負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第16話 3敗目 小鞠視点 最終日

       一

 

【小鞠知花】

 

 眠れなかった。

 

 正確には二時間ほど眠った。泣き疲れて落ちたのが二十三時ごろで、目が覚めたのが一時過ぎである。そこからはもう駄目だった。

 

 隣の布団で、焼塩が寝息を立てていた。

 

 あの女は、昨日の夜、二時間ずっと私の隣に座っていた。

 

 何も言わなかった。

 

 大丈夫?も、元気出して?も、あんな男やめときな?

 

 も、一つも言わなかった。

 

 ただ座って、時々袖で自分の目をこすっていた。

 

——なんでお前が泣くんだ。

 

 そう思ったが言えなかった。言おうとしたら私がまた泣くからである。

 

……いま思うと、あれが、いちばん助かった。

 

 言葉をかけられていたら、私は返事をしなければならなかった。返事をするには状況を要約しなければならない。

 

 要約できるほど、私は自分の状況を分かっていなかった。

 

       *

 

 五時半に起きて、私は集会室へ行った。

 

 理由はない。布団の中にいると考えてしまうからである。

 

 考えると、昨日の七分間が再生される。

 

 部長がバンガローに来て、出ていくまでの七分。

 

 何を言われたかは、全部覚えている。

 

 一言も忘れていない。忘れられたらどんなにいいか。

 

       *

 

 集会室の窓際に、先客がいた。

 

 松谷である。

 

 手帳を開いて、何か書いていた。

 

「な、なにしてる」

 

 自分の声が、思ったより普通に出た。

 

「……早いな」

 

「ね、寝られなかった」

 

 私は少し離れた席に座った。

 

 この男とは、二人になっても平気である。

 

 理由は簡単で、この男は私に何も聞かないからだ。大丈夫かとも、どうしたのかとも聞かない。

 

 聞かれないから、答えなくていい。

 

 答えなくていいから、そこにいられる。

 

——そういう種類の人間が、この世にはいる。

 

 私はそれを、四月からずっと探していた気がする。

 

       *

 

「そ、それ、なんだ」

 

「手帳だ」

 

「な、なにが書いてある」

 

 聞いてから、私は少し後悔した。

 

 こういう聞き方をすると、たいてい人は困る。

 

 だが松谷は指が一瞬止まっただけで、手帳を開いたまま差し出してきた。

 

 左手の親指が、ページの一部を押さえている。

 

「そ、そこ、指」

 

「ああ」

 

「ど、どけろ」

 

「駄目だ」

 

「な、なんでだ」

 

「君の頁ではない」

 

——なんだ、それ。

 

「よ、読みたければ」

 

「聞かれても答えない」

 

 先回りされた。

 

 私は親指をしばらく見て、それからやめた。

 

……私にも、押さえておきたい行くらいある。

 

       *

 

 覗きこむと、時刻が並んでいた。

 

  二〇一四 手筒花火、暴発。

 

  二〇一六 小鞠、玉木に告白。

 

  二〇一七 玉木、回答保留。

 

  二二一七 県道にて和解。

 

  二二二一 玉木、バンガローへ。

 

  二二二八 同、退出。

 

「……ぜ、全部、時間が書いてある」

 

「そういう書き方しかできない」

 

「へ、変なやつ」

 

「よく言われる」

 

「ぶ、部誌は」

 

「なんだ」

 

「か、書くのか」

 

「書かない」

 

「な、なんでだ」

 

「宛先がない」

 

 意味が分からなかった。

 

 分からないので、私は自分の話をした。

 

「わ、私は書く」

 

「そうか」

 

「き、昨日、決めた」

 

「誰に読ませる」

 

「し、知らない」

 

「では、なぜ書く」

 

「……か、書きたいからだ」

 

 言ってから、少し驚いた。

 

 三時間かけて考えたことでもないのに、いちばん短くまとまった。

 

       *

 

 私は指で紙面をなぞった。

 

 そして、ある一行のところで止まった。

 

  二〇一六 小鞠、玉木に告白。

 

——一行だ。

 

 私は、その一行をしばらく見ていた。

 

 四月から三か月半。

 

 毎日、部室で目を合わせるかどうかを考え、皿を渡す距離を計算して、寝る前に一つだけ思い出して。

 

 昨日は、心臓が破れるかと思うくらい叫んで。

 

 そして、そのあと七分間で終わった。

 

 それが、一行である。

 

「……い、一行なんだな」

 

「一行だ」

 

「あ、あんなに、大変だったのに」

 

「一行だ」

 

 繰り返された。

 

 慰めなかった。

 

——助かる。

 

 私は息を漏らした。

 

 笑ったのだと、あとで気づいた。

 

       *

 

「……い、いいな、それ」

 

「なにがだ」

 

「た、たぶん私は、一生かけても一行にできない」

 

 言ってから、自分でも思った以上に正確なことを言った気がした。

 

 私は書く人間である。

 

 だが私は、自分のことを一行に縮められない。縮めようとすると必ず言い訳が増える。

 

 この男は、二秒で縮める。

 

 そのかわり、たぶんこの男の一行には何も入っていない。

 

——どっちがましなんだろう。

 

 分からなかった。

 

 私は立ち上がった。

 

「か、書くのが仕事の人は、ちがうんだな」

 

「小鞠」

 

「な、なんだ」

 

「仕事ではない」

 

「え」

 

「いまは、仕事ではない」

 

 言い直した。

 

 この男が言い直すのを、私は初めて見た。

 

「……そ、そうか」

 

 そう言って、集会室を出た。

 

       二

 

【小鞠知花】

 

 朝食のあいだ、私は一度も月之木先輩の顔を見なかった。

 

 見られなかった、というのが正確である。

 

 理由は三つある。

 

 一、昨日、あの人の前で告白した。

 

 二、そのあと、あの人が部長を叩く音を私は廊下で聞いた。

 

 三、そして今朝の二人は、明らかに元通り以上になっている。

 

 窓際で、先輩が部長の肩に手を置いている。

 

 昨日までは絶対にしなかった距離である。

 

——ああ。

 

 私は自分の茶碗を見ていた。

 

 つまり、そういうことだ。

 

 私が壊しにいって、私が失敗して、その結果あの二人はくっついた。

 

 私の三か月半は、あの二人の背中を押すために使われた。

 

——なにそれ。

 

 そう思ってしまう自分が、いちばん嫌だった。

 

「小鞠ちゃん、ごはん食べないの」

 

 八奈見が横から言った。

 

「た、食べる」

 

「食べてないよ」

 

「い、いま食べる」

 

「じゃあ、これあげる」

 

 私の茶碗の上に、焼き鮭の身がのった。

 

「い、いらない」

 

「食べな」

 

「な、なんでだ」

 

「食べないと、負けた感じするから」

 

 私は顔を上げた。

 

 この女は前を向いたまま、自分の茶碗を見ていた。

 

「……た、食べる」

 

「うん」

 

 だから私は、荷物をまとめることに集中した。

 

 手を動かしていれば、考えなくて済む。

 

       *

 

 そのうち、変なことが起きた。

 

「男子は荷物の積みこみを手伝ってください。玄関前です。それと、忘れ物の確認をしますので、女子の方は一度部屋に戻ってください」

 

 高木先生が、入口に立って言った。

 

 昨日、砂浜にずっと座っていた人である。

 

 昨日の夜、宿の前で私に「本は、また借りにおいでなさい」と言った人でもある。

 

——妙だな。

 

 私は思った。

 

 忘れ物の確認なら女子は部屋に戻る。男子は荷物。それは分かる。

 

 だが、それをやると集会室に残るのは私と月之木先輩になる。

 

……偶然か。

 

 そして、なぜか温水だけが残された。バインダーを押しつけられている。

 

 点呼の記録、と先生は言った。

 

 点呼する相手が全員出ていったのに。

 

       *

 

 十秒ほどで、集会室は静かになった。

 

 そして、玄関ホールの方からピアノの音が聞こえてきた。

 

——え。

 

 古いアップライトが置いてあったのは知っている。埃よけの布がかかっていた。

 

 いま、誰かが弾いている。

 

 上手い。

 

 素人ではない。音が繋がっている。

 

 そして、その曲は。

 

——静かじゃない。

 

 うるさくもない。

 

 ずっと同じ音量で、切れ目なく続いている。

 

……この部屋の中の声が、外に届きにくくなる程度の。

 

 私は、そこで理解した。

 

——遮ってる。

 

 誰が。

 

 なんのために。

 

 聞くまでもなかった。

 

       三

 

【小鞠知花】

 

「……小鞠ちゃん」

 

 先輩が先に口を開いた。

 

「は、はい」

 

「昨日、ごめん」

 

——え。

 

「……な、なにがですか」

 

「私、あんたが告白した直後に、あいつに向かって、はっきり断れって怒鳴ったのよ」

 

 私は顔を上げた。

 

「……あれ、聞こえてた?」

 

「き、聞こえてないです」

 

 嘘である。

 

 聞こえていた。バンガローへ走る途中で、風向きが悪かった。

 

「そう」

 

「……で、でも」

 

 私は少し黙って、それから正直に言った。

 

「そ、そうだろうな、とは、思ってました」

 

       *

 

 先輩が息を吐いた。

 

「そうだよね」

 

「……」

 

「私さ。あんたのこと、守ってあげなきゃいけない後輩だと思ってたの。ずっと」

 

「はい」

 

「なのに昨日、一瞬だけ、この子いなければいいのにって思った」

 

——ああ。

 

 私は、なぜか、そこで少しほっとした。

 

 おかしな話である。

 

 だが、この人が私に対して聖人だったら、私は一生この人に勝てない。

 

 そうでないと分かって、私はやっと息ができた。

 

「……最低でしょ」

 

「私、あんたを踏んで幸せになったみたいな気がしてる。ずっと」

 

「……ふ、踏まれてないです」

 

「踏んだよ」

 

「ふ、踏まれた人が言うんだから、そうです」

 

「……理屈がおかしい」

 

「お、おかしくないです」

 

       *

 

——それは、違う。

 

 私はそう思った。

 

 思ったが、口から出てくるかどうかは別問題である。

 

 私の口は三割しか出力しない。

 

 だが、ここで出さないと、たぶん一生出さない。

 

 私は膝の上で両手を握った。

 

「せ、先輩」

 

「なに」

 

「わ、私、先輩がいた文芸部が、好きでした」

 

「うん」

 

「三人でいた時間が、す、すごく好きでした」

 

 これは本当である。

 

 四月に一年生が私しかいなくて、部長と先輩と三人で本の話をして、たまに二人が喧嘩して、私が困って。

 

 あの三人が、私の居場所だった。

 

「で、でも昨日、それを全部壊してもいいと思って、言いました」

 

 先輩が顔を上げた。

 

       *

 

 私は続けた。

 

 止まったら終わりだと思った。

 

「き、綺麗な思い出だけ残して終わるの、な、なんか違うと思ったから」

 

「……」

 

「だ、だから先輩が謝るのは、ちがいます」

 

 声が震えていた。

 

 震えたまま、最後まで言った。

 

「わ、私が、自分で壊しにいきました」

 

       *

 

 長い沈黙があった。

 

 ピアノの音が、その上を流れていた。

 

「……小鞠ちゃん」

 

「はい」

 

「あんた、私より強いわ」

 

——違う。

 

 強くない。

 

 強い人間は、三か月半も皿を渡す距離を計算しない。

 

 だが、私は否定しなかった。

 

 否定すると、この人がまた謝る。

 

「そ、そんなこと」

 

「あるって」

 

 先輩は眼鏡を外して、目元を乱暴にこすった。

 

「あーもう。私が泣いてどうすんのよ」

 

「な、泣かないでください」

 

「泣いてない」

 

「な、泣いてます」

 

「泣いてないの」

 

       四

 

【小鞠知花】

 

「小鞠ちゃん。一個だけ、確認していい?」

 

「な、なんですか」

 

「あんた、文芸部やめる?」

 

——ああ、来た。

 

 私は即答した。

 

「や、やめません」

 

「即答ね」

 

「や、やめる理由がないです」

 

「私と顔合わせるの、しんどくない?」

 

 しんどい。

 

 たいへんにしんどい。

 

 たぶん十二月くらいまでしんどい。下手をすると卒業までしんどい。

 

 だが。

 

 私は少し考えて、いちばん正確な答えを選んだ。

 

「し、しんどいですけど。ぶ、部室に本があるので」

 

 先輩が吹き出した。

 

「……あんた、ホントそういうとこよ」

 

「な、なんですか」

 

「褒めてるの」

 

       *

 

 嘘ではない。

 

 本当に、本があるからである。

 

 あの部屋には、私が四月から少しずつ持ちこんだ本と、先代から積み上がった蔵書と、絶対に男子に見せられない資料がある。

 

 あれを置いて出ていくことは、私にはできない。

 

 人間関係より、本である。

 

 私はそういう人間だし、そういう人間で通すことにした。

 

 そう決めた方が、明日から動きやすいからだ。

 

       *

 

「秋の部誌、書きなさいよ。逆カプでいいから」

 

「……か、書きます」

 

「太宰以外もね」

 

「そ、それは、考えます」

 

「考えるな」

 

「か、考えます」

 

「聞いてないでしょ」

 

「き、聞いてます」

 

「じゃあ書きなさい」

 

「か、書きます。太宰で」

 

「話が戻ってる」

 

——考える。

 

 私は心の中でそう返した。

 

 太宰は譲らない。

 

 譲らないものが一つあるだけで、人間はけっこう立てる。

 

       *

 

 顔を上げると、部屋の隅で温水がバインダーを見ていた。

 

 まだ罫線を数えているような顔をしていた。

 

——気を遣いすぎだ。

 

 こいつは、こういうときに気を遣う。

 

 そして気を遣っていることを隠すのが下手である。

 

……そこは、まあ、悪くない。

 

 ピアノの音が止まった。

 

       五

 

【小鞠知花】

 

 出発前。

 

 部長がノートパソコンで温水の小説を投稿していた。

 

「じゃあ、第一話を投稿するぞ」

 

「なんかプロット立ててたのとは違うんだな」

 

「なんか、急にこういうのを書きたくなって」

 

「少しずつ、自分のペースで書いていこうと思います」

 

——ふうん。

 

 私は少し離れた席で、自分のノートパソコンを開いていた。

 

 温水の第一話は、すでに読んでいる。

 

 昨夜、ロビーであいつが書いているのを、私は二階の窓から見ていた。

 

 そのあと部屋で読んだ。

 

……悔しいことに、悪くなかった。

 

       *

 

 八奈見が自分の感想欄を見て騒いでいる。

 

「三件ついてる。一件は俺だけど」

 

「一件!」

 

「でも残り二件は知らない人ですよね」

 

「みたいだな。『から揚げ棒の描写が良い』だってさ」

 

「そこ!?」

 

——分かるぞ、それ。

 

 私は無言でうなずいた。

 

 自分がいちばん力を入れた部分は、絶対に褒められない。

 

 どうでもいい一行が褒められる。

 

 そういうものである。

 

       *

 

 そのうち、松谷が温水に話しかけていた。

 

「この商店街は、実在するか」

 

「しないよ」

 

「では、この女子生徒は」

 

「しない」

 

「……いない人間が、ない場所で、起きていないことをしている」

 

「そうだよ。小説だから」

 

「なぜだ」

 

「起きなかったことを書いて、何になる」

 

「え、いや、そういう話じゃなくて」

 

「では、どういう話だ」

 

「……面白いから、じゃ駄目か」

 

「面白い」

 

「うん」

 

「起きていないことが、面白いのか」

 

「起きてないから面白いんだって」

 

「……」

 

——おい。

 

 私は思わず顔を上げた。

 

 その質問は、この部屋でいちばんしてはいけない質問である。

 

 だが、あの男は本気で聞いている。

 

 嫌味でも挑発でもない。本気で分かっていない。

 

 そして月之木先輩が答えた。

 

「起きたことしか書いちゃいけないなら、この世の本、九割なくなるよ?」

 

「……そうですね」

 

「困る?」

 

「困ります」

 

「ほら。じゃあ、そういうことよ」

 

——雑だ。

 

 雑だが、正しい。

 

 そして松谷は、なぜか納得した顔をしていた。

 

……あの男、雑な答えの方が入るのかもしれない。

 

       六

 

【小鞠知花】

 

 私は自分の画面に戻った。

 

 そして、感想欄を開いた。

 

——さて。

 

 昨夜、私は三時間かけてこれを書いた。

 

 正確には、書いては消し、書いては消しを繰り返した。

 

 一稿目は、単純な悪口だった。

 

  『つまらない』

 

 削除。これは嘘だからである。

 

 二稿目は、丁寧な批評だった。

 

  『情景描写は的確だが、視点人物の内面の掘り下げが浅い。特に——』

 

 削除。長い。

 

 三稿目で、私はようやく気づいた。

 

——私は、こいつを傷つけたいわけじゃない。

 

 私は、続きを書かせたいのだ。

 

 そのためには、悔しがらせる必要がある。

 

 悔しがらせるには、正確な弱点をいちばん失礼な言い方で突く必要がある。

 

       *

 

 そうして完成したのが、これである。

 

  『文章は悪くない。構成も破綻していない。

 

   ただし女子の描写が、すべて想像で書かれている。

 

   実物を見たことのない人間の書き方。

 

   いわゆる童貞の文章』

 

——完璧だ。

 

 前半三行は本当のことである。だから効く。

 

 最後の一行は完全な悪口である。だから怒る。

 

 本当のことだけだと、こいつは黙って落ちこむ。悪口だけだと笑って流す。

 

 混ぜると、書く。

 

……我ながら、性格が悪い。

 

       *

 

 投稿ボタンを押した。

 

 二十秒後、温水が画面を見て固まった。

 

 そして、ゆっくり顔を上げてこちらを見た。

 

「小鞠……お前か、これ」

 

「な、なんのことだ」

 

「名前出てるぞ」

 

「え」

 

……出ていた。

 

 匿名にするのを忘れていた。

 

「ま、まあいい」

 

「よくないだろ」

 

「よ、読んだんだろ」

 

「読んだよ」

 

「ど、どうだった」

 

「……腹立った」

 

「よ、よし」

 

 私は笑った。

 

 たぶん、かなり邪悪な顔をしていたと思う。

 

「つ、続きちゃんと書け。評価、付け直してやるから」

 

「……見てろ。満点つけさせてやる」

 

——よし。

 

 私は画面に視線を戻した。

 

 そして、口の端が上がっているのを、誰にも見られないようにした。

 

       *

 

 昨日、私は全部を壊しにいって、壊せなかった。

 

 失恋した。

 

 三か月半が一行になった。

 

 それでも今日、私はまだ人を怒らせることができる。

 

 それができるうちは、たぶん、大丈夫だ。

 

       *

 

 玄関を出るとき、私は高木先生の横を通った。

 

 先生は点呼のバインダーを、温水から受け取っているところだった。

 

「せ、先生」

 

「小鞠さん」

 

「あ、あの、忘れ物の確認なんですけど」

 

「はい」

 

「じょ、女子、誰も部屋に戻ってません」

 

「そうですか」

 

「そ、そうですか、じゃなくて」

 

「忘れ物はありましたか」

 

「な、なかったです」

 

「では、確認は済んでおります」

 

 済んでいない。

 

 確認していないのだから、済むわけがない。

 

「せ、先生」

 

「はい」

 

「あ、あれ、わざとですよね」

 

 先生はバインダーの用紙を揃えた。

 

 揃え終わってから、こちらを見た。

 

「小鞠さん。私は非常勤です」

 

「は、はい」

 

「担任も持っておりませんし、顧問でもありません。生徒を部屋へ戻す権限も、本当はないのです」

 

「……じゃ、じゃあ」

 

「ですので、あれは指示ではありません。お願いです」

 

 そう言って、先生は玄関の方へ歩き出した。

 

「せ、先生」

 

「はい」

 

「あ、ありがとうございました」

 

 先生は足を止めなかった。

 

「何がでしょう」

 

 答えなかった。

 

 答えなくてよかったのだと思う。

 

       *

 

 窓の外でバスが来た。

 

 私はノートパソコンを閉じて、荷物を持った。

 

……ちなみに、あの投稿の感想欄には、もう一件ついていた。

 

  まつたに『続きを読みたい』

 

——名前、直ってないな。

 

 私はそれだけ思って、何も言わなかった。

 

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