負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
Intermission 少々
二次創作/視点:加瀬俊一
※合宿の夜、消灯後の玄関ホール
消灯から一時間ほど経った頃。
加瀬俊一は寝床を抜け出して、研修棟の一階へ降りていた。
理由は単純である。眠れなかった。
一九四五年までの彼なら、この時間に一本吸っていた。夜の廊下と、煙と、遠くの物音。あの三つが揃って初めて、彼の一日は終わっていた。
いまは終わり方が分からない。
飴はもう切らしている。
玄関ホールの隅に、それはあった。
古いアップライトピアノである。備品票が側面に貼ってあり、埃よけの布が半分ずり落ちていた。この施設に何十年も置かれて、年に何度か使われる程度のものだろう。
加瀬はしばらく、それを離れて見ていた。
そして布を丁寧に畳んで椅子に置き、蓋を上げた。
鍵盤は黄ばんでいる。中央のドを一つ叩いてみると、わずかに低い。
——調律は、五年は経っていますね。
そんなことを考えている自分に気づいて、彼は少し笑った。
椅子に座る。
座ってから、しばらく手を膝に置いたまま動かなかった。
彼は、自分がなぜここに座ったのかを知っている。
夜、家に帰ると、まず上着を脱いで、それから蓄音機に針を落とすのが習慣だった。妻はモーツァルトを好んだ。彼はショパンを好んだ。
どちらをかけるかで軽く言い争って、たいてい彼が譲った。
譲った理由は、譲ると彼女が笑うからである。
——それだけの話だ。
彼はその話を、この八十年後の世界で、誰にもしていない。松平にも、高木にも、松谷にもしていない。
する必要がないからである。
そういうことにしてある。
加瀬俊一は指を鍵盤に置いた。
弾き始めたのは、ショパンだった。
夜想曲の、右手が高いところで長く伸びる曲。強く弾くところは一つもない。
音は狂っていた。ところどころ、明らかに違う音が鳴る。
それでも彼は最後まで弾いた。
途中で一度だけ、指が止まりかけた。
止まらなかった。
*
弾き終えて、彼は蓋を静かに下ろした。
「……終わりか」
背後から声がして、加瀬はほんの一瞬、肩を動かした。
振り返ると、階段の下に松谷誠が立っていた。原稿用紙を丸めて片手に持っている。
「いつからそこに」
「最初からだ」
「性質の悪い」
「声をかける機会がなかった」
「途中でいくらでもございましたが」
「途中で止めるものではない」
「……ほう」
「最後まで聞くのが、こちらの仕事だ」
松谷は階段を降りきると、少し離れたところで立ち止まった。それ以上は近づかない。この男はいつもそうである。
「なぜ弾いた」
「さあ」
「弾けるとは聞いていなかった」
「申し上げておりませんので」
「なぜ言わない」
「聞かれませんでしたから」
「ピアノが、ここにあったからか」
「そうかもしれません」
「……そうか」
松谷はそれ以上聞かなかった。
聞かないところが、この男の唯一の徳だと加瀬は思っている。
「書けたのですか」
加瀬が丸められた原稿用紙を目で示すと、松谷は首を横に振った。
「一行も書けていない」
「そうですか」
「君は四千字書いた」
「新聞部の記事です。締切が明日でしたので」
「一日で四千字か」
「三時間です」
「……三時間」
「私は書くのが好きなだけです」
「俺は二十年書いてきた」
松谷は、握った原稿用紙を見下ろした。
「二十年書いて、好きだと思ったことが一度もない」
加瀬は返事をしなかった。
しばらくして、こう言った。
「……松谷さん」
「なんだ」
「私は、誰かに読ませるために書いたことが、ほとんどありません」
「はい?」
「書いたものは、たいてい自分で読み返して終わりです。今日の記事は例外ですが」
「それは、何のために書くんだ」
「書いている間だけ、他のことを考えなくて済むからです」
「……他のこと」
「他のことです」
「それは、何だ」
「松谷さん」
「なんだ」
「そこは、聞かないところです」
「……そうか」
松谷は黙った。
加瀬はピアノの蓋を軽く指で叩いた。
「これと同じですよ」
そして立ち上がる。
「先に休みます。おやすみなさい」
「……ああ」
加瀬が階段を上がっていったあと、松谷誠はしばらくその場に立っていた。
それから手帳を出して、開いて、また閉じた。
書かなかった。
*
階段の踊り場に、高木惣吉が立っていた。
懐中電灯は消してある。
「……高木先生」
「見回りです」
「何時からですか」
「二十三時十分から」
ピアノが鳴り始めたのは、二十三時十二分である。
「聞いておられましたか」
「聞いていました」
「加瀬に、言いますか」
「言いません」
少将は手すりに手を置いた。
「あれは、私に聞かせるために弾いたものではありません」
「……はい」
「聞いてしまったものを聞いたと言うのは、失礼にあたることがあります」
松谷は、その言い方を知っている。
この人は八年、そうやってきた。知っていることの半分を、知らないことにして生きてきた男である。
「先生」
「はい」
「あれは、何という曲ですか」
「存じません」
「……先生でも」
「私は聞くほうです。曲の名前は、持ち主が言わなければ分かりません」
「松谷君」
「はい」
「あなたも、書けなかったのでしょう」
「……はい」
「書けないうちは、書かないほうがよろしい」
「なぜです」
「書けないまま書いたものは、あとで読み返したときに、いちばん恥ずかしいので」
少将は階段を上がりかけて、途中で足を止めた。
「先生」
「はい」
「経験ですか」
「経験です」
それだけ言って、上がっていった。
松谷誠は手帳を握ったまま、しばらく玄関ホールに立っていた。
ピアノの蓋は下りている。
彼はそこへ歩いていって、埃よけの布を掛け直した。
畳み方が違っていた。
加瀬の畳み方の方が、明らかに綺麗だった。