負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第11話 3敗目 月之木視点 告白と離散

       一

 

【月之木古都】

 

 私が慎太郎を好きになったのがいつなのか、正確なところは思い出せない。

 

 小学一年でクラスが一緒になって、以来、なぜか毎年一緒だった。中学も高校も同じ。三年生でも同じクラス。

 

 これはもう学校の陰謀だと思っている。

 

 好きになった日は覚えていないが、待つと決めた日は覚えている。

 

 中学二年の秋である。

 

 あいつが私の悪口を言う男子に殴りかかって、二人とも職員室に連れていかれた日だ。私は廊下でそれを見ていた。

 

 あいつは私を庇ったことを、一度も言わなかった。

 

——ああ、この人は言わない人だ。

 

 そう思った。

 

 そして私は、言わない人を、待つことにした。

 

 十年である。

 

 十年待って、私はこの日、砂浜の炊事場で花火を持ったまま石になった。

 

       二

 

【月之木古都】

 

 パンパンと火薬が爆ぜている。

 

 焼塩ちゃんがネズミ花火をばらまいて、小鞠ちゃんが悲鳴を上げて逃げ回っている。

 

「少しは花火を見なさいよ」

 

「だから今、次のを探してるんだって」

 

「一緒にやるから! これ大きいし!」

 

「一人で持てるだろ。おい、蹴るなって」

 

 私は慎太郎の脛を蹴った。これは愛情表現である。

 

 十年やっていると、こういう略式が発達する。

 

——楽しい。

 

 そう思っていた。

 

 三年生の夏の合宿で、後輩が四人もいて、海に行って肉を焼いて花火をしている。私が一年生のときの文芸部は部員が三人しかいなくて、合宿なんて発想すらなかった。

 

 いい部にしたと思う。

 

 私はけっこう、自分を褒めていた。

 

       *

 

「わっ、と」

 

 乾いた破裂音がした。

 

 私が振り返ったときには、慎太郎が手筒花火を素手で掴んで放り投げたところだった。

 

 小鞠ちゃんが尻もちをついている。

 

「小鞠ちゃん、怪我はないか!」

 

「だ、大丈——」

 

「痛いとこは?」

 

「せ、先輩、水!」

 

「あ、うん」

 

「部長、手! 手見せてください!」

 

「あとでいい」

 

 慎太郎が小鞠ちゃんの手を取って、それから顔を掴んで瞳を覗きこんだ。

 

「目、見えるな? どこも痛くないな?」

 

——ああ。

 

 私は花火を持ったまま、それを見ていた。

 

 やるんだよ、この人は。

 

 昔からそうだ。誰かが転ぶと、いちばん先に走る。相手が誰かは関係ない。

 

 だから私は、あの人を好きになったのである。

 

       *

 

「顔に傷でもついたらどうすんだ」

 

「わ、私の顔とか、傷ついても……。それより部長、手」

 

「あほか。よくないだろ」

 

「だ、だって。私の顔なんて、誰も見ないし」

 

「少なくとも、お前が見るだろ」

 

——え。

 

「毎朝鏡見るだろ。そのたびに嫌な気分になるじゃん。俺はそれが嫌なんだよ」

 

 私は、そのとき、何を思ったか。

 

 正直に書く。

 

——それ、私にも言ったことないんだけど。

 

 そう思った。

 

 十六歳の後輩が転んで、髪が焦げただけで、この人はそれを言った。

 

 十年待っている女には、去年のクリスマスにドムドムバーガーの話をした。

 

……いや。

 

 比べるようなことじゃない。

 

 比べるようなことじゃないのに、私は比べた。

 

 そして、そのコンマ何秒かのあいだに、私はたぶん、少しだけ小鞠ちゃんを憎んだ。

 

       *

 

「たっ、玉木部長っ!」

 

 裏返った声が響いた。

 

「す、好きです!」

 

 時間が止まった。

 

 八奈見さんが肉を裏返す音。ドラゴン花火が火柱を上げる音。焼塩ちゃんの髪が焦げる匂い。

 

 私は花火を持ったまま動けなかった。

 

——言った。

 

 この子が。

 

 震えて、つっかえて、私と目も合わせられないこの子が。

 

 十年待っている女の目の前で、言った。

 

「わ、私のこと、ちゃんと見ててくれたから! 誰も見てなかった時から、部長だけ、見ててくれたから!」

 

「だ、だから! つ、付き合ってください!」

 

       *

 

 慎太郎が、何度も口を開きかけて、閉じた。

 

 言葉を選んでいる。

 

 私にはそれが分かる。十年見ている顔だ。この人が言葉を選ぶときは、必ず相手を傷つけないことを最優先にする。

 

 そして、そういうときの選択は、たいてい最悪になる。

 

「……悪い。少し、時間をくれないか」

 

——あ。

 

 やった。

 

 やってしまった。

 

 私は、目の前が白くなるのを感じた。

 

       三

 

【月之木古都】

 

 小鞠ちゃんが走り去っていった。

 

 去り際に、一度だけ私を見た。

 

 怯えた目だった。

 

 あの目を、たぶん私は一生忘れない。

 

 私は、この子の副部長である。この子を勧誘したのは私だ。この子が一年生で一人になるのが心配で、四月からずっと気にかけてきた。

 

 その私を、この子は怯えた目で見た。

 

 当然である。

 

 私は、この子から見たら、いちばん怖い人間だ。

 

       *

 

 気がつくと、私は慎太郎の前に立っていた。

 

「……ねえ。いまの、どういうこと」

 

「古都」

 

「どういうことって聞いてんの」

 

「いや、あんまり急だったから」

 

 私は慎太郎のポケットから右手を引き出して、ペットボトルの水をぶちまけた。

 

「痛っ」

 

「素手で掴んだでしょ、これ」

 

「大したことないって」

 

「見せて」

 

「いいって」

 

「見せろっつってんの」

 

 開かせた。

 

 右の手のひらが、赤黒くなっていた。

 

「……大したことなくない」

 

「冷やせば治る」

 

「病院」

 

「合宿中だろ」

 

「病院」

 

「古都」

 

「病院!」

 

 ハンカチを巻きながら、私は自分の手が震えているのに気づいた。

 

 震えている理由が、怒りなのか、怖さなのか、自分でも分からなかった。

 

——時間をくれ。

 

 その言い方が、いちばん、きつい。

 

 断られるより、選ばれないより、保留がいちばんきつい。

 

 なぜなら保留は、まだ何も終わっていないという意味だからだ。

 

 私は、十年、保留の中にいた。

 

       *

 

「……時間をくれとか。そういう言い方が、一番きついんだからね」

 

「古都」

 

「断るならちゃんと断りなさいよ! それが優しさでしょ!」

 

——違う。

 

 言いながら、私は自分の言葉が違うと分かっていた。

 

 私が言いたいのは、小鞠ちゃんを早く楽にしてあげてということではない。

 

 私が言いたいのは、私を選べということである。

 

 それを言えないから、優しさという単語を使っている。

 

「なんで、断らないの」

 

「……受けるにしても断るにしても、俺と小鞠ちゃんの話だ。お前が決めることじゃない」

 

       *

 

 正しい。

 

 完璧に正しい。

 

 そして、その正しさで、私は完全に外に置かれた。

 

 私は、この件の当事者ではない。

 

 十年好きだった。待っていた。それは私の勝手であって、慎太郎は何も約束していない。

 

 私たちは付き合ってすらいない。

 

 だから私には、口を出す資格がない。

 

 資格がないのに、口を出した。

 

「……そうだよね」

 

 自分の声が、やけに静かに聞こえた。

 

「私、ただの幼馴染だもんね」

 

 そして、振りかぶって、頬を叩いた。

 

「ただの幼馴染だもんねっ!」

 

       *

 

 叩いた瞬間に、後悔した。

 

 こういうところが駄目なのだ、私は。

 

 言葉で戦えなくなると、手が出る。中学のときからそうだ。

 

 私は走った。

 

 走りながら、たぶん、誰かが追ってくると思っていた。

 

 それを期待していた自分に気づいて、また嫌になった。

 

       四

 

【月之木古都】

 

 バンガローで荷物をまとめながら、私は自分に説明していた。

 

 帰るのだ。

 

 もうこんな合宿にはいられない。後輩の前であんなことをして、部長を叩いて、副部長として最低である。

 

 だから帰る。それが筋である。

 

——嘘だ。

 

 分かっている。

 

 私は追ってきてほしいだけである。

 

 十六歳の後輩に本気で告白されて、その返事を保留にした男に、私を追いかけてほしいだけである。

 

 我ながら、たいへんに醜い。

 

 醜いまま、私は荷物を持って県道の方へ歩き出した。

 

       *

 

 夜道は暗かった。

 

 街灯が途切れると、本当に何も見えない。

 

——バス、あったっけ。

 

 そんなことは考えていなかった。

 

 考えていなかったが、たぶん、ないだろうとは思っていた。

 

 歩けばいい。駅まで歩けばいい。

 

 そう思って歩いていたら、後ろから足音がした。

 

——来た。

 

 心臓が跳ねた。

 

 振り返った。

 

「お持ちします」

 

 日除け帽をかぶった一年生が立っていた。

 

       *

 

「はっ? ちょっと、加瀬君?」

 

「最終バスは、十九時二十分に出ております」

 

「……知ってるわよ」

 

 知らなかった。

 

「駅までは徒歩で二時間半ほどかと。この先、街灯がありません」

 

「歩くって言ってんの。荷物返して」

 

「返します。ですので、まず座ってください」

 

 そう言いながら、この一年生はすでに私の荷物をベンチに置いていた。

 

 置かれたものを取りに行くには、ベンチのところまで行かなければならない。

 

 行けば、ベンチが目の前にある。

 

——性格悪。

 

「あのさ」

 

「はい」

 

「これ、わざとよね」

 

「なにがです」

 

「荷物の置き方」

 

「置いただけです」

 

「置いた場所の話をしてんの」

 

「ほかに、置ける場所がございませんでした」

 

 道端である。置ける場所はいくらでもある。

 

「……あんた、性格悪いでしょ」

 

「よく言われます」

 

 私は舌打ちをして、座った。

 

       *

 

「先輩!」

 

 遅れて八奈見さんが追いついてきた。膝に手をついて息を切らしている。

 

「もー、速いですって!」

 

 加瀬君は自販機で買った紅茶を二本差し出した。

 

「夜は冷えますので」

 

「……なんで二本あるの」

 

「一本は八奈見さんの分です」

 

「追いかけてくるって分かってたの」

 

「走る音がしましたので」

 

「……そう」

 

「先輩」

 

「なに」

 

「差し出がましいのですが」

 

「その前置き、やめたほうがいいわよ」

 

「では、言いません」

 

 言わなかった。

 

 本当に、言わなかった。

 

 私はこの子が何を言いかけたのか、いまでも知らない。

 

 そして三歩下がって、黙った。

 

——なにこの子。

 

 私は三年間この学校にいるが、こんな一年生は見たことがない。

 

 生徒会の子だとは聞いた。新聞部だとも言っていた。

 

 でも、それだけでこの手際は出ない。

 

——誰かに仕込まれた子だな。

 

 そう思った。

 

 そして、そんなことを考えている場合ではないことに気づいて、私は紅茶の蓋を開けた。

 

       五

 

【月之木古都】

 

 八奈見さんが隣に座った。

 

 私はしばらく何も言えなかった。

 

 蓋を三回、開けて閉めた。

 

「……ごめんね。せっかくの合宿だったのに」

 

「いいですよ、そんなの」

 

「私、最低よね。後輩が告白した直後に、あんな」

 

 これは本心である。

 

 副部長として最低だし、人間として最低である。

 

 そして、いちばん最低なのは、いま私が、後輩に慰めてもらおうとしていることだ。

 

「先輩」

 

 八奈見さんが前を向いたまま言った。

 

「私、こないだ振られたんです」

 

——知ってる。

 

「あの日、私、笑ってたんですよ。その場で。ちゃんと笑って、おめでとうって言って」

 

「……」

 

「そのあと三日くらい、何も覚えてないですけど」

 

「……三日」

 

「はい」

 

「よく学校来れたね」

 

「来ましたよ。皆勤です」

 

「えらい」

 

「えらくないです。休むと、休んだ理由を聞かれるので」

 

——ああ。

 

 この子は、そういう計算をする子だ。

 

       *

 

 私は、この子を見た。

 

 一年生である。

 

 四月に入学して、七月に振られて、いま私の隣に座っている。

 

 慰めているのではない。

 

 同じ高さに降りてきているのだ。

 

 先輩、大丈夫ですよ、ではない。私も同じです、と言っている。

 

——上手いな。

 

 そう思ってしまった自分が、また少し嫌だった。

 

 でも。

 

 上手いから、効いた。

 

「……八奈見さん」

 

「はい」

 

「私、そんなに偉くない」

 

「知ってます」

 

「即答ね」

 

「はい」

 

 私は、少し笑った。

 

 久しぶりに、息ができた気がした。

 

       六

 

【月之木古都】

 

 なぜあの話をしたのか、いまでも分からない。

 

 たぶん、息ができたからだと思う。

 

「……去年のクリスマスにね」

 

「なんて言われたんですか」

 

「さんざん私の悪口を並べたあげく。売れ残ったら俺がもらってやるから安心しろ、って」

 

「……えっ」

 

「ひどいでしょ」

 

「ひどいです」

 

「でしょ」

 

「デートですよね、それ」

 

「モスバーガーだけどね」

 

「モス」

 

「しかも話題はドムドムだったわ」

 

「なんでですか」

 

「知らないわよ」

 

 言いながら、私は自嘲していた。

 

 十年待った結果がこれである。

 

 私は「知ったことか」と答えた。

 

 答えたあと、三か月くらい落ちこんだ。

 

 もう待たなくていいのかな、と思った日もある。

 

       *

 

 八奈見さんの動きが止まった。

 

 ペットボトルを口に運ぶ途中で、完全に止まった。

 

 そして、口を開こうとした。

 

——なに?

 

 そのとき、三歩後ろで加瀬君が小さく咳をした。

 

 八奈見さんが振り返る。

 

 加瀬君は何も言わなかった。ただ、ゆっくり首を横に振った。

 

 八奈見さんが、口を閉じた。

 

「……八奈見さん? どうしたの」

 

「いえ」

 

「なんか言いかけてなかった?」

 

「言いかけました」

 

「なんで言わないの」

 

 八奈見さんは、少し悔しそうな顔をして、それから笑った。

 

「私が言うと、ズルになるので」

 

「なにそれ」

 

「……なんでしょうね」

 

       *

 

 私はそのとき、意味が分からなかった。

 

 分からないまま、砂利を蹴る音を聞いた。

 

       七

 

【月之木古都】

 

「なんか、ごめんな」

 

 慎太郎が立っていた。

 

 肩で息をしている。走ってきたらしい。

 

「……今更なんなの」

 

「あのさ。去年のクリスマスなんだけど」

 

 私は首をかしげた。

 

「ドムドムの話?」

 

「そっちじゃねえ! 帰りだよ、ツリーの前!」

 

「ああ、あれ」

 

「……あれ、告白したつもりだったんだよ、俺」

 

       *

 

 三秒くらい、何も起きなかった。

 

 私の頭の中で、去年の十二月二十四日の駅前が再生された。

 

 イルミネーション。人混み。寒い。

 

 そして、隣で私の悪口を並べ立てるこの男。

 

  ——売れ残ったら俺がもらってやるから安心しろ。

 

……。

 

「はあああああっ!?」

 

「あれが!? あれが告白!?」

 

「そうだよ!」

 

「高二のクリスマスにあれ!? 頭おかしいの!?」

 

「言い方あるだろ!」

 

「ないわよ! こっちは十年待ってんのよ!」

 

「十年!?」

 

「小一からよ!」

 

「小一のこと言われても分かんねえよ!」

 

「分かれ!」

 

       *

 

 叫びながら、私は泣きそうだった。

 

 十年である。

 

 十年待った。待っている自覚もあった。待っていることを隠す努力もした。

 

 その十年に、この男は去年の十二月に終止符を打っていたのだ。

 

 私だけが知らずに、そこから七か月、まだ待っていた。

 

——七か月。

 

 七か月、私は何を待っていたのか。

 

 すでに渡されていたものを、届いていないと思って待っていた。

 

 そういうことが、この世にはあるらしい。

 

       *

 

「……ずっと待ってたんだからね」

 

 叫び終えたら、声が急に静かになった。

 

「散々待たせて。ずっと、ずっと待ってたのに」

 

「……悪かった」

 

「そのあげくあれが告白とか。冷めるって。百年分冷めるから」

 

 慎太郎が、少し困ったように笑って、私の頭に手を置いた。

 

「じゃあ、百年分惚れ直させてやる」

 

「…………やれるもんならね」

 

       *

 

 そのとき私は、たぶん、この夜でいちばん幸せだった。

 

 そして同時に、いちばん嫌な気持ちだった。

 

 なぜなら、この幸せは、二時間前に始まったからである。

 

 小鞠ちゃんが泣きながら走っていった、あの二時間前から。

 

 あの子が言わなければ、慎太郎は動かなかった。

 

 私も叩かなかった。走らなかった。あの人も追ってこなかった。

 

 クリスマスの話も出なかった。

 

 つまり私は。

 

——あの子の告白で、幸せになった。

 

       *

 

 私は慎太郎の胸に額をつけて、それを言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 言ったら、この人は自分を責める。この人はそういう人だ。

 

 だから私が一人で持っておく。

 

——十年待った罰みたいなものよ。

 

 そう思うことにした。

 

 思うことにしただけで、たぶん、一生忘れない。

 

       八

 

【月之木古都】

 

 宿へ戻る道を歩きながら、私は一つだけ、妙なことに気づいた。

 

 道の端に、人が立っていた。

 

 長袖のシャツにスラックス。手に懐中電灯を持っている。

 

「……高木先生?」

 

「見回りです」

 

「見回り、ですか」

 

「はい」

 

「こんな時間に」

 

「宿泊行事の教員は、二時間おきに巡回します」

 

「そんな規定あります?」

 

「あります。旧書式の簡易届に付いていた条件です」

 

——それ、加瀬君が言ってたやつだ。

 

「その懐中電灯は」

 

「宿から借りました」

 

「ずっと歩いてたんですか」

 

「歩いていました」

 

「……どのへんを」

 

 先生は少しだけ間を置いた。

 

「バス停の前を、二度通りました」

 

「……」

 

「一度目は十九時四十分。二度目は二十時十分です」

 

「時間まで覚えてるんですか」

 

「巡回ですので」

 

 巡回だそうである。

 

「小鞠さんも、見かけました」

 

「え」

 

「バンガローの前に、三十分ほど座っておいででした」

 

「声、かけたんですか」

 

「かけていません」

 

「なんで」

 

「私は担任でも顧問でもありませんので」

 

 先生は懐中電灯の光を、道の先へ向けた。

 

「ただ、いる場所は把握しております」

 

「……なんで、そんなこと」

 

「把握しているだけです。それ以上は、私にはできません」

 

 それだけ言って、先生は道の先へ歩いていった。

 

——見回り。

 

 こんな時間に。

 

 こんな場所を。

 

 私は三年生である。この学校の教員はだいたい把握している。この先生のことは、四月に着任した非常勤としか知らない。

 

 図書室にいる人だ。授業は数学と倫理。誰とも喋らない。

 

 その人が、夜の県道を歩いている。

 

——ずっと、いた?

 

 私が歩き出したときから、ずっと。

 

……まさか。

 

 私はそれ以上考えるのをやめた。

 

 考えると、いま自分が偶然だと思っていることの半分くらいが、偶然でなくなりそうだったからだ。

 

       *

 

 宿の前まで来て、私は立ち止まった。

 

「慎太郎」

 

「ん?」

 

「小鞠ちゃんのとこ、行きなさい」

 

「……どこにいるか分かんねえよ」

 

「バンガローの前」

 

「なんで知ってんだ」

 

「見回りの先生が」

 

 慎太郎の顔が固まった。

 

「……いま、か」

 

「いま」

 

「明日じゃ駄目か」

 

「駄目」

 

 私は自分でも意外なほど、はっきり言えた。

 

「あの子、いま、答えを待ってる。待ってる時間が長いほど、あとで効くから」

 

「……お前が言うのか、それを」

 

「私が言うのよ」

 

 十年待った女が言うのだ。

 

 これ以上の適任はいない。

 

「あんたが決めなさい。私は決めない。……でも、遅くしないで」

 

「古都」

 

「なに」

 

「お前、大丈夫か」

 

「なにが」

 

「いや」

 

「言いなさいよ」

 

「……お前が、いちばんきつかっただろ」

 

 私は、この男の顔を見た。

 

 十年見ている顔である。

 

「いま言うことじゃないでしょ、それ」

 

「悪い」

 

「……行ってきなさい」

 

 慎太郎はしばらく黙って、それからうなずいた。

 

「分かった」

 

 歩いていく背中を、私は見送った。

 

       *

 

 見送ってから、私は宿の壁に背中をつけた。

 

——最低だ。

 

 私はいま、自分が幸せになった直後に、あの子を振りに行かせた。

 

 早く終わらせてあげたい、というのは半分本当で、半分嘘である。

 

 残り半分は、早く終わらせてほしい、である。

 

 宙ぶらりんのまま夏休みに入るのが、私自身、耐えられないからだ。

 

——私は、優しくない。

 

 十年待っても、そこは変わらなかった。

 

 明日の朝、あの子にどう声をかければいいのか、私はまだ何も思いついていない。

 

 夜の海の音が、遠くから聞こえていた。

 

 

 

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