邸へ移り住んだのに対し、霊は父親の元を離れ、母親が借りていたマンションの一室で一人暮らしを始めたのだ。
八百万の両親に「一緒に住まないか?」と誘われた霊だったが、一人暮らしというものに少なからず興味があった霊は、これを辞退。しかし、霊のことを既に『もう一人の息子』と認識している八百万の両親の心配を無下にもできず、霊は『週末は八百万家で過ごす』という約束を結んだのだ。
八百万が乗り込んだのを確認すると、老執事が静かに扉を閉めて運転手席へと向かった。
「それでは、霊さん。また明日」
窓を開けて、霊に挨拶をする八百万。その姿をじっと見つめていた霊が、ゆっくりと口を開いた。
「百……ありがとう」
「え?」
急にお礼を言われた八百万は、きょとんと目を丸くした。それを受けて、霊は膝に手を置いてスッと顔を寄せる。
「今日、改めて実感した……俺は、百に頼り過ぎてたって……」
「だから、──ありがとう」
そう言って、霊は心に溜まったものを吐き出すように優しく微笑んだ。
霊は、自分の意思を言葉にして相手に伝えるのが苦手だ。それは、家族や幼馴染一家に対しても同じこと……相手が霊を見て察することはあっても、自分から意思を伝えること自体は滅多になかった。
しかし、今の霊はクラスメイトとの半ば強制的な交流を得て、一種のオーバードーズ状態に陥っていた。
つまり、霊は一時的に自分の思ったこと・感じたことを自分の言葉で、真っ直ぐ相手に伝えられるようになっていたのだ。
「……けど、すぐには無理。だから……」
そう言った霊の表情は既にいつもの無表情に戻っていた。スッと憂いげに下げた視線を、改めて八百万へと向けると、霊は小さく首を傾げながら口を開いた。
「──これからも、俺のそばにいて……?」
「………………………は、ぃ…………」
心ここにあらずといった様子で、八百万は呆然と応えた。見開いた黒い瞳は霊の顔に釘付けになり、頬は淡い夕陽の光に照らされて赤く染まっていた。
霊は八百万の肯定にふっと小さく笑みを浮かべると、一度頷いて上体を起こした。
「ん……じゃあ、また明日」
そう言って、霊が運転席の方へ手で軽く合図を出すと、車がゆっくりと動き始めた。
遠ざかっていく車を静かに見送った霊は、車が完全に見えなくなると、少し離れた所で待機していた年若い黒服姿の男性に声を掛けた。
「お待たせ。帰ろ」
「かしこまりました。すぐに車を回して参ります」
「いい。俺も行く」
「かしこまりました。では、こちらです」
先行する男性の後を追って、霊も静かに歩き出すのだった。
◆◇◆◇◆
八百万家の所有する送迎車の車内にて──。
「お嬢様。この時期の風は、お体に障りますぞ?」
運転席に座る老執事が、バックミラー越しに後部座席に座る八百万へ声を掛けた。八百万は開けた窓から外を眺めており、四月初めのまだ肌寒い風が彼女の長い黒髪を静かに揺らしていた。
「ご心配ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
そう返した八百万にとって、むしろその風が今はとても心地よく感じられていた。
霊との最後のやり取り──八百万自身、普段から霊にお礼を言われることはそれなりにあった。しかし、今回のは何かが明らかに違っていた。
今でも鮮明に浮かぶのは、夕陽に照らされてキラキラと輝く白色の髪、それに決して見劣りしない宝石のような金色の瞳、心の奥底から優しく微笑み掛けてくる霊の顔、そして……。
──『これからも、俺のそばにいて……?』
その瞬間、ボッと火照った顔を、八百万は咄嗟に両掌で覆った。
半ばプロポーズと受け取られても文句を言えないようなセリフ……普段息抜きとして読んでいる恋愛小説でしか聞かないようなセリフ……そんなセリフを、霊に言われたのだ。
もちろん、霊にそのような意図がないことは八百万も理解していた。伊達に霊の幼馴染をやっていないのだ。八百万からしてみれば、霊の感情は9割5分ほど察することができる。
しかし、だからと言って動揺しないはずがないのが、15歳の乙女なわけで……。
「(落ち着きなさい、八百万 百……っ! 平常心よ、平常心……!)」
顔を両手で覆い隠しながら、耳まで真っ赤に染めた頭をブンブンと振って思考を追い出そうとする八百万家のご令嬢。
そんな八百万の様子をバックミラー越しに見つめた老執事は、八百万に聞こえないよう小さく「ほっほっほ」と笑みを漏らした。
「(これは、我ら八百万家の悲願が成就される日も、そう遠くないかもしれませんな)」
老執事は、留守中に起こった二人の出来事を根掘り葉掘り聞いてくる自分の雇い主の姿を想像した。
「(しかし、ご自覚まではまだまだ遠いご様子……しかと最後まで見届けるためにも、まだまだ現役を退くわけにはいきませんな)」
そして、孫のように思っている八百万が落ち着きを取り戻すまでの時間稼ぎに、ほんの少しだけ遠回りをしながら屋敷に戻るのであった。