負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
——日本が降伏文書に署名して、二十二日目
紙を燃やす仕事にも、順番というものがある。
残すべきものから焼く。どうでもいいものは最後でいい。そう決めたのは高木少将だった。
理屈は聞かなかった。聞かなくても分かる。
俺は油の抜けたドラム缶に書類の束を落とし、火箸で崩した。青白い煙が立ちのぼって、風のない空にまっすぐ伸びていく。
紙の焼ける匂いは、思っていたよりも甘い。
「松谷さん。何を考えてます」
「匂いです」
「匂い」
「思ったより、甘い」
「そうでしょう。私は嫌いじゃありません」
戦争は八月十五日に終わった。九月二日、東京湾に停泊した戦艦ミズーリの甲板で署名が済んだ。今日は二十四日。
占領軍の先遣はもう横浜にいる。
残っているのは後始末だけだ。
「松谷さん、そっちは何束です」
焼け落ちた兵舎の残骸の向こうから、加瀬さんの声が飛んできた。
「六束。加瀬さんこそ手が止まってますよ」
「読んでるんです。自分の書いた電報でしてね。いま読み返しても、一世一代の名文だ」
「燃やすんでしょう」
「名文だから燃やすんですよ。凡文なら誰も読み返さない」
加瀬俊一。外務省の大臣秘書官で年は俺と同じ。米国に留学し、ワシントン、ベルリン、ロンドンと渡り歩いた英米通だ。
犬猿の仲だった二代の外相に同時に信頼された。口と足で生きてきた人である。
「ちょっと聞いてください。『帝国政府は連合国側の意図を率直に質さんとするものなり』——どうです。この『率直に』の一語」
「どうもしません」
「冷たいな。この一語のために三十分かけたんですよ」
「三十分あれば、その束は全部灰になっていました」
加瀬さんは残念そうに電報を掲げると、燃え上がった紙の端を口元に寄せて、咥えていた煙草に火を移した。それから電報をドラム缶へ落とす。
「名文で一服。悪くない」
俺が数えているかぎり、ここへ来てから十一本目だ。革靴が白く粉を吹いている。もっとも、俺の靴も同じだった。
四人とも同じ埃をかぶっている。
東京から、車で来た。
汽車は使えない。四人揃って切符を買い、行李を提げて乗りこむのは、目立ちたいと言っているのと同じだ。
「車がありますよ」
そう言ったのは松平秘書官長だった。
「ただ、油がない」
「では、無理でしょう」
「いえ。油も、あります」
「あるんですか」
「あります」
「どこに」
「あるところに」
加瀬さんが横で笑った。
「松谷さん。この方に在処を聞いてはいけません」
「なぜです」
「二度聞いても、同じ答えが返ってくるからです。声の高さまで同じでしてね」
どこから出したのかは、結局聞かなかった。見当はついている。この人は十年ほど前、大学で自動車部の部長をしていた。
その部の報告書に、日本は石油を輸入に頼りきっており、万一経済封鎖を受ければ悲惨な結果は火を見るより明らかである、と書いている。
一九三五年の文章だ。そういう人が、油を持っていないわけがない。
迎えに来た車を見て、俺は少し黙った。
小さい。細長い仏蘭西の車で、ボンネットだけが異様に長く車体は薄い。地面すれすれに座席がある。
塗装は褪せていたが、手入れは行き届いていた。
「これに、四人ですか」
「入りますよ」
入った。人としての尊厳は入らなかった。
高木少将が助手席。俺と加瀬さんは、椅子と呼ぶには浅すぎる後ろに膝を折って詰めこまれた。行李は膝の上である。
「加瀬さん。鞄が刺さっています」
「どちらの脇腹です」
「右です」
「では、左へ移しましょう」
「……両方になりました」
「進歩です。均等になった」
その鞄が、八時間、俺の脇腹にあった。
運転手はいない。侯爵が自分で握った。
「秘書官長。運転手はお使いにならないので」
「使うと、行き先を知られますのでね」
——今朝、四時に東京を出た。
鍵を回した瞬間に、俺は考えを改めた。
バルルンッ。
乗用車の音ではない。腹の底を短く叩くような、乾いた音だ。侯爵が油門を軽く煽ると、バラララッ、と震えて、すぐに落ち着く。
ドドド、ではない。ダダダダ、でもない。もっと細かく、もっと硬い。
「秘書官長。これは何気筒です」
「四つですよ」
「四つで、この回り方をしますか」
「しますね」
「針が上がるのが、速すぎます」
「よくご覧になっている」
侯爵の声が、少し弾んだ。
弾むところを、俺は初めて聞いた。
国道は、ところどころしか舗装がない。舗装のある場所は爆撃の穴を土で埋めただけで、車輪が落ちるたびにドンッと車体が跳ねた。
木炭車が二台、ポンポンと情けない音を立てて道端に止まっていた。ガソリンの車とすれ違ったのは、一日で三回だけだ。
その道を、この車は跳ねながら走った。
ガタン。ガタガタガタ。ダンッ。
跳ねるのに、逸れない。
穴を避けるのではなく、どこを踏めば車体が振られないかを選んでいる。轍に落ちる前にスッと速度を落とし、抜ける瞬間にバンッと踏む。その繰り返しが、途切れなかった。
「秘書官長。穴を避けておられませんね」
「避けると、次の穴に間に合いません」
「では、どうやって」
「踏んでいい穴と、いけない穴があります。見れば分かりますよ」
「見えません」
「そのうち見えます」
助手席で、高木少将が初めて口を開いた。
「秘書官長。道のどこをご覧になっていますか」
「三十間ほど先です」
「手元は」
「見ません。手が覚えておりますので」
「馬と同じですか」
「同じです」
侯爵は前を見たまま答えた。
「握っている感じが、手綱とよく似ているんですよ。部品の一つ一つは鉄と油に過ぎませんが、組み上がった車の全体は、生きて動きます。だから乗れる」
少将はそれきり黙った。
黙ってしばらくしてから、なるほど、と小さく聞こえた。
砂利がタイヤの裏で、ジャリジャリ、ザザッと鳴り続けている。
俺はこの人の後頭部を見ていた。
越前松平家の当主の家に生まれ、宮中に出入りし、和歌を詠み、墨を磨って手紙を書く人である。俺が知っている松平康昌は応接間の椅子に深く沈んで、微笑んだまま相手の出方を待つ男だった。
その同じ人が、いま、泥の国道を全開で走っている。
——どちらが本当なんだ。
難所は箱根だった。
「秘書官長。この先の道幅は」
「車一台ぶんです」
「柵は」
「ありません」
「……路面は」
「昨夜の雨で泥です」
「速度を落とされますか」
「いえ」
登りに入ったところで、加瀬さんが黙った。この人が黙るのは、よほどのときだ。
道幅は車一台ぶん。片側は山肌で片側は谷、柵はない。九十九折りが延々と続き、そのどれもが回転半径ぎりぎりに切ってある。
侯爵は速度を落とさなかった。
曲がりの手前で外へ寄せる。ヒュッと鼻先が内に入って、ズザッと後ろが泥を掻いた。
流れた、と思った瞬間には、もう次の舵が入っている。
——キュルルッ。
空転した後輪が土を噛み直して、車が前へ弾かれる。戻すのではなく、流れたまま曲げている。
ブォンッ。ヒュッ。ズザッ。
ブォンッ。
その繰り返しが、九十九折りの数だけ続いた。同じ拍子で、狂いなく、機械が刻むように。
「松谷さん。地図はいかがです」
「畳みました」
「なぜです」
「見ても、この方の走る線が分かりません」
「賢明です」
登りきる直前、対向から荷馬車がぬっと出た。
ヒヒンッ。
侯爵は速度を落とさなかった。ズンッと内側の泥へ半輪落として、そのまま抜けた。
ガコンッ。
車体が一度だけ大きく跳ねて、ドスッと着地して、ブォンと加速した。
馬が首を振っていた。振っていたのは、たぶん俺たちの方が驚かせたからだ。
「——秘書官長」
「はい」
「いまのは」
「入りましたね」
入りましたね、と言った。
下りは、もっと恐ろしかった。
「この車は、前の輪に制動がありませんね」
「ありませんね」
「……」
「大丈夫ですよ。使わないので」
使わないので、と言った。実際、使わなかった。
坂に入ると、侯爵は歯車を落とした。
カツン、と踏板を二度。爪先で油門をチョンと煽る。
ヴァンッ。
機関が一瞬だけ高く鳴いて、その回転に歯車がスッと噛んだ。ガリともギャリとも言わない。刺さるように入る。
そして、ヴゥゥゥン、と唸ったまま、車が自分から減速していく。
それを、折り返しのたびに繰り返した。
カツン、チョン、ヴァンッ。カツン、チョン、ヴァンッ。
俺は数えた。箱根の下りだけで三十一回。一度も強く踏まず、一度も滑らなかった。
同じ音が、三十一回。全部、同じ長さだった。
「——秘書官長」
耐えかねて声をかけたのは三合目だ。
「制動を、もう少し使ってはどうです」
「使うと、効かなくなりますよ」
侯爵は前を見たまま、世間話の調子で答えた。
「長い下りで踏み続けると熱を持って、あるところで急に効かなくなる。効かなくなってから気づいても遅い。だから初めから使わない」
「……」
「そういうものです」
俺は黙った。
黙ってから、この人が八か月、同じことを言い続けていることに気づいた。踏み続けたら効かなくなる。気づいてからでは遅い。
だから初めから加減しろと。
「——松谷さん」
加瀬さんが耳元で囁いた。
「私は、この方を少し誤解していました」
「同感です」
「宮中でお茶を飲んでいる人だと」
「同感です」
「あれは、猟師の顔ですね」
鏡越しに、侯爵の目が見えた。
——笑っていない。
この八か月、俺はこの人が笑っていない顔を見たことがない。何を言われても誰に詰め寄られても、あの微笑を崩さない人だった。
その顔が、いま、消えている。道だけを見ている。
俺はそのとき初めて、この人が何も隠していない瞬間を見た気がした。
峠を越えたところで、道がふっと平らになった。
砂利の音がジャリジャリからサラサラに変わって、機関の唸りがヴゥンと一段下がる。
加瀬さんが長い息を吐いた。
「侯爵。品のいい顔をして、とんでもない走り方をなさる」
「そうですか」
「大名家の御曹司が、峠でこれをやりますか」
「殿様は、馬で山を駆けるものですよ」
しれっと言った。
「どこで習ったんです、それ」
「学生に教わりました」
「学生」
「大学で自動車部の面倒を見ていましてね。あの子たちは日本中を走りましたから、私よりずっと詳しい」
教わったほうが、教えた側より上手くなっている。この人はいつも、そういう形で人の話を聞く。
高木少将は峠を抜けたところで一度、車を止めさせた。降りて道端でしゃがみこんでいた。戻ってきた顔が白い。
「……少将」
「胃です」
「休みましょう」
「いえ」
少将は薬瓶をあおって助手席に戻った。
「秘書官長。急いでください」
「はい」
午後二時過ぎに、俺たちはここへ着いた。八時間半である。この道をこの時期に、その時間で走る人間がほかにいるとは思えない。
降りるとき、侯爵が言った。
「久しぶりに、いい道でした」
いい道であるものか。
「秘書官長。あれは道と言いません」
「では、なんと」
「穴です」
「穴の上を走るのも運転ですよ」
あたりは一面の焼け跡だった。木造の兵舎は六月の空襲で全部焼けている。炭になった柱が地面から突き出し、そのあいだに雑草がもう腰の高さまで伸びていた。
その手前に侯爵の車が停めてある。埃をかぶって、もとの色が分からない。
「松谷君。ここをお選びになったのは」
「俺です」
「なぜここに」
「陸軍の施設ですから、俺の名前で入れます。八月に部隊は解散して、九月からは誰も来ません」
「火の始末は」
「焼却の設備があります。代わりになるものが」
「よく見つけられましたね」
「四つの役所の人間が揃って二時間も火を焚いて、誰にも見咎められない場所です。この近辺には、ここしかありませんでした」
「なるほど」
ただ一棟だけ、建っている。
鉄筋コンクリートの三階建てだ。窓ガラスは全部割れ、外壁は煤で黒いが、形は崩れていない。陸軍が金をかけて建てた建物だから、火では落ちなかった。
俺たちは、その壁を風よけにして火を焚いた。
「加瀬秘書官」
崩れた壁にもたれて座っていた高木少将が、短く咳をした。
「順番を守ってください。人の名前が書いてあるものが先です。日付と数字しか書いていないものは、最後でいい」
「厳しいな」
「厳しくありません。合理的です。それと、風上で吸わないでいただきたい」
「これは失礼」
加瀬さんは律儀に三歩ずれた。三歩で足りるとは思えないが、少将はそれ以上言わなかった。この人は肺をやられている。
言えば加瀬さんがやめるのを知っていて、言わない。
高木惣吉海軍少将。俺より十歳上だ。貧しい家から独学で海軍兵学校に入り、海軍大学校を首席で出た。
調査課長、教育局長、海大の教頭。要職ではあるがそのどれ一つとして部隊を動かす権限がない。情報と分析だけで海軍を動かそうとしてきた男である。
去年の夏、米内海相と井上次官から密かに命じられて戦争を終わらせる算段を始めた。俺と加瀬さんが引き込まれたのも、元をたどればこの人の網にかかったからだ。
高木少将は上衣の内側から小瓶を出すと、栓を抜いて中身をあおった。薬だ。顔をしかめて口元を押さえる。
ここに来てから三度目だった。
「少将、休んでください。あとは俺と加瀬さんでやります」
「休むと動けなくなる。動けるうちにやります」
「その理屈で、去年二回倒れていますよね」
「三回です」
「威張らないでください」
この人はいつもそうだ。数だけは正確に訂正してくる。
俺は火箸で灰を掻きまわした。陸軍省軍務局の便箋が、縁から黒く縮んでいく。
——今年の一月から、この夏まで。
俺たち四人が交わした連絡の記録だ。
陸軍に一部、海軍に一部、外務省に一部、宮中に一部。四つの役所に散らばっている。
ばらばらに見れば何の変哲もない事務の紙だが、四つ揃えて突き合わせれば、誰が誰と会い、誰が何を漏らし、誰が黙って見逃したかが全部出てくる。
裏を返せば、四人揃わなければ集められない。
だから今日、この四人でここにいる。
「松谷君。それは何の束です」
崩れた煉瓦塀の一番高いところで、松平秘書官長がのんびりと足を組んでいた。侯爵は着いてからほとんど何も燃やしていない。
八時間半ハンドルを握った人間に文句を言う気は、さすがに起きなかった。
「二月の、参謀本部との往復です」
「ああ、あれですか。ずいぶん怒られましたねえ、あのときは」
「怒られたのは俺だけです」
「そうでしたか。それは失念しておりました」
悪びれもせずに笑う。松平康昌侯爵。内大臣秘書官長——宮中と外をつなぐ役だ。
幕末の松平春嶽の孫で、京都の大学を出たあと明治大学で政治思想史を講じ、英国に四年いた。学者のような経歴に見えて、去年、東條内閣を倒す動きの真ん中にいた。
その侯爵の足元に、細長い革の袋が立てかけてある。さっきから気になっていた。
「秘書官長。それは何ですか」
「ゴルフの道具です」
「……ゴルフ」
「ええ。今日はゴルフに行くと言って出てきましたから」
「持ってこなくてもよかったのでは」
「持っていると、誰も行き先を聞かないんですよ」
なるほど、と言いかけて飲みこんだ。二年近くこの人のやり方を見てきたが、これが一番よく効くやつだ。
「それにね、松谷君。ほら」
侯爵は袋のもう一つの口を開けて、中から紙包みを取り出した。開くと、さつま芋が六本。
「焚き火があると聞いたので」
「これは……焚き火ではありません」
「火は火でしょう」
加瀬さんが塀を三段飛ばしで上ってきた。速い。
「侯爵、私は今日から侯爵を尊敬します」
「加瀬さん、順番を守ってください」
「芋に順番はありませんよ」
「灰の温度が違います。いま入れると外だけ焦げます」
高木少将が壁にもたれたまま淡々と言った。加瀬さんの手が止まる。
「……少将。芋にお詳しい」
「熊本の田舎の生まれです」
「では、いつ入れれば」
「あと二束、燃えてからです」
「少将。その二束が、いちばん厚いのですが」
「知っています」
「では、芋は当分先ですね」
「そうなります」
「聞きましたか松谷さん。この方は芋より書類を優先なさる」
「当然でしょう」
「少将への尊敬を、いま取り下げます」
「まだ頂戴していません」
「五分前に、心の中で捧げました」
「短いですね」
俺は火箸を持ったまま、しばらく三人を見ていた。
陸軍、海軍、外務省、宮中。この四つは戦争のあいだ、ついに一度も本音で口をきかなかった。同じ政府にいながら互いを敵より信用していない。
だから公然と会えなかった。廊下ですれ違い、料亭の座敷を借り、要件は口で伝えて紙に残さない。残した紙は焼く。
「少将。芋は何本ずつです」
「六本を四人でしたら、一人一本半になります」
「半分はどうします」
「順番に譲ればよろしい」
「誰から」
「病人からです」
「……ご自分ですね、それは」
「病人ですので」
その四人が、いま芋の分配で揉めている。
こんな真似ができるのも、今日が最後だ。
この紙が誰かの手に渡れば困るのは俺たちではない。名前を貸してくれた重臣たち、話を聞いてくれた宮中の人々、黙って見逃してくれた何人かの軍人だ。
こちらの身の始末は、こちらでつける。
「松谷さん、そんな顔で焼かないでください。芋がまずくなる」
「焼き方は同じです」
「気分の問題です」
加瀬さんは足元の割れ目から何かを摘まみ上げた。小さな黄色い花だった。焼け跡のコンクリートの割れ目から、勝手に生えている。
「見てください。こんなところに」
それを上着の胸に挿すと、加瀬さんは満足そうに紙束を火にくべた。それから内ポケットに手を入れて、平たい紙箱を取り出す。
「松谷さん、一本どうです」
「いただきます」
差し出された箱に手を伸ばして、俺は動きを止めた。
日本の煙草ではない。白地に赤い的の意匠。横文字の銘。
この国のどこを探しても、いま手に入る品ではなかった。
「加瀬さん」
「はい」
言いかけて、やめた。
今月の二日、この人がどこにいたか。俺は知っている。ミズーリの甲板に立った日本側の随員の中に、この人がいた。
知っているが、あれから二十日以上、誰も一度も口にしていない。
「……いや。何でもありません」
「そうですか」
加瀬さんはそれ以上何も聞かなかった。
俺は箱から一本抜いて、火のそばへかがみこんだ。誰かの日誌の燃え残りで火をつける。
知らない味がした。甘くて、軽くて、まるで戦争をしていない国の煙草だった。実際そのとおりなのだろう。
この人は、聞かないでいることに関しては天才だ。喋りすぎる男だと皆が思っている。逆だ。
喋りながら、言わないことを守っている。
「討ち入りの日ばかりが忠臣蔵じゃありませんよ、松谷さん」
唐突に加瀬さんが言った。
「見どころは、そのあとです。誰も見ていないところで四十七人がどう始末をつけたか。あそこを書けた作者はいない」
「書けないでしょう。誰も見ていないんだから」
「そう。だから燃やすんです」
加瀬さんは笑って、次の束を火にくべた。
二束を燃やし終えると、侯爵が芋を灰に埋めた。
誰も何も言わずに、しばらく火を見ていた。
「加瀬さんは、これからどうするんです」
俺が聞いたのは、たぶん間が持たなかったからだ。
「私ですか。まず家に帰ります」
加瀬さんは即答した。
「妻とレコードを聴きますよ。二年ぶりだ。妻はモーツァルトで、私はショパンでしてね。趣味が合わないんです、これが」
「合わないのに聴くんですか」
「合わないから聴くんですよ。それから馬に乗って、本を書きます」
「本」
「書くのは楽しいですよ。ピアノを弾くのと同じくらい」
この人がピアノを弾けることも、いま初めて知った。八か月組んで、俺はこの人の何を知っていたのか。
「高木少将は」
「本が読みたい」
「それだけですか」
「それだけです」
少将は薬瓶を上衣に戻した。
「この十年、読みたい本を読めた記憶がない」
「京都の先生方には、会いに行かれるんですか」
「行きます。まだ叱られていないことが、いくつもある」
少将の声が、ほんの少しだけ和らいだ。この人が哲学の話をするときだけ、目の奥の岩窟がひらく。
「秘書官長は」
「まず、魚を見ます」
「……魚」
「家に水槽がありましてね」
侯爵は火箸で芋の位置を変えながら、あっさりそう言った。
「熱帯の魚です。この二年、ほとんど覗いていません。生きているかどうかも分からない」
「餌は」
「誰もやっていないと思いますよ」
俺は言葉に詰まった。
二年、餌をやっていない水槽の話を、この人はいまの調子でする。
「……死んでいるのでは」
「いえ、たぶん生きています」
「なぜです」
「水草と貝と魚が釣り合っている水槽は、放っておくほうが保つんです」
侯爵は火を見たまま続けた。
「水草が酸素を出して、貝が汚れを食べて、魚がその中で暮らす。誰も手を出さなければ、その均衡は崩れません。魚が死ぬのは、たいてい飼い主のせいでしてね。餌をやりすぎるんです。可愛がって、殺す」
「……」
「過ぎたるは及ばざるが如し、というやつです。家康が言ったそうですが、あれは魚にも当てはまる」
加瀬さんが噴き出した。
「侯爵、それ、本にお書きになったでしょう」
「よくご存じで」
「読みました。銀座で売っていたやつです。あれ、面白かったな。冒頭にシャアロック・ホウムズが出てくるんですよ、松谷さん」
「……探偵の」
「そう。過食と、水温の急変と、酸素の不足。そのどれかが愛魚を死に導く——と、ホウムズが言ったことになっている」
「言っていないでしょう、そんなことは」
「言っていませんね」
侯爵は涼しい顔をしていた。
「ですが、間違ってはいません」
俺は火を見た。
過食。急変。酸素の不足。
——どれか一つでも当てはまれば、死ぬ。
この二年、俺たちが見てきたものの一覧のようだった。
「松谷君は」
俺は口を開けた。
開けたまま、何も出てこなかった。
「……松谷さん?」
加瀬さんが振り向く。
考えたことがなかった。本当に一度もだ。この二年、明日と来週と来月のことしか考えていない。
戦争が終わったあと自分が何をするのかという項目が、俺の手帳には存在しない。
「……仕事が、残っていますので」
「そのあとは」
「そのあとは」
繰り返しただけで、続かなかった。
加瀬さんが何か言いかけて、やめた。
沈黙を埋めたのは侯爵だった。
「松谷君、島津義弘の話は知っていますか」
「関ヶ原の、ですか」
「そう。あの人はね、負け戦のまんなかで、敵の本陣のほうへ向かって突っ切ったんです。逃げるのに、敵の方へ」
侯爵は芋をひっくり返しながら、世間話の調子で続けた。
「家来はずいぶん死にました。それでも義弘は生きて薩摩へ帰って、領国を保ったんですよ。関ヶ原で負けたのに、島津は一寸も減らなかった」
「……それは」
「上手に負けた、ということですね」
火の粉が上がった。
「ある方も、この話がお好きでしてね。私が去年、太閤記を手土産にお訪ねしたときに、ずいぶん長く語ってくださった」
誰のことか、この場の全員が分かっていた。
「上手に負けたあとは、何をするんですか」
俺が聞くと、侯爵は少し考えた。
「領国を、耕すんじゃないですか」
それ以上は言わなかった。
俺は塀の縁に腰を下ろした。足元に何か白いものが見えて、拾い上げる。
布きれだった。縫い取りの糸が焦げて、字が半分だけ残っている。名前だったのだろう。
しばらく手のひらに載せて、それから元の場所に戻した。何も言わなかった。
高木少将がこちらを見ていた。目が合ったが、少将も何も言わなかった。
——戦争指導の要訣は、目的の確立、進軍限界の規制、終戦方策の把握にあり。
参謀本部にいたころ、酒井中将に教わった言葉だ。
俺は陸軍大佐、松谷誠。参謀本部で戦争指導班長を務め、そのあと杉山陸相、阿南陸相、鈴木首相と三人の秘書官を渡り歩いた。
一九四三年の秋には、船の沈む速さと飛行機の造れる数を突き合わせてこの戦争は負けだという結論を出している。
出しただけだ。
目的は確立されず、限界は規制されず、終戦の方策は握れなかった。握ったつもりで握れていなかった。だから六月に豊橋が焼け、八月にここが焼けた。
八か月かけて書いた紙束が、いま灰になっていく。
「松谷大佐」
「はい」
「顔に出ています」
高木少将が壁にもたれたまま、こちらも見ずに言った。
「反省は結構ですが、いまやるべきことではない。手を動かしてください」
「……了解しました」
「それに、我々の仕事は残ります。名前は残らない。名前が残らなくていいと、あなたが最初に言ったはずです」
「言いました」
「なら、いい」
俺は立ち上がって火に戻る。
高木少将は褒めない。ただ一度も、俺の判断を否定したことがない。この八か月、それだけで足りていた。
風が出てきた。ドラム缶の中で火の粉が渦を巻いて、一枚だけ、燃えそこねた紙が舞い上がる。
真っ白なまま、風にさらわれて、焼け跡の向こうの闇に消えていった。
「あ」
「追いますか」
「いい」
俺は首を振った。
「一枚くらい、どうということはない」
あとで、この判断を何度も思い出すことになる。
俺は火から目を上げて、背後の建物を見た。窓が全部黒い。
「少将。あれは、どうなると思います」
「壊されるでしょう」
「でしょうね」
「軍の施設です。接収されるか、取り壊されるか、どちらかだ」
「この街に、これだけの鉄筋を使う相手がいるとは思えません」
「……ええ」
少将はしばらく、その建物を見ていた。
「惜しいものです」
「建物がですか」
「よく建ててある。火で落ちなかった」
それだけ言って、少将は火に目を戻した。
俺も戻した。建物の心配をする筋合いは、俺たちにはない。
——この判断も、あとで何度も思い出すことになる。
松平秘書官長が塀を降りてきて、上衣の内から封筒を一通だけ出した。火にかざして、そのまま少し止める。
「秘書官長? 燃やさないんですか」
「燃やしますよ」
そう言って、まだ持っていた。
「侯爵。もったいぶるのは趣味が悪い」
「加瀬さん、これはね」
松平秘書官長は、いつもの笑いを引っこめた。
夕陽はもう落ちていて、火明かりだけがその顔を照らしている。
「あの方が、なんとお答えになったか。それだけが書いてあります」
誰も口を利かなかった。
宮中の言葉が、そのままの形で紙に残っている。それがどういうことか、この場の四人には説明が要らない。
加瀬さんが軽口を叩かなかったのは、この日、これが唯一だったと思う。
「……焼きましょう」
高木少将が静かに言った。
「読める形で残っていて、いいものではありません」
「そうですね」
松平秘書官長は封筒を火に落とした。
一度、大きく炎が上がった。
その明かりで、俺は足元を見た。
ドラム缶を据えたコンクリートの床が、割れている。割れ目から土が覗いていて、その土が黒く濡れたように盛り上がっていた。
熱で膨らんだのではない。何かが、下から持ち上げている。
俺は火箸を捨てて膝をついた。土を手で払う。
鉄の肌が出た。錆びて、赤黒くて、丸い。人の胴ほどの太さがある。
表面に浅く刻まれた英字が火明かりに浮かんだ。
爆弾だ。
六月十九日の夜に落ちて、地面に潜ったまま燃えなかったものが、この一帯にはいくらでもある。
その一発の真上で、俺たちは二時間、火を焚いていた。
「離れろ! 全員、走れ!」
声が裏返った。
「松谷さん?」
「爆弾だ! 早くしろ!」
加瀬さんが煙草を咥えたまま固まっている。胸の花が、ゆれた。松平秘書官長は「え」と言ったきり動かない。
高木少将だけが立ち上がって、そして二歩で膝をついた。
この人は走れない。
俺は反対側へ走った。
少将の腕を掴んで、建物の壁際へ引き倒す。加瀬さんが侯爵の襟を掴んで引きずるのが、視界の端に見えた。
間に合わない。
最初に来たのは光だった。
夕闇が一瞬で白くなり、目の中で世界の輪郭が全部飛んだ。次に、腹の底を殴られたような圧が来た。空気が固まりになって胸に当たる。
音は、そのあとから来た。
地面が持ち上がるのが分かった。土とコンクリートの破片と、まだ燃えている紙が、まとめて空に噴き上がっていく。俺の身体も一緒に浮いた。
手のひらの下に高木少将の背中がある。それだけは離さなかった。
視界の全部が、灰色の土になった。
最後に頭をよぎったのは、あと二束残っている、ということだった。