負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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1巻1敗目幕間 四人組視点 二十七年

【松谷誠】

 

 土の匂いが、違う。

 

 俺は仰向けに倒れていた。背中の下は焼け跡ではなく、柔らかい草だった。青くて湿っていて、刈られたばかりの匂いがする。

 

 空が高い。

 

 九月の空にしては、高すぎた。

 

 遠くで、聞いたことのない音が鳴っている。低く、規則正しく、途切れずに。それは近づき、通り過ぎて遠ざかっていった。

 

 右手に加瀬さんの靴が見える。左手のずっと向こうに、高木少将の白い上衣。松平秘書官長は少し離れた木の下で、仰向けになったまま動かない。

 

 四人とも、生きている。それは分かった。

 

「……少将」

 

 声が出た。それも分かった。

 

 だが返ってきた自分の声が、俺の知っている声ではなかった。

 

 高い。薄い。喉の奥で、うまく重心が定まらない。

 

 俺は起き上がろうとして、両手を地面についた。

 

——手が、小さい。

 

 指が細く、皮膚が薄く、爪の形が違う。右手の甲にあった傷がない。二十八の年に馬に噛まれた跡だ。

 

 十七年そこにあった。

 

 ない。

 

 それから、顔を上げた。

 

——建物が、あった。

 

 鉄筋コンクリートの三階建て。窓が並び、その一つ一つにガラスが入っている。外壁は白い。

 

 煤は、ない。

 

 だが、形を覚えている。

 

 窓の割り付け。庇の出方。角の丸め方。

 

 三階の中央だけ、少し天井が高い。

 

 昨夜まで、俺はこの建物の壁を風よけにして、火を焚いていた。

 

「……」

 

 俺は立ち上がった。

 

 足元は芝生だった。刈られて、踏み固められて、白い線が引いてある。何かの競技の線らしい。

 

 その向こうに、木造の校舎が二棟。だが、そちらは知らない建物だ。新しい。

 

 振り返れば、建物。

 

 同じ場所にいる。

 

——移動していない。

 

「松谷さん」

 

 加瀬さんが起き上がっていた。

 

 少年の顔だった。目鼻立ちは間違いなく加瀬俊一のものだが、輪郭が違う。顎の線が細く、皮膚に張りがある。

 

 目の下の隈がない。

 

 その少年が、俺を見て、口を開いた。

 

「……鏡はお持ちですか」

 

「持っていません」

 

「では、しばらく知らずに済みますね」

 

 こんなときでも軽口を叩けるのが、この人の恐ろしいところだ。

 

 もっとも、その声も裏返っていた。

 

「加瀬さん」

 

「はい」

 

「あれを見てください」

 

 加瀬さんが振り向いた。

 

 しばらく、黙っていた。

 

「……昨日の」

 

「はい」

 

「窓が、入っていますね」

 

「入っています」

 

「掃除もしてある」

 

「してあります」

 

 加瀬さんは立ち上がると、上着の埃を払った。払う仕草だけが、いつも通りだった。

 

「では、我々は動いていないわけだ」

 

「そうなります」

 

「動いたのは、こちらではないと」

 

「はい」

 

「——なるほど」

 

 加瀬さんは、そこで一度だけ、深く息を吐いた。

 

       *

 

 鏡は、すぐに見つかった。

 

 建物の裏手に、水を張った古い手洗い場があった。俺たちはそこに顔を並べて覗きこんだ。

 

——四人とも、黙った。

 

 水面には、少年が二人と、若い男が二人いた。

 

 松平秘書官長の顔から、目尻の皺が消えていた。髪に白いものが一本もない。

 

 高木少将は、頬がこけていなかった。肌に血の色があった。あの人の顔に血の色があるのを、俺は初めて見た。

 

「……侯爵」

 

「はい」

 

「これは、何でしょうね」

 

「さあ」

 

 松平秘書官長は水面を覗きこんだまま、少しだけ首を傾げた。

 

「困りましたね。ゴルフの道具を失くしました」

 

「そこですか」

 

「大事な話です。あれがないと、行き先を聞かれる」

 

 この人は、こういう人だ。

 

 もっとも、そのあと侯爵は建物の周りを一周した。

 

 昨夜、車を停めた場所である。

 

 芝生が刈られていて、白い線が引いてあった。それだけだった。

 

「……ありませんね」

 

「ありませんね」

 

 俺は何と言っていいか分からなかった。

 

 あの車は、この人が戦前に取り寄せて十何年か乗り続けたものだ。学生を乗せ、日本中を走り、一昨日は箱根を三十一回の減速で降りた。

 

「秘書官長。申し訳ありません」

 

「なぜ君が謝るんです」

 

「場所を選んだのは、俺です」

 

「そうでしたね」

 

 侯爵は白い線の上をゆっくり歩いて、それから顔を上げた。

 

「——まあ、あれは丈夫な車です」

 

「はい」

 

「どこかで、誰かが乗っているかもしれない」

 

 その言い方があまりに軽かったので、俺はしばらく黙っていた。

 

 この人が本気でそう思っているのか、そう言うことにしたのかは、分からなかった。

 

 そのとき、高木少将が立ち上がった。

 

 立ち上がって、しばらく、じっとしていた。

 

「——少将?」

 

「……痛くない」

 

「は?」

 

「胃が」

 

 少将は上衣の上から腹のあたりに手を当てて、そのまま動かなかった。

 

 十三年だ。

 

 この人が胃を病んでから十三年になる。会議のたびに薬瓶を出して顔をしかめて、それでも一度も休まなかった。俺が知っている高木惣吉は、いつも痛みを堪えている人だった。

 

「肺も、鳴っていない」

 

「……」

 

「加瀬君。少し離れて煙草を吸ってみてください」

 

「無茶を言わないでください、ありませんよ」

 

 加瀬さんが上着を叩いた。落ちたときに散ったらしい。

 

「——ああ」

 

 珍しく、心底残念そうな声だった。

 

       *

 

 高木少将は、建物の前まで歩いていくと、壁に手を当てた。

 

「——松谷君」

 

「はい」

 

「昨夜、我々が火を焚いていたのは、この面ですか」

 

「北側です。ここです」

 

「煤は」

 

「ありません」

 

 少将は壁を撫でた。

 

 塗り直したのだろう。ざらついた白い塗装の下に、コンクリートの粗い肌がある。

 

「——残ったんですね、この建物は」

 

 少将はそれだけ言った。

 

 俺は返事をしなかった。

 

 昨夜、俺はこの建物を見ていずれ壊されるだろうと思った。占領軍が接収するか、取り壊すか、どちらかだと。

 

——壊されていない。

 

 窓にはガラスが入り、壁は塗り直され、芝生は刈ってある。

 

 誰かが、八十年、使い続けている。

 

「……少将」

 

「はい」

 

「ここは、いま何なんでしょうか」

 

 少将は答えなかった。

 

 代わりに、建物の入口のほうを指した。

 

 石の門柱が立っていて、そこに縦書きの札が掲げてある。

 

——愛知県立ツワブキ高等学校。

 

 学校だった。

 

「……学校ですか」

 

「そのようですね」

 

 加瀬さんが門柱の前まで来て、札を見上げた。

 

「予備士官学校が、高等学校に」

 

「そうなります」

 

「——生徒がいるわけだ」

 

 加瀬さんは、しばらくその札を見ていた。

 

 それから、いつもの調子で言った。

 

「悪くない使い道じゃないですか」

 

 誰も、返事をしなかった。

 

       *

 

 最初に現在の日付を確認したのは、松平秘書官長だった。

 

 門を出ると舗装された道があった。日曜の朝らしく、人通りはほとんどない。侯爵は迷いなく歩いていって、犬を連れた老人に声をかけた。

 

「失礼します。今日は何日でしょうか」

 

「四月の八日だけど」

 

「ありがとうございます。もう一つ、伺ってよろしいですか」

 

 侯爵はにこやかに続けた。

 

「——年号は、いま何とおっしゃいますか」

 

 老人が怪訝な顔をした。

 

「令和だよ」

 

「れいわ」

 

「あんた、大丈夫かい」

 

「失礼しました。少し、頭を打ったもので」

 

 侯爵は屈託なく笑うと、続けた。

 

「不勉強で恐れ入りますが、昭和というのは、いつまででしたでしょう」

 

「昭和? 六十四年までだね。そのあと平成が三十年ちょっと」

 

「平成」

 

「平成のあとが令和。いま何年だったかな……ええと」

 

 老人は指を折った。

 

 その数字を聞いても、松平秘書官長は表情を一つも変えなかった。

 

「なるほど。どうもありがとうございました」

 

 礼を言って、戻ってきた。

 

 俺たちの前まで来て、それから、こう言った。

 

「——昭和は、六十四年で終わったそうです」

 

「六十四」

 

「はい。二十年の八月から、あと四十四年続いた」

 

 誰も、何も言わなかった。

 

「そのあとが平成で、三十一年。いまは令和という年号で、そこからさらに数えるそうです」

 

 侯爵は指で数字を追うように、宙を軽く撫でた。

 

「足すと、八十年です。九月から四月ですから、正確には八十年と七か月ほどですね」

 

 沈黙が落ちた。

 

 加瀬さんが空を見上げた。

 

 高木少将は舗装道路を見ていた。表面が黒く、継ぎ目がなく、あんな道を俺たちは知らない。

 

 俺は——何を考えていたのか、いまでもよく思い出せない。

 

 ただ一つ、はっきり覚えていることがある。

 

 昭和が、あと四十四年続いた。

 

 八月十五日に、俺たちは年号ごと終わったつもりでいた。

 

 終わっていなかった。

 

——八十年、この国は続いたのか。

 

【松谷誠】

 

 その晩、俺たちは川沿いの橋の下にいた。

 

 行くところがなかった。金もない。着ているものは八十年前の背広と軍服で、これで人前に出れば、まず間違いなく警察に保護される。

 

 高木少将が、河原の石を並べて簡単な火を熾した。少将はこういうことが異様に得意だ。田舎の生まれだからだと本人は言う。

 

「では、状況を整理しましょう」

 

 少将が言った。

 

 その一言で、場の空気が変わった。

 

 俺たちは八年、この人の「では、整理しましょう」を合図に動いてきた。

 

「第一に、我々は八十年後にいる。第二に、四人とも生きている。第三に——」

 

 少将は言葉を切った。

 

「——若返っている。程度が問題です。松谷大佐、算定できますか」

 

「やります」

 

 俺は上衣の内ポケットを探った。

 

 手帳が入っていた。焦げてはいるが、鉛筆と一緒に無事だった。八十年を越えて残ったのがこの手帳一冊だというのは、いま思うと出来すぎている。

 

「——全員、身体に残っている痕を申告してください。時期の分かるものだけです」

 

「痕、ですか」

 

「傷、痣、手術跡、その他。それが何歳のときのものかが分かっていれば、上限と下限を絞れます」

 

 加瀬さんが噴き出した。

 

「松谷さん。こんなときまで表を作るんですか」

 

「作らないと分かりません」

 

「そりゃそうだ」

 

 俺は焚き火の明かりで、四人分の欄を引いた。

 

「では、俺から。右手の甲、二十八のときに馬に噛まれた跡——ない。左膝、十九のとき陸士の演習で縫った跡——ない。左の眉の上、十四のとき器械体操で切った跡——ある」

 

「よく覚えておいでですね」

 

「日付で覚えています。十四以上、十九未満」

 

「では私が」

 

 加瀬さんが袖をまくった。

 

「留学中の火傷が二十二のとき。これが、ない。左の手首、十七のとき。これも、ない」

 

「ほかには」

 

「奥歯が一本欠けています。十三のときに」

 

「どうやって」

 

「梅干しの種を噛みました」

 

「十三でですか」

 

「十三でです。歯というのは、あれで欠けるんですよ」

 

「ある、と」

 

「あります。いま舌で確かめました」

 

「十三以上、十七未満。高木少将」

 

「胃と肺はありません。三十九のときです」

 

 少将は即答した。

 

「フランスにいた三十二のときの額の傷——ない。兵学校の二十一のとき、左の肩に痣を作りました。これは、あります」

 

「二十一以上、三十二未満。秘書官長は」

 

「英国で落馬したのが三十四のときです」

 

 侯爵は袖をめくって、しばらく自分の腕を眺めた。

 

「……ありませんね」

 

「ほかには」

 

「京都の学校を出たときに作った眼鏡が、合いません」

 

「それは痕ではありません」

 

「そうですか」

 

「ほかには」

 

「十のときに、火鉢で手を焼きました。これは、あります」

 

「……十以上、三十四未満」

 

「幅が広すぎませんか」

 

 加瀬さんが覗きこんできた。

 

「ここからです」

 

 俺は次の行を引いた。

 

「各人の実年齢から、推定年齢の範囲を引きます。松谷、四十二から。十四以上十九未満だから、失われた年数は二十三年から二十八年」

 

「ふむ」

 

「加瀬さん、同じく四十二から。二十五年から二十九年」

 

「高木少将、五十二から。二十年から三十一年」

 

「松平秘書官長、五十二から。十八年から四十二年」

 

「侯爵の幅がひどい」

 

「痕が少ないんですよ」

 

 侯爵が悪びれずに言った。

 

「私は昔から、丈夫だけが取り柄でしてね」

 

「——問題は、ここです」

 

 俺は四つの範囲を線で結んだ。

 

 四本の線が重なる区間が、ひとつだけある。

 

「二十五年から二十八年。ここに全員が入ります」

 

「ほう」

 

「もし年数がばらばらなら、こうはなりません。四人が別々の年数だけ若返ったのなら、範囲が重ならない可能性のほうが高い」

 

 俺は鉛筆を置いた。

 

「重なった。したがって、四人とも同じ年数だけ若返ったと考えるのが妥当です」

 

「中央値は」

 

「二十六年半です。ただ、加瀬さんの下限が二十五年、俺の上限が二十八年。この二つが一番きつい。中を取って——二十七年とします」

 

 沈黙。

 

 高木少将が、火を見たまま言った。

 

「では、私は二十五歳ですか」

 

「そうなります」

 

「松谷君と加瀬君は十五歳」

 

「はい」

 

「……十五歳」

 

 加瀬さんが自分の手を眺めた。

 

「私、十五のときは何をしていたかな」

 

「中学でしょう」

 

「そうでした。ひどい成績でしてね」

 

 誰も笑わなかった。

 

 しばらくして、侯爵が口を開いた。

 

「松谷君。二十七という数字には、何か意味がありますか」

 

「ありません」

 

「八十年と、何か関係が」

 

「ありません。八十を三で割ると二十六・六七ですが、それだけです」

 

「では、意味はないということで」

 

 侯爵はあっさりと言った。

 

「意味を探すのは、あとにしましょう。いまは分かることだけ使えばいい」

 

——このやり方も、八年やってきたものだ。

 

 分からないことは分からないままにして、分かることだけで動く。分からないことを埋めようとしてこの国がどうなったかを、俺たちは全員見ている。

 

【Intermission】

 

 翌朝、松平康昌は起き上がると、上衣の内ポケットから懐中時計を出した。

 

 金側の、祖父の代からのものである。

 

「これを売りましょう」

 

「侯爵」

 

 加瀬俊一が眉をひそめた。

 

「それは」

 

「金は金ですよ。腹の足しにならないものを持っていても仕方がない」

 

 松平は蓋を開けて、少しだけ中を見た。

 

 それから、閉じた。

 

「加瀬君。あなたも何かありますか」

 

 加瀬は少し黙った。

 

 それから、左手を上げて見せた。指輪をしていた。少年の指には大きすぎて、根元まで下りきらずに止まっている。

 

「これは、駄目です」

 

「そうですか」

 

「駄目なんです」

 

「分かりました」

 

 松平はそれ以上何も言わなかった。

 

 加瀬はその日のうちに靴紐を抜いて指輪を通し、首から下げた。以後、彼はそれを一度も外していない。

 

 時計は、思っていたよりずっと高く売れた。

 

【松谷誠】

 

 四月の第三週、松平秘書官長と高木少将が東京へ行った。

 

 目的は、身分だ。

 

 この国は、紙で人を管理している。それは八十年前も同じだった。

 

 だが規模が違う。

 

「松谷さん。この国は、人一人に番号を一つ振っています」

 

「全員にですか」

 

「全員にです。生まれた日に振って、死ぬまで変わりません」

 

「よく行き渡りましたね」

 

「行き渡りすぎです。番号のない人間は、この国では存在しないことになる」

 

 加瀬さんは最初の三日で仕組みを大筋つかんだ。つかんだ結果として出した結論はこうだった。

 

「——これ、外から入るのは無理ですよ」

 

「無理ですか」

 

「無理です。ただ、中から入るなら別です」

 

 加瀬さんはそう言って、松平秘書官長を見た。

 

 侯爵は微笑んだまま、何も言わなかった。

 

 二人が発ったのが四月十六日。戻ってきたのが二十四日。八日かかった。

 

 その八日間、俺と加瀬さんは豊橋の街を歩いていた。

 

 地図を作るためだ。知らない土地に放りこまれたら、まず地図を作る。八十年ずれていようが、そこは変わらない。

 

——街は、全部新しかった。

 

 六月十九日に焼けた市街地の上に店が建ち、道路が引かれ、電車が走っている。俺たちが知っている建物は一つも残っていない。

 

 加瀬さんは歩きながら、ほとんど喋らなかった。

 

 珍しいことだった。

 

 六日目に、一度だけ口を開いた。

 

「松谷さん。この道には、昔は何がありましたか」

 

「分かりません」

 

「地図には」

 

「載っていません」

 

「そうですか」

 

「焼ける前のこの街の地図を、俺は持っていません。俺たちが持っていたのは、焼けたあとの表です」

 

「……表」

 

「戸数と、死者の数と、焼失面積です。道の名前は書いてありません」

 

 加瀬さんは、それきり黙った。

 

 次の角で、また歩き出した。

 

 八日目の夕方、二人が帰ってきた。

 

 松平秘書官長は、封筒を一つ持っていた。

 

「できました」

 

 中には、四人分の書類が入っていた。

 

 戸籍。住民の登録。それに紐づく番号。

 

 松谷誠、十五歳。加瀬俊一、十五歳。高木惣吉、二十五歳。

 

 松平康昌、二十五歳。

 

 名前は、そのままだった。

 

「——秘書官長。名前を変えないんですか」

 

「変える必要がありますか」

 

「調べられたら」

 

「調べる人がいませんよ」

 

 侯爵は穏やかに言った。

 

「同姓同名の人間は、いくらでもいます。それに——八十年経つと、名前というのは、ずいぶん軽くなるものですね」

 

 その言い方に、俺は何も返せなかった。

 

「どうやったんです」

 

 加瀬さんが聞いた。

 

「私が声をかけました」

 

「そうではなく」

 

「私が声をかけたんですよ、加瀬君」

 

 同じ言葉が返ってきた。声の調子まで同じだった。

 

 俺は、この応酬を八年間、数え切れないほど聞いている。

 

「侯爵。一つだけ」

 

「どうぞ」

 

「——まだ、あるんですか。あの筋が」

 

 松平秘書官長は、しばらく微笑んだままだった。

 

「形は、ずいぶん変わりました」

 

 それだけ言った。

 

「ですが、変わっていないところも、少しだけあります。私はそこに手紙を書きました。祖父の話を一つ、添えて」

 

「読んでもらえたんですか」

 

「読んでもらえました」

 

 侯爵は封筒をしまうと、いつもの顔に戻った。

 

「——加瀬君。これ以上は、聞かないでいただけますか」

 

「もちろんです」

 

 加瀬さんは即答した。

 

 この人は、聞かないでいることに関しては天才だ。

 

 あとで高木少将に聞いたところ、東京にいた八日のうち六日は待つだけだったという。侯爵は毎日同じ時刻に同じ場所へ行き、断られ、また翌日行った。

 

「——あの人は、待つのが仕事だった人です」

 

 少将はそう言った。

 

「宮中というのは、そういうところです」

 

【Intermission】

 

 四月の末、松平康昌と高木惣吉は、県立ツワブキ高等学校の応接室に並んで座っていた。

 

 応対したのは、事務長だった。名を城戸幸市という。

 

「先に一つ、申し上げておきます」

 

 城戸は書類を並べ直しながら言った。

 

「うちは県立です。教員を採るのは県であって、この学校ではありません」

 

「存じております」

 

「県の名簿に載っているお二人を、こちらから指名して呼びました。ここでの話は、県へ上げるための材料です。私に決められることは、何もない」

 

「承知しました」

 

 城戸幸市は、この前置きを面接のたびに言う。言われた相手はたいてい、少し肩を落とす。決定権のない人間と話しているのだと分かるからである。

 

 この二人は、落とさなかった。

 

「そのうえで伺います。経歴書、拝見しました」

 

 城戸はページをめくった。

 

「松平先生。京都の大学のご出身で、大学で教えていらした。専門は政治思想史」

 

「はい」

 

「二十五歳で、大学の教壇に立たれた?」

 

「立っておりました」

 

「……ずいぶん早いですね」

 

「若いうちは、無茶をするものです」

 

 松平は微笑んだ。

 

 城戸は数秒、その顔を見た。それから視線を書類に戻した。

 

「担当できる科目は」

 

「政治経済と、古典と、英語です」

 

「三科目」

 

「政治思想史が本業でしたので、政治経済は問題ありません。古典は祖父の蔵書で育ったもので、歌もいくらか詠みます。英語は、英国に四年おりました」

 

 城戸のペンが止まった。

 

 止まったのは、松平の答えのせいではなかった。

 

 履歴書の署名欄を、事務長は見ていた。

 

「……先生。これは」

 

「筆です」

 

「いや、それは見れば分かりますが」

 

「墨で書きました」

 

「なぜ」

 

「そのほうが、間違えませんので」

 

 城戸幸市は数秒、その字を見た。

 

「——採点も、これで?」

 

「そのつもりです」

 

「答案が、二百枚ありますが」

 

「では、二百枚書きます」

 

 事務長は何か言いかけて、やめた。

 

「——高木先生は」

 

「防衛大学校を出て、海上自衛隊におりました」

 

 高木惣吉は背筋を伸ばしたまま答えた。

 

「退職後、母校で非常勤の講義を持っておりました」

 

「担当は」

 

「数学と、倫理です」

 

「その組み合わせは珍しい」

 

「数学は職務で必要でした。倫理は——若いころ、京都の先生方の書いたものを、ずいぶん読みましたので」

 

「両方、教えられると」

 

「教えられます」

 

 城戸はペンを置いた。

 

 しばらく、二人を交互に見た。

 

「——正直に申し上げます」

 

「どうぞ」

 

「うちは、人が足りていません。国語も社会も数学も、講師で回している状況です。来年度は二人減ります」

 

「そうですか」

 

「その状況で、複数科目を持てる方が二人。しかも学歴が申し分ない」

 

 城戸は指を組んだ。

 

「うますぎる話には裏がある、というのが私の持論でしてね」

 

「よい持論だと思います」

 

 松平は表情を変えなかった。

 

「私も、そう思って生きてまいりました」

 

 沈黙が落ちた。

 

 先に目を逸らしたのは、城戸のほうだった。

 

「……松平先生については、専任の欠員に県へ上げます。通れば、一年C組の副担任もお願いしたい」

 

「承ります」

 

「通らないこともございます」

 

「では、そのときはそのときです」

 

 書類を揃えて持ってきた人間の返事ではなかった。

 

「ずいぶんあっさりしておられる」

 

「決めるのは県だと、先ほど伺いましたので」

 

 城戸のペンが、また止まった。

 

「……高木先生は」

 

「私は非常勤で結構です」

 

 高木が言った。

 

「週に十コマ程度で。それと、旧校舎の図書室に人がいないと伺いました」

 

「学校司書ですか。あれは県の枠が別で、いま埋まっておりません」

 

「兼ねられませんか」

 

「前例がありません。……調べてはみます」

 

「お願いします」

 

「正直に申し上げて、閑職ですよ」

 

「かまいません」

 

「なぜです」

 

 高木は少しだけ間を置いた。

 

「外に、用があります」

 

 城戸は眉を上げた。

 

「差し支えなければ」

 

「差し支えます」

 

 高木は静かに答えた。

 

「——ただ、この学校に迷惑はかけません。それは申し上げておきます」

 

 城戸幸市は、その日、二人を県へ上げると決めた。

 

 書類は連休前に通った。県の決裁が二週間で下りるのは異例だと、彼はあとで知る。

 

 前例がないはずの兼務も、同じ日に一緒に通っていた。

 

 あとで彼は、校長の鈴本貫一にこう報告している。

 

「妙な二人です。ですが、書類には何の不備もありません」

 

「そうか」

 

 半分眠ったような顔で、老校長は頷いた。

 

「——不備がないなら、いいじゃないか」

 

【松谷誠】

 

 五月の連休が明けた月曜日、俺と加瀬は、ツワブキ高等学校に転入した。

 

 県内でも上のほうの進学校だという。松平先生が勤めることになった学校に、保護者として届け出た二人の少年が通う。形としては筋が通っていた。

 

 もっとも、順序は逆だ。

 

 この学校でなければならなかったから、松平先生がここに勤め、俺たちがここに入った。

 

——理由は、四月の終わりに分かった。それは、いずれ書く。

 

「福井の縁者のつてで、遠縁の子を預かることになりました」

 

 それが表向きの説明だ。

 

 俺は金沢の生まれだが、旧福井藩士だった松谷家に養子に入っている。松平先生は越前松平家の人だ。血は繋がっていないが、家の筋でいえば同じ藩に行き着く。

 

 嘘はほとんど言っていない。辿られても、養子筋というのは案外辿りにくい。

 

 加瀬さんについては「その友人」で押し通した。

 

——もっとも。

 

 「福井の」と名乗るたびに、俺は少しだけ落ち着かない。

 

 俺が育ったのは金沢だ。福井の家に入ったのは、あとの話である。松平先生の前でその一言を口にするのが、八年経ってもまだ慣れない。

 

 先生はそれを知っていて、一度も指摘しない。

 

 転入初日、俺は一年C組の教壇の横に立たされた。

 

「はい、じゃあ自己紹介して」

 

 担任の甘夏という教師に促されて、俺は一歩前に出た。

 

 四十人の顔がこちらを向いている。

 

——口が、勝手に動いた。

 

「陸軍——」

 

 止めた。

 

 冷や汗が出た。八年、この形で名乗ってきた。身体が覚えている。

 

「……松谷誠です。よろしくお願いします」

 

 教室は静かだった。

 

 誰も、何も言わなかった。

 

 その日の放課後、俺の名前を覚えていた生徒は一人もいなかった。

 

——それでいい。

 

 名前が残らなくていいと言ったのは、俺だ。

 

       *

 

 夜、松平先生の家の食卓には、四人分の茶碗が並んだ。

 

 鰤の照り焼き。ほうれん草のおひたし。味噌汁。

 

 白米。

 

「侯爵、これ、どこで覚えたんです」

 

「本を見ました」

 

「本ですか」

 

「機械が全部やってくれるんですよ。この時代は、たいしたものです」

 

 高木少将が箸を止めて、茶碗を見ていた。

 

 白米だ。

 

 混ぜ物のない白い米だった。

 

「……少将」

 

「いえ」

 

 少将はそれだけ言って、少しだけ食べた。

 

 それから、上衣のポケットに手を入れた。

 

 薬瓶を出して、栓を抜いて、あおるように飲んだ。顔をしかめる。

 

「——痛むんですか」

 

「いえ」

 

「では、なぜ」

 

「習慣です」

 

 少将は瓶を戻した。

 

「痛くないことに、まだ慣れません」

 

 誰も何も言わなかった。

 

 加瀬さんが、首から下げた指輪を上着の上から押さえていた。

 

 俺は白米を食べた。

 

 美味かった。それだけは、はっきり分かった。

 

——八十年経った。

 

 俺たちが焼いた紙は、もうどこにもない。俺たちのことを知っている人間もたぶんいない。

 

 国は、続いた。

 

 道路は黒く、電車は速く、米は白い。

 

 俺たちが二年かけてやったことは、何ひとつ歴史に残らなかった。

 

 残らなくていいと言ったのは、俺だ。

 

——それなら、これから何をするのか。

 

 手帳を開いた。

 

 五月の欄は、白紙だった。

 

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