負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
【松谷誠】
土の匂いが、違う。
俺は仰向けに倒れていた。背中の下は焼け跡ではなく、柔らかい草だった。青くて湿っていて、刈られたばかりの匂いがする。
空が高い。
九月の空にしては、高すぎた。
遠くで、聞いたことのない音が鳴っている。低く、規則正しく、途切れずに。それは近づき、通り過ぎて遠ざかっていった。
右手に加瀬さんの靴が見える。左手のずっと向こうに、高木少将の白い上衣。松平秘書官長は少し離れた木の下で、仰向けになったまま動かない。
四人とも、生きている。それは分かった。
「……少将」
声が出た。それも分かった。
だが返ってきた自分の声が、俺の知っている声ではなかった。
高い。薄い。喉の奥で、うまく重心が定まらない。
俺は起き上がろうとして、両手を地面についた。
——手が、小さい。
指が細く、皮膚が薄く、爪の形が違う。右手の甲にあった傷がない。二十八の年に馬に噛まれた跡だ。
十七年そこにあった。
ない。
それから、顔を上げた。
——建物が、あった。
鉄筋コンクリートの三階建て。窓が並び、その一つ一つにガラスが入っている。外壁は白い。
煤は、ない。
だが、形を覚えている。
窓の割り付け。庇の出方。角の丸め方。
三階の中央だけ、少し天井が高い。
昨夜まで、俺はこの建物の壁を風よけにして、火を焚いていた。
「……」
俺は立ち上がった。
足元は芝生だった。刈られて、踏み固められて、白い線が引いてある。何かの競技の線らしい。
その向こうに、木造の校舎が二棟。だが、そちらは知らない建物だ。新しい。
振り返れば、建物。
同じ場所にいる。
——移動していない。
「松谷さん」
加瀬さんが起き上がっていた。
少年の顔だった。目鼻立ちは間違いなく加瀬俊一のものだが、輪郭が違う。顎の線が細く、皮膚に張りがある。
目の下の隈がない。
その少年が、俺を見て、口を開いた。
「……鏡はお持ちですか」
「持っていません」
「では、しばらく知らずに済みますね」
こんなときでも軽口を叩けるのが、この人の恐ろしいところだ。
もっとも、その声も裏返っていた。
「加瀬さん」
「はい」
「あれを見てください」
加瀬さんが振り向いた。
しばらく、黙っていた。
「……昨日の」
「はい」
「窓が、入っていますね」
「入っています」
「掃除もしてある」
「してあります」
加瀬さんは立ち上がると、上着の埃を払った。払う仕草だけが、いつも通りだった。
「では、我々は動いていないわけだ」
「そうなります」
「動いたのは、こちらではないと」
「はい」
「——なるほど」
加瀬さんは、そこで一度だけ、深く息を吐いた。
*
鏡は、すぐに見つかった。
建物の裏手に、水を張った古い手洗い場があった。俺たちはそこに顔を並べて覗きこんだ。
——四人とも、黙った。
水面には、少年が二人と、若い男が二人いた。
松平秘書官長の顔から、目尻の皺が消えていた。髪に白いものが一本もない。
高木少将は、頬がこけていなかった。肌に血の色があった。あの人の顔に血の色があるのを、俺は初めて見た。
「……侯爵」
「はい」
「これは、何でしょうね」
「さあ」
松平秘書官長は水面を覗きこんだまま、少しだけ首を傾げた。
「困りましたね。ゴルフの道具を失くしました」
「そこですか」
「大事な話です。あれがないと、行き先を聞かれる」
この人は、こういう人だ。
もっとも、そのあと侯爵は建物の周りを一周した。
昨夜、車を停めた場所である。
芝生が刈られていて、白い線が引いてあった。それだけだった。
「……ありませんね」
「ありませんね」
俺は何と言っていいか分からなかった。
あの車は、この人が戦前に取り寄せて十何年か乗り続けたものだ。学生を乗せ、日本中を走り、一昨日は箱根を三十一回の減速で降りた。
「秘書官長。申し訳ありません」
「なぜ君が謝るんです」
「場所を選んだのは、俺です」
「そうでしたね」
侯爵は白い線の上をゆっくり歩いて、それから顔を上げた。
「——まあ、あれは丈夫な車です」
「はい」
「どこかで、誰かが乗っているかもしれない」
その言い方があまりに軽かったので、俺はしばらく黙っていた。
この人が本気でそう思っているのか、そう言うことにしたのかは、分からなかった。
そのとき、高木少将が立ち上がった。
立ち上がって、しばらく、じっとしていた。
「——少将?」
「……痛くない」
「は?」
「胃が」
少将は上衣の上から腹のあたりに手を当てて、そのまま動かなかった。
十三年だ。
この人が胃を病んでから十三年になる。会議のたびに薬瓶を出して顔をしかめて、それでも一度も休まなかった。俺が知っている高木惣吉は、いつも痛みを堪えている人だった。
「肺も、鳴っていない」
「……」
「加瀬君。少し離れて煙草を吸ってみてください」
「無茶を言わないでください、ありませんよ」
加瀬さんが上着を叩いた。落ちたときに散ったらしい。
「——ああ」
珍しく、心底残念そうな声だった。
*
高木少将は、建物の前まで歩いていくと、壁に手を当てた。
「——松谷君」
「はい」
「昨夜、我々が火を焚いていたのは、この面ですか」
「北側です。ここです」
「煤は」
「ありません」
少将は壁を撫でた。
塗り直したのだろう。ざらついた白い塗装の下に、コンクリートの粗い肌がある。
「——残ったんですね、この建物は」
少将はそれだけ言った。
俺は返事をしなかった。
昨夜、俺はこの建物を見ていずれ壊されるだろうと思った。占領軍が接収するか、取り壊すか、どちらかだと。
——壊されていない。
窓にはガラスが入り、壁は塗り直され、芝生は刈ってある。
誰かが、八十年、使い続けている。
「……少将」
「はい」
「ここは、いま何なんでしょうか」
少将は答えなかった。
代わりに、建物の入口のほうを指した。
石の門柱が立っていて、そこに縦書きの札が掲げてある。
——愛知県立ツワブキ高等学校。
学校だった。
「……学校ですか」
「そのようですね」
加瀬さんが門柱の前まで来て、札を見上げた。
「予備士官学校が、高等学校に」
「そうなります」
「——生徒がいるわけだ」
加瀬さんは、しばらくその札を見ていた。
それから、いつもの調子で言った。
「悪くない使い道じゃないですか」
誰も、返事をしなかった。
*
最初に現在の日付を確認したのは、松平秘書官長だった。
門を出ると舗装された道があった。日曜の朝らしく、人通りはほとんどない。侯爵は迷いなく歩いていって、犬を連れた老人に声をかけた。
「失礼します。今日は何日でしょうか」
「四月の八日だけど」
「ありがとうございます。もう一つ、伺ってよろしいですか」
侯爵はにこやかに続けた。
「——年号は、いま何とおっしゃいますか」
老人が怪訝な顔をした。
「令和だよ」
「れいわ」
「あんた、大丈夫かい」
「失礼しました。少し、頭を打ったもので」
侯爵は屈託なく笑うと、続けた。
「不勉強で恐れ入りますが、昭和というのは、いつまででしたでしょう」
「昭和? 六十四年までだね。そのあと平成が三十年ちょっと」
「平成」
「平成のあとが令和。いま何年だったかな……ええと」
老人は指を折った。
その数字を聞いても、松平秘書官長は表情を一つも変えなかった。
「なるほど。どうもありがとうございました」
礼を言って、戻ってきた。
俺たちの前まで来て、それから、こう言った。
「——昭和は、六十四年で終わったそうです」
「六十四」
「はい。二十年の八月から、あと四十四年続いた」
誰も、何も言わなかった。
「そのあとが平成で、三十一年。いまは令和という年号で、そこからさらに数えるそうです」
侯爵は指で数字を追うように、宙を軽く撫でた。
「足すと、八十年です。九月から四月ですから、正確には八十年と七か月ほどですね」
沈黙が落ちた。
加瀬さんが空を見上げた。
高木少将は舗装道路を見ていた。表面が黒く、継ぎ目がなく、あんな道を俺たちは知らない。
俺は——何を考えていたのか、いまでもよく思い出せない。
ただ一つ、はっきり覚えていることがある。
昭和が、あと四十四年続いた。
八月十五日に、俺たちは年号ごと終わったつもりでいた。
終わっていなかった。
——八十年、この国は続いたのか。
【松谷誠】
その晩、俺たちは川沿いの橋の下にいた。
行くところがなかった。金もない。着ているものは八十年前の背広と軍服で、これで人前に出れば、まず間違いなく警察に保護される。
高木少将が、河原の石を並べて簡単な火を熾した。少将はこういうことが異様に得意だ。田舎の生まれだからだと本人は言う。
「では、状況を整理しましょう」
少将が言った。
その一言で、場の空気が変わった。
俺たちは八年、この人の「では、整理しましょう」を合図に動いてきた。
「第一に、我々は八十年後にいる。第二に、四人とも生きている。第三に——」
少将は言葉を切った。
「——若返っている。程度が問題です。松谷大佐、算定できますか」
「やります」
俺は上衣の内ポケットを探った。
手帳が入っていた。焦げてはいるが、鉛筆と一緒に無事だった。八十年を越えて残ったのがこの手帳一冊だというのは、いま思うと出来すぎている。
「——全員、身体に残っている痕を申告してください。時期の分かるものだけです」
「痕、ですか」
「傷、痣、手術跡、その他。それが何歳のときのものかが分かっていれば、上限と下限を絞れます」
加瀬さんが噴き出した。
「松谷さん。こんなときまで表を作るんですか」
「作らないと分かりません」
「そりゃそうだ」
俺は焚き火の明かりで、四人分の欄を引いた。
「では、俺から。右手の甲、二十八のときに馬に噛まれた跡——ない。左膝、十九のとき陸士の演習で縫った跡——ない。左の眉の上、十四のとき器械体操で切った跡——ある」
「よく覚えておいでですね」
「日付で覚えています。十四以上、十九未満」
「では私が」
加瀬さんが袖をまくった。
「留学中の火傷が二十二のとき。これが、ない。左の手首、十七のとき。これも、ない」
「ほかには」
「奥歯が一本欠けています。十三のときに」
「どうやって」
「梅干しの種を噛みました」
「十三でですか」
「十三でです。歯というのは、あれで欠けるんですよ」
「ある、と」
「あります。いま舌で確かめました」
「十三以上、十七未満。高木少将」
「胃と肺はありません。三十九のときです」
少将は即答した。
「フランスにいた三十二のときの額の傷——ない。兵学校の二十一のとき、左の肩に痣を作りました。これは、あります」
「二十一以上、三十二未満。秘書官長は」
「英国で落馬したのが三十四のときです」
侯爵は袖をめくって、しばらく自分の腕を眺めた。
「……ありませんね」
「ほかには」
「京都の学校を出たときに作った眼鏡が、合いません」
「それは痕ではありません」
「そうですか」
「ほかには」
「十のときに、火鉢で手を焼きました。これは、あります」
「……十以上、三十四未満」
「幅が広すぎませんか」
加瀬さんが覗きこんできた。
「ここからです」
俺は次の行を引いた。
「各人の実年齢から、推定年齢の範囲を引きます。松谷、四十二から。十四以上十九未満だから、失われた年数は二十三年から二十八年」
「ふむ」
「加瀬さん、同じく四十二から。二十五年から二十九年」
「高木少将、五十二から。二十年から三十一年」
「松平秘書官長、五十二から。十八年から四十二年」
「侯爵の幅がひどい」
「痕が少ないんですよ」
侯爵が悪びれずに言った。
「私は昔から、丈夫だけが取り柄でしてね」
「——問題は、ここです」
俺は四つの範囲を線で結んだ。
四本の線が重なる区間が、ひとつだけある。
「二十五年から二十八年。ここに全員が入ります」
「ほう」
「もし年数がばらばらなら、こうはなりません。四人が別々の年数だけ若返ったのなら、範囲が重ならない可能性のほうが高い」
俺は鉛筆を置いた。
「重なった。したがって、四人とも同じ年数だけ若返ったと考えるのが妥当です」
「中央値は」
「二十六年半です。ただ、加瀬さんの下限が二十五年、俺の上限が二十八年。この二つが一番きつい。中を取って——二十七年とします」
沈黙。
高木少将が、火を見たまま言った。
「では、私は二十五歳ですか」
「そうなります」
「松谷君と加瀬君は十五歳」
「はい」
「……十五歳」
加瀬さんが自分の手を眺めた。
「私、十五のときは何をしていたかな」
「中学でしょう」
「そうでした。ひどい成績でしてね」
誰も笑わなかった。
しばらくして、侯爵が口を開いた。
「松谷君。二十七という数字には、何か意味がありますか」
「ありません」
「八十年と、何か関係が」
「ありません。八十を三で割ると二十六・六七ですが、それだけです」
「では、意味はないということで」
侯爵はあっさりと言った。
「意味を探すのは、あとにしましょう。いまは分かることだけ使えばいい」
——このやり方も、八年やってきたものだ。
分からないことは分からないままにして、分かることだけで動く。分からないことを埋めようとしてこの国がどうなったかを、俺たちは全員見ている。
【Intermission】
翌朝、松平康昌は起き上がると、上衣の内ポケットから懐中時計を出した。
金側の、祖父の代からのものである。
「これを売りましょう」
「侯爵」
加瀬俊一が眉をひそめた。
「それは」
「金は金ですよ。腹の足しにならないものを持っていても仕方がない」
松平は蓋を開けて、少しだけ中を見た。
それから、閉じた。
「加瀬君。あなたも何かありますか」
加瀬は少し黙った。
それから、左手を上げて見せた。指輪をしていた。少年の指には大きすぎて、根元まで下りきらずに止まっている。
「これは、駄目です」
「そうですか」
「駄目なんです」
「分かりました」
松平はそれ以上何も言わなかった。
加瀬はその日のうちに靴紐を抜いて指輪を通し、首から下げた。以後、彼はそれを一度も外していない。
時計は、思っていたよりずっと高く売れた。
【松谷誠】
四月の第三週、松平秘書官長と高木少将が東京へ行った。
目的は、身分だ。
この国は、紙で人を管理している。それは八十年前も同じだった。
だが規模が違う。
「松谷さん。この国は、人一人に番号を一つ振っています」
「全員にですか」
「全員にです。生まれた日に振って、死ぬまで変わりません」
「よく行き渡りましたね」
「行き渡りすぎです。番号のない人間は、この国では存在しないことになる」
加瀬さんは最初の三日で仕組みを大筋つかんだ。つかんだ結果として出した結論はこうだった。
「——これ、外から入るのは無理ですよ」
「無理ですか」
「無理です。ただ、中から入るなら別です」
加瀬さんはそう言って、松平秘書官長を見た。
侯爵は微笑んだまま、何も言わなかった。
二人が発ったのが四月十六日。戻ってきたのが二十四日。八日かかった。
その八日間、俺と加瀬さんは豊橋の街を歩いていた。
地図を作るためだ。知らない土地に放りこまれたら、まず地図を作る。八十年ずれていようが、そこは変わらない。
——街は、全部新しかった。
六月十九日に焼けた市街地の上に店が建ち、道路が引かれ、電車が走っている。俺たちが知っている建物は一つも残っていない。
加瀬さんは歩きながら、ほとんど喋らなかった。
珍しいことだった。
六日目に、一度だけ口を開いた。
「松谷さん。この道には、昔は何がありましたか」
「分かりません」
「地図には」
「載っていません」
「そうですか」
「焼ける前のこの街の地図を、俺は持っていません。俺たちが持っていたのは、焼けたあとの表です」
「……表」
「戸数と、死者の数と、焼失面積です。道の名前は書いてありません」
加瀬さんは、それきり黙った。
次の角で、また歩き出した。
八日目の夕方、二人が帰ってきた。
松平秘書官長は、封筒を一つ持っていた。
「できました」
中には、四人分の書類が入っていた。
戸籍。住民の登録。それに紐づく番号。
松谷誠、十五歳。加瀬俊一、十五歳。高木惣吉、二十五歳。
松平康昌、二十五歳。
名前は、そのままだった。
「——秘書官長。名前を変えないんですか」
「変える必要がありますか」
「調べられたら」
「調べる人がいませんよ」
侯爵は穏やかに言った。
「同姓同名の人間は、いくらでもいます。それに——八十年経つと、名前というのは、ずいぶん軽くなるものですね」
その言い方に、俺は何も返せなかった。
「どうやったんです」
加瀬さんが聞いた。
「私が声をかけました」
「そうではなく」
「私が声をかけたんですよ、加瀬君」
同じ言葉が返ってきた。声の調子まで同じだった。
俺は、この応酬を八年間、数え切れないほど聞いている。
「侯爵。一つだけ」
「どうぞ」
「——まだ、あるんですか。あの筋が」
松平秘書官長は、しばらく微笑んだままだった。
「形は、ずいぶん変わりました」
それだけ言った。
「ですが、変わっていないところも、少しだけあります。私はそこに手紙を書きました。祖父の話を一つ、添えて」
「読んでもらえたんですか」
「読んでもらえました」
侯爵は封筒をしまうと、いつもの顔に戻った。
「——加瀬君。これ以上は、聞かないでいただけますか」
「もちろんです」
加瀬さんは即答した。
この人は、聞かないでいることに関しては天才だ。
あとで高木少将に聞いたところ、東京にいた八日のうち六日は待つだけだったという。侯爵は毎日同じ時刻に同じ場所へ行き、断られ、また翌日行った。
「——あの人は、待つのが仕事だった人です」
少将はそう言った。
「宮中というのは、そういうところです」
【Intermission】
四月の末、松平康昌と高木惣吉は、県立ツワブキ高等学校の応接室に並んで座っていた。
応対したのは、事務長だった。名を城戸幸市という。
「先に一つ、申し上げておきます」
城戸は書類を並べ直しながら言った。
「うちは県立です。教員を採るのは県であって、この学校ではありません」
「存じております」
「県の名簿に載っているお二人を、こちらから指名して呼びました。ここでの話は、県へ上げるための材料です。私に決められることは、何もない」
「承知しました」
城戸幸市は、この前置きを面接のたびに言う。言われた相手はたいてい、少し肩を落とす。決定権のない人間と話しているのだと分かるからである。
この二人は、落とさなかった。
「そのうえで伺います。経歴書、拝見しました」
城戸はページをめくった。
「松平先生。京都の大学のご出身で、大学で教えていらした。専門は政治思想史」
「はい」
「二十五歳で、大学の教壇に立たれた?」
「立っておりました」
「……ずいぶん早いですね」
「若いうちは、無茶をするものです」
松平は微笑んだ。
城戸は数秒、その顔を見た。それから視線を書類に戻した。
「担当できる科目は」
「政治経済と、古典と、英語です」
「三科目」
「政治思想史が本業でしたので、政治経済は問題ありません。古典は祖父の蔵書で育ったもので、歌もいくらか詠みます。英語は、英国に四年おりました」
城戸のペンが止まった。
止まったのは、松平の答えのせいではなかった。
履歴書の署名欄を、事務長は見ていた。
「……先生。これは」
「筆です」
「いや、それは見れば分かりますが」
「墨で書きました」
「なぜ」
「そのほうが、間違えませんので」
城戸幸市は数秒、その字を見た。
「——採点も、これで?」
「そのつもりです」
「答案が、二百枚ありますが」
「では、二百枚書きます」
事務長は何か言いかけて、やめた。
「——高木先生は」
「防衛大学校を出て、海上自衛隊におりました」
高木惣吉は背筋を伸ばしたまま答えた。
「退職後、母校で非常勤の講義を持っておりました」
「担当は」
「数学と、倫理です」
「その組み合わせは珍しい」
「数学は職務で必要でした。倫理は——若いころ、京都の先生方の書いたものを、ずいぶん読みましたので」
「両方、教えられると」
「教えられます」
城戸はペンを置いた。
しばらく、二人を交互に見た。
「——正直に申し上げます」
「どうぞ」
「うちは、人が足りていません。国語も社会も数学も、講師で回している状況です。来年度は二人減ります」
「そうですか」
「その状況で、複数科目を持てる方が二人。しかも学歴が申し分ない」
城戸は指を組んだ。
「うますぎる話には裏がある、というのが私の持論でしてね」
「よい持論だと思います」
松平は表情を変えなかった。
「私も、そう思って生きてまいりました」
沈黙が落ちた。
先に目を逸らしたのは、城戸のほうだった。
「……松平先生については、専任の欠員に県へ上げます。通れば、一年C組の副担任もお願いしたい」
「承ります」
「通らないこともございます」
「では、そのときはそのときです」
書類を揃えて持ってきた人間の返事ではなかった。
「ずいぶんあっさりしておられる」
「決めるのは県だと、先ほど伺いましたので」
城戸のペンが、また止まった。
「……高木先生は」
「私は非常勤で結構です」
高木が言った。
「週に十コマ程度で。それと、旧校舎の図書室に人がいないと伺いました」
「学校司書ですか。あれは県の枠が別で、いま埋まっておりません」
「兼ねられませんか」
「前例がありません。……調べてはみます」
「お願いします」
「正直に申し上げて、閑職ですよ」
「かまいません」
「なぜです」
高木は少しだけ間を置いた。
「外に、用があります」
城戸は眉を上げた。
「差し支えなければ」
「差し支えます」
高木は静かに答えた。
「——ただ、この学校に迷惑はかけません。それは申し上げておきます」
城戸幸市は、その日、二人を県へ上げると決めた。
書類は連休前に通った。県の決裁が二週間で下りるのは異例だと、彼はあとで知る。
前例がないはずの兼務も、同じ日に一緒に通っていた。
あとで彼は、校長の鈴本貫一にこう報告している。
「妙な二人です。ですが、書類には何の不備もありません」
「そうか」
半分眠ったような顔で、老校長は頷いた。
「——不備がないなら、いいじゃないか」
【松谷誠】
五月の連休が明けた月曜日、俺と加瀬は、ツワブキ高等学校に転入した。
県内でも上のほうの進学校だという。松平先生が勤めることになった学校に、保護者として届け出た二人の少年が通う。形としては筋が通っていた。
もっとも、順序は逆だ。
この学校でなければならなかったから、松平先生がここに勤め、俺たちがここに入った。
——理由は、四月の終わりに分かった。それは、いずれ書く。
「福井の縁者のつてで、遠縁の子を預かることになりました」
それが表向きの説明だ。
俺は金沢の生まれだが、旧福井藩士だった松谷家に養子に入っている。松平先生は越前松平家の人だ。血は繋がっていないが、家の筋でいえば同じ藩に行き着く。
嘘はほとんど言っていない。辿られても、養子筋というのは案外辿りにくい。
加瀬さんについては「その友人」で押し通した。
——もっとも。
「福井の」と名乗るたびに、俺は少しだけ落ち着かない。
俺が育ったのは金沢だ。福井の家に入ったのは、あとの話である。松平先生の前でその一言を口にするのが、八年経ってもまだ慣れない。
先生はそれを知っていて、一度も指摘しない。
転入初日、俺は一年C組の教壇の横に立たされた。
「はい、じゃあ自己紹介して」
担任の甘夏という教師に促されて、俺は一歩前に出た。
四十人の顔がこちらを向いている。
——口が、勝手に動いた。
「陸軍——」
止めた。
冷や汗が出た。八年、この形で名乗ってきた。身体が覚えている。
「……松谷誠です。よろしくお願いします」
教室は静かだった。
誰も、何も言わなかった。
その日の放課後、俺の名前を覚えていた生徒は一人もいなかった。
——それでいい。
名前が残らなくていいと言ったのは、俺だ。
*
夜、松平先生の家の食卓には、四人分の茶碗が並んだ。
鰤の照り焼き。ほうれん草のおひたし。味噌汁。
白米。
「侯爵、これ、どこで覚えたんです」
「本を見ました」
「本ですか」
「機械が全部やってくれるんですよ。この時代は、たいしたものです」
高木少将が箸を止めて、茶碗を見ていた。
白米だ。
混ぜ物のない白い米だった。
「……少将」
「いえ」
少将はそれだけ言って、少しだけ食べた。
それから、上衣のポケットに手を入れた。
薬瓶を出して、栓を抜いて、あおるように飲んだ。顔をしかめる。
「——痛むんですか」
「いえ」
「では、なぜ」
「習慣です」
少将は瓶を戻した。
「痛くないことに、まだ慣れません」
誰も何も言わなかった。
加瀬さんが、首から下げた指輪を上着の上から押さえていた。
俺は白米を食べた。
美味かった。それだけは、はっきり分かった。
——八十年経った。
俺たちが焼いた紙は、もうどこにもない。俺たちのことを知っている人間もたぶんいない。
国は、続いた。
道路は黒く、電車は速く、米は白い。
俺たちが二年かけてやったことは、何ひとつ歴史に残らなかった。
残らなくていいと言ったのは、俺だ。
——それなら、これから何をするのか。
手帳を開いた。
五月の欄は、白紙だった。