負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

16 / 16
第14話 3敗目 加瀬視点 少々

       Intermission 少々

 

二次創作/視点:加瀬俊一

 

※合宿の夜、消灯後の玄関ホール

 

 消灯から一時間ほど経った頃。

 

 加瀬俊一は寝床を抜け出して、研修棟の一階へ降りていた。

 

 理由は単純である。眠れなかった。

 

 一九四五年までの彼なら、この時間に一本吸っていた。夜の廊下と、煙と、遠くの物音。あの三つが揃って初めて、彼の一日は終わっていた。

 

 いまは終わり方が分からない。

 

 飴はもう切らしている。

 

 玄関ホールの隅に、それはあった。

 

 古いアップライトピアノである。備品票が側面に貼ってあり、埃よけの布が半分ずり落ちていた。この施設に何十年も置かれて、年に何度か使われる程度のものだろう。

 

 加瀬はしばらく、それを離れて見ていた。

 

 そして布を丁寧に畳んで椅子に置き、蓋を上げた。

 

 鍵盤は黄ばんでいる。中央のドを一つ叩いてみると、わずかに低い。

 

——調律は、五年は経っていますね。

 

 そんなことを考えている自分に気づいて、彼は少し笑った。

 

 椅子に座る。

 

 座ってから、しばらく手を膝に置いたまま動かなかった。

 

 彼は、自分がなぜここに座ったのかを知っている。

 

 夜、家に帰ると、まず上着を脱いで、それから蓄音機に針を落とすのが習慣だった。妻はモーツァルトを好んだ。彼はショパンを好んだ。

 

 どちらをかけるかで軽く言い争って、たいてい彼が譲った。

 

 譲った理由は、譲ると彼女が笑うからである。

 

——それだけの話だ。

 

 彼はその話を、この八十年後の世界で、誰にもしていない。松平にも、高木にも、松谷にもしていない。

 

 する必要がないからである。

 

 そういうことにしてある。

 

 加瀬俊一は指を鍵盤に置いた。

 

 弾き始めたのは、ショパンだった。

 

 夜想曲の、右手が高いところで長く伸びる曲。強く弾くところは一つもない。

 

 音は狂っていた。ところどころ、明らかに違う音が鳴る。

 

 それでも彼は最後まで弾いた。

 

 途中で一度だけ、指が止まりかけた。

 

 止まらなかった。

 

       *

 

 弾き終えて、彼は蓋を静かに下ろした。

 

「……終わりか」

 

 背後から声がして、加瀬はほんの一瞬、肩を動かした。

 

 振り返ると、階段の下に松谷誠が立っていた。原稿用紙を丸めて片手に持っている。

 

「いつからそこに」

 

「最初からだ」

 

「性質の悪い」

 

「声をかける機会がなかった」

 

「途中でいくらでもございましたが」

 

「途中で止めるものではない」

 

「……ほう」

 

「最後まで聞くのが、こちらの仕事だ」

 

 松谷は階段を降りきると、少し離れたところで立ち止まった。それ以上は近づかない。この男はいつもそうである。

 

「なぜ弾いた」

 

「さあ」

 

「弾けるとは聞いていなかった」

 

「申し上げておりませんので」

 

「なぜ言わない」

 

「聞かれませんでしたから」

 

「ピアノが、ここにあったからか」

 

「そうかもしれません」

 

「……そうか」

 

 松谷はそれ以上聞かなかった。

 

 聞かないところが、この男の唯一の徳だと加瀬は思っている。

 

「書けたのですか」

 

 加瀬が丸められた原稿用紙を目で示すと、松谷は首を横に振った。

 

「一行も書けていない」

 

「そうですか」

 

「君は四千字書いた」

 

「新聞部の記事です。締切が明日でしたので」

 

「一日で四千字か」

 

「三時間です」

 

「……三時間」

 

「私は書くのが好きなだけです」

 

「俺は二十年書いてきた」

 

 松谷は、握った原稿用紙を見下ろした。

 

「二十年書いて、好きだと思ったことが一度もない」

 

 加瀬は返事をしなかった。

 

 しばらくして、こう言った。

 

「……松谷さん」

 

「なんだ」

 

「私は、誰かに読ませるために書いたことが、ほとんどありません」

 

「はい?」

 

「書いたものは、たいてい自分で読み返して終わりです。今日の記事は例外ですが」

 

「それは、何のために書くんだ」

 

「書いている間だけ、他のことを考えなくて済むからです」

 

「……他のこと」

 

「他のことです」

 

「それは、何だ」

 

「松谷さん」

 

「なんだ」

 

「そこは、聞かないところです」

 

「……そうか」

 

 松谷は黙った。

 

 加瀬はピアノの蓋を軽く指で叩いた。

 

「これと同じですよ」

 

 そして立ち上がる。

 

「先に休みます。おやすみなさい」

 

「……ああ」

 

 加瀬が階段を上がっていったあと、松谷誠はしばらくその場に立っていた。

 

 それから手帳を出して、開いて、また閉じた。

 

 書かなかった。

 

       *

 

 階段の踊り場に、高木惣吉が立っていた。

 

 懐中電灯は消してある。

 

「……高木先生」

 

「見回りです」

 

「何時からですか」

 

「二十三時十分から」

 

 ピアノが鳴り始めたのは、二十三時十二分である。

 

「聞いておられましたか」

 

「聞いていました」

 

「加瀬に、言いますか」

 

「言いません」

 

 少将は手すりに手を置いた。

 

「あれは、私に聞かせるために弾いたものではありません」

 

「……はい」

 

「聞いてしまったものを聞いたと言うのは、失礼にあたることがあります」

 

 松谷は、その言い方を知っている。

 

 この人は八年、そうやってきた。知っていることの半分を、知らないことにして生きてきた男である。

 

「先生」

 

「はい」

 

「あれは、何という曲ですか」

 

「存じません」

 

「……先生でも」

 

「私は聞くほうです。曲の名前は、持ち主が言わなければ分かりません」

 

「松谷君」

 

「はい」

 

「あなたも、書けなかったのでしょう」

 

「……はい」

 

「書けないうちは、書かないほうがよろしい」

 

「なぜです」

 

「書けないまま書いたものは、あとで読み返したときに、いちばん恥ずかしいので」

 

 少将は階段を上がりかけて、途中で足を止めた。

 

「先生」

 

「はい」

 

「経験ですか」

 

「経験です」

 

 それだけ言って、上がっていった。

 

 松谷誠は手帳を握ったまま、しばらく玄関ホールに立っていた。

 

 ピアノの蓋は下りている。

 

 彼はそこへ歩いていって、埃よけの布を掛け直した。

 

 畳み方が違っていた。

 

 加瀬の畳み方の方が、明らかに綺麗だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。