負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
一
【八奈見杏菜】
合宿初日の朝、私は母に「行ってきます」を三回言った。
一回目は普通に。
二回目は、母が「日曜のバーベキュー、断っておいたからね」と言ったので、その返事として。
三回目は玄関を出てから、なんとなく。
——ごめん、お母さん。
心の中でだけ謝った。
私が部活に入った理由が、あなたの決めた予定から逃げるためだということは、たぶん一生言わない。
*
電車とバスを乗り継いで、白谷海水浴場。
抜けるような青空だった。空梅雨だとテレビで言っていたけど、そういえば梅雨明けしたんだっけ。
砂が熱い。サンダル越しでも熱い。
「うおー! 海だー!」
檸檬ちゃんが荷物を放り出して走っていった。
「檸檬ちゃん、まだ入っちゃダメだって! 荷物置いてから!」
「えー、もう入りたい」
「入りたいって。犬かな?」
昨日あんなに泣いた子と同じ人間とは思えない。
……いや。
たぶん同じ人間だから、走るんだと思う。
*
レジャーシートの上で、玉木部長が上機嫌でパラソルを立てていた。
「なあ、温水。それにしても大手柄だぜ」
「はあ、なにがですか」
「八奈見と焼塩だよ。あんな可愛い子二人を連れてくるとはな。しかも突然、海水浴に行きたいなんて言い出して。いいか温水、これはだな——」
「あんたら、何の話してんのさ」
月之木先輩が部長の耳をグイと引っ張った。
「いてっ! ちが、これは文芸部の未来の話で」
「ふうん。じゃあ続き、聞かせてもらおうかな」
「……すいませんでした」
三秒。
この二人、力関係がはっきりしていて見ていて気持ちがいい。
*
そして、レジャーシートの端。
小鞠ちゃんが体育座りをしていた。
上着を着たまま、膝に顎を乗せている。
「小鞠ちゃん、暑くない?」
「あ、暑い」
「じゃあ脱げば」
「い、いや。これでいい」
……この子、今日一日ここから動かないつもりだな。
私は隣に座って、日焼け止めを差し出した。
「はい、これ。塗らないと痛いよ」
「い、いい」
「よくない。腕出して」
「うう……」
無理やり塗ってやった。
こういうのは、押し切った方がいい。
二
【八奈見杏菜】
「お待たせしました」
砂を踏む音がして、松谷君が来た。
Tシャツに短パンという、どこにでもある格好。それ自体はおかしくないのに、なんというか、着せられている感がすごい。
姿勢が良すぎるせいだと思う。
そしてもう一人。
「先輩方、初めまして。生徒会の加瀬と申します」
日除け帽をかぶった、やたら顔のいい一年生。
——うわ、出た。
千二百円の人である。
こないだ保健室にふらりと現れて、私のオムライスを食べて、卵の火の通し方がどうとか言って、缶詰のソースだと知ったうえで千二百円をつけた男だ。
あれ以来、私はこの子をちょっと警戒している。
理由は簡単で、褒め方が上手すぎたからである。
「あ、加瀬君だ。なんでいるの」
「ご無沙汰しております、八奈見さん」
「こないだぶりだけどね」
「私にとっては長うございました」
——ほら、これ。
こういうのを、たぶんこの子は誰にでも言う。
「あ、生徒会の人だ! 元気?」
檸檬ちゃんが手を振っている。この子は警戒という概念を持っていない。
「え、生徒会? なんで生徒会が来てんの」
月之木先輩が眉を上げた。
「新聞部の取材です。それと、引率の付き添いということで」
「引率?」
「先輩、宿泊届の提出が二日前でしたので」
先輩の表情が固まった。
「規定は七日前です。通常でしたら不受理ですが、旧書式の簡易届を適用しました。ただし条件がありまして、教員一名の同行が必要になります」
「え、それって」
「もう来ていただいています。あちらに」
*
松林の日陰に、人がいた。
長袖のシャツにスラックス。海に来て一ミリも肌を出す気のない格好で、パイプ椅子に座って本を開いている。
「……誰ですか、あれ」
「非常勤の高木先生です。数学と倫理の」
「知らない先生だ」
「図書室にいらっしゃいますよ。旧校舎の」
……いたっけ。
いた気もする。奥の席で本を読んでいる、静かな人。
「ご心配なく。あの方は何も言いません」
「言わないって、どういう意味の言わないなの」
「文字通りです」
なにこの一年生。
*
海に入った。
檸檬ちゃんは沖の方へ突っこんでいくし、私は浮き輪ごと流されそうになるし、部長と月之木先輩はそれを見て笑っているし。
そして意外なことに、加瀬君が泳げた。かなり泳げた。
「加瀬君、速くない?」
「昔、少々」
「どこで?」
「……海のある土地でしたので」
躱された。
この子、聞かれて困ることを全部「土地」のせいにする癖がある。
さっきから三回目だ。
*
檸檬ちゃんが加瀬君を見つけて目を輝かせた。
「ねえ、あそこのブイまで競争しない?」
「泳ぎでですか」
「うん!」
「よろしいですよ。ただし私、負けたら言い訳をします」
「なにそれ!」
二人が同時に飛びこんだ。
檸檬ちゃんの勝ち。加瀬君は本当に何か言い訳をしていて、あの子が声を上げて笑っている。
——よかった。
昨日以来、あの子がちゃんと笑ったの、たぶん初めてだ。
私は浮き輪につかまったまま、それを見ていた。
こういうときに何もしないのが、けっこう大事なのだ。
私が笑わせようとすると、あの子は気を遣って笑う。
知らない男子が来て、勝手に負けてくれる方が、ずっといい。
三
【八奈見杏菜】
問題は松谷君だった。
膝まで海に入ったところで、止まっている。
かれこれ五分。
温水君が話しかけていた。
「泳げないのか」
「泳げる。泳ぐのは訓練でやった」
「訓練?」
「……授業で」
言い直した。遅い。
「じゃあなんで止まってんの」
「どうすればいいのか分からない」
「え」
「泳ぐのは分かる。距離と時間を決めればいい。だが今、誰も距離を決めていない」
「そりゃ海水浴だからな」
「では、何をすれば終わるんだ」
……。
私はそこで我慢できなくなった。
*
「なーに難しい顔してんの、松谷君」
両手ですくった水を、顔面に叩きこんでやった。
「やめろ、目に入る」
「入れてんの」
「なぜだ」
「なんとなく!」
松谷君が、心底理解できないという顔で私を見た。
そして、ゆっくり水面に手を伸ばして。
几帳面に水をすくって、私の顔面に正確に命中させた。
「ぎゃっ!」
「……こうか」
「そう! そうだけど! 加減して!」
「加減の基準が分からない」
「そういうとこだって!」
*
しばらく水をかけ合った。
あの子の表情はほとんど動かなかったけど、一度だけ、命中したときに口の端が上がった。
——あ。
見た。
たぶん本人は気づいていない。
私は指摘しなかった。指摘すると、あの子はすぐ話題を変える。
そういうことは、この二週間で学習した。
*
そういえば、この日私は一度だけスマホを見た。
母からLINEが来ていた。
『杏菜、日曜の件、おばさんに謝っておいたよ』
『部活がんばってね』
——うん。
私は既読をつけて、返事を打たなかった。
打とうとして、やめた。
打つと、たぶん、嘘を書いてしまう。楽しんでるよ、とか。がんばるね、とか。
嘘ではないんだけど。
嘘ではないのに、書くと嘘になる気がした。
私はスマホを防水ケースに戻して、海に戻った。
四
【八奈見杏菜】
昼過ぎ。
「失礼します」
砂の上に、白い日傘が立った。
麻の上着に皺が一つもない。真夏の砂浜に立っているのに、汗の気配すらない。
——え、誰。
「松谷さん。加瀬さん。お弁当をお持ちしました」
「……松平先生」
私は思わず声を出した。
一年C組の副担任である。政治経済と古典と英語を持っていて、返された答案の朱の字がやたら綺麗な、あの人。
なんで砂浜に。
「八奈見さんでしたね。こんにちは」
「こ、こんにちは」
「よい日和です」
日和、って言った。
そういう単語を口に出す人を、私は初めて見た。
先生は風呂敷を解いて、レジャーシートの上にそれを置いた。
二段の重箱である。
「なにこれ」
「弁当です」
「弁当って」
「弁当です」
私は加瀬君を見た。
「ねえ、なんで松平先生が弁当持ってくるの」
「私と松谷の保護者ですので」
「保護者?」
「同じ家に世話になっております」
「……先生の家に?」
「はい」
「……そうなんだ」
——同じ家?
いろいろ聞きたいことはあったけど、蓋を開けた瞬間に全部飛んだ。
*
俵型の飯が寸分の狂いもなく並んでいる。
卵焼きの断面が同じ厚さで揃っている。
煮物の色が全部違う。
隅に添えられた青いものが、私には何なのか分からない。
「これ……お店の?」
「手作りだそうです」
「嘘でしょ」
私は箸を持ったまま固まった。
……分かる人には分かると思う。
これは、格が違うのだ。
私だって弁当は作る。毎朝六時に起きて作る。玉子焼きは自信作だし、から揚げの下味は三段階つける。
でもこれは、そういう次元じゃない。
「八奈見さん、動かないと」
「いや、待って。心の準備が」
「弁当に心の準備がいるのか」
いるんだよ。
「先生」
「はい」
「これ、先生が作ったんですか」
「作りました」
「……朝から?」
「四時からです」
「四時」
「早起きは習慣でして」
*
震える手で卵焼きを一切れ食べた。
……えっ。
「どうした」
「……なにこれ」
もう一切れ食べた。
三切れ目に手を伸ばして、止めた。
「だめ。これ以上食べたら私、自分の作るものが嫌いになる」
「そこまでか」
「そこまでなの」
本当にそこまでである。
美味しいと悔しいは、ある一線を超えると同じ味になる。
*
私は自分の弁当箱を開けた。
温水君への返済分である。今朝六時に起きて作った。
玉子焼きは自信作である。
……自信作だった。さっきまでは。
「先生」
「はい」
「これ、食べてもらえますか」
差し出してから、なんでこんなことしてるんだろうと思った。
勝てるわけないのに。
松平先生は箸を受け取って、姿勢を変えずに一切れ取った。
食べ方が綺麗すぎて怖い。音がしない。
そして、飲みこんでから言った。
「砂糖ですか」
「……はい」
「出汁は」
「入れてないです」
「では、これは砂糖と卵の味ですね」
「……はい」
「よろしいと思います」
「え」
「甘い玉子焼きというのは、そういうものです。出汁を入れると上手にはなりますが、甘い玉子焼きではなくなる」
先生はもう一切れ取った。
「私のは、出汁を入れております」
それだけ言って、二切れ目も綺麗に食べた。
*
——待って。
待って待って待って。
それ、負けてないってこと?
それとも、慰められてるの?
どっち?
私は口を開けたまま、先生の顔を見ていた。
先生は微笑んだまま、重箱の蓋を閉めた。何を思っているのか、一ミリも分からない。
「では、私はこれで」
「え、食べていかないんですか」
「朝に済ませました」
「四時に?」
「四時に」
日傘を差し直して、先生は松林の方へ歩いていった。
*
「加瀬君。あの人って、何者?」
「さあ」
「さあ?」
「私も、あの方のことはよく知らないのです」
にこりと笑って、それ以上何も言わない。
「同じ家に住んでるんだよね?」
「住んでおります」
「知らないの?」
「毎朝、顔を合わせております」
答えになっていない。
……この一年生たち。
なんなの。
*
ちなみにこの日、私は重箱の煮物を五種類食べた。
自分の作るものが嫌いになるとか言っておいて、五種類食べた。
そういう人間なんだよ、私は。
五
【八奈見杏菜】
午後、小鞠ちゃんはやっぱり動かなかった。
パラソルの影から出ない。上着も脱がない。時々スマホをいじって、あとは膝を抱えている。
私は一度だけ声をかけて、それ以上はやめた。
無理に引っぱり出すのは、たぶん違う。
そのうち、松谷君があの子の隣に座った。
二人とも何も喋らない。
黙って並んで海を見ているだけ。五分くらいして、松谷君が立ち上がった。
それだけだった。
——なにあれ。
私は遠くから見ていて、正直、ちょっと感心した。
あの子、何も聞かなかった。
大丈夫? も、暑くない? も、泳がないの?
も言わなかった。
私だったら三分で話しかけている。
でも小鞠ちゃんは、そのあと少し姿勢が緩んだように見えた。
……あー。
そういうのも、あるのか。
*
あとで聞いてみた。
「ねえ、小鞠ちゃんに何か言った?」
「言っていない」
「五分もいたじゃん」
「座っていただけだ」
「なんで座ったの」
「一人だったからだ」
「話しかけないの」
「話すことがない」
「じゃあなんで座るのさ」
「……一人と、一人でいるのは、違う」
私は返事に困った。
そういうことを、真顔で言うんだこの子。
六
【八奈見杏菜】
夕方近く、ビーチフラッグ大会というのをやっていた。
海の家の主催で、賞品が花火セット。
檸檬ちゃんが飛び入りして、当然のように優勝した。
「なんかパッとしてザーッて走ってドーンと旗取ったら、もらった!」
説明が壊滅的である。
でもあの子、賞品を抱えて戻ってきたときの顔がすごく良かった。
——うん。
一つでも勝てる日があるのは、いいことだ。
私は一つも勝ってないけど。まあいいや。
*
撤収の時間。
荷物を片付けていると、檸檬ちゃんがストレッチを始めた。
「ねえ、そういえば小ちゃん。まだ海に入ってないことない?」
小鞠ちゃんがスマホを取り出そうと焦る。
その隙を見逃さず、檸檬ちゃんはニンマリ笑って小鞠ちゃんを抱き上げた。俗に言うお姫様抱っこである。
「それじゃ行ってきます!」
「「「「いってらー」」」」
見送る私たちの前を、檸檬ちゃんが走っていく。暴れる小鞠ちゃんを意に介さない。
なんだあのパワー。
隣で松谷君が真顔で言った。
「あれは、助けなくていいのか」
「いいんだよ」
温水君が答える。
「拘束されて連行されているように見えるが」
「そう見えるけど、いいんだよ」
「……そうか」
納得していない顔で、あの子はパラソルを丁寧に畳み始めた。
*
「うう……びちゃ濡れ……」
びしょ濡れの小鞠ちゃんが、上着を絞りながら戻ってきた。
「小鞠ちゃん、どうだった? 海、気持ちよかったでしょ!」
「しょ、しょっぱい……」
「だよねー、気持ちいいよねー」
「だ、だから、しょっぱい、て!」
「そりゃ海だし! 小鞠ちゃん、おかしなこと言うねー」
——うん。
檸檬ちゃんとまともに話そうとするだけ無駄だよ、小鞠ちゃん。
でも。
濡れた小鞠ちゃんは、朝よりちょっとだけ元気そうに見えた。
ずぶ濡れにされるのも、たまには効くらしい。
*
松林の方で、長袖の先生が本を閉じて立ち上がるのが見えた。
……あれ。
私はそのとき、初めて気づいた。
あの先生、いつのまにか靴を履き直している。
「ねえ松谷君。あの先生、途中で靴脱いでた?」
「脱いでいた」
「見てたんだ」
「見ていた」
「なんで脱いだの」
「……砂が熱かったのだろう」
「入ってないよね、海」
「入っていない」
「じゃあなんで脱ぐのさ」
松谷君はパラソルの骨を揃えながら、少しだけ間を置いた。
「足首までは、入られた」
「え」
「なんでもない」
——足首まで。
それは、入ったって言うのかな。
まあ、暑かったんだろうな。長袖だし。
*
月之木先輩がパンパンと手を鳴らした。
「はい、みんな遊びはお終い! そろそろ着替えて宿に向かうよ!」
私は最後にもう一度、海を見た。
日曜日、草介と華恋も、どこかの海にいるんだろうな。
——見ない見ない。
私はそれ以上考えるのをやめて、荷物を持ち上げた。
今日は、いい一日だった。
そういうことにしておく。