負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第19話 1巻4敗目 四人組視点 和平会議

 

【松谷誠】

 

「――招集をかけたのは俺です。議題があります」

 

火曜の夜。松平の家の居間。

 

床の間に掛け軸が二本かかっている。一本は「和」の一字。もう一本は三行あって、俺は最後の一行だけを覚えている。

 

  水流任急境常静

 

水の流れがどれほど急でも、その場は常に静かである。

 

一度だけ、意味を尋ねたことがある。

 

「祖父の代からの掛け軸です」

 

答えになっていない。それ以上は聞かなかった。

 

その下で、水槽がぷつぷつと泡を吐いている。

 

高木少将が本を閉じた。加瀬が姿勢を直した。侯爵が急須を置いた。

 

「議題は、一年C組の温水和彦と八奈見杏菜、両名の関係断絶についてです」

 

ぶっ、と加瀬が茶を吹いた。

 

「……松谷さん。いま、なんと」

 

「両名の関係断絶についてです」

 

「議題として?」

 

「議題としてです」

 

加瀬が口元を押さえる。肩がぷるぷると震えている。

 

「加瀬。笑うなら退席しろ」

 

「いえ、失礼。ぜひ続けてください」

 

この男は、笑うところと笑わないところの基準が出仕の年から一貫している。人が真面目にやっていることほど笑う。真面目でないものには一切笑わない。

 

外務省でこの男が笑ったという話を、俺は二度しか聞いたことがない。二度とも、笑われた側があとで出世している。

 

「手順は従来通りでいきます。第一に現状、第二に条件、第三に経路、第四に時機」

 

すっ、と居間の空気が変わった。

 

加瀬の背筋が伸びる。高木少将が老眼鏡を掛け直す。侯爵が湯呑みを置く。

 

四人とも、この四項目を暗記している。一九四五年の一月から八月まで、俺たちはこの順番でしか物を考えなかった。

 

四月にこの時代へ落ちてから、俺たちは意識してばらばらに動いている。校内では他人であり、夜もたいてい別々の部屋にいる。四人が同じ卓につくのは、何かを決めるときだけだ。

 

そして落ちてから今日まで、俺たちは一度も声を荒らげたことがない。四人とも荒らげ方を知らないからである。声を張る者は、たいてい二度目に呼ばれない。

 

だから、この家の議論はいつも静かだ。

 

静かなまま、たまに、とんでもないことが決まる。

 

---

 

Intermission 同じ順番で

 

「では、第一の現状から」

 

高木惣吉が口を開いた。この男は現状分析を任されると声が低くなる。海軍省の会議室でもそうだったし、いまも同じである。

 

低くなるだけではない。この人は現状を述べるとき、絶対に形容詞を使わない。ひどいとも、まずいとも、手遅れだとも言わない。

 

一九四四年の秋にこの人が海軍省で回した紙を、俺は一度だけ見せてもらったことがある。日本の船が沈む速さと造る速さが並べてあるだけの紙だった。結論は書いていない。書く必要がなかったからである。

 

「両名は、二週間にわたり毎日昼食を共にしていました。名目は貸借の返済です。実態としては、双方に利益のある慣行が成立していた」

 

「はい」

 

「月曜、借主側の債務を貸主側が一方的に免除し、慣行は終了。以後、両名の接触は断絶しています」

 

こと、と高木が湯呑みを置いた。

 

「重要なのは、免除の動機です。松谷君、あなたの報告では」

 

「相手を守るためだと言っていました」

 

「つまり、相手方の不利益を回避するための、一方的措置ですね」

 

「そうなります」

 

「では、第一の結論を出します。――両名とも、現状を望んでいません」

 

「根拠は」

 

「温水君は八奈見さんを見ています。松谷君の記録では、月曜以降、視線の滞留時間が伸びている。以前は一秒で外していたものが、三秒に延びた」

 

「はい」

 

「八奈見さんは昨日、部誌の当番を小鞠さんに代わってもらっています。文芸部の部室に行きたくない理由があるということです」

 

「行きたくないなら、行かないのでは」

 

加瀬が口を挟む。高木は淡々と返した。

 

「行きたくない場所を避けるのに、人は理由を用意しません。理由を用意するのは、行きたい場所を避けるときです」

 

加瀬が黙った。

 

俺はノートに書き取った。

 

  行きたくない場所を避けるのに、人は理由を用意しない。

 

二十年、俺は人が理由を用意する場面を数え切れないほど見てきた。書類には必ず理由の欄がある。その欄に本当のことが書かれていたのを、俺は数えるほどしか知らない。

 

「以上より、双方に継戦の意思はありません」

 

「では、なぜ終わらないのですか」

 

「双方とも、自分から言い出せないからです」

 

「……」

 

「どちらも、先に言った方が負けだと思っている。正確には、負けたくないのではなく、相手に負担をかけたくない。自分が折れたと知られると、相手が申し訳なく思う。だから動けない」

 

高木惣吉が、そこで初めてこちらを見た。岩窟の前に立たされたような目である。

 

「――この構図に、心当たりはありますか」

 

---

 

答えたのは、加瀬だった。

 

「一九四五年の、六月から八月です」

 

「その通りです」

 

「松谷さん。あの二か月、戦争を続けたいと本気で思っていた人間が、どれだけいたと思いますか」

 

「……多くはない」

 

「ほとんどいませんでした。こちらは船も油もない。それは軍の中で計算が出ていて、少将が紙に書いて回しておられた」

 

高木が黙ってうなずく。

 

「向こうもです。本土へ上陸すれば、自国の兵が何十万人死ぬという見積もりを持っていた。誰も上陸したくなかった」

 

加瀬は湯呑みを両手で包んだ。

 

「双方とも、やめたかったのです。やめたいと、どちらも言い出せなかった」

 

「なぜだ」

 

「先に言った方が、負けたことになるからです」

 

「……」

 

「向こうは、こちらが降参を口にするまで待った。こちらは、向こうから条件が出るまで待った。両方が相手の一手を待っている状態が、二か月続きました」

 

「その二か月に、何があった」

 

「……この街が、焼けました」

 

六月十九日の夜である。

 

俺たちが焚き火をした校庭のまわりは、あのとき一面の焼け跡だった。木造の兵舎は全部炭になっていた。

 

死者は数字で知っている。何度も見た数字だ。だが俺は、その数字を出した会議に一度も出ていない。俺の仕事は、出た数字を別の部屋へ運ぶことだった。

 

運んでいるあいだに、日が変わる。日が変わるあいだに、街が一つ燃える。

 

――待っていたのだ。双方が、相手の一手を。

 

「誤解のないように言っておきます」

 

高木少将の声が、いっそう低くなった。

 

「はい」

 

「私はいま、比べていません。あの二か月と、高校生の昼食会を、同じだと言うつもりは一切ありません」

 

「……はい」

 

「重さは、比べ物になりません。あちらの方が、比べ物にならないほど重い」

 

少将は湯呑みを置いた。

 

「私が言っているのは、形が同じだということだけです。双方に意思がなく、双方が先に動けず、時間だけが過ぎる。この形は、規模と関係なく成立します」

 

そして、ほとんど独り言のように付け加えた。

 

「形が同じなら、詰まる場所も同じです」

 

---

 

「第二の条件に移ります」

 

俺はノートに書きこんだ。

 

「双方が受け入れられる最低条件を洗い出します。加瀬、外側から見てどうだ」

 

「八奈見さん側の条件は、たぶん一つです。あちらから頭を下げないこと」

 

「厳しいな」

 

「厳しくありません。当然です。彼女は何一つ悪いことをしていない。二週間弁当を作って、突然もう来なくていいと言われた側です」

 

「温水側は」

 

「彼の条件も一つでしょう。自分のせいで彼女が悪く言われない形であること」

 

俺はノートに二行書いた。

 

  一、八奈見側から譲歩を求めない

  二、温水の不利益が八奈見に及ばない形

 

「……両立するか」

 

「しますよ」

 

加瀬はあっさり言った。

 

「両方とも、相手を守りたいという条件です。同じことを言っている。文言が違うだけです」

 

「では、なぜ揉めている」

 

「同じことを言っているのに、互いにそう聞こえていないからです」

 

加瀬は少し笑った。

 

「松谷さん。我々は、これを二年やりました」

 

---

 

「第三の経路です」

 

俺は頁をめくった。

 

「直接交渉は不可能です。八奈見杏菜は温水和彦に対して、今後話しかけないと明言しています」

 

「では仲介が要りますね」

 

「候補を挙げてくれ」

 

加瀬が指を一本ずつ立てた。

 

「焼塩檸檬さん。両名と親しく、行動力があります。ただし――」

 

「ただし?」

 

「制御できません」

 

「却下ではないのか」

 

「却下ではなく、制御不能です。動くとしたら我々の許可なく動きます」

 

「……」

 

「次点、小鞠知花さん。八奈見さんとは親しいが、温水君に敵対的です。こじれます」

 

「却下」

 

「月之木先輩。仲介はできますが、面白がって拡大します」

 

「却下」

 

「玉木先輩。人柄は良い。ただし現在、受験と交際の再建で手一杯です」

 

「却下」

 

「私。顔は広いですが、両名にとって私は他人です」

 

「却下」

 

「松谷さん。当事者です」

 

「……却下だ」

 

加瀬が指を下ろした。

 

「以上により、使える経路がありません」

 

---

 

「中立の第三者がいない、ということですね」

 

「そうです。少将、ご記憶でしょう。我々も同じことで詰まりました」

 

「ソ連ですね」

 

「ええ」

 

加瀬が苦い顔をした。

 

「あのとき、日本には交渉相手に直接ものを言う経路がありませんでした。だから、まだ戦争をしていない国に間に入ってもらおうとした。それがソ連です」

 

「うまくいかなかったのですか」

 

「うまくいくもなにも、向こうは既にこちらへ攻めこむ日取りを決めていました。我々はそれを知らずに、頼みごとの手紙を書き続けていたわけです」

 

「……」

 

「経路の選定を誤ったのではありません。選べる経路が、この世に一つもなかった。それだけです」

 

俺はノートを見下ろした。

 

  第三、経路――なし。

 

八十年前と同じ行が書いてある。

 

---

 

「第四の時機です」

 

松平康昌が、初めて口を開いた。

 

「これは私の担当ということでよろしいですか」

 

「お願いします」

 

侯爵は湯呑みを両手で包んで、少し考えた。

 

「時機は、悪いです。破談から一日です。傷が新しい。いま持っていっても、感情が理屈を追い越します」

 

「では、待つべきですか」

 

「それが、そうもいかないのです。明後日が終業式です」

 

俺は顔を上げた。

 

「そのあと夏休みが一か月あります。あの二人は部活で顔を合わせる以外、会う機会がない。そして八奈見さんは、たぶん部活に来ない」

 

「……四十八時間」

 

「そうです。時機が悪いまま動くか、一か月放置するかの二択になります」

 

加瀬が低く唸った。

 

「侯爵、それはずいぶん悪い二択です」

 

「ええ。悪い選択です」

 

侯爵は穏やかに続けた。

 

「ですが、我々はいつもそうでした。時機が整うのを待っていたら、六月に豊橋が焼けました」

 

---

 

――三十分。

 

俺はその数字を、しばらく信じられずにいた。

 

一九四五年の一月から八月まで、俺たちは同じ四項目を二年かけて埋めた。現状の把握に半年、条件の摺り合わせに半年、経路の確保に一年。時機の欄は、最後まで埋まらなかった。

 

同じ様式が、いま三十分で埋まっている。

 

八十年前、この四項目を埋められなかったのは、材料が足りなかったからではない。材料は全部あった。四人の手元に分かれてあって、一つの卓に載らなかっただけである。

 

いま、載っている。

 

二年分の作業が、三十分で終わっている。

 

  一、現状――双方に継戦意思なし

  二、条件――実質的に同一。ただし互いに伝わっていない

  三、経路――なし

  四、時機――最悪。かつ猶予四十八時間

 

「――起案します」

 

俺は定規を当てて、新しい頁を開いた。

 

「経路がない以上、両者を直接接触させる口実が要ります。会う理由さえあれば、あとは当人が話します」

 

「理由、ですか」

 

「あの二人が二週間、毎日会っていた理由は一つです。貸借です」

 

「……なるほど」

 

「もう一度、貸借を作ります」

 

---

 

Intermission 推敲

 

十五分後、食卓の上に一枚の紙があった。

 

        借 用 証 書(第二号・案)

 

  一、貸主  八奈見杏菜

  二、借主  温水和彦

  三、目的物 弁当箱一式(既に借主の占有下にある)

  四、利息  なし

  五、返済方法 昼食会の実施による

 

加瀬俊一はそれを手に取り、生涯有数の努力で笑いをこらえた。笑わない訓練なら二十年積んでいる。調印式の甲板でも笑わなかった男である。

 

「……よく書けています。ただ、第三条が弱い」

 

加瀬は食卓のペン立てから赤鉛筆を抜いた。かつん、と乾いた音がする。松平家のペン立てには、なぜか赤鉛筆が常備されている。

 

「『既に借主の占有下にある』――これでは貸したのではなく置き忘れたことになります。置き忘れた物の返還は一回で済む。第五条と矛盾する」

 

「……む」

 

「昼食会の実施による返済と書くからには、目的物は分割でしか返せないものでなければならない」

 

松谷誠が本気で悩む顔をした。加瀬は赤鉛筆をくるりと回した。楽しくなってきた。

 

「たとえば、目的物を『レシピ』にしてはどうです。もろきゅうサンドの製法。技術は無形で、伝授には回数がかかる。分割返済に向いています」

 

「……なるほど」

 

「なるほど、じゃありませんよ」

 

台所から声がした。松平康昌が盆を持って立っている。

 

「お二人とも、楽しそうですねえ」

 

「侯爵。これは真面目な話です」

 

「存じています。だから面白いのです」

 

---

 

高木惣吉は紙を受け取ると、一分黙って読んだ。

 

四人の中で、この男の決裁がいちばん怖い。海軍省で彼の朱を潜り抜けた文書は数えるほどしかない、という伝説を、松谷も加瀬も聞いて知っている。

 

「様式としては、整っています」

 

松谷の肩が、わずかに緩んだ。

 

「第三条の修正案にも同意します。利息なし、返済期日は協議による。前例に倣っており、問題ありません」

 

「はい」

 

高木は紙を食卓に置き、茶を一口飲んだ。

 

「――提出先がありませんが」

 

---

 

居間が、しん、と静かになった。

 

「この証書が効力を持つには、貸主の署名が要ります。署名を得るには、彼女に会って、事情を説明し、この紙の意図を理解してもらう必要がある。つまり――」

 

「……関係が、既に必要になる」

 

「そうです。関係を作るための書類ですが、署名を得るために関係が要る。回路が閉じています」

 

高木は湯呑みを置いた。

 

「松谷君。我々は二年、これをやっていました。和平の条件を整えるために、まず和平が要る。交渉の席を作るために、まず交渉が要る。書類は完璧で、判を押す相手のところまで、誰も辿り着けない」

 

説教ではなかった。懐かしそうですらあった。

 

この人が懐かしそうにするのは、失敗した話のときだけである。うまくいった話をするところを、俺は一度も見たことがない。

 

「私も同じ書類を、何十枚も書きました。どれもよく書けていた」

 

高木惣吉が、そこで少しだけ笑った。

 

「様式だけは、いつも完璧なのです。我々は」

 

---

 

「――一つ、よろしいですか」

 

松平康昌が席についた。

 

「先ほどから、経路がないと言っておられますね」

 

「ええ。中立の第三者が存在しません」

 

「ところで、あの二人は、毎日同じ教室にいますね」

 

沈黙が落ちた。

 

「……はい」

 

「何時間ほど」

 

「六時間から、七時間です」

 

「毎日ですか」

 

「毎日です」

 

侯爵はうなずいた。

 

「我々の仕事は、たいてい、会わせるところまでで九割でした。違いましたか」

 

高木惣吉が、湯呑みを持ったまま止まっている。

 

「……違いません」

 

「四つの役所の人間を、誰にも見られずに同じ部屋へ入れる。それだけのために、何か月もかけました」

 

「……ええ」

 

「あの二人は、それが毎日、六時間、済んでいるわけです」

 

---

 

松谷はノートの一行に線を引いた。

 

  三、経路――なし

 

引いてから、何を書けばいいのか分からなくなった。

 

「……では、残りの一割は」

 

「言うことです」

 

高木は即答した。

 

「我々の二年で、できなかったのがそこです。会わせるところまでは全部やった。最後に口を開く人間が、いつも足りなかった」

 

加瀬俊一が、椅子の背にぐっともたれて天井を見た。

 

「……我々は、戦争を終わらせる道具しか持っていないんですね」

 

「加瀬君?」

 

「四つの壁に隔てられた人間を、どうにかして同じ部屋に入れる道具です。それしか持っていない」

 

彼は少し笑った。

 

「同じ部屋にいる二人が、口をきかない場合の道具を、誰も持っていない」

 

「そういう道具は、たぶん、名前が違うのです」

 

「なんという名前です」

 

「さあ」

 

松平康昌が立ち上がって、水槽の前へ行った。餌の缶を手に取る。

 

四月にここへ落ちた日、この人が現代で最初に感動したのは水槽の器材だった。濾過器とヒーター、それに温度を勝手に一定に保つ装置。

 

「これは……全部、機械がやるんですか」

 

そう言ったきり、三十分ほど動かなかった。

 

「侯爵は、その道の本を一冊お書きになっていますからね」

 

加瀬がにやりとする。

 

「銀座の果物屋が出した、薄い冊子ですよ。聞かれすぎたので書いただけです」

 

「聞かれすぎて本を書く人ですよ、この方は」

 

「加瀬さん。その話は、よしましょう」

 

侯爵は缶の蓋をかちりと開けた。

 

「松谷さん。魚が死ぬ原因を、三つご存じですか」

 

「……存じません」

 

「食べさせすぎ、水温の急な変化、それと詰めこみすぎです」

 

指でつまんだその量が、あまりに少なかった。

 

指先に残った粒は、数えられるほどである。二十粒はない。十粒あるかどうか。

 

俺は思わず、その手元を見ていた。

 

この人は、四月からずっとこうである。決断が速いわけではない。むしろ遅い。だが、量だけは、いつも最初から決まっている。

 

多く出したことを、俺は一度も見ていない。

 

「餌は、多過ぎるより少な過ぎる方がよろしい。家康公の訓誡にもございます。過ぎたるは及ばざるが如し」

 

「……はい」

 

「大抵の魚は、飢えて死ぬのではありません。飼主の親切が過ぎて死ぬのです」

 

水面に落ちた餌へ、小さな魚がすいと集まってきた。ぱくぱくと口が動く。

 

「よい水槽というものがあります。水草が酸素を出し、貝が汚れを食べ、水が澄んで落ち着く。そうなると、水を換えなくてよくなる」

 

「換えないのですか」

 

「換えない方がよいのです。均衡が取れておりますので」

 

侯爵は缶の蓋を閉めた。

 

「手を出すと、壊れます」

 

俺は、湯呑みを持ったまま動けなかった。

 

「……秘書官長」

 

「はい」

 

「それは、温水和彦の話ですか」

 

「魚の話です」

 

「……」

 

「ですが、松谷さん。あの少年は、たいへんよく餌をやりました」

 

侯爵は席に戻ってきた。

 

「二週間、毎朝、弁当が作られていたそうですね。そして彼は、相手の負担になっていると考えた。だから水を全部替えた。よかれと思って」

 

「……はい」

 

「均衡していたものを、親切で壊したのです」

 

「では、どうすれば」

 

「何もしないのが正解です。ただし――」

 

侯爵はそこで、少し困った顔をした。

 

「もう替えてしまった水は、戻りません」

 

---

 

「それで、我々は何をすればよいのです」

 

高木少将が聞いた。

 

「新しく均衡が取れるまで、待つことです。そのあいだ、少しずつ足す」

 

「足す?」

 

「水を、です」

 

侯爵は湯呑みを松谷の前に置いた。

 

「柿でしたら、水と言います。魚でしたら、水質です。人でしたら――」

 

「……なんですか」

 

「毎日、少しずつです。挨拶とか。牛乳を拾ってやるとか。字を褒められたら、礼を言うとか」

 

松谷が固まった。

 

「なぜそれを」

 

「さあ、なんのことでしょう」

 

侯爵はにこにこと台所へ戻っていった。

 

加瀬は笑いを噛み殺すのに、外交官人生の全技術を要した。

 

---

 

会議は四十分で終わった。

 

決まったことは何もない。採択された文書は一枚だけである。

 

「……持っておきます」

 

松谷誠は証書を二つに折って、上着の内側にしまった。

 

「ええ、それがいい」

 

高木惣吉は本を開き直し、頁を見たまま付け加えた。

 

「松谷君。八十年前、我々の会議も、たいていこんなものでした。四十分話して、紙が一枚残る。その紙は使われない。次の月にまた集まる」

 

「……はい」

 

「二年、それを続けました。そして最後の一回だけ、使われた」

 

高木は栞を抜いた。

 

「だから、持っておきなさい」

 

---

 

 

【松谷誠】

 

水曜の昼休み。

 

俺は単独行動に出た。

 

会議では経路がないという結論になったが、それは仲介者がいないという意味である。当事者に直接あたることを禁じられたわけではない。

 

八奈見杏菜は、女子三名と教室で昼食を広げていた。

 

俺は待った。

 

一二五〇、彼女が一人で廊下に出た。手洗いだろう。

 

俺はその前に立った。

 

「八奈見」

 

「うわっ。びっくりした。……松谷君」

 

「少し、いいか」

 

「なに」

 

俺はノートを開いた。

 

「条件を確認したい」

 

「……は?」

 

「和解に必要な、君の側の最低条件だ。こちらの見立てでは、君の条件は一つだと考えている。すなわち、君の側から譲歩を求めないこと。これで合っているか」

 

すう、と八奈見の顔から表情が消えた。

 

「なにそれ」

 

「条件だ」

 

「条件ってなに」

 

「和解の条件だ」

 

「和解する気ないんだけど」

 

俺はペンを止めた。

 

「……それは、条件か」

 

「条件じゃないよ」

 

八奈見がぐっと腕を組んだ。

 

「気持ちだよ」

 

---

 

俺は、その言葉の処理に失敗した。

 

条件の欄は埋められる。数えられるし、書けるし、相手に渡せる。渡せば、向こうも同じ欄を埋めて返してくる。二十年、俺はその往復だけをやってきた。

 

気持ちの欄は、俺の様式に存在しない。

 

存在しないのではなく、削られたのだと思う。あの部屋で誰かが気持ちの話を始めると、会議は必ず長くなった。長くなった会議は、たいてい何も決めずに終わった。だから誰も、その欄を作らなかった。

 

作らないまま、二年が過ぎた。

 

そして、その二年で決まらなかったことが、いま、たった三文字で否定されている。

 

陸軍にも海軍にも外務省にも宮中にも、条件があった。譲れる線と譲れない線があり、書き出せば必ず表になった。

 

表にならない相手というものに、俺は会ったことがない。

 

「あのさ、松谷君」

 

八奈見がひょいとノートを覗きこんだ。

 

「それ、私のこと書いてあるの?」

 

「書いてある」

 

「見せて」

 

「見せられない」

 

「なんで」

 

「……君に見せる用途で書いていない」

 

「うわ、感じ悪」

 

そう言いながら、彼女はふっと笑った。

 

笑ってから、すぐ真顔に戻った。

 

「松谷君さ」

 

「なんだ」

 

「私と温水君の話、なんでそんな一生懸命なの?」

 

---

 

俺は、すぐには答えなかった。

 

理由はいくつも用意できる。俺も債権者だった。査定係だった。慣行の消滅は俺にとっても不利益である。

 

どれも本当だが、どれも本題ではない、という感じがした。

 

俺は嘘をつく訓練を受けていない。正確に言えないときは黙るしかなく、黙ると余計に妙なことになる。

 

「……予定だったからだ」

 

「よてい?」

 

「一二三〇に君が教室を出る。一二三四に温水が出る。一二三六に俺が出る」

 

俺は指を三本立てた。

 

「二週間、毎日そうだった。誰が決めたわけでもない。自然にそうなった」

 

「……うん」

 

「俺は」

 

そこで一度、言葉に詰まった。

 

「俺は、誰にも命じられていない予定というものを、持ったことがない」

 

ぱちり、と八奈見がまばたきをした。

 

「……え?」

 

「言われた場所へ行き、言われた時刻に着く。ずっとそれしかしていない。行かなくてもいい場所に、行かなくてもいい時刻に行くというのは、あれが最初だ」

 

廊下の窓から、蝉の声がじいじいと入ってくる。

 

「毎朝、あと何時間で昼になるかを数えていた。数える必要はない。行っても行かなくてもいい場所だからだ」

 

「……」

 

「それでも数えていた。あれが何なのか、俺にはまだ名前がついていない」

 

言ってから、俺は自分が余計なことを喋ったのに気づいた。

 

「――以上だ。忘れてくれ」

 

「いや、忘れないけど」

 

「忘れろ」

 

「無理だって」

 

---

 

八奈見杏菜は、しばらく俺の顔を見ていた。

 

俺は視線を外した。

 

「……それと、一つ、まだ判別できていないことがある」

 

「なに」

 

「あれを元に戻したいのが、君たちのためなのか、俺のためなのか、分かっていない」

 

「……」

 

「本来なら、分かってから動くべきだ。動機の不純な工作は、たいてい途中で失敗する」

 

「じゃあ、なんで来たの」

 

「分かる見込みがないからだ。一生分からないかもしれない。それを待っていると、間に合わない」

 

八奈見は口を半分開けたまま固まって、それから、はあっと大きく息を吐いた。

 

「……松谷君ってさ」

 

「なんだ」

 

「たまに、すごいこと言うよね」

 

「そうか」

 

「うん。ほんと、たまにだけど」

 

「……そうか」

 

「あと、聞き方は最悪」

 

「そうか」

 

八奈見がくすっと笑って、それから真顔になった。

 

「まあ、いいや。ありがと」

 

「何がだ」

 

「なんかね。誰も、私に何も聞いてこなかったから」

 

「条件じゃないけどね」

 

そう言い残して、彼女は廊下を歩いていった。

 

---

 

俺はノートを閉じた。

 

――聞いてこなかった。

 

温水和彦は、八奈見杏菜に何も聞かずに決めた。

 

俺は聞いた。聞いたが、聞き方が間違っていた。条件を聞き、彼女は気持ちを持っていた。

 

それでも、彼女は礼を言った。

 

聞き方が間違っていても、聞かないよりはましだったということになる。

 

――そういうものか。

 

八十年やってきて、俺は一度もそう考えたことがなかった。正しく聞けないなら聞かない方がいい、と思っていた。

 

---

 

五限が始まる前。

 

たったっ、と軽い足音がして、焼塩檸檬が温水の机の横にしゃがみこんだ。

 

「どうしたの、ぬっくん。なんか元気ないねー」

 

「安心してくれ。俺は日頃から元気ないんだ」

 

「ふうん。その割には、視線が誰かさんを追ってない?」

 

温水が言葉に詰まる。

 

俺は自分の席で、シャープペンシルを持ったまま止まっていた。

 

「良く分かんないけどさ。ちゃんと話をしないと後悔するよ」

 

「……後悔?」

 

「先輩からの忠告だよ」

 

ばしん、と背中を叩いて、白い歯を見せて、焼塩は戻っていった。

 

所要時間、二十二秒である。

 

俺は上着の内側の紙のことを考えていた。

 

四十分と、二十二秒。

 

昨夜、四人がかりで現状を分析し、条件を洗い出し、経路を検討し、時機を測り、文書を起案した。

 

この少女は、しゃがんで下から顔を覗きこんだだけである。

 

戻る途中、焼塩が俺の机の横で足を止めた。

 

「松谷君も、なんか元気ないね」

 

「……もとからだ」

 

「知ってる」

 

「なぜ知っている」

 

「え、いや、あの、深い意味はなくて」

 

ぶんぶんと手を振って、焼塩が慌てた。俺は真顔で聞いただけなのだが、この学校では真顔で聞き返してはいけないらしい。

 

規則がまた一つ増えた。

 

---

 

Intermission 上書き

 

同じ日の朝、加瀬俊一は仕掛けを一つ打っていた。

 

噂を消す方法は、彼の経験では二つしかない。一つは待つこと。三週間で人は飽きる。もう一つは、上書きすることである。人は同時に二つの噂を扱えない。もっと面白い話が来れば、前の話は放り出される。

 

否定は、絶対にしない。三十歳のときに学んだ。

 

彼が選んだのは、旧校舎だった。新聞部の壁新聞に、小さな囲み記事を一本入れる。建て替えの検討が進んでいるという、事実そのままの短信である。誰も傷つかない。誰の名誉にも触れない。それでいて、一年生には初耳の話題である。

 

加瀬はそれで満足していた。

 

昼過ぎまでは。

 

---

 

「ねえ、旧校舎って取り壊されるの?」

 

「らしいよ。壁新聞に出てた」

 

「えー、あそこ一年のカップルが入り浸ってるって聞いたけど」

 

「じゃあ壊れる前に思い出作りってこと?」

 

「なにそれ結婚するの? きゃー!」

 

きゃあきゃあと笑いながら、女子の一団が階段を降りていった。

 

加瀬俊一は、廊下の真ん中で立ち止まっていた。

 

――ああ。

 

噂は、上書きされなかった。合体していた。

 

新しい話題を投げ入れれば、前の話題が押し出される。そう考えたのが誤りだった。

 

人は、二つの話を捨てない。混ぜる。

 

  混ぜて、一つの、より面白い話にする。

 

---

 

放課後、生徒会室。

 

彼は下書きの紙の隅に、二本の線を引いた。

 

  原形 → 変形

 

一九四〇年前後、外務省で流した「穏当な観測」が、新聞に載るまでのあいだに三度も形を変えて、まったく別の意味になって戻ってきたことがある。あのときも、彼は事実しか言っていなかった。

 

事実しか言わなくても、混ぜられる。その原則を、二十年かけて身につけた。身につけたと思っていた。

 

思い違いだったと考え直すのは、それほど難しくない。難しいのは、思い違いだったと分かったあとで、同じ場所にもう一度立つことである。

 

彼は生涯に何度か、それをやっている。やるたびに、少しずつ人当たりが良くなった。良くなった分だけ、信用されなくなった。

 

――因果なものです。

 

指が、勝手に胸の内ポケットを探っていた。八十年前なら、そこに「光」の箱がある。いまは何もない。

 

彼は窓を開けた。ぬるい風が、もわりと入ってくる。

 

飴を一つ、口に入れる。かちん、と奥歯に当たった。

 

甘い。ただ甘いだけである。

 

――燃料を足しただけでしたか。

 

---

 

Intermission 督促

 

同じ日の午前、旧校舎二階の図書室。

 

高木惣吉は事務用の用紙を一枚、机に置いた。

 

昨夜の会議で、彼は一言も具申しなかった。理由は単純である。彼の職分は現状分析であって、実行ではない。数字を出し、紙を書き、上げる。動かすのは他人である。

 

ただし、非常勤講師にできることが一つだけある。

 

事務連絡を出すことだ。

 

  文芸部 御中

  一学期末の蔵書点検につき、部室書架の貸出中図書を

  七月十九日までに書架へ戻してください。

                  図書室 高木

 

十五秒で書き終えた。

 

かたん、と扉が鳴った。小柄な影が、本を胸に抱えて入ってくる。

 

「……へ、返却、です」

 

「小鞠さん。期限は明後日でしたが」

 

「よ、読み終わったから」

 

高木は日付印を押し、書いたばかりの紙を差し出した。

 

「では、これを文芸部の連絡箱へ。ついでで構いません」

 

「……蔵書点検?」

 

「点検です」

 

「ぶ、部室の本、や、八奈見も借りてる」

 

「そうですか」

 

「……知らないなら、い、いい」

 

小鞠知花は紙を受け取ると、少しだけ眉を寄せて、それから頭を下げて出ていった。

 

ぱたぱたと、足音が遠ざかっていく。

 

---

 

――あの子は、来ます。

 

高木惣吉は本を開いた。

 

返却の締切が来た以上、部室へ行く理由ができる。理由ができれば、行ける。

 

行きたくない場所に、人は理由なしでは行かない。行きたい場所にも、人は理由なしでは行かない。

 

行きたいから行くのだと、人は思っている。実際に人を動かしているのは、行っても不自然でないという事実の方だ。

 

彼は三十年、その仕組みだけを見て暮らしてきた。数字を出しても、誰も動かなかった。理屈を書いても、誰も動かなかった。動いたのは、動いても差し支えない形が整ったときだけである。

 

整えるのは、たいてい誰の手柄にもならない。

 

紙一枚である。

 

一九四三年の秋、軍令部へ移されたときに与えられたのも、これと同じ種類のものだった。命令ではなかった。権限もなかった。ただ、調べてよいという口実が一つあった。

 

それだけで、二年ぶんの仕事が始まった。

 

――口実は、命令より強い。

 

窓の外で、蝉がしゃあしゃあと鳴いている。

 

彼は誰にもこのことを言わなかった。言う必要がないからである。

 

---

 

 

【松谷誠】

 

放課後。文芸部の部室。

 

俺は掃除当番で少し遅れて旧校舎に着いた。

 

部室の扉が、十センチほど開いている。

 

「来てたんだ。部活、出るの?」

 

温水の声。

 

「今日は本を返しに来ただけだよ。友達と約束あるし、帰るね」

 

八奈見杏菜である。

 

俺は廊下の途中で足を止めた。

 

――なぜ、ここにいる。

 

昼に会ったとき、彼女は部室に近づく気配がなかった。

 

「八奈見さん、いいかな」

 

「……なに? 友達を待たせてるから手短にね」

 

「話がないなら、私」

 

「待って、八奈見さん」

 

温水の声が、少し高くなった。

 

「ここ最近、ずっと一緒に弁当食べてて。やっぱ俺、楽しみにしてたみたいでさ」

 

「だから――」

 

「だから?」

 

被せられた。

 

沈黙。

 

俺は自分の呼吸が止まっているのに気づいた。

 

――言え。

 

昨夜、俺たちは四十分かけて、最後の一割は言うことだという結論に達した。

 

会わせるところまでは済んでいる。同じ部屋にいる。扉は開いている。

 

残っているのは、口を開くことだけだ。

 

――言え。

 

---

 

「俺も……楽しかった。それだけは伝えたくて」

 

それだけだった。

 

一行である。

 

俺は壁に手をついた。

 

――一行か。

 

二週間、俺はあの階段で数字を書いた。全部で十四回、計上した。昨夜は四十分の会議を経て、完璧な証書を一枚起案した。今日は昼休みに、条件を聞きに行って外した。

 

そのどれ一つとして、この一行の代わりにならない。

 

そして俺は、この一行を、二十年書いたことがない。

 

---

 

「……そう」

 

かちゃり、と扉が開く音。

 

「それじゃ――私、行くね」

 

足音が廊下に出てくる。

 

俺は廊下の角に身体を入れた。反射である。二十年、そうやって身体が動くように訓練されている。

 

足音が近づいて、通り過ぎて――

 

――また見送るのか。

 

俺は角から出た。

 

「八奈見」

 

届く声で言った。

 

足音が止まる。振り返った八奈見杏菜は、少し驚いた顔をしていた。目のあたりが赤い。

 

「……松谷君。またいたの」

 

「いた」

 

「聞いてた?」

 

「聞いた」

 

「うわ、最悪」

 

彼女は笑おうとして、失敗した。

 

俺は言うべきことを探した。昨夜、四人で洗い出した条件が頭の中に並んでいる。八奈見側から譲歩を求めない。温水の不利益が八奈見に及ばない形。両者は実質的に同一。

 

一つも、口から出てこなかった。

 

――条件じゃないよ。気持ちだよ。

 

昼に言われたばかりである。

 

俺には気持ちを書く欄がない。

 

代わりに、手が勝手に上着の内側を開けていた。

 

「あのさ、松谷君。私いま、あんまり」

 

「これを」

 

俺は折りたたんだ紙を差し出していた。

 

差し出してから、気づいた。

 

――待て。これは。

 

---

 

かさり、と八奈見が紙を開く。

 

        借 用 証 書(第二号・案)

 

  一、貸主  八奈見杏菜

  二、借主  温水和彦

  三、目的物 もろきゅうサンドの製法(無形・分割伝授)

  四、利息  なし

  五、返済方法 昼食会の実施による

 

赤鉛筆の添削が入ったままである。

 

第三条の欄外に、加瀬の字で「これなら回ります」と書いてある。

 

その下に、高木先生の字で「様式として可」と書いてある。

 

沈黙が、たいへん長かった。

 

「………………なにこれ」

 

「……起案だ」

 

「起案」

 

「昨夜、検討した。関係の再建には貸借の再建が必要だという結論になったので、その、書式を」

 

「昨夜?」

 

「四十分かけた」

 

「四十分!?」

 

がばっと顔が上がる。声が裏返っている。

 

「なんで!? っていうか誰と!?」

 

「……関係者と」

 

「関係者!! 誰!?」

 

「言えない」

 

「なにその機密!」

 

まつげを濡らしたまま、彼女は紙と俺の顔を三往復くらい見比べた。

 

「私が貸主なの?」

 

「そうだ」

 

「もろきゅうサンドの製法を、温水君に貸すの?」

 

「無形の目的物は分割返済に馴染む」

 

「なにその理屈!」

 

「あと、この赤字は添削だ。第三条が弱いと言われた」

 

「添削されてる!?」

 

そして。

 

ぶふっ、と吹き出した。

 

「……っ、あはは! なにこれ、なにこれ! 昼食会の実施による、って! 契約なの!? 私たちの昼ごはん、契約だったの!?」

 

「契約ではない。だから作ろうと」

 

「作らなくていいよ!!」

 

八奈見は壁にばんと手をつき、そのままずるずるとしゃがみこんだ。肩がびくびく跳ねている。笑い声のあいだに、ひくっ、と妙な音が混じった。

 

目のあたりは、まだ赤い。

 

赤いまま、笑っていた。

 

---

 

ひとしきり笑ってから、彼女はごしごしと目元を拭って、紙を丁寧に折り直した。

 

「……これ、もらっていい?」

 

「署名するのか」

 

「しないよ! 記念! 記念に持っとくの!」

 

「記念……」

 

「うん。世界一ばかばかしい書類だから」

 

八奈見は紙を鞄にしまった。

 

「あのさ、松谷君」

 

「なんだ」

 

「昼の、あれ」

 

「条件の話か」

 

「うん。あれ、聞き方は最悪だったけど」

 

彼女は少し目を伏せた。

 

「聞かれたのは、あれが最初だった」

 

「……そうか」

 

「証書の字、綺麗だよね。前のも思ってたけど」

 

「……どうも」

 

礼を言えた。

 

侯爵の言った三つのうち、一つはできた。

 

「じゃあね」

 

八奈見は歩いていった。

 

今度は、一度だけ振り返って、小さく手を振った。

 

---

 

Intermission 事後検討

 

その夜、松平の家。

 

「――以上が、経過です」

 

松谷誠の報告は八分に及んだ。

 

聞き終えて、加瀬俊一が真っ先に手を挙げた。

 

「先に自白しておきます。私の工作は失敗しました」

 

「工作?」

 

「噂の上書きです。旧校舎の記事を一本流しました。前の話題を押し出せると考えました」

 

「結果は」

 

「合体しました」

 

がっくりと、加瀬が肩を落とした。

 

「人は二つの話を捨てません。混ぜます。より面白い方へ」

 

「私も同じ失敗をしたことがあります。数字を出せば議論が終わると思っていました」

 

「終わらなかったのですか」

 

「数字は、都合の良い部分だけ抜き出されました」

 

高木が少しだけ笑った。

 

「紙は、切り取れるのです。我々はそれを何度も忘れる」

 

---

 

「松谷さん。もう一点、伺ってよろしいですか」

 

「なんだ」

 

「温水君は、最後になんと言ったのですか」

 

「俺も楽しかった、と」

 

「それだけですか」

 

「それだけだ」

 

加瀬はしばらく黙っていた。

 

「あの子は、たぶん、言葉を持っていなかったんですね」

 

「どういう意味だ」

 

「恋人ではない。友人と呼ぶには短い。金の貸し借りで繋がっていただけの二週間です。あの関係には、名前がありません」

 

加瀬は湯呑みを両手で包んだ。

 

「名前のないものを失うとき、人は何を失ったか言えません。だから、楽しかった、としか言えない」

 

「……」

 

「あれは言葉足らずではありません。言葉が存在しないんです」

 

俺は自分のノートを見下ろした。

 

  条件――なし

  気持ち――欄なし

 

「では、八奈見の方は」

 

「あちらは明確ですよ」

 

加瀬は即答した。

 

「彼女が怒っていたのは、切られたことではありません。切ると決める場に、自分がいなかったことです」

 

「……」

 

「雑な終わりが嫌だ、と言ったそうですね。あれは続けたいという意味ではありません。決めるなら、自分も部屋にいさせろという意味です」

 

俺は顔を上げた。

 

「――それは」

 

「ええ」

 

加瀬は静かに言った。

 

「あなたが昼にやったことです。聞き方は最悪でしたが、部屋に入れた」

 

---

 

「松谷君」

 

高木惣吉が、そこで初めて口を開いた。

 

「はい」

 

「今日、八奈見さんが部室にいたのは、なぜだと思いますか」

 

「……分かりません。昼の時点では、行く気配がなかった」

 

「そうでしょうね」

 

高木は茶を一口飲んだ。

 

「蔵書点検の督促を出しました。今朝、部の連絡箱に」

 

俺はしばらく、その言葉の意味を考えた。

 

「……少将」

 

「はい」

 

「それは、意図的ですか」

 

「督促は事務です」

 

高木惣吉は本を開いた。

 

「私には命令の権限がありません。ですから督促しかできません」

 

「……」

 

「ただ、督促は命令より断りにくい。反発する相手がいませんので」

 

俺は言葉が出なかった。

 

昨夜、四人で四十分かけて、経路はないという結論を出した。

 

この人は一言も反対しなかった。

 

そして翌朝、十五秒で紙を一枚書いて、経路を作った。

 

「……なぜ、昨夜言わなかったのですか」

 

「思いついたのが今朝だからです」

 

少将は頁をめくった。

 

「それと、言えば私の手柄になります。手柄にすると、次から使えません」

 

---

 

とくとくと、松平康昌が茶を注ぎ足した。

 

「みなさん、今日はよく働きましたねえ」

 

「……何も解決していません」

 

「そうですか?」

 

侯爵は湯呑みを松谷の前に置いた。

 

「証書は渡りました。署名はされない。効力もない。目的の一つも達成していない」

 

「……はい」

 

「ですが、あの子は笑ったのでしょう」

 

「……笑いました」

 

「では、水は一杯やれたことになります」

 

一杯。

 

俺はその言い方を、頭の中で二度繰り返した。

 

この人は、成果を回数で数える。何を達成したかではなく、何回やったかで数える。八十年前も同じだった。会えたか会えなかったか。渡せたか渡せなかったか。それだけを積んで、二年やった。

 

積んだものが実ったかどうかは、最後まで誰にも分からなかった。

 

「柿は、一杯で実りません。明日もやってください」

 

そして侯爵は、水槽の方を見た。

 

「それと松谷さん。ひとつ訂正がございます」

 

「なんでしょう」

 

「先ほど、手を出すと壊れると申し上げました」

 

「はい」

 

「あれは魚の話です。人の場合は、少しだけ違います」

 

侯爵は湯呑みを置いた。

 

「魚は、放っておけば勝手に均衡します。人は、放っておくと離れます」

 

「……」

 

「ですから、水はやってください。毎日、少しずつ」

 

俺は、その日の分の手帳を開いた。

 

そして、時刻ではない一行を書いた。

 

  水をやる。少しずつ。

 

書いてから、自分の字を見た。

 

侯爵の字とは、似ても似つかない。

 

俺の字は、読みやすい。読みやすいだけである。誰が書いても同じになるように、そう習った。書いた人間が分からないのが、正しい書式だと教わった。

 

二十年、その通りに書いてきた。

 

いま、俺は自分の手帳に、時刻のない行を書いている。

 

宛先はない。提出先もない。読む人間は誰も決まっていない。

 

それでも、破らなかった。

 

---

 

その夜、高木惣吉は寝る前に、手帳へ一行だけ書いた。

 

  七月十九日 文書一件、様式外の効果あり。

 

書いてから、少し考えて、こう付け足した。

 

  評価は保留する。

 

彼は八十年、この二行の書き方しかしてこなかった。事実を一行。判断を一行。判断の欄には、たいてい保留と書いた。

 

保留と書いた案件のうち、あとで正しかったと分かったものが何件あったかを、彼は数えていない。数えれば分かる。分かるが、数えない。

 

数えないことにしている案件が、彼にはいくつかある。

 

---

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