負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第9話 3敗目 高木視点 海を見ない男

 松林の日陰で、高木惣吉は文庫本を開いていた。

 

 開いてはいたが、二十分近く同じ頁のままである。

 

 背筋は伸びている。膝の上の本は傾いていない。傍目には、静かに読書をしている痩身の青年にしか見えない。

 

 海の方は、一度も見ていない。

 

 見ないようにしている、というより、見ると仕事が始まってしまうからである。

 

 高木惣吉は航海長を三度務めた男である。船の位置を決めるのが職務だった。水面というものを、彼は一度も景色として見たことがない。

 

 作業面である。ずっとそうだった。

 

       *

 

「精が出ますね」

 

 日傘を差した男が、砂を踏んで隣に立った。

 

 麻の上着に皺一つない。真夏の砂浜に立っているのに、汗の気配すらない。

 

「松平さん」

 

「先生、でしょう。校外でも一応」

 

「……松平先生」

 

 高木は本を閉じた。

 

「なぜここに」

 

「保護者ですから。あの二人の弁当を届けに来ました」

 

 松平康昌は手にした風呂敷包みを軽く掲げてみせる。二段の重箱である。

 

「重箱ですか」

 

「他に適当なものがなかったもので」

 

「海水浴に、重箱を」

 

「いけませんか」

 

「……いえ」

 

 高木は少しだけ口元を緩めた。

 

 松平はパイプ椅子をもう一脚どこからか出してきて、優雅に腰を下ろした。日傘を砂に立て、実に自然に日陰を二人分に広げる。

 

       *

 

「何をお読みです」

 

「訳書です」

 

「面白うございますか」

 

「二十分、同じ頁におります」

 

「では、面白くない」

 

「いえ」

 

 高木は膝の上の本を裏返した。

 

「読んでいると、あちらが見えるので」

 

「見なければよろしい」

 

「見ないようにしております」

 

「高木先生」

 

「なんでしょう」

 

「先ほどから、何を数えておいでですか」

 

 高木は答えなかった。

 

「当てましょうか」

 

「……どうぞ」

 

「波の間隔でしょう」

 

「風です」

 

「おや」

 

「南南西。海面の様子からして四メートルほど。潮は上げ。波高は低い」

 

 言ってしまってから、高木は口を閉じた。

 

「聞かれましたので、答えました」

 

「ええ」

 

「聞かれなければ、申しません」

 

「存じております」

 

 松平は日傘の柄を砂に押しこみ直した。

 

「ほかには」

 

「沖のブイまで、あの子の速度なら往復で四分ほどです」

 

「あの子、とおっしゃいますと」

 

「……名前は存じません。よく走っている生徒です」

 

 松平が声を出さずに笑った。

 

「名前をご存じないのに、速度は出るのですか」

 

「出ます」

 

「困った方だ」

 

「よく言われます」

 

「加瀬君から聞きました。書式の件で、教員を一人出さねばならなくなったと」

 

「私が出ました。他に手が空いている者がいない」

 

「あなたはいつも、手が空いていることになっていますね」

 

「非常勤ですから」

 

「便利な身分です」

 

「……ええ」

 

「不便でもある」

 

「ええ」

 

「職員会議には、まだ出られませんか」

 

「出られません」

 

「校長は、あなたを気に入っておいでですよ」

 

「気に入られても、席は増えません」

 

「増やしましょうか」

 

「結構です」

 

「即答ですね」

 

「席のない者にしか、できない仕事があります」

 

 松平はそれには答えなかった。

 

 答えずに、砂の上の重箱の位置を少しだけ直した。

 

 遠くで悲鳴と笑い声が上がっている。誰かが浮き輪ごとひっくり返ったらしい。

 

「賑やかですね」

 

「ええ」

 

「何人おいでです」

 

「この浜に、ですか」

 

「はい」

 

「……八十七人」

 

「数えられた」

 

「目に入りましたので」

 

 松平は日傘の下から、浜のほうへ顔を向けた。

 

「私は、数えません」

 

「なぜです」

 

「数えますと、覚えてしまいますので」

 

 高木は答えなかった。

 

 答えなかったが、この人が何の話をしているのかは分かった。

 

 二人はしばらく黙った。

 

       *

 

「高木先生」

 

「なんでしょう」

 

「海には、入られないので」

 

 高木は答えなかった。

 

 答えないまま、上着の内ポケットから小瓶を取り出した。栓を抜き、中身をわずかに口に含む。顔をしかめて、すぐに栓を戻した。

 

 松平はそれを見ていたが、何も言わなかった。

 

「……痛くないことに、まだ慣れません」

 

「そうですか」

 

「先生は、慣れられましたか」

 

「何にです」

 

「……いえ」

 

 聞かなければよかった、と高木は思った。

 

 この人は、慣れたとも慣れないとも言わない。

 

 それきり、松平はその話をしなかった。

 

 代わりに、砂の上に置いた重箱の位置を少しだけ直して、

 

「渥美のあたりは、昔から風が強い土地です」

 

 と言った。

 

「そうですね」

 

「風車を立てるのに向いている。いまはずいぶん立っているそうですよ」

 

「……見ました。バスの窓から」

 

「あれを見て、あなたは何を考えました」

 

 高木はしばらく黙ってから答えた。

 

「風の速度を」

 

 松平が声を出さずに笑った。

 

「あなたらしい」

 

「ほかに考えようがありません」

 

「ございますよ」

 

「たとえば」

 

「あれは、油を使わずに電気を作ります」

 

 高木の指が、本の縁で止まった。

 

「……何基ありますか」

 

「先ほど申し上げました。私は数えません」

 

「……そうでした」

 

 松平はそれきり、風車の話をしなかった。

 

       *

 

 高木惣吉と海の付き合いは、十年で終わっている。

 

 一九一五年の暮れに兵学校を出て、練習艦に乗った。近海を四か月、それから遠洋航海で豪州へ、そして内南洋へ。あの航海のことを、彼はあまり良く覚えていない。

 

 覚えているのは、副長に叱られたことだけである。同期の連中は潑剌としていた。自分はそうではなかった。

 

 訓練の日課の反復に、どうしても心が動かなかった。

 

 考課表の最初の一枚に、その評価が残った。

 

 紙は残る。あとから何をしても、最初の一枚は残る。

 

 以後の乗艦は、自分でも「ドサ廻り」と呼んでいた。二流三流の艦を順に回された。インド洋、沿海州の警備。

 

 艦内には誇りも気迫もなく、あるのは自分の失点の記憶だけだった。士官としての先はもうないと思っていた。酒を飲みすぎて胃と肝臓を壊した。

 

 二十代のなかばで、彼は観相師の門をくぐっている。

 

 海軍中尉が、進退を占ってもらいに行ったのである。

 

 そこで一喝された。

 

  ——夜明け前が、いちばん暗い。

 

 その言葉で立ち直った、という話にはしたくない。実際には、そのあと何年も暗かった。

 

 ただ、あの日から彼は勉強を始めた。それだけは確かである。

 

       *

 

 大尉になって、航海長を三度やった。

 

 駆逐艦。水雷母艦。そして測量艦。

 

 いま思えば、最後の一隻が全部を言い当てていた。測量艦というのは、海を測る船である。撃つのでも運ぶのでもなく、深さを測り、位置を記し、図に落とす。

 

 自分にはそれしかできなかったし、それだけはできた。

 

 一九二三年の秋、北支の沿岸で演習中に震災の報が入った。全艦で横須賀へ急いだ。鎌倉の家は潰れていた。

 

 妻は通りがかりの誰かに助け出されていた。

 

 自分は海にいた。

 

 助けたのは、名前も知らない他人である。

 

——いつもそうだった。彼はいつも、起きている場所にいない。情報だけが先に届いて、身体は間に合わない。

 

 二十二年後もそうだった。

 

 そして一九二五年の春、測量艦で内南洋に錨を下ろしているとき、彼は海軍大学校の入学試験を受けた。船の上で答案を書いた。

 

 受かった。

 

 それが、最後の海である。

 

 以後、彼は陸に上がった。フランス、海軍省、調査課、教育局。一度も艦を指揮していない。

 

 一度も海戦をしていない。

 

 三十九で喀血して、そこで身体の方も海から締め出された。

 

 いまその症状はない。二十五の身体に戻ったからである。痛まない胃を抱えて、彼は薬をあおり続けている。

 

       *

 

 沖の方で、日焼けした少女が水しぶきを上げて泳いでいる。その少し後ろを、見慣れた顔の少年が追っている。追いつけていない。

 

 高木は、そこで初めて海の方に顔を向けた。

 

 正確には、水平線の方である。

 

 三河湾の外は遠州灘だ。その先がどこへ繋がっているかを、この男は数字で知っている。

 

 内南洋。

 

 十九の年に、練習艦の甲板から見た。二十七の年に、測量艦の上で答案を書きながら、その同じ海に浮かんでいた。

 

 そして四十を過ぎてから、彼はその海の勘定をした。何隻が、月にどれだけの割合で減っていくか。造れる数と、沈む数。

 

 答えは早い時期に出ていた。書いて、渡した。渡した先で何が起きたかは、もう知っている。

 

 あの海の底に、いま何人いるのかは知らない。

 

 数えられるはずだと思う。彼は数える仕事をしてきた。

 

——数えたくない。

 

 彼が自分にそれを許したのは、たぶん、生涯で数えるほどしかない。

 

「静かなものですね」

 

 松平が言った。

 

「ええ」

 

「あなたが見ていたのは、ここではない海でしょう」

 

「……そう見えますか」

 

「見えます。私にはね」

 

 高木は答えなかった。

 

 代わりに、こう言った。

 

「同じ水です」

 

「ほう」

 

「東京湾も、遠州灘も、内南洋も。全部繋がっている。海図の上ではそうなっています」

 

「では、ここも」

 

「……ここもです」

 

「よい海図をお持ちですね」

 

「頭の中だけです」

 

「いちばん焼けにくい」

 

 高木は答えなかった。

 

 松平は日傘を少し傾けて、それ以上は聞かなかった。

 

       *

 

「高木先生」

 

「なんでしょう」

 

「靴は、お脱ぎになりませんか」

 

「なぜです」

 

「砂が熱うございます」

 

「……ええ」

 

「それだけです」

 

 松平はそう言って、また前を向いた。

 

       *

 

 高木はゆっくりと身をかがめると、靴を脱いだ。

 

 靴下も脱いで、きちんと揃えてパイプ椅子の下に置く。

 

「おや」

 

「砂が熱いだけです」

 

「そうですか」

 

 高木惣吉は裸足で立ち上がり、水際から三歩ほど手前まで歩いていって、そこで止まった。

 

 それ以上は行かなかった。

 

 波が寄せて、砂を濡らして、引いていく。

 

 一歩踏み出せば、足首が濡れる。それだけのことである。

 

 だがこの男は、自分の意思で海に入ったことが一度もない。命じられて乗り、命じられて降りた。乗艦も、配置も、降りる日付も、全部よそで決まった。

 

 いま、決めるものが誰もいない。

 

 彼はそこに立って、しばらく波の間隔を数えていた。数えるのをやめた。

 

 そして、もう半歩だけ前に出た。

 

 波が来て、素足を洗って、引いていった。

 

 冷たかった。

 

 それ以上のことは、何も起きなかった。

 

 顔を上げると、沖のほうから誰かがこちらを見ていた。

 

 浮いているだけの、姿勢の悪い泳ぎ方である。

 

 高木はその男が誰かを知っている。

 

 目が合った。

 

 松谷誠は何も言わずに顔を戻して、また浮いた。

 

       *

 

「……先生、入らないんですか」

 

 背後から声がした。

 

 濡れた髪をかき上げながら、加瀬俊一が水から上がってくるところだった。

 

「入っている」

 

「足首までですが」

 

「充分だ」

 

「相変わらずですね」

 

 加瀬は笑って、それから風上に立っていることに気づいたのか、律儀に数歩ずれた。

 

 もう吸っていないのに、身体がその癖を覚えている。

 

 高木はそれには触れなかった。

 

 代わりに、水平線の方を顎で示す。

 

「泳ぎは、あれで四十秒は縮む」

 

「え」

 

「入水の角度だ。君は上体が高い。あの子と競って勝てないのは足の速さではない」

 

「……分析されておりますね」

 

「習慣です」

 

 加瀬が声を出して笑った。

 

「教えていただけますか」

 

「私は泳がない。理屈だけだ」

 

「充分です。理屈だけで四十秒縮むなら、それは充分すぎる」

 

 高木は返事をしなかった。

 

 だが、砂の上にしゃがみこんで、指先で入水の角度を描いてみせた。

 

「ここで手が入る。君は、ここだ」

 

「ずいぶん違いますね」

 

「二十センチだ」

 

「二十センチで四十秒」

 

「四十秒で、順位が変わる」

 

 加瀬はしゃがみこんで、砂の線を覗きこんだ。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「これは、いつ覚えられたのですか」

 

「覚えていない」

 

「は」

 

「見ていれば分かる。それだけだ」

 

 加瀬は何も言わなかった。

 

 言わずに、砂の線を指でなぞった。

 

 背後で、松平康昌は日傘の下から動かず、その光景を見ている。

 

「侯爵」

 

 加瀬が振り向かずに言った。

 

「先生、でしょう。校外でも一応」

 

「……松平先生」

 

「はい」

 

「あの方に、靴を脱げと言われましたか」

 

「言っておりません」

 

「そうですか」

 

「砂が熱いと、申し上げただけです」

 

 加瀬は笑って、また砂の線に目を戻した。

 

 やがて松平は、誰にともなく呟いた。

 

「……よろしい」

 

 それだけである。

 

 彼は日傘を差し直すと、重箱を持って砂浜の方へ歩き出した。

 

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