負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
~3敗目~ 戦う前から負けている 小鞠知花の撤退戦
二次創作/視点:加瀬俊一
Intermission 遮蔽
二次創作/視点:加瀬俊一
※合宿最終日の朝、青年の家の玄関ホール
玄関ホールで、加瀬俊一は鍵盤を叩き続けていた。
選曲に迷いはなかった。
音量が一定していること。休符が少ないこと。旋律に耳を引く跳躍がないこと。
この三つを満たす曲を、彼は頭の中の目録から即座に取り出した。
美しいかどうかは今回の条件に入っていない。
——音楽を、遮蔽に使う。
彼はそれを失礼なことだとは思っていない。ロンドンでもワシントンでも同じことをやっている。人が本当のことを話せるのは、誰にも聞かれていないと信じられる場所だけである。
そういう場所を作るのが彼の職分だった。
「……相変わらずだな」
階段の下に、松谷誠が立っていた。
加瀬は手を止めずに答える。
「聞こえていますか」
「聞こえない。中の声は何も」
「では、成功です」
「そうだな」
「松谷さんは、何をしにおいでで」
「聞こえるかどうかを、確かめに来た」
「確かめて、どうなさいます」
「聞こえるなら、扉を閉めに行く」
「閉まっております」
「そうか」
松谷はそれ以上、近づかなかった。
「昨夜のとは、違う曲だ」
加瀬の指が、一瞬だけ乱れた。
「……よくお分かりで」
「音が違う」
「音楽は、お分かりにならないはずでは」
「分からん」
「では、なぜ」
「分からんが、違うことは分かる」
「それは、分かると申します」
「そうか」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
松谷は壁に背を預けて、腕を組んだ。
「昨夜のは、遅かった。今日のは速い」
「速度の話ですか」
「他に言い方を知らない」
加瀬は小さく笑った。
「充分です」
*
廊下の角に、もう一人立っていた。
高木惣吉である。バインダーを抱えて、集会室の扉から三メートルほどの位置にいる。
近すぎず遠すぎない。中の声が聞こえず、誰かが出てくれば分かる距離である。
「高木先生」
加瀬は手を止めずに呼んだ。
「加瀬君」
「そこは、聞こえますか」
「聞こえません」
「では、そちらも成功です」
高木は答えなかった。
答えずに、バインダーの用紙を一枚めくった。
「加瀬君」
「はい」
「あと何分もちますか」
「曲がですか」
「はい」
「六分ほどです。繰り返せば、いくらでも」
「では、六分で足りるようにしましょう」
そう言って、高木は廊下の先へ目をやった。
温水和彦が、点呼のバインダーを持たされて所在なげに立っている。
「あれは、何のためです」
「人が一人、あの部屋にいたほうがよい」
「なぜです」
「二人だけにすると、逃げ場がなくなります」
加瀬の指が、わずかに軽くなった。
——なるほど。
自分は音で囲った。
この人は、人を一人置いた。
囲い方が違う。
「先生」
「なんでしょう」
「あの少年に、何と説明を」
「点呼の記録だと」
「点呼する相手が、全員出ておりますが」
「気づいておりません」
「気づかせないのが、上手いのですね」
「……上手くはありません」
高木はバインダーを持ち直した。
「三十年、それしかできませんでしたので」
*
集会室の方から、笑い声が一つ聞こえた。
女性の声である。どちらのものかは分からない。
加瀬は指を止めなかった。
止めなかったが、そこから先、彼は曲を選ぶのをやめていた。
音量も休符も跳躍も、もう数えていない。
ただ、続きを弾いた。
弾きながら、彼はごく短い時間だけ別のことを考えていた。
夜、家に帰るとまず上着を脱いで、それから蓄音機に針を落とすのが習慣だった。かける盤をどちらにするかで、毎晩のように軽く言い争った。たいてい彼が譲った。
譲ると、笑うからである。
それだけの話だ。
彼はその話を、この八十年後の世界で誰にもしていない。
*
「加瀬」
松谷の声がした。
「なんでしょう」
「もう終わったぞ」
「……ええ」
「弾き続けなくてもいい」
「……もう少し」
「なぜだ」
「切りが、悪いので」
「そうか」
松谷はそれ以上、聞かなかった。
三十秒ほどして、加瀬は言った。
「……終わりました」
加瀬は最後の一節を弾き終えて、指を止めた。
蓋を静かに下ろす。
振り返ると、松谷はもう階段の方に歩き出していた。
「松谷さん」
「なんだ」
「昨夜のことは」
「聞いていない」
即答だった。
「……助かります」
「加瀬」
「はい」
「その曲の名は」
「……お聞きになりますか」
「聞かない」
「聞かないのなら、なぜお尋ねに」
「名があるかどうかを、確かめた」
「ございます」
「そうか」
「それだけでよろしいので」
「俺は数字しか覚えられん」
嘘である。
この男が数字しか覚えられないなら、昨夜あの一行を親指で隠す必要はなかった。
加瀬俊一はそれを知っていたが、言わなかった。
言わないところがこの男の唯一の徳だと、松谷誠も思っているはずである。