負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第17話 3敗目 加瀬視点 遮蔽

~3敗目~ 戦う前から負けている 小鞠知花の撤退戦

 

二次創作/視点:加瀬俊一

 

       Intermission 遮蔽

 

二次創作/視点:加瀬俊一

 

※合宿最終日の朝、青年の家の玄関ホール

 

 玄関ホールで、加瀬俊一は鍵盤を叩き続けていた。

 

 選曲に迷いはなかった。

 

 音量が一定していること。休符が少ないこと。旋律に耳を引く跳躍がないこと。

 

 この三つを満たす曲を、彼は頭の中の目録から即座に取り出した。

 

 美しいかどうかは今回の条件に入っていない。

 

——音楽を、遮蔽に使う。

 

 彼はそれを失礼なことだとは思っていない。ロンドンでもワシントンでも同じことをやっている。人が本当のことを話せるのは、誰にも聞かれていないと信じられる場所だけである。

 

 そういう場所を作るのが彼の職分だった。

 

「……相変わらずだな」

 

 階段の下に、松谷誠が立っていた。

 

 加瀬は手を止めずに答える。

 

「聞こえていますか」

 

「聞こえない。中の声は何も」

 

「では、成功です」

 

「そうだな」

 

「松谷さんは、何をしにおいでで」

 

「聞こえるかどうかを、確かめに来た」

 

「確かめて、どうなさいます」

 

「聞こえるなら、扉を閉めに行く」

 

「閉まっております」

 

「そうか」

 

 松谷はそれ以上、近づかなかった。

 

「昨夜のとは、違う曲だ」

 

 加瀬の指が、一瞬だけ乱れた。

 

「……よくお分かりで」

 

「音が違う」

 

「音楽は、お分かりにならないはずでは」

 

「分からん」

 

「では、なぜ」

 

「分からんが、違うことは分かる」

 

「それは、分かると申します」

 

「そうか」

 

「そういうものですか」

 

「そういうものだ」

 

 松谷は壁に背を預けて、腕を組んだ。

 

「昨夜のは、遅かった。今日のは速い」

 

「速度の話ですか」

 

「他に言い方を知らない」

 

 加瀬は小さく笑った。

 

「充分です」

 

       *

 

 廊下の角に、もう一人立っていた。

 

 高木惣吉である。バインダーを抱えて、集会室の扉から三メートルほどの位置にいる。

 

 近すぎず遠すぎない。中の声が聞こえず、誰かが出てくれば分かる距離である。

 

「高木先生」

 

 加瀬は手を止めずに呼んだ。

 

「加瀬君」

 

「そこは、聞こえますか」

 

「聞こえません」

 

「では、そちらも成功です」

 

 高木は答えなかった。

 

 答えずに、バインダーの用紙を一枚めくった。

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「あと何分もちますか」

 

「曲がですか」

 

「はい」

 

「六分ほどです。繰り返せば、いくらでも」

 

「では、六分で足りるようにしましょう」

 

 そう言って、高木は廊下の先へ目をやった。

 

 温水和彦が、点呼のバインダーを持たされて所在なげに立っている。

 

「あれは、何のためです」

 

「人が一人、あの部屋にいたほうがよい」

 

「なぜです」

 

「二人だけにすると、逃げ場がなくなります」

 

 加瀬の指が、わずかに軽くなった。

 

——なるほど。

 

 自分は音で囲った。

 

 この人は、人を一人置いた。

 

 囲い方が違う。

 

「先生」

 

「なんでしょう」

 

「あの少年に、何と説明を」

 

「点呼の記録だと」

 

「点呼する相手が、全員出ておりますが」

 

「気づいておりません」

 

「気づかせないのが、上手いのですね」

 

「……上手くはありません」

 

 高木はバインダーを持ち直した。

 

「三十年、それしかできませんでしたので」

 

       *

 

 集会室の方から、笑い声が一つ聞こえた。

 

 女性の声である。どちらのものかは分からない。

 

 加瀬は指を止めなかった。

 

 止めなかったが、そこから先、彼は曲を選ぶのをやめていた。

 

 音量も休符も跳躍も、もう数えていない。

 

 ただ、続きを弾いた。

 

 弾きながら、彼はごく短い時間だけ別のことを考えていた。

 

 夜、家に帰るとまず上着を脱いで、それから蓄音機に針を落とすのが習慣だった。かける盤をどちらにするかで、毎晩のように軽く言い争った。たいてい彼が譲った。

 

 譲ると、笑うからである。

 

 それだけの話だ。

 

 彼はその話を、この八十年後の世界で誰にもしていない。

 

       *

 

「加瀬」

 

 松谷の声がした。

 

「なんでしょう」

 

「もう終わったぞ」

 

「……ええ」

 

「弾き続けなくてもいい」

 

「……もう少し」

 

「なぜだ」

 

「切りが、悪いので」

 

「そうか」

 

 松谷はそれ以上、聞かなかった。

 

 三十秒ほどして、加瀬は言った。

 

「……終わりました」

 

 加瀬は最後の一節を弾き終えて、指を止めた。

 

 蓋を静かに下ろす。

 

 振り返ると、松谷はもう階段の方に歩き出していた。

 

「松谷さん」

 

「なんだ」

 

「昨夜のことは」

 

「聞いていない」

 

 即答だった。

 

「……助かります」

 

「加瀬」

 

「はい」

 

「その曲の名は」

 

「……お聞きになりますか」

 

「聞かない」

 

「聞かないのなら、なぜお尋ねに」

 

「名があるかどうかを、確かめた」

 

「ございます」

 

「そうか」

 

「それだけでよろしいので」

 

「俺は数字しか覚えられん」

 

 嘘である。

 

 この男が数字しか覚えられないなら、昨夜あの一行を親指で隠す必要はなかった。

 

 加瀬俊一はそれを知っていたが、言わなかった。

 

 言わないところがこの男の唯一の徳だと、松谷誠も思っているはずである。

 

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