負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第10話 3敗目 小鞠視点 バーベキュー

【小鞠知花】

 

 陽が沈み始めて、昼間の暑さが嘘のように引いていく。

 

 キチキチと聞いたことのない虫が鳴いている。虫のことは知らない。虫の名前を調べたことがない。

 

 私はキャンプ場の炊事ブースの端で、ソラ豆のさやを剥いていた。

 

 正確には、剥かされている。

 

「小鞠ちゃん、これお願いね」

 

「あ、はい」

 

「助かるー。三十分で終わる?」

 

「た、たぶん」

 

「たぶんって顔じゃないけど」

 

「お、終わります」

 

「無理しなくていいよ」

 

「む、無理してない」

 

 してる。

 

 月之木先輩にザルを渡されて、断れなかった。断れないというか、断る文が組み立たなかった。頭の中には「あ、はい」と「え、でも」の二つがあって、口から出たのは前者である。

 

 いつもそうだ。

 

 私の口は、頭の中の三割くらいしか出力しない。残り七割は、行き場をなくして頭蓋の内側に溜まる。

 

 七割のうちの、さらに九割は、部長のことである。

 

       *

 

——今日は、言わない。

 

 私は三十七回目くらいのその決意を確認した。

 

 理由は三つある。

 

 一、合宿中に言うと、断られたときに残り一日を同じ部屋で過ごすことになる。

 

 二、月之木先輩がいる。

 

 三、私は、怖い。

 

 三番目が本体で、一と二はその装飾である。それくらいは自分でも分かっている。

 

 分かっているのに、毎回一と二を先に数える。

 

——戦う前から、負けている。

 

 自分でそう思ったことがある。思ったあとで、なかなかいい言い回しだと思ってしまって、そんな自分が心底嫌になった。

 

 そういう人間なのだ、私は。

 

       二

 

【小鞠知花】

 

 火起こしの係は、焼塩が立候補した。

 

「まかせて! あたし、火とか得意だから!」

 

 得意なわけがない。

 

 この女は火のつけ方以前に、火が何でついているかを考えたことがない。私は五月の理科の授業でそれを目撃している。

 

「焼塩さん、その新聞紙、全部使うの」

 

「うん! 多いほうが燃えるじゃん!」

 

「燃えるけど、炭には移らないと思うぞ」

 

「移るって!」

 

 移らなかった。

 

「なんで!?」

 

「あおぎすぎじゃないか」

 

「あおがないと消えるじゃん!」

 

「あおぐと灰が飛ぶって」

 

 飛んだ。

 

 十五分かけて、焼塩は真っ黒になった。

 

 私はソラ豆を剥きながら、それを眺めていた。

 

——ざまあみろ。

 

 いや、そこまでは思っていない。ちょっとしか思っていない。

 

       *

 

 そこへ松谷が来た。

 

 一年C組の、あの男である。

 

 四月から文芸部に籍だけあって、六月から実際に来るようになった。姿勢が異常に良く、表情が動かず、たまに意味の分からないことを言う。

 

 松谷は炭をいったん全部どけて、木っ端を組み直した。

 

 新聞紙も着火剤も使わない。

 

「え、なにその組み方」

 

「隙間を作っている」

 

「隙間」

 

「炭が燃えているのではない。炭から出た気体が燃えている。気体の通る道がなければ、炭は熱くなるだけだ」

 

「……なるほど?」

 

「分からなくていい。下から詰めるな。それだけ覚えろ」

 

 三分で火がついた。

 

——え。

 

 焼塩の口が半開きになっていた。

 

 そして松谷は、灰まみれの焼塩を見て、こう言った。

 

「風下に立っている」

 

 正論である。

 

 完全に正論である。

 

 焼塩は無言で灯りの輪の外へ行き、私の隣に座って、ソラ豆を剥き始めた。

 

「……小ちゃん」

 

「な、なんだ」

 

「あたし、なんかした?」

 

「し、してない」

 

「じゃあなんで怒られたの」

 

「怒られてない」

 

「怒られたよ!?」

 

「ゆ、指摘だ」

 

「同じじゃん!」

 

「ち、違う」

 

「どう違うの」

 

「……お、怒ってる人は、声が大きくなる」

 

「松谷、声大きかったよ」

 

「大きくない」

 

「大きかったって!」

 

 大きくない。あの男は一度も声を張っていない。

 

 だがこの女には、正論を言われること自体が大声に聞こえるのだ。

 

 怒られていない。指摘されただけだ。

 

 だがこの女には、その区別がつかない。

 

 そして松谷には、その区別がつかない人間がいるという発想がない。

 

——似た者同士だな。

 

 まったく似ていない二人を見て、私はそう思った。

 

       三

 

【小鞠知花】

 

 肉が焼け始めた。

 

 私はまず、状況を確認した。

 

 網の左側に部長。その隣に月之木先輩。右側に八奈見と温水。

 

 松谷は炭の側。加瀬という一年生が網の反対側で肉を返している。

 

 私の位置は、部長から見て斜め前。

 

——距離、一メートル二十。

 

 近すぎず、遠すぎない。皿を差し出すのに不自然でない距離である。

 

 この配置を作るのに、私は椅子を二回動かした。二回目は八奈見が立ったタイミングを見計らった。

 

 こういうときだけ、私は異常に有能である。

 

       *

 

「慎太郎、こっち焼けたよ。はい、お皿」

 

「お、サンキュ古都」

 

「はいはい、次いくよ。ピーマンも食べな」

 

「ピーマンはいい」

 

「食べな」

 

「……食べます」

 

 月之木先輩が先に出した。

 

——遅れた。

 

 私は三秒待った。三秒待つのが最適解である。すぐ後だと張り合っているように見えるし、間が空きすぎると忘れられる。

 

「ぶ、部長。こっちも、焼けました」

 

「お、サンキュ。小鞠、気が利くなあ」

 

「そ、そんなことは」

 

「やっぱ外で食うと美味いよな」

 

「お、美味しいです」

 

「な」

 

「はい」

 

 会話が終わった。

 

——受け取った。

 

 私は自分の皿に視線を落として、心拍を数えた。

 

 たぶん百二十くらいある。

 

 たかが皿である。

 

 紙皿である。

 

 原価は三円くらいだと思う。松谷なら知っているだろう。

 

       *

 

「ぎゅ、牛肉、久しぶりだ……」

 

 思わず口から出た。

 

 これは本当である。

 

 うちは肉を焼くとき、母がとにかく焼く。安全のためだと言って灰色になるまで焼く。私は十六年、灰色の肉を食べて生きてきた。

 

 だから、赤い肉を初めて食べたときは衝撃だった。

 

「小鞠ちゃん、家で焼かないの」

 

「や、焼く」

 

「じゃあ久しぶりって」

 

「……い、色が違う」

 

「色」

 

「うちのは、灰色だ」

 

「灰色!?」

 

「灰色だ」

 

 八奈見が箸を止めた。

 

「小鞠ちゃん、それまだ赤いけど大丈夫?」

 

 温水が心配そうに言った。

 

「だ、大丈夫だ」

 

 大丈夫である。

 

 赤いのがいい。赤いのが正しい。灰色は間違っている。

 

       *

 

 そこで妙なことが起きた。

 

 八奈見が温水に生焼けの豚肉を差し出して、温水が皿を遠ざけて、そこへ松谷が口を挟んだのである。

 

「大丈夫ではない」

 

「えー、これくらい平気だよ」

 

「豚肉は中心部まで火を通す必要がある」

 

「誰が決めたの」

 

「……教本に」

 

「教本!?」

 

 温水が身を乗り出した。

 

「そうだよ、そこなんだよ! ずっと言いたかったんだよ!」

 

「なにこの二人、急に」

 

「松谷、お前さ。たまに変な単語出るよな。教本とか、要領とか」

 

「使うが」

 

「普通は使わないんだって」

 

「では、なんと言う」

 

「……レシピ?」

 

「レシピには、豚の中心温度が書いてあるのか」

 

「書いてないな」

 

「では、教本だ」

 

「そうだけどさあ!」

 

 私は箸を止めて、その光景を見ていた。

 

——豚は駄目なのか。

 

 牛は赤くていい。豚は駄目。

 

 十六年、誰も教えてくれなかった。母は全部灰色にすることでその問題を回避していたのである。

 

……なるほど。

 

 私は自分の皿の肉を見た。牛である。赤い。

 

 よし。

 

 こういうことを、私はいつも本から学ぶ。

 

 今日は珍しく、人から学んだ。

 

       四

 

【小鞠知花】

 

 加瀬という一年生は、肉を焼くのがうまかった。

 

 網の上の配置が整理されていて、置かれた順に下ろされていく。無駄がない。

 

「加瀬君、上手いね」

 

「焼き加減は火から下ろす瞬間で決まりますので」

 

「なにその玄人みたいなセリフ」

 

「玄人ではありませんが、玄人の食卓に何度か座ったことはあります」

 

「どこで」

 

「……よその国で」

 

「よその国って、どこ」

 

「北のほうです」

 

「ざっくりだね」

 

「私は、ざっくりした男ですので」

 

——嘘だ。

 

 私は嘘に敏感である。理由は簡単で、私自身がよく嘘をつくからだ。

 

「べつに、なんでもない」「本なんか読んでない」「部長のこととか、なんとも思ってない」

 

 全部、嘘である。

 

 嘘をつく人間は、他人の嘘の形が分かる。

 

 この加瀬という男は、答えたくないことを地名で処理している。しかも三回連続で同じ手を使っている。

 

——雑だな。

 

 もっとうまくやれ、と思った。

 

 私なら、もっとうまくやる。

 

……いや。うまくやれていたら、いま、こんなところでソラ豆を剥いていない。

 

       *

 

「小鞠さん」

 

 顔を上げたら、加瀬がこちらを見ていた。

 

「は、はい」

 

「いま、何かお考えでしたね」

 

「か、考えてない」

 

「即答でした」

 

「……」

 

「私も、よくやります」

 

 加瀬は網の上の肉を一枚返した。

 

「即答するのは、たいてい、考えていたときです」

 

——バレてる。

 

「あ、あんた」

 

「はい」

 

「性格、悪いな」

 

「よく言われます」

 

 にこりと笑って、この男は次の肉を返した。

 

……警戒しておこう。

 

       *

 

「加瀬君、こっちの肉も焼いてよ」

 

 焼塩が皿を差し出した。

 

「喜んで。ただし焼塩さん、その置き方ですと片面だけ炭になります」

 

「えっ、なんで分かるの」

 

「見れば分かります」

 

「すごーい!」

 

——おい。

 

 さっき松谷に同じことを言われて落ちこんだ女が、いま同じ内容で感心している。

 

 言い方だけの問題である。

 

 世の中は言い方だけの問題でできている。

 

 私はその言い方が、生まれてから一度もうまくいったことがない。

 

       五

 

【小鞠知花】

 

 炊事ブースの端に、パイプ椅子に座った先生がいた。

 

 長袖にスラックス。海でも同じ格好だった。

 

——高木先生だ。

 

 旧校舎の図書室にいる、非常勤の先生である。数学と倫理を持っていて、あとはずっとあの部屋にいる。

 

 私が昼休みに逃げこむ場所の、主のような人だ。

 

 紙皿の上のソーセージを一本だけ、きちんと食べ終えて、それきり何も取らない。

 

「先生、それだけですか」

 

 温水が聞いた。

 

「充分です」

 

「肉あるのに」

 

「ええ」

 

 そして先生は、上着の内側から小瓶を出して、中身を少し口に含んだ。

 

 顔をしかめる。

 

「……先生、それ何ですか」

 

「薬です」

 

「具合悪いんですか」

 

「いえ」

 

「え?」

 

「悪くありません」

 

「悪くないのに飲むんですか」

 

「習慣です」

 

 八奈見が温水の脇腹をつついて、何かひそひそ言っている。

 

       *

 

 みんなが網の方へ戻ったあと、私は先生の隣に立った。

 

 理由はない。

 

 理由はないが、この人の隣は、いつも一人ぶん空いている。

 

「先生は、食べないんですか」

 

「食べました」

 

「い、一本だけ」

 

「一本で足ります」

 

「た、足りますか」

 

「足ります。昔から、量が要らないのです」

 

 先生は本を膝に置いたまま、炭火の方を見ていた。

 

「小鞠さん」

 

「は、はい」

 

「あの火は、どなたが起こされましたか」

 

「ま、松谷が」

 

「そうですか」

 

「さ、最初は焼塩が。……十五分、かかりました」

 

「十五分」

 

「つ、つかなかった」

 

「なぜでしょう」

 

「し、下から詰めすぎたんだと」

 

「よくご覧になっている」

 

 褒められた、のだと思う。

 

 私は褒められると、何を言えばいいのか分からなくなる。

 

「せ、先生は、火、起こせますか」

 

「起こせます」

 

「じゃ、じゃあ、なんで」

 

「頼まれませんでしたので」

 

……この人は、こういう人だ。

 

 できることを黙って抱えて、頼まれるまで動かない。

 

 図書室でもそうだった。私が三日間、生徒会の紙を机に置いて逃げても、この人は一度も追いかけてこなかった。

 

「小鞠さん」

 

「は、はい」

 

「その豆は、あなたが剥かれたのですか」

 

「そ、そうです」

 

「よく剥けています」

 

「……はい」

 

「私は、そういうことしか申し上げられません」

 

「え」

 

「食べ物のことしか、分かりませんので」

 

——嘘だ。

 

 この人は、たぶん、たいていのことが分かる。

 

 分かったうえで、豆の話をしている。

 

 図書室でもそうだ。この人は、私の聞きたいことには一度も答えない。答えないかわりに、私が自分で言うまで待っている。

 

「せ、先生」

 

「はい」

 

「……あの」

 

「はい」

 

「な、なんでもないです」

 

「そうですか」

 

「……せ、先生」

 

「はい」

 

「き、聞かないんですね」

 

「聞きません」

 

「な、なんで」

 

「聞かれたくないことを聞くのは、私の仕事ではありませんので」

 

「じゃ、じゃあ、先生の仕事は」

 

 先生は少し考えた。

 

「本を出すことです。読みたい人がいれば」

 

「……そ、それだけ?」

 

「それだけです」

 

 嘘だ、と思った。

 

 思ったが、証拠がない。

 

 追いかけてこない。

 

 この人は、絶対に追いかけてこない。

 

 だから私は、いつも、あと一言のところまで来られる。

 

 あと一言までは。

 

「せ、先生。それ、なんの本ですか」

 

「哲学です」

 

「む、難しいやつ」

 

「難しいです」

 

「せ、先生でも」

 

「私でもです」

 

「じゃ、じゃあ、なんで読むんですか」

 

 先生はしばらく黙っていた。

 

「分からないことが、まだあるからです」

 

「……」

 

「分かってしまうと、読まなくてよくなる」

 

 そう言って、先生は表紙を伏せた。

 

 読ませてくれる気はないらしい。

 

「小鞠さん」

 

「は、はい」

 

「火の近くにおいでなさい。冷えます」

 

 それだけ言って、先生はまた本を開いた。

 

       *

 

 私は炭火の方へ戻った。

 

——習慣。

 

 私にも、意味のない習慣がある。

 

 家に帰ると必ず、部室で借りた本の背表紙を一度撫でる。理由はない。撫でないと落ち着かない。

 

 それと、寝る前に必ず、その日部長が言ったことを一つだけ思い出す。

 

 一つだけと決めている。二つ思い出すと止まらなくなるからだ。

 

——今日は、「ありがと」だな。

 

 もう決めた。

 

 まだ夜になっていないのに、もう決めてしまった。

 

 こういうところが、たぶん、駄目なのだと思う。

 

       六

 

【小鞠知花】

 

 月之木先輩が赤飯のおにぎりを配っていた。

 

「近くのブースの人がおすそ分けしてくれたの。炊きたてなんだって」

 

「中学生くらいの可愛い子だったな」

 

「へえ。二人組?」

 

「そう。姉妹かなあ」

 

 温水が急にそわそわし出した。

 

「温水君、どうかした?」

 

「別に」

 

「顔に出てるけど」

 

「出てない」

 

 出ている。

 

——妹だな。

 

 私はそう判断した。

 

 根拠はある。この男は、六月に部室で妹の話をしたとき、明らかに困った顔をしていた。困った顔をする対象は、たいてい本人にとって処理できない相手である。

 

 そして今日、この場に来られる中学生の心当たりは、この男の身内以外にない。

 

……私は、こういう推理だけは得意なのだ。

 

 役に立ったことは一度もないが。

 

       *

 

 その隣で、松谷が温水に小声で何か言っていた。

 

「三十分ほど前、林の向こうに中学生くらいの女子が二名いた」

 

「……見なかったことにしてくれ」

 

「もう手帳に書いた」

 

「消してくれ」

 

「消し方が分からない」

 

「破れよ」

 

「破ると、順番が分からなくなる」

 

「番号ふってないのか」

 

「ふってある」

 

「じゃあ破れるだろ」

 

「破った頁は、二度と戻らない」

 

「戻さなくていいんだって」

 

「……そうか」

 

——紙だろ。

 

 私は思わず口に出しかけて、飲みこんだ。

 

 飲みこんでから、あの男は本気で言っているのかもしれないと思った。

 

 あの男は、書いたものを消すという発想がないのかもしれない。

 

……いや、そんな人間はいない。

 

       七

 

【小鞠知花】

 

 八奈見が温水の肉を横から攫って、「はい、あーん」とやっていた。

 

 私は目を逸らした。

 

——見るな。

 

 見ると、余計なことを考える。

 

 たとえば、私があれをやったらどうなるか、とか。

 

——三秒で死ぬな。

 

 比喩ではなく、たぶん心臓が止まる。

 

 それと、あれは八奈見だからできるのだ。あの女には「冗談」という装甲がある。失敗しても冗談だったことにできる。

 

 私にはその装甲がない。

 

 私が同じことをやったら、それはもう告白である。冗談にできない。だから絶対にやらない。

 

——だから、勝てない。

 

 私はソラ豆を一つ、口に入れた。

 

 味がしなかった。

 

       *

 

 視界の隅で、松谷が八奈見と温水を交互に見ていた。

 

 そして何か聞いていた。

 

「あれは、何の手続きだ」

 

「手続きじゃない」

 

「では何だ」

 

「……なんだろうな」

 

「返礼が必要か」

 

「必要ない」

 

「では、なぜ受けた」

 

「断ると面倒だからだ」

 

「面倒とは」

 

「……あとで三倍になる」

 

「なるほど」

 

 松谷が手帳を開いた。

 

「書くな」

 

「書いた」

 

——手続き。

 

 私は思わず、鼻から息が漏れた。

 

 笑ったのだ、たぶん。

 

 この男は、あれを手続きだと思っている。

 

 そして温水は、答えられない。

 

……あれを説明できる人間は、たぶんこの世にいない。

 

 説明できないものが、いちばん強い。

 

 私が使えるのは説明できるものだけだ。だから弱い。

 

       八

 

【小鞠知花】

 

 暗くなってきた。

 

 焼塩が大量の花火を抱えて戻ってきた。浜のビーチフラッグ大会でもらってきた賞品である。

 

「ぬっくん、これ見て!」

 

「なんかパッとしてザーッて走ってドーンと旗取ったら、もらった!」

 

 説明が壊滅している。

 

「浜のビーチフラッグ大会に飛び入りして、優勝賞品よ」

 

 月之木先輩が補足した。

 

「二人にも見せたかったな」

 

「う、うん。す、凄かった」

 

「小ちゃんもやろ! はい、これ!」

 

「い、いい」

 

「なんで!」

 

「て、手が」

 

「手?」

 

「豆で、疲れた」

 

 嘘である。

 

 私は本当にそう思っている。

 

 あの女が走るところは、悔しいが、綺麗だ。

 

 考えていない人間の動き方をする。私が一秒に三十六個のことを考えているあいだ、あの女はゼロ個で走っている。

 

——そういう生き物なんだ。

 

 そう思うことにしている。

 

       *

 

 私は袋から手筒花火を一本取った。

 

 大きめのやつである。

 

「小ちゃん、それデカくない?」

 

「い、いい」

 

「それ、たぶん筒のやつだよ」

 

「し、知ってる」

 

「知ってて選んだの?」

 

「は、派手だから」

 

「……そっか」

 

 焼塩は、それ以上言わなかった。

 

 言わないでほしかったので、助かった。

 

——これにしよう。

 

 理由は単純で、火をつけると派手だからだ。

 

 派手なものを持っていると、少しだけ、自分が派手な人間になった気がする。

 

……我ながら、貧しい発想だと思う。

 

 火をつけようとした。

 

 つかない。

 

 もう一度。つかない。

 

 湿気ているのかもしれない。

 

 私は筒をくるりと返して、先を覗きこんだ。

 

       九

 

【小鞠知花】

 

——今日は、言わない。

 

 さっき、そう決めた。

 

 三十七回目の決意だった。

 

 そのあと私は、いつ言うかを考えていた。

 

 夏休み中は会えない。二学期は文化祭がある。忙しい。

 

 部誌ができたら。冬になったら。三年生が引退したら。

 

——引退したら。

 

 そこで思考が止まる。

 

 引退したら、この人はもうここにいない。

 

 そんなことは、四月から分かっている。分かっていて、私は「そのあと」に予定を送り続けている。

 

 送っている限り、失恋しないからだ。

 

 告白していない人間は、振られない。

 

 一勝もしていないが、一敗もしていない。

 

——それが、私の戦績だ。

 

 八奈見は一敗している。

 

 焼塩も、たぶん一敗した。

 

 私は〇勝〇敗である。

 

 そして私は、その〇勝〇敗を、たぶん誇りにしていた。

 

……最低だ。

 

       *

 

 だから。

 

 このあと十四分後に、私が全部を壊すことを、いまの私はまだ知らない。

 

 知らないまま、私は湿気た花火の中を覗きこんでいる。

 

「おい——」

 

 誰かが叫んだ。

 

 その声が誰のものだったのか、私はいまでも思い出せない。

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