負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第18話 4敗目 松谷視点 二千八百六十七円

~4敗目~ 負けヒロインを覗く時、負けヒロインもまたあなたを覗いているのだ

 

二次創作/視点:松谷誠・加瀬俊一

 

       一

 

【松谷誠】

 

 合宿の翌日。月曜日の朝。

 

 教室というのは、俺にとって未だに解読できない部屋である。

 

 三十四名がいて、七つか八つの群に分かれ、群と群の間には目に見えない線がある。線の位置は毎週わずかに動く。

 

 誰が誰と話してよくて、誰が誰と話すと不自然なのか、その規則は誰にも明文化されていない。

 

 明文化されていない規則は、書き写せない。

 

 だから俺は席に座って、数えることにしている。

 

  〇八一二 焼塩檸檬、登校。挨拶に応答した者、十一名。

 

  〇八一四 同、温水の席へ。紙を一枚渡す。

 

  〇八一九 八奈見杏菜、教室内で笑う。同席者三名。

 

  〇八一九 八奈見、温水の方を見る。

 

  〇八一九 温水、視線を外す。

 

 最後の三行は、書いてから少し迷った。

 

 書く必要のない情報である。

 

 それでも書いたのは、この三つが一秒のあいだに起きたからだ。

 

 見る。外す。それだけのことに、一秒もかかっていない。

 

 こういう速さの動きを、人は普通「なにもなかった」と呼ぶ。

 

 俺の仕事は、なにもなかったと呼ばれるものを記録することだった。

 

       *

 

「なあ松谷、合宿どうだった?」

 

 前の席の男子が振り返ってくる。名前はまだ出てこない。

 

「行った」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「泊まった」

 

「それも聞いてない」

 

「……何を聞いている」

 

「楽しかったかって話」

 

「……楽しかった」

 

「なんで疑問形なんだよ」

 

 疑問形にしたつもりはない。断定するだけの根拠がなかっただけである。

 

 彼は笑って前を向いた。

 

 俺のことは、たぶん今日中にまた忘れられる。

 

 それでいい。

 

 俺はこの教室で、二か月かけて一つだけ確かめたことがある。

 

——誰も俺の話をしていない。

 

 噂というものが、この部屋には常に十いくつか流れている。誰が誰を好きだとか、誰が誰と別れたとか、誰の点数がどうだとか。

 

 その中に、俺の名前は一度も出てこない。

 

 これは、たいへんに都合がいい。

 

 八十年前、俺の仕事はまさにそのために存在した。名前が出ないこと。記録に残らないこと。

 

 誰にも興味を持たれないこと。それが成立の条件である。

 

       Intermission 朱

 

 三限のあと、加瀬俊一は事務室に寄った。

 

 合宿の精算である。領収書の束を、生徒会庶務として持ちこんだ。

 

 城戸幸市はそれを一枚ずつ繰って、途中で手を止めた。

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「これ、誰が書きました」

 

 差し出されたのは、集計の用紙である。合計欄の下に、朱でごく短く書きこみがあった。

 

  六名分 七月十五日 済

 

「松平先生です」

 

「……でしょうね」

 

 事務長はその一行をしばらく見ていた。

 

「困るんですよ、これ」

 

「不備がございましたか」

 

「ないです。一つもない。日付も人数も合っている」

 

「では」

 

「綺麗すぎるんです」

 

 城戸は用紙を裏返して、光にかざした。

 

「うちの様式は、朱を入れるのは検印を押した人間だけと決まってます。松平先生は検印を持ってない」

 

「では、越権ですね」

 

「越権です。注意しないといけない」

 

「なさいますか」

 

 事務長は、しばらく黙っていた。

 

「……できないんですよ、それが」

 

「なぜです」

 

「この一行がないと、こっちが県に出す書類が通らないんです。書いてあるから通る」

 

 彼は用紙を束に戻した。

 

「越権なんですけどね」

 

「ええ」

 

「越権なんですけど、助かってるんです」

 

「では、そう仰ればよろしい」

 

「言えますか、それ」

 

「言えます」

 

 加瀬はにこりと笑った。

 

「私は、そういうことを言うのが仕事でしたので」

 

「……君、一年生でしたよね」

 

「一年生です」

 

 事務長は疲れた顔をして、判を押した。

 

       Intermission 情報の値段

 

 昼休みの十五分前、生徒会室。

 

 加瀬俊一は、広報用の下書きを三本まとめ終えたところで、扉の向こうの話し声に手を止めた。

 

 聞くつもりはなかった。廊下の声は、扉一枚では止まらないというだけである。

 

 女子生徒が三人か四人。話題は、一年C組の女子と、その相手だという男子について。

 

 加瀬はペンを置き、椅子の背に体重を預けた。

 

——三日、というところですか。

 

 合宿から三日である。噂の立ち上がりとしては標準的な速さだ。

 

 新聞部にいると、こういうものが自然に耳に入る。意図的に集めたことはない。集めなくても来る。

 

 人は、話を聞いてくれそうな顔をした人間のところへ勝手に話を持ってくる。

 

 二十年、彼はその顔で暮らしてきた。

 

「……加瀬君、なにか用?」

 

 扉が開いて、女子生徒の一人が中を覗きこんだ。加瀬は笑って首を振る。

 

「いえ。書き物をしていただけです」

 

「聞こえてた?」

 

「なにがです」

 

「なんでもない」

 

 扉が閉まる。

 

 加瀬は椅子から立ち上がって、窓を開けた。

 

 風が入ってくる。

 

 昼前の風は、いつも一番いけない。

 

       *

 

 一九三〇年代の霞が関で、加瀬俊一についてどう言われていたかを、彼はほぼ正確に知っている。

 

 英語ができすぎる。西洋かぶれ。物腰が芝居がかっている。

 

 人当たりが良すぎて信用ならない。

 

 面と向かって言われたのは、生涯で二度だけである。

 

 残りの全部は、彼のいない部屋で言われた。彼のいない部屋で言われたことを、なぜか全部知っていた。誰かが必ず教えに来るからだ。

 

 教えに来る人間は、たいてい親切な顔をしている。

 

 否定したことはない。一度も。

 

 否定すると二倍になる。三十歳の頃にそれを学んで、以後は一度も試していない。

 

 彼はポケットから飴を出して、包み紙を剥いた。

 

 甘い。

 

 ただ甘いだけである。

 

       二

 

【松谷誠】

 

 昼休み。旧校舎の非常階段。

 

 三階の踊り場に着いたとき、八奈見はもう座っていた。

 

「おそい」

 

「五分前だ」

 

「五分前は遅刻」

 

「五分前行動と言い出したのは君だ」

 

「そうだっけ」

 

 このやりとりを、この二週間で十回ほどした。

 

 俺は手すりに近い方に座る。ここも誰かが決めたわけではない。三人で座ると自然にこうなった。

 

 明文化されない規則というのは、こうやってできるらしい。

 

 俺は最近、それが少し分かってきた。

 

       *

 

 俺の役目は査定である。

 

 理由は本人が言っている。自分で金額をつけると水増しするから、というのが八奈見杏菜の弁である。自白としては潔い。

 

  借用証書 第一号

 

  金額 金四,〇四五円也

 

  貸主 温水和彦 金二,〇二三円

 

     松谷誠  金二,〇二二円

 

  借主 八奈見杏菜

 

 俺が書いた紙である。罫線まで手で引いた。

 

 そして俺は、その紙を持っていない。

 

 端数の一円を温水が多く出した。だから温水が保管する。そう決めたのは俺である。

 

  「そういう決まりあるの?」

 

  「ない。いま決めた」

 

  「決めたんだ」

 

  「決めておかないと揉める」

 

 二週間前の自分の声である。

 

 現在の残高は二千八百六十七円。うち、俺の分がおよそ千四百三十円。

 

 その千四百三十円を証明する紙を、俺は一枚も持っていない。

 

 書いたのは俺だ。

 

 渡したのも俺だ。

 

       *

 

 一二三九。

 

 温水和彦が上がってきた。

 

  三分遅い。

 

 俺は最初にそう思った。

 

 次に気づいたのは、手が空だということである。

 

  一二三三 温水、自動販売機。牛乳を購入。

 

 俺は自分の目でそれを見ている。教室を出る前、廊下の販売機の前を通った。彼は牛乳を買っていた。

 

 いま、持っていない。

 

 飲み終えるには早すぎる。

 

「遅いよ、温水君」

 

「ごめん。ちょっと遠回りして」

 

「なんで」

 

「なんとなく」

 

 温水は自分の位置に座った。

 

 顔色が悪い。

 

 俺は手帳を出しかけて、やめた。

 

 この場で書くと、見られる。

 

       *

 

「いやいや、温水君。今朝のあれ、ひどくない?」

 

 八奈見が包みを解きながら言った。

 

「え、ひどいって。何が」

 

「私が合図したのに無視したでしょ」

 

「いや、ほら。俺と関わりがあるってクラスにばれるとマズいだろ」

 

「同じ部活じゃん。少しくらい絡んでも変じゃないでしょ」

 

「ごめんって。無視したわけじゃないから」

 

「なら、いーけど」

 

 八奈見は蓋を開けた。

 

 サンドイッチである。ハムとレタス。玉子。

 

 それと、緑の輪切りが挟まったもの。

 

「今日のお弁当はこちらになりまーす」

 

「これ、キュウリと……もろみ味噌?」

 

「もろきゅうサンド。斬新でしょ」

 

「斬新だな」

 

「でしょ」

 

「褒めてないだろ、それ」

 

「褒めてるって」

 

 俺は自分の分を一つ取った。

 

 一口食べる。

 

 パンがキュウリの水を吸っている。

 

「……水が出ている」

 

「松谷君は黙って」

 

「事実だ」

 

「事実は今いらないの」

 

「では、いつ要る」

 

「褒めたあと」

 

「順番があるのか」

 

「あるの」

 

 そういうものらしい。

 

 俺は口の中でパンを噛みながら、頭の中で計算を始めた。これは習慣である。食べながら計上する。

 

  食パン六枚切り一斤。ハム。レタス。鶏卵。キュウリ一本。もろみ味噌。

 

  三種類。二人分。マーガリンの使用なし。

 

  ——三百四十円。

 

 もろきゅうの分だけ、少し上乗せしてもいいと思った。

 

 冷凍のコロッケが入っていた日に八円を足したのと同じ理屈である。人がやらないことをやった場合、原価に乗らない何かが乗る。

 

  三百四十円。

 

 俺は口を開こうとした。

 

       *

 

「ねえ、味はどうかな?」

 

 八奈見が温水の方を向いた。

 

 温水は、しばらく手の中のサンドイッチを見ていた。

 

 それから言った。

 

「……二千八百六十七円」

 

 俺は口を開いたまま止まった。

 

「違っ!」

 

 八奈見が声を上げる。

 

「え、あ、いや。一瞬、最高記録更新かと思っちゃったけど」

 

 彼女は不思議そうに首をかしげた。

 

「それ、私の借金の残額じゃない?」

 

「そうだな」

 

 温水はうなずいた。

 

「これで完済だ」

 

       *

 

 俺は、その言葉を二度、頭の中で繰り返した。

 

 繰り返しても、意味が変わらなかった。

 

「あのさ。これ、普通のサンドイッチなんだけど」

 

 八奈見が弁当と温水の顔を見比べている。

 

 俺は口を開いた。

 

「温水」

 

「ん?」

 

「査定は俺の役目だ」

 

「……ああ、うん。そうだけど」

 

「三百四十円だ」

 

「え?」

 

「今日の弁当は三百四十円だ。それが正当な額だ」

 

 温水は少しだけ困った顔をした。

 

「まあ、そうかもしれないけど」

 

「かもしれない、ではない。三百四十円だ」

 

「松谷」

 

「二千八百六十七円という数字は、この弁当の対価ではない。残高だ。残高と対価を同じ数字にするのは、計上ではない」

 

 自分の声が硬いのが分かった。

 

「じゃあ、なんなんだよ」

 

「……取り消しだ」

 

 言ってから、俺は自分の言葉に驚いた。

 

 そうだ。これは査定ではない。債務の免除である。

 

 そして債務の免除は、債権者がそれぞれ自分の分についてのみ行える。

 

「温水。残高のうち、およそ千四百三十円は俺の分だ」

 

「あ」

 

「君が免除できるのは、君の分だけだ」

 

「……悪い。そこまで考えてなかった」

 

「証書は君が持っている」

 

「うん」

 

「俺は持っていない」

 

「……うん」

 

「持っていないので、俺には何もできない」

 

 俺は自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。

 

 言うべきことは、それではない。

 

 分かっている。分かっているのに、口から出てくるのが全部これだった。

 

       *

 

「あのさ」

 

 八奈見が、静かに言った。

 

「今、そういう話じゃないと思う」

 

「……そうか」

 

 俺は口を閉じた。

 

       *

 

「なんか俺」

 

 温水が言った。

 

「まるで八奈見さんの弱みに付け込んでるみたいでさ。こういうの良くないかなって」

 

 八奈見は答えない。

 

「弁当、美味しかったよ。いままでありがとう」

 

 俺は膝の上で手を組んだ。

 

 それから、組み直した。

 

——なにか言うべきだ。

 

 そう思った。思っただけで、何も出てこなかった。

 

 八奈見杏菜が、落ち着いた声で話し始める。

 

「最初は確かにお小遣いが足りなくて始めたんだけど。楽しかったこともあったし」

 

 もろきゅうサンドを一つ取って、一口かじる。

 

「そういう雑な終わりって、嫌かな。少し」

 

       *

 

「……俺と二人で昼飯食ってるって、噂になっちゃってるみたいでさ」

 

 二人。

 

 俺は反射的に、その言葉を頭の中で書いた。

 

  二人。

 

 この踊り場には、三人いる。二週間、三人で食べている。

 

 だが噂は二人しか数えていない。

 

——そうだろうな。

 

 俺は自分でも意外なほど、そのことを冷静に受け取っていた。

 

 俺はこの学校で誰にも数えられていない。二か月かけて確かめて、都合がいいと結論づけたことである。

 

 いま、それが役に立っていない。

 

 俺が数えられていないおかげで、この二人が二人きりだったことになっている。

 

  ——俺がいたと、誰も知らない。

 

 こういう形で不利益が出るとは、考えていなかった。

 

       *

 

「俺と変な風に思われると、八奈見さんも嫌だろ」

 

「あのさ、ちょっと話についていけなくて」

 

 八奈見が弁当の蓋を閉じた。

 

「なにか私、君を嫌な気持ちにさせた?」

 

 思いがけず大きな声だった。

 

 俺は肩が動くのを止められなかった。

 

「……違う、嫌なんかじゃない」

 

「ほんとかな」

 

「こんな噂が流れることが。俺が……嫌なんだ」

 

 温水は手元を見ている。

 

 八奈見は何も言わない。

 

 俺は、二人の間の空気が固まっていくのを、真横で見ていた。

 

 言うべきことがある気がした。

 

——ある。

 

  三人で食べていた。

 

  噂は間違っている。

 

  俺が証人になる。

 

  噂は三週間で消える。加瀬がそう言うなら、たぶん消える。

 

  それと、査定は三百四十円だ。まだ二千五百二十七円残っている。

 

 全部、頭の中にはあった。

 

 一つも出てこなかった。

 

 俺は二十年、人が話し合う部屋の外で待つ仕事をしてきた。中に入ったことがない。中で話す人間になったことが一度もない。

 

 いま、俺は中にいる。

 

 そして、何も言えない。

 

       *

 

「……分かった。うん、分かったよ」

 

 八奈見が立ち上がった。

 

「これからは話しかけないようにする」

 

「え」

 

「今までありがとう、割と楽しかったよ。じゃあね」

 

 弁当箱を温水の膝に押しつけて、階段を降りていく。

 

 俺は立ち上がった。

 

 立ち上がってから、何のために立ったのか分からなくなって、座った。

 

 もう一度立った。

 

「八奈見」

 

 出た声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

 彼女はもう踊り場を曲がっていた。

 

 聞こえたかどうかは分からない。

 

 振り返らなかった。

 

       *

 

 温水和彦は、弁当箱を膝に載せたまま動かない。

 

 俺は、その隣に立っていた。

 

 十秒ほどして、座った。

 

  一二五一 終了。

 

 書くべきだと思ったが、手帳を出さなかった。

 

 出す気になれなかった。

 

「……松谷」

 

「なんだ」

 

「証書、破っとく」

 

「待て」

 

「え?」

 

「……いや」

 

 俺は口をつぐんだ。

 

 破るなと言う根拠がない。あの紙は温水が保管すると俺が決めた。保管者には保管の権限がある。

 

 破棄も保管の一部である。

 

 書式としては、正しい。

 

「……いや、いい」

 

「そうか」

 

 温水は弁当箱を開けた。

 

 サンドイッチが綺麗に並んでいる。

 

 隅に、小さな赤いものが二つ入っていた。

 

「……プチトマト、二個だ」

 

 温水が言った。

 

「二個ある」

 

「そうだな」

 

「三個じゃないんだな」

 

 俺は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 彼女が今朝、何個入れるつもりで台所に立ったのかを、俺は知らない。

 

 知らないが、二個である。

 

  ——二人分だ。

 

 そう気づいてしまったことを、俺は言わなかった。

 

 言えば、たぶん、この男は今より悪くなる。

 

 一行だけ隠すというのは、こういうことなのかもしれない。

 

 三日前に覚えたばかりのやり方を、俺はこの日、二度目に使った。

 

       三

 

【松谷誠】

 

 放課後。

 

 温水は部室に来なかった。教室にも残っていない。

 

 俺は昇降口で待った。理由は自分でもよく分からない。

 

 十六時四十分、彼が出てきた。

 

「……松谷?」

 

「温水」

 

「なんだよ、こんなとこで」

 

「これを」

 

 俺は握り潰された牛乳のパックを差し出した。

 

 昼休みのあと、校舎の東の角で拾ったものである。片手で上から潰され、中身が三分の二ほど地面に染みていた。ストローは刺したままだった。

 

 温水の顔から表情が消えた。

 

「……なんで、それ」

 

「校舎裏に落ちていた」

 

「……あー」

 

 彼はそれを受け取って、しばらく手の中で見ていた。

 

「悪い。捨てるつもりで投げて、外した」

 

 嘘である。

 

 ゴミ箱まで四十メートル以上ある。外れる距離ではない。

 

 だが俺はそれを指摘しなかった。

 

「捨てるなら、ちゃんと捨てろ」

 

「……はい」

 

「拾ったのは俺だ」

 

「悪い」

 

「謝る相手が違う」

 

「……誰だよ」

 

「掃除当番だ」

 

「そこかよ」

 

 素直にうなずくところが、この男の妙なところである。

 

       *

 

「なあ松谷」

 

「なんだ」

 

「昼、悪かったな。お前の分まで勝手に」

 

「金の話ではない」

 

「じゃあなんの話だよ」

 

 俺は少し考えた。

 

 考えて、ようやく、昼に言えなかったことが出てきた。

 

「温水」

 

「うん」

 

「八奈見は、なんと言った」

 

「え」

 

「やめると決める前だ。君は八奈見に、なんと聞いた」

 

 温水が黙った。

 

 長い沈黙だった。

 

「……聞いてない」

 

「そうか」

 

「聞いたら、止められると思ったから」

 

「そうか」

 

 俺はそれ以上、何も言わなかった。

 

 言う資格がなかったからである。

 

       *

 

「松谷は、怒ってるのか」

 

「怒っていない」

 

「怒ってるだろ」

 

「……怒っていない」

 

 本当に怒っていなかった。

 

 怒りではない。

 

 もっと悪い感じのするものだった。

 

 温水は牛乳パックをカバンの外ポケットに突っこんで、帰っていった。

 

 俺は昇降口の柱に手をついた。

 

 なぜ息が浅くなっているのか、自分でも分からなかった。

 

       Intermission 三週間

 

 夕方の渡り廊下で、加瀬俊一は松谷誠に捕まった。

 

 正確には、松谷の方が先に立っていた。加瀬が通ることを知っていて、そこに立っていた。

 

 この男はそういうことをする。

 

「なんです」

 

「噂の話だ」

 

「ああ。一年C組の。ご存じでしたか」

 

「今日、当事者になった」

 

「……は?」

 

「二週間、三人で昼を食べていた。噂は二人しか数えていない」

 

 加瀬は数秒、言葉を探した。

 

「……それは」

 

「言うな」

 

「言いません」

 

「消せるか」

 

「無理です」

 

 即答だった。

 

「否定して回れば二倍になります。三倍かもしれません。否定する人間が出るということは、否定する価値があるということですから」

 

「では、どうする」

 

「放っておきます。三週間ほどで次の噂が来ますので」

 

「三週間」

 

「経験則ですが、外したことはありません」

 

 松谷はしばらく黙った。

 

 そして、こう言った。

 

「三週間、耐えられない人間もいる」

 

「……松谷さん」

 

「なんだ」

 

「それは、誰の話です」

 

「知らん」

 

「即答でしたね」

 

「知らんものは知らん」

 

 加瀬は答えなかった。

 

 答えられなかった、と言った方が正確である。

 

 彼は三十歳の頃に耐える方法を身につけた。身につけられなかった同期が何人いたかは、数えたことがない。

 

「……ええ」

 

 それだけ言った。

 

       *

 

「加瀬」

 

「はい」

 

「今日、俺はあの場にいた」

 

「はい」

 

「二人が話しているところに、いた。外ではなく、中にいた」

 

 松谷の声は、いつもと同じ調子だった。

 

 同じ調子だから、加瀬には分かった。

 

「それで、何も言えなかった」

 

「……」

 

「立ち上がって、座って、また立った。名前を呼んだが、小さすぎて届かなかった」

 

 松谷は手すりに手を置いた。

 

「二十年、部屋の外で待っていた。中に入ったことがなかった」

 

 加瀬俊一は、その横顔をしばらく見ていた。

 

 そして、こう言った。

 

「私は、中にいたことがあります」

 

「……ああ」

 

「一九四五年の九月二日です」

 

 松谷の肩が、わずかに動いた。

 

「東京湾に浮かんでいた、アメリカの戦艦の甲板でした。降伏文書の調印式です。私は日本側の随員として、あの艦の上に立っておりました」

 

 夕方の風が、渡り廊下を抜けていった。

 

「新聞記者が何十人もいて、水兵が甲板じゅうの手すりに鈴なりになっていて、頭の上を飛行機が延々と飛んでいました。世界中があの場所を見ていた」

 

 加瀬は手すりに肘を乗せたまま、淡々と続けた。

 

「あれより内側の場所は、たぶんこの世に存在しません。戦争が終わる瞬間の、いちばん真ん中です」

 

「……ああ」

 

「そこで私は、一言も発していません」

 

 松谷は何も言わなかった。

 

「随員に発言はありませんので。立って、見て、覚えて、あとで書く。それだけです」

 

 加瀬は西日に目を細めた。

 

「立っているあいだ、言いたいことが三つほどありました」

 

「言わなかったのか」

 

「言いませんでした。言う資格がなかったので」

 

 そこで彼は、初めて少しだけ笑った。

 

「ですから松谷さん。中にいるかどうかは、思ったほど関係がないのです」

 

「……そんなものか」

 

「そんなものです」

 

「加瀬」

 

「はい」

 

「言いたかった三つとは、なんだ」

 

「忘れました」

 

「嘘だ」

 

「嘘です」

 

「言わないのか」

 

「言いません」

 

「そうか」

 

 松谷はそれきり、何も聞かなかった。

 

 聞かないところが、この男の唯一の徳である。

 

       四

 

【松谷誠】

 

 夜。松平の家。

 

 四人が揃って話せる場所は、この学校に存在しない。校内で顔を合わせれば、俺と加瀬は他人であり、高木先生は非常勤であり、松平先生は保護者である。

 

 だから夜に、ここに集まる。

 

 一九四五年と同じ形式だ。あのときも、四つの役所の人間が一つの部屋に入れる場所は限られていた。

 

「今日は静かですね」

 

 松平先生が茶を注ぎながら言った。

 

「なにかありましたか」

 

「別に」

 

「そうですか」

 

 高木先生は本を開いたまま、こちらを見ない。

 

 俺はしばらく黙っていたが、結局、口を開いた。

 

「……仮の話をする」

 

「どうぞ」

 

「ある人間が、別のある人間のために、関係を絶つと決めた」

 

「ほう」

 

「理由は、自分といると相手の評判が下がるからだ。これは事実として正しい。下がっている」

 

「それで」

 

「決めるにあたって、相手には一度も聞いていない」

 

 松平先生が湯呑みを置いた。

 

 高木先生が、初めて本から目を上げた。

 

「聞けば、相手は止めるだろう。止められると決められない。だから聞かずに決めた」

 

 俺は続けた。

 

「動機は善意だ。判断も、たぶん間違っていない。当人にとっては最善の——」

 

 そこで、俺は止まった。

 

 止まってから、なぜ止まったのかに気づいた。

 

 自分の声が、聞き覚えのある文章を読み上げていたからである。

 

 一九四五年九月二十四日。俺は四つの役所から集められる限りの紙を集めて焼いた。

 

 理由は、名前を貸してくれた人たちを守るためだ。これは事実として正しい。守った。

 

 焼くにあたって、彼らには一度も聞いていない。

 

 聞けば、残せと言う者がいただろう。残せと言われると焼けない。だから聞かずに焼いた。

 

 動機は善意だった。判断も、たぶん間違っていない。

 

       *

 

 部屋が静かだった。

 

 高木先生が、静かに本を閉じた。

 

「松谷君」

 

「……はい」

 

「その仮の話には、続きがありますか」

 

「……ありません」

 

「では、一つだけ」

 

 先生は湯呑みに手を伸ばした。

 

「聞かずに決めた人間は、そのあと、相手がどうなったかを知る機会がありません」

 

「……なぜです」

 

「聞いていないからです」

 

「聞けば、分かりますか」

 

「分かります。ですが、聞ける時期は過ぎております」

 

「……いつまででした」

 

「決める前です」

 

 先生は湯呑みを持ち直した。

 

「知る機会を、自分で捨てているからです」

 

 それだけ言って、先生は茶を飲んだ。

 

 説教ではなかった。感想ですらなかった。

 

 事実を一つ言われただけである。

 

 だから、いちばん効いた。

 

       *

 

「それと、松谷君」

 

「はい」

 

「あなたは今日、その場にいたのですね」

 

 俺は答えなかった。

 

「いたのに、何も言えなかった」

 

「……はい」

 

 高木先生はうなずいた。

 

「私は、そういう場に六年いました」

 

 先生は淡々と言った。

 

「言えることは全部、紙に書いて出しました。読まれたかどうかは分かりません。読んだ人が動いたかどうかも分かりません」

 

「……」

 

「口では、一度も言っていません」

 

「……なぜです」

 

「言えば、角が立ちますので」

 

「紙なら立たないのですか」

 

「立ちます。ですが、紙は誰が読んだか分かりません」

 

 先生は本の背を撫でた。

 

「読んだ人が動かなくても、読まなかったことにできる」

 

「……逃げ道ですね」

 

「逃げ道です」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「あなたよりは、私の方がひどい」

 

       *

 

 松平先生が、思い出したように言った。

 

「そういえば松谷さん。庭の柿が、今年は多いのです」

 

「……はい」

 

「多すぎるので、いくつか落とそうかと思いまして」

 

「落とすのですか」

 

「全部残すと、枝が折れます。全部落とすと、実がなりません」

 

 侯爵は湯呑みを両手で包んで、実に穏やかに笑った。

 

「どれを落とすかは、こちらで決めるしかない。柿には聞けませんのでね」

 

「……」

 

「ただ、聞ける相手には、聞いた方が早い。それだけの話です」

 

「……先生」

 

「はい」

 

「柿は、いくつ落とされますか」

 

「まだ決めておりません」

 

「決め方は」

 

「見て決めます」

 

「基準はないのですか」

 

「ございません」

 

「……よろしいのですか、それで」

 

「よろしくはありません」

 

 侯爵は湯呑みを置いた。

 

「ですが、基準を先に作ると、見なくなります」

 

 俺は返事をしなかった。

 

 松平康昌という人は、いつもこうである。

 

 説教は一度もしない。ただ、こちらが自分で気づくまで、庭の話をし続ける。

 

       *

 

 自分の部屋に戻ってから、俺は大学ノートを一枚破った。

 

 定規で罫を引く。二週間前と同じ手順である。

 

 そして書いた。

 

  七月十七日 サンドイッチ三種 二人分

 

        もろみ味噌の使用による加算を含む

 

        三百四十円

 

 査定である。

 

 誰にも求められていない。求めた相手はもういないし、証書もない。この紙には何の効力もない。

 

 俺はその下に、もう一行書いた。

 

  残高 二千五百二十七円

 

 書いてから、しばらく見ていた。

 

 それから、その上に線を引いた。

 

  完済

 

 そう書き足した。

 

 俺の分の千四百三十円は、俺が免除する。俺にはその権限がある。

 

 権限があると分かったのは、たったいまである。

 

——最初から、そう言えばよかった。

 

 昼にそう言っていれば、少なくとも、俺は自分の意思で終わらせたことになった。

 

 俺は紙を折りたたんで、引き出しに入れた。

 

 破らなかった。

 

       五

 

【松谷誠】

 

 翌日。火曜日。

 

  一二三〇 八奈見、教室を出る。

 

 俺は時計を見た。

 

 一二三一。

 

 一二三二。

 

 一二三三。

 

 一二三四。

 

 温水和彦は、席から動かなかった。

 

 机に伏せて、そのままだった。

 

 一二三五。

 

 俺も、動かなかった。

 

  一二三四 該当なし。

 

  一二三五 該当なし。

 

 俺は手帳にそう書いた。

 

 書いてから、少し考えて、線を引いて消した。

 

 該当なしという書き方は、正しくない。

 

 起きなかったのではない。起こさなかったのだ。

 

  一二三四 温水、動かず。

 

  一二三五 俺、動かず。

 

 書き直した。

 

 こちらの方が正確である。

 

       *

 

 昼休みが終わるまで、俺は自分の席から動かなかった。

 

 行こうと思えば行けた。

 

 三階の踊り場は、俺が最初に行った場所ではない。八奈見杏菜が秘密基地と呼んでいた場所である。

 

 だが二週間、俺はそこに座っていた。座る位置まで決まっていた。誰が決めたわけでもなく、三人で座ると自然にそうなる。

 

 明文化されない規則というのは、こうやってできる。

 

 そして、こうやって消える。

 

       *

 

  一三二〇 温水、五限に出席。

 

  一六四〇 部室。八奈見、来ず。

 

  一六五五 温水、来ず。

 

 三行書いて、俺は手帳を閉じた。

 

 窓の外はまだ明るい。夏の日は長い。

 

——三週間。

 

 加瀬はそう言った。三週間で次の噂が来て、この話は消えると。

 

 たぶん当たっているのだろう。あの男はこの種のことを外さない。

 

 だが三週間というのは、七月の高校生にとって、どのくらいの長さなのだろうか。

 

 俺には見当がつかない。

 

 八十年前、俺は二年待った。二年の見当はつく。長かった。

 

 三週間は、その二十四分の一である。

 

  二十四分の一。

 

 そう書いてから、俺はその行を破って捨てた。

 

 比べ物にならない。

 

 比べ物にならないほど、あちらの方が軽い。

 

——だが、手順は同じだ。

 

 聞かずに決めた。相手のためだと信じて。

 

 そして今日、あの男は昼飯を食べていない。

 

 俺もだ。

 

 

 

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