負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
松林の日陰で、高木惣吉は文庫本を開いていた。
開いてはいたが、二十分近く同じ頁のままである。
背筋は伸びている。膝の上の本は傾いていない。傍目には、静かに読書をしている痩身の青年にしか見えない。
海の方は、一度も見ていない。
見ないようにしている、というより、見ると仕事が始まってしまうからである。
高木惣吉は航海長を三度務めた男である。船の位置を決めるのが職務だった。水面というものを、彼は一度も景色として見たことがない。
作業面である。ずっとそうだった。
*
「精が出ますね」
日傘を差した男が、砂を踏んで隣に立った。
麻の上着に皺一つない。真夏の砂浜に立っているのに、汗の気配すらない。
「松平さん」
「先生、でしょう。校外でも一応」
「……松平先生」
高木は本を閉じた。
「なぜここに」
「保護者ですから。あの二人の弁当を届けに来ました」
松平康昌は手にした風呂敷包みを軽く掲げてみせる。二段の重箱である。
「重箱ですか」
「他に適当なものがなかったもので」
「海水浴に、重箱を」
「いけませんか」
「……いえ」
高木は少しだけ口元を緩めた。
松平はパイプ椅子をもう一脚どこからか出してきて、優雅に腰を下ろした。日傘を砂に立て、実に自然に日陰を二人分に広げる。
*
「何をお読みです」
「訳書です」
「面白うございますか」
「二十分、同じ頁におります」
「では、面白くない」
「いえ」
高木は膝の上の本を裏返した。
「読んでいると、あちらが見えるので」
「見なければよろしい」
「見ないようにしております」
「高木先生」
「なんでしょう」
「先ほどから、何を数えておいでですか」
高木は答えなかった。
「当てましょうか」
「……どうぞ」
「波の間隔でしょう」
「風です」
「おや」
「南南西。海面の様子からして四メートルほど。潮は上げ。波高は低い」
言ってしまってから、高木は口を閉じた。
「聞かれましたので、答えました」
「ええ」
「聞かれなければ、申しません」
「存じております」
松平は日傘の柄を砂に押しこみ直した。
「ほかには」
「沖のブイまで、あの子の速度なら往復で四分ほどです」
「あの子、とおっしゃいますと」
「……名前は存じません。よく走っている生徒です」
松平が声を出さずに笑った。
「名前をご存じないのに、速度は出るのですか」
「出ます」
「困った方だ」
「よく言われます」
「加瀬君から聞きました。書式の件で、教員を一人出さねばならなくなったと」
「私が出ました。他に手が空いている者がいない」
「あなたはいつも、手が空いていることになっていますね」
「非常勤ですから」
「便利な身分です」
「……ええ」
「不便でもある」
「ええ」
「職員会議には、まだ出られませんか」
「出られません」
「校長は、あなたを気に入っておいでですよ」
「気に入られても、席は増えません」
「増やしましょうか」
「結構です」
「即答ですね」
「席のない者にしか、できない仕事があります」
松平はそれには答えなかった。
答えずに、砂の上の重箱の位置を少しだけ直した。
遠くで悲鳴と笑い声が上がっている。誰かが浮き輪ごとひっくり返ったらしい。
「賑やかですね」
「ええ」
「何人おいでです」
「この浜に、ですか」
「はい」
「……八十七人」
「数えられた」
「目に入りましたので」
松平は日傘の下から、浜のほうへ顔を向けた。
「私は、数えません」
「なぜです」
「数えますと、覚えてしまいますので」
高木は答えなかった。
答えなかったが、この人が何の話をしているのかは分かった。
二人はしばらく黙った。
*
「高木先生」
「なんでしょう」
「海には、入られないので」
高木は答えなかった。
答えないまま、上着の内ポケットから小瓶を取り出した。栓を抜き、中身をわずかに口に含む。顔をしかめて、すぐに栓を戻した。
松平はそれを見ていたが、何も言わなかった。
「……痛くないことに、まだ慣れません」
「そうですか」
「先生は、慣れられましたか」
「何にです」
「……いえ」
聞かなければよかった、と高木は思った。
この人は、慣れたとも慣れないとも言わない。
それきり、松平はその話をしなかった。
代わりに、砂の上に置いた重箱の位置を少しだけ直して、
「渥美のあたりは、昔から風が強い土地です」
と言った。
「そうですね」
「風車を立てるのに向いている。いまはずいぶん立っているそうですよ」
「……見ました。バスの窓から」
「あれを見て、あなたは何を考えました」
高木はしばらく黙ってから答えた。
「風の速度を」
松平が声を出さずに笑った。
「あなたらしい」
「ほかに考えようがありません」
「ございますよ」
「たとえば」
「あれは、油を使わずに電気を作ります」
高木の指が、本の縁で止まった。
「……何基ありますか」
「先ほど申し上げました。私は数えません」
「……そうでした」
松平はそれきり、風車の話をしなかった。
*
高木惣吉と海の付き合いは、十年で終わっている。
一九一五年の暮れに兵学校を出て、練習艦に乗った。近海を四か月、それから遠洋航海で豪州へ、そして内南洋へ。あの航海のことを、彼はあまり良く覚えていない。
覚えているのは、副長に叱られたことだけである。同期の連中は潑剌としていた。自分はそうではなかった。
訓練の日課の反復に、どうしても心が動かなかった。
考課表の最初の一枚に、その評価が残った。
紙は残る。あとから何をしても、最初の一枚は残る。
以後の乗艦は、自分でも「ドサ廻り」と呼んでいた。二流三流の艦を順に回された。インド洋、沿海州の警備。
艦内には誇りも気迫もなく、あるのは自分の失点の記憶だけだった。士官としての先はもうないと思っていた。酒を飲みすぎて胃と肝臓を壊した。
二十代のなかばで、彼は観相師の門をくぐっている。
海軍中尉が、進退を占ってもらいに行ったのである。
そこで一喝された。
——夜明け前が、いちばん暗い。
その言葉で立ち直った、という話にはしたくない。実際には、そのあと何年も暗かった。
ただ、あの日から彼は勉強を始めた。それだけは確かである。
*
大尉になって、航海長を三度やった。
駆逐艦。水雷母艦。そして測量艦。
いま思えば、最後の一隻が全部を言い当てていた。測量艦というのは、海を測る船である。撃つのでも運ぶのでもなく、深さを測り、位置を記し、図に落とす。
自分にはそれしかできなかったし、それだけはできた。
一九二三年の秋、北支の沿岸で演習中に震災の報が入った。全艦で横須賀へ急いだ。鎌倉の家は潰れていた。
妻は通りがかりの誰かに助け出されていた。
自分は海にいた。
助けたのは、名前も知らない他人である。
——いつもそうだった。彼はいつも、起きている場所にいない。情報だけが先に届いて、身体は間に合わない。
二十二年後もそうだった。
そして一九二五年の春、測量艦で内南洋に錨を下ろしているとき、彼は海軍大学校の入学試験を受けた。船の上で答案を書いた。
受かった。
それが、最後の海である。
以後、彼は陸に上がった。フランス、海軍省、調査課、教育局。一度も艦を指揮していない。
一度も海戦をしていない。
三十九で喀血して、そこで身体の方も海から締め出された。
いまその症状はない。二十五の身体に戻ったからである。痛まない胃を抱えて、彼は薬をあおり続けている。
*
沖の方で、日焼けした少女が水しぶきを上げて泳いでいる。その少し後ろを、見慣れた顔の少年が追っている。追いつけていない。
高木は、そこで初めて海の方に顔を向けた。
正確には、水平線の方である。
三河湾の外は遠州灘だ。その先がどこへ繋がっているかを、この男は数字で知っている。
内南洋。
十九の年に、練習艦の甲板から見た。二十七の年に、測量艦の上で答案を書きながら、その同じ海に浮かんでいた。
そして四十を過ぎてから、彼はその海の勘定をした。何隻が、月にどれだけの割合で減っていくか。造れる数と、沈む数。
答えは早い時期に出ていた。書いて、渡した。渡した先で何が起きたかは、もう知っている。
あの海の底に、いま何人いるのかは知らない。
数えられるはずだと思う。彼は数える仕事をしてきた。
——数えたくない。
彼が自分にそれを許したのは、たぶん、生涯で数えるほどしかない。
「静かなものですね」
松平が言った。
「ええ」
「あなたが見ていたのは、ここではない海でしょう」
「……そう見えますか」
「見えます。私にはね」
高木は答えなかった。
代わりに、こう言った。
「同じ水です」
「ほう」
「東京湾も、遠州灘も、内南洋も。全部繋がっている。海図の上ではそうなっています」
「では、ここも」
「……ここもです」
「よい海図をお持ちですね」
「頭の中だけです」
「いちばん焼けにくい」
高木は答えなかった。
松平は日傘を少し傾けて、それ以上は聞かなかった。
*
「高木先生」
「なんでしょう」
「靴は、お脱ぎになりませんか」
「なぜです」
「砂が熱うございます」
「……ええ」
「それだけです」
松平はそう言って、また前を向いた。
*
高木はゆっくりと身をかがめると、靴を脱いだ。
靴下も脱いで、きちんと揃えてパイプ椅子の下に置く。
「おや」
「砂が熱いだけです」
「そうですか」
高木惣吉は裸足で立ち上がり、水際から三歩ほど手前まで歩いていって、そこで止まった。
それ以上は行かなかった。
波が寄せて、砂を濡らして、引いていく。
一歩踏み出せば、足首が濡れる。それだけのことである。
だがこの男は、自分の意思で海に入ったことが一度もない。命じられて乗り、命じられて降りた。乗艦も、配置も、降りる日付も、全部よそで決まった。
いま、決めるものが誰もいない。
彼はそこに立って、しばらく波の間隔を数えていた。数えるのをやめた。
そして、もう半歩だけ前に出た。
波が来て、素足を洗って、引いていった。
冷たかった。
それ以上のことは、何も起きなかった。
顔を上げると、沖のほうから誰かがこちらを見ていた。
浮いているだけの、姿勢の悪い泳ぎ方である。
高木はその男が誰かを知っている。
目が合った。
松谷誠は何も言わずに顔を戻して、また浮いた。
*
「……先生、入らないんですか」
背後から声がした。
濡れた髪をかき上げながら、加瀬俊一が水から上がってくるところだった。
「入っている」
「足首までですが」
「充分だ」
「相変わらずですね」
加瀬は笑って、それから風上に立っていることに気づいたのか、律儀に数歩ずれた。
もう吸っていないのに、身体がその癖を覚えている。
高木はそれには触れなかった。
代わりに、水平線の方を顎で示す。
「泳ぎは、あれで四十秒は縮む」
「え」
「入水の角度だ。君は上体が高い。あの子と競って勝てないのは足の速さではない」
「……分析されておりますね」
「習慣です」
加瀬が声を出して笑った。
「教えていただけますか」
「私は泳がない。理屈だけだ」
「充分です。理屈だけで四十秒縮むなら、それは充分すぎる」
高木は返事をしなかった。
だが、砂の上にしゃがみこんで、指先で入水の角度を描いてみせた。
「ここで手が入る。君は、ここだ」
「ずいぶん違いますね」
「二十センチだ」
「二十センチで四十秒」
「四十秒で、順位が変わる」
加瀬はしゃがみこんで、砂の線を覗きこんだ。
「先生」
「なんだ」
「これは、いつ覚えられたのですか」
「覚えていない」
「は」
「見ていれば分かる。それだけだ」
加瀬は何も言わなかった。
言わずに、砂の線を指でなぞった。
背後で、松平康昌は日傘の下から動かず、その光景を見ている。
「侯爵」
加瀬が振り向かずに言った。
「先生、でしょう。校外でも一応」
「……松平先生」
「はい」
「あの方に、靴を脱げと言われましたか」
「言っておりません」
「そうですか」
「砂が熱いと、申し上げただけです」
加瀬は笑って、また砂の線に目を戻した。
やがて松平は、誰にともなく呟いた。
「……よろしい」
それだけである。
彼は日傘を差し直すと、重箱を持って砂浜の方へ歩き出した。