負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
Intermission 三つに割る
二〇一四 手筒花火、暴発。玉木が素手で処理。右手に熱傷。
二〇一六 小鞠、告白。
二〇一七 玉木、回答保留。
二〇一八 小鞠、離脱。方角、バンガロー。
二〇二三 月之木、玉木を打擲。離脱。
二〇二六 玉木、離脱。方角、不定。
松谷誠は手帳を閉じた。
書いてしまえば落ち着く。落ち着いたところで、これをどうする。
——渡す先がない。
いつもならここで止まる。数えて、書いて、それきりだ。それが二か月間の彼のやり方であり、二十年間のやり方でもあった。
彼はポケットからもう一つを取り出した。
昼に一度、教えられた。
「読めばいいだけだけど」
「上にスクロールしろって」
宛先は高木惣吉。
まつたに『松谷です。生徒三名が別行動中』
送信までに二分かかった。
続いて同じ内容を加瀬俊一に送ろうとして、彼は手を止めた。
——同じ文を、もう一度打つのか。
打った。今度は三分かかった。同じことを二度書き写すのは、彼にとって何一つ苦にならない。
二十年、控えを取り続けてきた男である。
苦にならないが、遅い。
高木『了解。方角を』
まつたに『月之木、荷物を持って北へ。県道方面』
まつたに『玉木、方角不明』
まつたに『小鞠、バンガロー』
打ち終えるのに七分かかった。
そのとき、画面が勝手に切り替わった。
加瀬俊一があなたをグループに招待しました
グループ名『合宿・連絡』
「……なんだ、これは」
加瀬『三人まとめて話した方が早いので作りました』
加瀬『松谷さん、同じ文面を二度打っておられましたね』
加瀬『それ、一回で済みます』
加瀬『ここに書いたものは、全員に同時に届きます』
同時に。
彼は指を止めた。
昨夜、豊橋の街灯の下で考えたことを、いま実物として手の中に持っている。
四つの役所。四つの壁。一つの文を届けるのに丸一日。
返事はさらに二日後。
——同じ文が、同じ瞬間に、四人の手元に届く。
「……くだらん」
そう呟いてから、その言葉が誰に向いているのか、自分でもよく分からなかった。
*
高木『整理します。問題は三つです』
高木『一、月之木さんが夜道を歩いている。危険です』
高木『二、玉木君が動けずにいる。動かす必要があります』
高木『三、小鞠さん』
まつたに『三が一番重い』
高木『ええ。ですが、三は誰がやっても解決しません』
まつたに『解決させる必要はない』
高木『……と言いますと』
まつたに『あの子は、いま何が起きているか知らない』
まつたに『走って出ていったからだ』
まつたに『二〇一八以降のことを、何一つ知らない』
加瀬『……なるほど』
まつたに『知らないまま一人にしておくのが、一番悪い』
まつたに『三組に割る』
まつたに『高木先生と温水、玉木』
まつたに『加瀬と八奈見、月之木』
まつたに『俺と焼塩、小鞠』
加瀬『私が月之木さんですか』
まつたに『年上の女性を止めるのが上手いのは君だ』
加瀬『……身も蓋もない評価ですね』
まつたに『事実だ』
高木『松谷君。慰めるのは、あなたの得意分野ではないと思いますが』
まつたに『慰めない』
まつたに『番をする』
*
そのとき、また画面が切り替わった。
加瀬俊一が松平康昌をグループに招待しました
まつたに『秘書官長』
松平『先生、でしょう』
まつたに『失礼しました』
まつたに『先生は、それを打っておられるのですか』
松平『打っております』
まつたに『筆ではなく』
松平『筆では届きませんので』
松谷誠は画面を見下ろした。
この人は、答案の点数を毎朝十分かけて磨った墨で書く。その同じ人が、板の上を指で撫でて文字を出している。
松平『加瀬さんから伺いました』
まつたに『三組に割ります』
松平『よろしいと思います』
松平『一つだけ』
まつたに『はい』
松平『餌は、多過ぎるより少な過ぎるほうがよろしい』
まつたに『……は』
松平『魚の話です』
まつたに『魚』
松平『おやすみなさい』
彼はしばらく画面を見ていた。
——魚。
意味が分からなかった。
分からないので、手帳に書いた。
餌は、多過ぎるより少な過ぎるほうがよい。(松平先生・魚)
書いてから、破らずに閉じた。
Intermission 動かし方
玉木慎太郎は、炊事場の裏の暗がりに座っていた。
高木惣吉は五メートルほど手前で足を止めて、そこから動かなかった。
隣で温水和彦が小声で言った。
「先生。声、かけないんですか」
「かけません」
「え」
「あの状態の人間に近づくと、逃げます」
「……はあ」
「温水君。あなたが行きなさい」
「俺がですか」
「私は教員です。教員が来たと分かった瞬間に、あの人は姿勢を正します」
「正すと、どうなるんですか」
「姿勢を正した人間は、本当のことを言いません」
温水はしばらく黙って、それから息を吐いた。
「……行きます」
「一つだけ」
「はい」
「助言はしないでください」
「じゃあ何を言えばいいんですか」
「何時かを言えばよろしい」
「時間ですか」
「二十二時を過ぎました、とだけ。それで足ります」
温水は納得のいかない顔で歩いていった。
高木は動かなかった。
*
四分ほどして、玉木慎太郎が立ち上がった。
宿の方ではない。県道の方角へ、走っていく。
温水が戻ってきた。
「……時間言ったら、立ち上がりました」
「そうでしょう」
「なんでですか」
「決められない人間に必要なのは、助言ではありません」
高木は懐中電灯を点けた。
「締切です」
「それだけで動くもんですか」
「動きます」
「……ずるくないですか、それ」
高木はしばらく黙っていた。
「ずるいです」
「認めるんですか」
「認めます。ですが、締切を作らずに待っていると、たいてい間に合いません」
先生はそう言って、道の先へ光を向けた。
「私は、それで一度、間に合いませんでした」
温水が何か聞こうとして、やめた。
賢明である、と高木は思った。
Intermission 止め方
加瀬俊一は、バス停の灯りの下で追いつくと、まず荷物に手を伸ばした。
「お持ちします」
「はっ? ちょっと、加瀬君?」
「最終バスは、十九時二十分に出ております」
「……知ってるわよ」
「駅までは徒歩で二時間半ほどかと。この先、街灯がありません」
「歩くって言ってんの。荷物返して」
「返します。ですので、まず座ってください」
そう言いながら、彼はすでにベンチに荷物を置いていた。
置かれたものを取り返すには、一度そこへ行かなければならない。行けば、ベンチが目の前にある。
月之木古都は舌打ちをして、座った。
「……あんた、性格悪いでしょ」
「よく言われます」
「先輩!」
遅れて追いついた八奈見が、膝に手をついて息を切らしている。
加瀬は自動販売機で買った紅茶を二本、差し出した。
「夜は冷えますので」
「……なんで二本あるの」
「一本は八奈見さんの分です」
そして彼は、三歩下がった。
そのまま黙った。
*
八奈見杏菜が隣に座って、月之木古都はしばらく何も言わなかった。
言わないまま、ペットボトルの蓋を三回開け閉めした。
「……ごめんね。せっかくの合宿だったのに」
「いいですよ、そんなの」
「私、最低よね。後輩が告白した直後に、あんな」
「先輩」
八奈見は前を向いたまま言った。
「私、こないだ振られたんです」
月之木先輩が顔を上げた。
「……知ってる」
「あの日、私、笑ってたんですよ。その場で。ちゃんと笑って、おめでとうって言って」
八奈見は紅茶を一口飲んだ。
「そのあと三日くらい、何も覚えてないですけど」
沈黙。
「……八奈見さん」
「はい」
「私、そんなに偉くない」
「知ってます」
「即答ね」
「はい」
月之木先輩が、少しだけ笑った。
*
「……去年のクリスマスにね」
しばらくして、先輩がぽつりと言った。
「あいつと二人で駅前歩いてて。ツリーの前でなんか言われたんだけど」
「なんて言われたんですか」
「さんざん私の悪口を並べたあげく。売れ残ったら俺がもらってやるから安心しろ、って」
八奈見の動きが止まった。
ペットボトルを口に運ぶ途中で、完全に止まった。
そして、口を開こうとした。
その瞬間、三歩後ろで加瀬が小さく咳をした。
八奈見が振り返る。
加瀬は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと首を横に振った。
八奈見はしばらく加瀬を見て、それから先輩に向き直り、口を閉じた。
「……八奈見さん? どうしたの」
「いえ」
「なんか言いかけてなかった?」
「言いかけました」
「なんで言わないの」
八奈見は少し悔しそうな顔をして、それから笑った。
「私が言うと、ズルになるので」
「なにそれ」
「……なんでしょうね」
そのとき、砂利を蹴る音が近づいてきた。
Intermission 番
バンガローの前の階段に、松谷誠は座っていた。
中には入っていない。
入っても、できることが一つもないからである。
扉の向こうからは、時々すすり泣きの音が漏れてくる。そのたびに焼塩檸檬の声が小さく何かを言っていて、言葉までは聞き取れない。
慰めるという行為を、彼は知らない。
二十年、彼が人に対してやってきたのは、伝えることと、隠すことの二つだけである。どちらも慰めではない。
だから彼は外に座って、時刻を数えていた。
加瀬『収束しました』
加瀬『玉木先輩がご自分で話されました』
高木『我々は何もしていません』
まつたに『それでいい』
二二時二十一分。
砂利を踏む音がして、松谷は顔を上げた。
玉木慎太郎が歩いてくる。
右手にハンカチはない。走ってきたのに、扉の前で足を止めて、しばらく動かなかった。
松谷は立ち上がった。
「玉木先輩」
「……ああ。松谷君、だっけ」
「はい」
「小鞠ちゃん、いるか」
「います」
「……そうか」
玉木は扉を見たまま動かない。
「先輩」
「ん」
「決めてこられましたか」
「……ああ」
「では、行ってください」
「なあ」
「はい」
「これ、正しいのかな」
「分かりません」
「正直だな」
「正しいかどうかは、あとで決まります。いま決まるのは、遅いか早いかだけです」
玉木はしばらく黙って、それから短く笑った。
「お前、何歳だっけ」
「十五です」
「そうか」
それだけ確認して、松谷は扉を二度叩いた。
顔を出した焼塩の腕を、彼は無言で引いた。
「え、ちょっと」
「出るぞ」
「なんで——」
そこで焼塩も、玉木の姿を見た。
「……あ」
焼塩は素直に外へ出た。
扉が閉まる。
*
松谷と焼塩は、灯りの届かないところまで下がった。
「……これ、あれだよね」
「そうだ」
「返事、だよね」
「そうだ」
「早いね」
「早い」
「昨日の今日だよ」
「昨日でも早くはない。二年経ってから返事をした人間を、俺は知っている」
「に、二年!?」
「……たとえだ」
焼塩は膝を抱えて座りこんだ。
「あたし、ここにいていい?」
「いていい」
「松谷君は?」
「番をする」
「バン?」
「……見ているだけだ」
「見てて、どうすんの」
「どうもしない」
「意味なくない?」
「ある」
「なに」
「何が起きたかを、あとで言える」
焼塩がこちらを見上げた。
「誰に」
「……本人にだ」
「本人、知ってるじゃん」
「知らない。中にいた者は、外で何が起きたかを知らない」
焼塩はしばらく考えて、それから膝に顎を乗せた。
「……あー」
「なんだ」
「あたし、昨日それだったかも」
「どういう意味だ」
「部室で、あたし、中にいたから。外で何が起きてたか知らないんだよね」
松谷は答えなかった。
しばらく、二人は黙っていた。
扉の向こうから声は漏れてこない。何を言っているのかも、どちらが話しているのかも分からない。
七分ほどして、扉が開いた。
玉木慎太郎が出てくる。
こちらには気づかず、下を向いたまま宿の方へ歩いていった。
その姿が消えてから、焼塩が小さく息を吐いた。
「……早かったね」
「七分だ」
「七分か」
「短い方がいい。長い方が優しいわけではない」
焼塩が松谷の顔を見上げた。
「そういうもん?」
「……そういうものだ」
*
しばらくして、扉が開いた。
小鞠知花が出てきた。
手には花火の小袋を持っている。泣いた顔をしていたが、泣いてはいなかった。
「小鞠ちゃん!」
焼塩が駆け寄る。
「……や、焼塩」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫」
小鞠は袋を掲げてみせた。
「せ、線香花火。まだ残ってた」
「やろやろ!」
「……や、焼塩」
「なに」
「……あ、ありがと」
「なにが」
「い、いてくれて」
焼塩は一瞬きょとんとして、それから袋を奪い取った。
「行くよ!」
「ひ、引っぱるな」
*
松谷誠は、二人が水場の方へ歩いていくのを見送った。
追わなかった。
しばらくして焼塩が一人で戻ってくるのが見えた。
「あれ、松谷君まだいたの」
「小鞠は」
「まだやってる。あたし、一本で飽きちゃって」
焼塩はへらりと笑った。
「線香花火って、爆発しないじゃん」
「……そうだな」
「あたし、爆発するやつのほうが好き」
「知っている」
「なんで知ってんの」
「今日、二本まとめて火をつけていた」
「見てたんだ」
「見ていた」
「……松谷君さ」
「なんだ」
「ずっと見てるよね、みんなのこと」
松谷は答えなかった。
「べつに、嫌じゃないけど」
焼塩はそう言って、大きく伸びをした。
「じゃあおやすみ!」
走っていく背中を見送って、松谷は水場の方に目をやった。
小さな影が一つ、しゃがんでいる。手元に橙色の点が揺れている。
——行くべきか。
考えて、彼は一歩前に出た。
出たところで、宿の方から別の足音が近づいてくるのが聞こえた。
温水和彦である。
松谷は足を戻した。
そして、灯りの届かない木の陰に身体を入れた。
温水は彼に気づかず、通り過ぎていった。
*
隠れる必要はなかった。声をかけてもよかった。
だが松谷誠は、二十年、誰と誰を会わせるかだけを考えて生きてきた男である。
その男の目には、いま水場に必要な人間が誰なのかが、はっきり見えていた。
自分ではない。
彼は木の陰に立ったまま、手帳を開かなかった。