負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
一
【月之木古都】
私が慎太郎を好きになったのがいつなのか、正確なところは思い出せない。
小学一年でクラスが一緒になって、以来、なぜか毎年一緒だった。中学も高校も同じ。三年生でも同じクラス。
これはもう学校の陰謀だと思っている。
好きになった日は覚えていないが、待つと決めた日は覚えている。
中学二年の秋である。
あいつが私の悪口を言う男子に殴りかかって、二人とも職員室に連れていかれた日だ。私は廊下でそれを見ていた。
あいつは私を庇ったことを、一度も言わなかった。
——ああ、この人は言わない人だ。
そう思った。
そして私は、言わない人を、待つことにした。
十年である。
十年待って、私はこの日、砂浜の炊事場で花火を持ったまま石になった。
二
【月之木古都】
パンパンと火薬が爆ぜている。
焼塩ちゃんがネズミ花火をばらまいて、小鞠ちゃんが悲鳴を上げて逃げ回っている。
「少しは花火を見なさいよ」
「だから今、次のを探してるんだって」
「一緒にやるから! これ大きいし!」
「一人で持てるだろ。おい、蹴るなって」
私は慎太郎の脛を蹴った。これは愛情表現である。
十年やっていると、こういう略式が発達する。
——楽しい。
そう思っていた。
三年生の夏の合宿で、後輩が四人もいて、海に行って肉を焼いて花火をしている。私が一年生のときの文芸部は部員が三人しかいなくて、合宿なんて発想すらなかった。
いい部にしたと思う。
私はけっこう、自分を褒めていた。
*
「わっ、と」
乾いた破裂音がした。
私が振り返ったときには、慎太郎が手筒花火を素手で掴んで放り投げたところだった。
小鞠ちゃんが尻もちをついている。
「小鞠ちゃん、怪我はないか!」
「だ、大丈——」
「痛いとこは?」
「せ、先輩、水!」
「あ、うん」
「部長、手! 手見せてください!」
「あとでいい」
慎太郎が小鞠ちゃんの手を取って、それから顔を掴んで瞳を覗きこんだ。
「目、見えるな? どこも痛くないな?」
——ああ。
私は花火を持ったまま、それを見ていた。
やるんだよ、この人は。
昔からそうだ。誰かが転ぶと、いちばん先に走る。相手が誰かは関係ない。
だから私は、あの人を好きになったのである。
*
「顔に傷でもついたらどうすんだ」
「わ、私の顔とか、傷ついても……。それより部長、手」
「あほか。よくないだろ」
「だ、だって。私の顔なんて、誰も見ないし」
「少なくとも、お前が見るだろ」
——え。
「毎朝鏡見るだろ。そのたびに嫌な気分になるじゃん。俺はそれが嫌なんだよ」
私は、そのとき、何を思ったか。
正直に書く。
——それ、私にも言ったことないんだけど。
そう思った。
十六歳の後輩が転んで、髪が焦げただけで、この人はそれを言った。
十年待っている女には、去年のクリスマスにドムドムバーガーの話をした。
……いや。
比べるようなことじゃない。
比べるようなことじゃないのに、私は比べた。
そして、そのコンマ何秒かのあいだに、私はたぶん、少しだけ小鞠ちゃんを憎んだ。
*
「たっ、玉木部長っ!」
裏返った声が響いた。
「す、好きです!」
時間が止まった。
八奈見さんが肉を裏返す音。ドラゴン花火が火柱を上げる音。焼塩ちゃんの髪が焦げる匂い。
私は花火を持ったまま動けなかった。
——言った。
この子が。
震えて、つっかえて、私と目も合わせられないこの子が。
十年待っている女の目の前で、言った。
「わ、私のこと、ちゃんと見ててくれたから! 誰も見てなかった時から、部長だけ、見ててくれたから!」
「だ、だから! つ、付き合ってください!」
*
慎太郎が、何度も口を開きかけて、閉じた。
言葉を選んでいる。
私にはそれが分かる。十年見ている顔だ。この人が言葉を選ぶときは、必ず相手を傷つけないことを最優先にする。
そして、そういうときの選択は、たいてい最悪になる。
「……悪い。少し、時間をくれないか」
——あ。
やった。
やってしまった。
私は、目の前が白くなるのを感じた。
三
【月之木古都】
小鞠ちゃんが走り去っていった。
去り際に、一度だけ私を見た。
怯えた目だった。
あの目を、たぶん私は一生忘れない。
私は、この子の副部長である。この子を勧誘したのは私だ。この子が一年生で一人になるのが心配で、四月からずっと気にかけてきた。
その私を、この子は怯えた目で見た。
当然である。
私は、この子から見たら、いちばん怖い人間だ。
*
気がつくと、私は慎太郎の前に立っていた。
「……ねえ。いまの、どういうこと」
「古都」
「どういうことって聞いてんの」
「いや、あんまり急だったから」
私は慎太郎のポケットから右手を引き出して、ペットボトルの水をぶちまけた。
「痛っ」
「素手で掴んだでしょ、これ」
「大したことないって」
「見せて」
「いいって」
「見せろっつってんの」
開かせた。
右の手のひらが、赤黒くなっていた。
「……大したことなくない」
「冷やせば治る」
「病院」
「合宿中だろ」
「病院」
「古都」
「病院!」
ハンカチを巻きながら、私は自分の手が震えているのに気づいた。
震えている理由が、怒りなのか、怖さなのか、自分でも分からなかった。
——時間をくれ。
その言い方が、いちばん、きつい。
断られるより、選ばれないより、保留がいちばんきつい。
なぜなら保留は、まだ何も終わっていないという意味だからだ。
私は、十年、保留の中にいた。
*
「……時間をくれとか。そういう言い方が、一番きついんだからね」
「古都」
「断るならちゃんと断りなさいよ! それが優しさでしょ!」
——違う。
言いながら、私は自分の言葉が違うと分かっていた。
私が言いたいのは、小鞠ちゃんを早く楽にしてあげてということではない。
私が言いたいのは、私を選べということである。
それを言えないから、優しさという単語を使っている。
「なんで、断らないの」
「……受けるにしても断るにしても、俺と小鞠ちゃんの話だ。お前が決めることじゃない」
*
正しい。
完璧に正しい。
そして、その正しさで、私は完全に外に置かれた。
私は、この件の当事者ではない。
十年好きだった。待っていた。それは私の勝手であって、慎太郎は何も約束していない。
私たちは付き合ってすらいない。
だから私には、口を出す資格がない。
資格がないのに、口を出した。
「……そうだよね」
自分の声が、やけに静かに聞こえた。
「私、ただの幼馴染だもんね」
そして、振りかぶって、頬を叩いた。
「ただの幼馴染だもんねっ!」
*
叩いた瞬間に、後悔した。
こういうところが駄目なのだ、私は。
言葉で戦えなくなると、手が出る。中学のときからそうだ。
私は走った。
走りながら、たぶん、誰かが追ってくると思っていた。
それを期待していた自分に気づいて、また嫌になった。
四
【月之木古都】
バンガローで荷物をまとめながら、私は自分に説明していた。
帰るのだ。
もうこんな合宿にはいられない。後輩の前であんなことをして、部長を叩いて、副部長として最低である。
だから帰る。それが筋である。
——嘘だ。
分かっている。
私は追ってきてほしいだけである。
十六歳の後輩に本気で告白されて、その返事を保留にした男に、私を追いかけてほしいだけである。
我ながら、たいへんに醜い。
醜いまま、私は荷物を持って県道の方へ歩き出した。
*
夜道は暗かった。
街灯が途切れると、本当に何も見えない。
——バス、あったっけ。
そんなことは考えていなかった。
考えていなかったが、たぶん、ないだろうとは思っていた。
歩けばいい。駅まで歩けばいい。
そう思って歩いていたら、後ろから足音がした。
——来た。
心臓が跳ねた。
振り返った。
「お持ちします」
日除け帽をかぶった一年生が立っていた。
*
「はっ? ちょっと、加瀬君?」
「最終バスは、十九時二十分に出ております」
「……知ってるわよ」
知らなかった。
「駅までは徒歩で二時間半ほどかと。この先、街灯がありません」
「歩くって言ってんの。荷物返して」
「返します。ですので、まず座ってください」
そう言いながら、この一年生はすでに私の荷物をベンチに置いていた。
置かれたものを取りに行くには、ベンチのところまで行かなければならない。
行けば、ベンチが目の前にある。
——性格悪。
「あのさ」
「はい」
「これ、わざとよね」
「なにがです」
「荷物の置き方」
「置いただけです」
「置いた場所の話をしてんの」
「ほかに、置ける場所がございませんでした」
道端である。置ける場所はいくらでもある。
「……あんた、性格悪いでしょ」
「よく言われます」
私は舌打ちをして、座った。
*
「先輩!」
遅れて八奈見さんが追いついてきた。膝に手をついて息を切らしている。
「もー、速いですって!」
加瀬君は自販機で買った紅茶を二本差し出した。
「夜は冷えますので」
「……なんで二本あるの」
「一本は八奈見さんの分です」
「追いかけてくるって分かってたの」
「走る音がしましたので」
「……そう」
「先輩」
「なに」
「差し出がましいのですが」
「その前置き、やめたほうがいいわよ」
「では、言いません」
言わなかった。
本当に、言わなかった。
私はこの子が何を言いかけたのか、いまでも知らない。
そして三歩下がって、黙った。
——なにこの子。
私は三年間この学校にいるが、こんな一年生は見たことがない。
生徒会の子だとは聞いた。新聞部だとも言っていた。
でも、それだけでこの手際は出ない。
——誰かに仕込まれた子だな。
そう思った。
そして、そんなことを考えている場合ではないことに気づいて、私は紅茶の蓋を開けた。
五
【月之木古都】
八奈見さんが隣に座った。
私はしばらく何も言えなかった。
蓋を三回、開けて閉めた。
「……ごめんね。せっかくの合宿だったのに」
「いいですよ、そんなの」
「私、最低よね。後輩が告白した直後に、あんな」
これは本心である。
副部長として最低だし、人間として最低である。
そして、いちばん最低なのは、いま私が、後輩に慰めてもらおうとしていることだ。
「先輩」
八奈見さんが前を向いたまま言った。
「私、こないだ振られたんです」
——知ってる。
「あの日、私、笑ってたんですよ。その場で。ちゃんと笑って、おめでとうって言って」
「……」
「そのあと三日くらい、何も覚えてないですけど」
「……三日」
「はい」
「よく学校来れたね」
「来ましたよ。皆勤です」
「えらい」
「えらくないです。休むと、休んだ理由を聞かれるので」
——ああ。
この子は、そういう計算をする子だ。
*
私は、この子を見た。
一年生である。
四月に入学して、七月に振られて、いま私の隣に座っている。
慰めているのではない。
同じ高さに降りてきているのだ。
先輩、大丈夫ですよ、ではない。私も同じです、と言っている。
——上手いな。
そう思ってしまった自分が、また少し嫌だった。
でも。
上手いから、効いた。
「……八奈見さん」
「はい」
「私、そんなに偉くない」
「知ってます」
「即答ね」
「はい」
私は、少し笑った。
久しぶりに、息ができた気がした。
六
【月之木古都】
なぜあの話をしたのか、いまでも分からない。
たぶん、息ができたからだと思う。
「……去年のクリスマスにね」
「なんて言われたんですか」
「さんざん私の悪口を並べたあげく。売れ残ったら俺がもらってやるから安心しろ、って」
「……えっ」
「ひどいでしょ」
「ひどいです」
「でしょ」
「デートですよね、それ」
「モスバーガーだけどね」
「モス」
「しかも話題はドムドムだったわ」
「なんでですか」
「知らないわよ」
言いながら、私は自嘲していた。
十年待った結果がこれである。
私は「知ったことか」と答えた。
答えたあと、三か月くらい落ちこんだ。
もう待たなくていいのかな、と思った日もある。
*
八奈見さんの動きが止まった。
ペットボトルを口に運ぶ途中で、完全に止まった。
そして、口を開こうとした。
——なに?
そのとき、三歩後ろで加瀬君が小さく咳をした。
八奈見さんが振り返る。
加瀬君は何も言わなかった。ただ、ゆっくり首を横に振った。
八奈見さんが、口を閉じた。
「……八奈見さん? どうしたの」
「いえ」
「なんか言いかけてなかった?」
「言いかけました」
「なんで言わないの」
八奈見さんは、少し悔しそうな顔をして、それから笑った。
「私が言うと、ズルになるので」
「なにそれ」
「……なんでしょうね」
*
私はそのとき、意味が分からなかった。
分からないまま、砂利を蹴る音を聞いた。
七
【月之木古都】
「なんか、ごめんな」
慎太郎が立っていた。
肩で息をしている。走ってきたらしい。
「……今更なんなの」
「あのさ。去年のクリスマスなんだけど」
私は首をかしげた。
「ドムドムの話?」
「そっちじゃねえ! 帰りだよ、ツリーの前!」
「ああ、あれ」
「……あれ、告白したつもりだったんだよ、俺」
*
三秒くらい、何も起きなかった。
私の頭の中で、去年の十二月二十四日の駅前が再生された。
イルミネーション。人混み。寒い。
そして、隣で私の悪口を並べ立てるこの男。
——売れ残ったら俺がもらってやるから安心しろ。
……。
「はあああああっ!?」
「あれが!? あれが告白!?」
「そうだよ!」
「高二のクリスマスにあれ!? 頭おかしいの!?」
「言い方あるだろ!」
「ないわよ! こっちは十年待ってんのよ!」
「十年!?」
「小一からよ!」
「小一のこと言われても分かんねえよ!」
「分かれ!」
*
叫びながら、私は泣きそうだった。
十年である。
十年待った。待っている自覚もあった。待っていることを隠す努力もした。
その十年に、この男は去年の十二月に終止符を打っていたのだ。
私だけが知らずに、そこから七か月、まだ待っていた。
——七か月。
七か月、私は何を待っていたのか。
すでに渡されていたものを、届いていないと思って待っていた。
そういうことが、この世にはあるらしい。
*
「……ずっと待ってたんだからね」
叫び終えたら、声が急に静かになった。
「散々待たせて。ずっと、ずっと待ってたのに」
「……悪かった」
「そのあげくあれが告白とか。冷めるって。百年分冷めるから」
慎太郎が、少し困ったように笑って、私の頭に手を置いた。
「じゃあ、百年分惚れ直させてやる」
「…………やれるもんならね」
*
そのとき私は、たぶん、この夜でいちばん幸せだった。
そして同時に、いちばん嫌な気持ちだった。
なぜなら、この幸せは、二時間前に始まったからである。
小鞠ちゃんが泣きながら走っていった、あの二時間前から。
あの子が言わなければ、慎太郎は動かなかった。
私も叩かなかった。走らなかった。あの人も追ってこなかった。
クリスマスの話も出なかった。
つまり私は。
——あの子の告白で、幸せになった。
*
私は慎太郎の胸に額をつけて、それを言わなかった。
言えなかった。
言ったら、この人は自分を責める。この人はそういう人だ。
だから私が一人で持っておく。
——十年待った罰みたいなものよ。
そう思うことにした。
思うことにしただけで、たぶん、一生忘れない。
八
【月之木古都】
宿へ戻る道を歩きながら、私は一つだけ、妙なことに気づいた。
道の端に、人が立っていた。
長袖のシャツにスラックス。手に懐中電灯を持っている。
「……高木先生?」
「見回りです」
「見回り、ですか」
「はい」
「こんな時間に」
「宿泊行事の教員は、二時間おきに巡回します」
「そんな規定あります?」
「あります。旧書式の簡易届に付いていた条件です」
——それ、加瀬君が言ってたやつだ。
「その懐中電灯は」
「宿から借りました」
「ずっと歩いてたんですか」
「歩いていました」
「……どのへんを」
先生は少しだけ間を置いた。
「バス停の前を、二度通りました」
「……」
「一度目は十九時四十分。二度目は二十時十分です」
「時間まで覚えてるんですか」
「巡回ですので」
巡回だそうである。
「小鞠さんも、見かけました」
「え」
「バンガローの前に、三十分ほど座っておいででした」
「声、かけたんですか」
「かけていません」
「なんで」
「私は担任でも顧問でもありませんので」
先生は懐中電灯の光を、道の先へ向けた。
「ただ、いる場所は把握しております」
「……なんで、そんなこと」
「把握しているだけです。それ以上は、私にはできません」
それだけ言って、先生は道の先へ歩いていった。
——見回り。
こんな時間に。
こんな場所を。
私は三年生である。この学校の教員はだいたい把握している。この先生のことは、四月に着任した非常勤としか知らない。
図書室にいる人だ。授業は数学と倫理。誰とも喋らない。
その人が、夜の県道を歩いている。
——ずっと、いた?
私が歩き出したときから、ずっと。
……まさか。
私はそれ以上考えるのをやめた。
考えると、いま自分が偶然だと思っていることの半分くらいが、偶然でなくなりそうだったからだ。
*
宿の前まで来て、私は立ち止まった。
「慎太郎」
「ん?」
「小鞠ちゃんのとこ、行きなさい」
「……どこにいるか分かんねえよ」
「バンガローの前」
「なんで知ってんだ」
「見回りの先生が」
慎太郎の顔が固まった。
「……いま、か」
「いま」
「明日じゃ駄目か」
「駄目」
私は自分でも意外なほど、はっきり言えた。
「あの子、いま、答えを待ってる。待ってる時間が長いほど、あとで効くから」
「……お前が言うのか、それを」
「私が言うのよ」
十年待った女が言うのだ。
これ以上の適任はいない。
「あんたが決めなさい。私は決めない。……でも、遅くしないで」
「古都」
「なに」
「お前、大丈夫か」
「なにが」
「いや」
「言いなさいよ」
「……お前が、いちばんきつかっただろ」
私は、この男の顔を見た。
十年見ている顔である。
「いま言うことじゃないでしょ、それ」
「悪い」
「……行ってきなさい」
慎太郎はしばらく黙って、それからうなずいた。
「分かった」
歩いていく背中を、私は見送った。
*
見送ってから、私は宿の壁に背中をつけた。
——最低だ。
私はいま、自分が幸せになった直後に、あの子を振りに行かせた。
早く終わらせてあげたい、というのは半分本当で、半分嘘である。
残り半分は、早く終わらせてほしい、である。
宙ぶらりんのまま夏休みに入るのが、私自身、耐えられないからだ。
——私は、優しくない。
十年待っても、そこは変わらなかった。
明日の朝、あの子にどう声をかければいいのか、私はまだ何も思いついていない。
夜の海の音が、遠くから聞こえていた。