負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
六
【小鞠知花】
七分だった。
部長がバンガローに入ってきて、出ていくまで。
私は数えていない。数えていないのに、なぜか分かる。あとで誰かに聞いたわけでもない。
ただ、あれは七分だったという確信だけがある。
内容は、全部覚えている。
覚えているが、書かない。
書くと残るからである。
*
部長が出ていったあと、私はしばらく壁に寄りかかって座っていた。
泣かなかった。
正確には、泣けなかった。
泣くには、まず状況を理解する必要がある。理解するには順番に整理する必要がある。整理するには、頭がちゃんと動いていないといけない。
その全部が、動いていなかった。
だから私は、花火の袋を持って外に出た。
理由はない。
手に持っていたからである。
*
「小鞠ちゃん!」
外に出たら、焼塩がいた。
たぶん、ずっとそこにいた。
「……や、焼塩」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫」
「ほんとに?」
「ほ、ほんとだ」
「じゃあ言ってみて。あたし、大丈夫です、って」
「あ、あたし、大丈夫です」
「あたしって言った」
「……お、お前の真似だ」
「うける」
焼塩が笑った。
笑われたのに、なぜか助かった。
大丈夫ではない。
だが、この女に嘘をつくのは簡単である。この女は嘘を疑わない。
「せ、線香花火。まだ残ってた」
私は袋を掲げてみせた。
*
水場のところで、二人で線香花火をやった。
焼塩は一本だけやって、飽きた。
「線香花火って、爆発しないじゃん」
「そ、そういうものだ」
「じゃああたし、寝るね!」
「え」
「ねむい!」
「……ね、寝ろ」
「うん、寝る!」
「あ、あの」
「なに?」
「……い、いや」
「なんかあったら呼んで。隣の部屋だから」
「よ、呼ばない」
「呼ばなくていいよ。いるってだけ」
——おい。
そう思ったが、言わなかった。
言わなかった理由は二つある。
一つ目。この女は、二時間も私の隣に座っていた。もう充分である。
二つ目。
……たぶん、この女は分かって行った。
一人にしないと私が泣けないことを、あの頭の悪そうな顔でたぶん分かっている。
そういうところが、私はこの女に勝てない。
*
一人になって、私は火をつけた。
橙色の玉ができて、そこから細い枝が伸びる。
——きれいだな。
そう思った。
思ってから、こんなときにきれいだと思う自分に少し驚いた。
七
【小鞠知花】
足音がした。
私は顔を上げなかった。
顔を上げなくても分かる。この足音は、たぶん温水である。
歩き方が遅くて、途中で止まる。
——なんで来たんだ。
そう思った。
思ったが、追い返す気力もなかった。
「えーと。小鞠、ここにいたんだ」
「…………な、なんだ。温水か」
「なんだって」
「な、なんだ」
「二回言った」
「い、言ってない」
言った。
*
この男は、明らかに困っていた。
困っているのが、後頭部からでも分かる。
たぶん私が振られたことを知っている。知っていて、どう扱えばいいか分からなくて、それでも通り過ぎなかった。
——通り過ぎればよかったのに。
そう思った。
思ったが、私は袋を突き出していた。
「せ、線香花火。こんなに一人で、出来ない」
嘘である。
一人でもできる。
袋には十五本くらい入っている。一本三十秒として、七分半である。
一人でやろうと思えば、できた。
*
温水がしゃがんで、火をつけた。
二人分の火が、ほとんど同時に玉になった。
サラサラと光の枝が散る。
「……こんなんだったな、線香花火って」
「……そ、そうだな」
「小鞠、詳しいの」
「よ、四段階ある」
「え」
「ぼ、牡丹、松葉、柳、散り菊」
「なにそれ」
「な、名前だ。順番に、そうなる」
「花火に名前あるんだ」
「あ、ある」
「知らなかった」
「ほ、本に書いてあった」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
私の知識はだいたい本から来る。
実物を見ながら段階の名前を確認したのは、生まれて初めてだった。
そのあと、しばらく何も言わなかった。
言わなくても成立する時間というものが、この世にはある。
こういう時間を、私は本の中でしか知らなかった。
*
何本目かを燃やした頃、目が合った。
「…………なっ、な、なに?」
「いや。お前、焼塩と一緒だったんじゃないのか」
「さ、さっきまで、いたぞ。せ、線香花火一本やったら、飽きて戻った」
「しかしまあ。お前と焼塩、仲良くなったみたいで良かったよ」
——は?
私は目を見開いた。
「な、仲良く見えるか? お前、節穴か?」
節穴である。
こいつは、あの女が今日どれだけ私に気を遣ったかを一つも見ていない。
……いや。
見ていないのは、たぶん正しい。
見られていたら、あの女も私も困る。
*
「お、お前が来る前、部長が来た」
言った。
なぜ言ったのかは、自分でも分からない。
たぶん、言わないと自分が信じないからである。
火の玉がボトリと落ちた。
「そうなんだ。それで、その」
「……ふ、振られた」
「……」
「な、なんか言え」
「なんて言えばいいんだよ」
「し、知るか」
「知らないのかよ」
「し、知らない。初めてなんだ」
「……そうか」
言った。
言葉にすると、それは急に事実になった。
七分間の会話が、四文字になった。
「正式に、振られた」
私は次の花火をこの男に渡した。
手が動いていてよかったと思う。
*
「そ、そうか……。うん、そうか。部長、ちゃんと答え出したんだな」
「……ち、ちゃんと」
「うん」
「な、なんで、ちゃんとって言うんだ」
「いや、その」
「せ、説明しろ」
「……保留のままにしとくこともできたのに、しなかったから」
火の玉がまた一つ落ちた。
この男はたまに、こういうことを言う。
——ちゃんと。
そうだ。
ちゃんと出した。
保留にしたまま夏休みに入ることも、うやむやにして二学期を迎えることも、できたはずだ。
しなかった。
七分で来て、七分で終わらせた。
——それは、たぶん優しさだ。
いちばん痛い種類の優しさである。
*
温水の顔を見て、私は一つ気づいた。
「ぬ、温水なら、とりあえずキープしとこうとか、思うだろ」
「なんで分かった」
「か、顔に出てる」
「出てないだろ」
「で、出てる。いま、目が泳いだ」
「泳いでない」
「……さ、最低だな」
「否定はしない」
「そ、そこは否定しろ」
「無理だな」
分かるに決まっている。
この男は顔に出る。
そして私は、こういう推理だけは得意なのだ。
役に立ったことは一度もないが。
八
【小鞠知花】
私の花火と温水の花火が、同じタイミングで弾け出した。
光の枝が、二つ並んで散っている。
——言おう。
私はそう決めた。
理由は簡単で、いま言わないとたぶん一生誰にも言わないからである。
そして、それを聞かせるのにこの男はちょうどよかった。
この男は、聞いたことを他人に喋らない。
そして、慰め方を知らない。
慰められると、私はたぶん壊れる。
*
「ぶ、部長、考えてくれた。私と、つ、付き合うこと、真剣に考えてくれた」
言った。
言いながら、私はニマリと笑ったと思う。
泣きそうな顔で笑うというのは、たぶんこういうことである。
「えへへ……ちょっとの間だけ、月之木先輩に、勝った」
「……小鞠」
「な、なんだ」
「それ、勝ちなのか」
「か、勝ちだ」
「そっか」
「そ、そっかって言え」
「言ったけど」
「も、もう一回」
「……そっか」
「よ、よし」
「よしって」
「よしだ」
*
——勝った。
私はその二文字を、昨日の夜から抱えていた。
告白してから、返事をもらうまで。
二時間三分。
その二時間三分だけ、あの人は私のことを考えていた。
十年一緒にいた人ではなく、私のことを。
——たった二時間三分だ。
分かっている。
分かっているが、それが私の全部である。
四月から三か月半、皿を渡す距離を計算して、寝る前に一つだけ言葉を思い出して。そうやって積み上げたものが二時間三分になった。
換算率がひどい。
だが、〇ではない。
〇ではないというのは、けっこう大きい。
*
「な、なあ」
「なんだよ」
「ぶ、部誌」
「うん」
「わ、私、書く」
「え」
「か、書くって言った」
「聞こえてたけど」
「じゃ、じゃあ返事しろ」
「……おう」
「お、おう、じゃない」
「じゃあ、なんて」
「し、知るか」
言ってから、私は次の一本に火をつけた。
火の玉が萎んで、チリリと音を立てて落ちた。
私はその落ちた先を見ていた。
そこで、限界が来た。
——ああ、来る。
分かった。
こういうのは来ると分かる。喉の奥のあたりで、先に分かる。
私は口を開いた。
「泣く、から……ど、どこか行って」
*
温水は動かなかった。
「……なあ」
「な、なんだ」
「行っていいのか」
「い、行け」
「ほんとに」
「ほ、ほんとに」
たぶん、迷っている。
——頼むから。
「お願い……」
言えたのは、それだけだった。
足音が遠ざかっていった。
九
【小鞠知花】
一人になってから、私は十五分くらい泣いた。
十五分というのは、たぶん正確である。宿の門限まで残り何分かを泣きながら数えていたからだ。
私はそういう人間である。
泣きながら時間を数える。
*
泣き終わって、私は水場で顔を洗った。
冷たかった。
顔を上げたら、鏡はなかった。水場に鏡はない。
——都合がいいな。
いま自分がどんな顔をしているか、見なくて済む。
*
袋の中に、線香花火がまだ三本残っていた。
私はそれを、宿に持って帰ることにした。
理由は自分でも分からない。
強いて言えば、全部使い切ってしまうと今日が終わってしまう気がしたからだと思う。
終わってほしいのに、終わってほしくない。
四月から三か月半、私はずっとそういうことばかり考えている。
*
宿へ戻る途中、暗がりに人が立っていた。
——え。
驚いて足が止まった。
木の陰に、誰かがいる。
こちらに気づいたらしく、その人影は少し動いて、何も言わずに宿の方へ歩いていった。
姿勢の良い後ろ姿だった。
——松谷か。
たぶんそうだ。
なぜあんなところにいたのかは、分からない。
……分からないが、あの男は私に話しかけなかった。
今日一日で、あの男は一度も私に話しかけていない。
たぶん明日も話しかけない。
——それでいい。
私は、そう思った。
*
宿の前まで来て、私はもう一度足を止めた。
玄関の灯りの下に、懐中電灯を持った人が立っていた。
「高木先生」
「小鞠さん」
「……み、見回り、ですか」
「見回りです」
そうですか、と言うつもりだった。
言えなかった。
この人の顔を見た瞬間、四月から今日までのことが全部、喉のところまで上がってきたからである。
「せ、先生」
「はい」
「……い、言いました」
「はい」
「ふ、振られました」
「はい」
それだけだった。
驚きもしないし、慰めもしない。よかったとも、残念だとも言わない。
私は少しだけ腹が立った。
「な、なにか、言ってください」
「何を申し上げましょう」
「……し、知りません」
「では、申し上げません」
この人は、こういう人だ。
図書室でも、いつもそうだった。
「……せ、先生」
「はい」
「わ、私、負けに行く態度、でしたか」
先生の目がこちらを向いた。
山の中の、岩の前に立ったような目である。
「それは、行かなかった人に申し上げる言葉です」
「……」
「あなたは、行かれました」
「……い、行きました」
「小鞠さん」
「は、はい」
「あなたは本日、一敗されました」
一敗。
その二文字を、私はしばらく口の中で転がした。
「一敗というのは、勝負をした者にしかつきません」
「……」
「おめでとう、とは申しません」
「い、言わないでください」
「言いません」
先生は懐中電灯を持ち直した。
「小鞠さん。明日、部室には戻られますか」
「……ぶ、部室」
「はい」
「……も、戻ります」
「では、それで足ります」
「そ、それだけですか」
「それだけです」
先生は灯りを消して、宿の戸に手をかけた。
「本は、また借りにおいでなさい」
*
私は袋の中の三本を握り直して、宿に入った。
明日、部室に戻る。
戻る場所があるというのは、けっこう大きい。
〇ではないというのと、たぶん同じことだ。