負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
Intermission 一行
二次創作/視点:松谷誠
※合宿二日目、朝六時前の集会室
翌朝、六時前。
松谷誠は誰よりも早く起き、集会室の窓際で手帳を開いていた。
昨夜の分を、まだ書いていない。
二〇一四 手筒花火、暴発。
二〇一六 小鞠、玉木に告白。
二〇一七 玉木、回答保留。
二〇二三 月之木、玉木を打擲。
二二一七 県道にて和解。
二二二一 玉木、バンガローへ。
二二二八 同、退出。
七分。
彼はそこで手を止めた。
七分のあいだに何があったかは書けない。中にいなかったからである。
書けないものを空欄にしておくのは、書式としては正しい。
だがこの空欄の中に、小鞠知花の三か月か半年か、あるいは一年が全部入っている。
彼は空欄を見つめた。
そして、その下に一行だけ書いた。
二〇一六 小鞠、告白。
すでに書いてある行を、もう一度書いた。
理由は自分でも分からない。
*
「な、なにしてる」
顔を上げると、小鞠知花が立っていた。
目が腫れている。だが背筋は伸びていた。
「……早いな」
「ね、寝られなかった」
「何時間だ」
「……に、二時間くらい」
「足りない」
「し、知ってる」
「朝食は七時だ」
「た、食べる」
「そうか」
それきり、会話が止まった。
止まったが、小鞠は出ていかなかった。
小鞠は少し離れた席に座って、それから松谷の手元をちらりと見た。
「そ、それ、なんだ」
「手帳だ」
「な、なにが書いてある」
松谷の指が止まった。
一瞬だけである。
彼は手帳を開いたまま差し出した。
差し出しながら、左手の親指で一行を覆っていた。
二〇二三 月之木、玉木を打擲。
「ま、松谷」
「なんだ」
「そ、そこ、指」
「ああ」
「ど、どけろ」
「駄目だ」
「な、なんでだ」
「君の頁ではない」
「……」
「読みたければ、書いた者に聞いてくれ」
「か、書いたのはお前だろ」
「そうだ」
「じゃ、じゃあ」
「聞かれても答えない」
小鞠はしばらく親指を見ていた。
それから、視線を紙面に戻した。
小鞠はページを覗きこんで、時刻の並びを目で追った。
「……ぜ、全部、時間が書いてある」
「そういう書き方しかできない」
「ほ、ほかの頁も」
「同じだ」
「み、見ていいか」
「駄目だ」
「な、なんでだ」
「他人のことが書いてある」
「わ、私のことも書いてあるだろ」
「書いてある」
「じゃ、じゃあ他人に見せてるじゃないか」
松谷は答えなかった。
「……見せているのは、君の頁だけだ」
「く、屁理屈だ」
「そうだ」
「へ、変なやつ」
「よく言われる」
「ぶ、部誌は」
「なんだ」
「か、書くのか」
「書かない」
「な、なんでだ」
「書けない」
「か、書くのが仕事だったんだろ」
「そうだ」
「じゃ、じゃあ書けるだろ」
「宛先がない」
「あ、宛先」
「誰が読むかの決まっていない紙を、書いたことがない」
小鞠はしばらく黙っていた。
「……わ、私は書く」
「そうか」
「き、昨日、決めた」
「誰に読ませる」
「し、知らない」
「では、なぜ書く」
「……か、書きたいからだ」
松谷は手帳を持ち直した。
その一行を、彼は時刻をつけずに書いた。
小鞠は指で紙面をなぞって、ある一行のところで止まった。
二〇一六 小鞠、玉木に告白。
しばらく、そこを見ていた。
「……い、一行なんだな」
「一行だ」
「に、二回言った」
「二回とも同じだからだ」
「ひ、ひどいな」
「短くしたのではない。それしか書けない」
「な、なんでだ」
「起きたことしか書かないからだ」
「あ、あんなに、大変だったのに」
「一行だ」
小鞠は、ふ、と息を漏らした。
笑ったのだと気づくのに、少しかかった。
「……い、いいな、それ」
「なにがだ」
「た、たぶん私は、一生かけても一行にできない」
小鞠は立ち上がった。
「か、書くのが仕事の人は、ちがうんだな」
「小鞠」
「な、なんだ」
「仕事ではない」
「え」
「いまは、仕事ではない」
小鞠はしばらくこちらを見て、それから少しだけ笑った。
「……そ、そうか」
そう言って、集会室を出ていった。
*
一人になってから、松谷誠は親指をどけた。
二〇二三 月之木、玉木を打擲。
あの平手は痴話喧嘩ではない。断るならちゃんと断れ——月之木古都はそう言って玉木慎太郎を叩いた。小鞠知花を早く振れ、という要求だった。
そして一時間半後、玉木慎太郎は実際にそうした。
この二行を時刻順に読めば、あの子はこう読む。自分が振られたのはあの平手のせいだと。
昨夜あの子が持ち帰ったものは一つしかない。真剣に考えてもらえた一時間半である。あの一行は、それを他人に押されるまでの遅れに書き換えてしまう。
しかも、どちらが本当かは誰にも決められない。玉木慎太郎自身にもたぶん分からない。
——決められないものを渡すと、読む側は必ず悪い方に読む。
二十年、飽きるほど見てきた。書いてあることが正しくても読まれ方までは書けない。紙は自分で弁明しない。
だから削らなかった。嘘も書かなかった。ただ、いま読めば必ず誤読する一行を指で押さえた。
隠蔽ではない。破棄でもない。
一九四五年九月、彼は集められる限りの紙を集めて焼いた。全部である。誰の名前が書いてあるかも確かめずに焼いた。
焼けば誰も困らないと信じていたし、いまでも間違っていたとは思わない。
だが今朝は、一行だけを隠して残りを見せた。
——こういうやり方が、あったのか。
窓の外が、少しずつ明るくなっていく。
た、たぶん私は、一生かけても一行にできない。
あの子は、書けないと言ったのではない。書けるようになるまでの時間の話をしたのだ。
松谷誠は手帳を開き直し、昨夜の頁の余白に、時刻のない文を一つ書き足した。
——一行にするまでに、どれだけかかるかは、人による。
破らずに、閉じた。