負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
第20話 1巻4敗目 八奈見視点 世界一ばかばかしい書類
~4敗目~ 負けヒロインを覗く時、負けヒロインもまたあなたを覗いているのだ(八奈見杏菜の側)
二次創作/視点:八奈見杏菜
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一
【八奈見杏菜】
月曜の朝、六時二十分。
とんとん、と包丁の音だけが台所に響いている。
我ながらよくやると思う。中学の私に言っても信じない。高一の夏に朝六時起きでサンドイッチ、って。
しかも、借金のカタである。
借用証書 第一号
金額 金四,〇四五円也
思い出すたびに頭がおかしくなる。ファミレスで千円足りなかっただけだ。なんで罫線まで手書きの証書に署名させられるんだ。
しかも貸主が二人いる。
温水和彦 金二,〇二三円
松谷誠 金二,〇二二円
一円。
「ねえ、なんで温水君が証書持ってるの」
「一円多く出した方が保管する」
「そんな決まりある?」
「いま決めた」
「今!?」
「決めておかないと揉める」
……揉めてないんだよなあ。
まあ、いいけど。
「杏菜ー。あんた今日も早いねえ」
廊下から、寝ぼけた声が降ってきた。
「うん」
「誰のお弁当なの、それ」
「自分の」
「そんなに食べるの?」
「……育ち盛りだから」
「へえ」
「なにその『へえ』」
「べつにー」
母は「へえ」だけで三往復ぶん喋る人である。
「お母さん、まだ寝てていいよ」
「はいはい」
「……あ、待って。プチトマト、三つしかないんだけど」
「昨日あんたが食べたでしょ」
「……」
ぱたぱたと足音が遠ざかった。
助かった。あと三往復されたら白状していた。
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今日はもろきゅうサンド。
キュウリを薄く切って、もろみ味噌を塗る。斬新でしょ、と言ったら温水君はたぶん「発想が渋い」とか言う。松谷君は原価を言う。
……原価を言うんだよ、あの子。
はじめて弁当を出した日、松谷君は真顔でこう言った。
「本日の弁当、二百六十八円と査定する」
「なんで!?」
「玉子二個、ウインナー四本、白飯二合分のうち三分の一、ブロッコリー――」
「やめて! 数えないで!」
「正確を期している」
「正確じゃなくていいの!」
以来ずっとそうである。私の作ったものが毎日、円で返ってくる。
正直、最初は屈辱だった。
でも続けているうちに気づいたことがある。
三日目にコロッケを入れた日。冷凍のやつを揚げただけなのに、あの子は八円上乗せした。
「なんで八円?」
「揚げ物は手間がかかる。原価に乗らない分がある」
「……計算に入れるんだ、そういうの」
「入れないと不正確になる」
たぶんあの子、褒めたつもりはない。
でも私は、その八円のことをずっと覚えている。
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プチトマトを入れようとして、容器を覗きこんだ。
三つ入っていた。
三人で食べるから三つ。うん、ちょうどいい。
ぽいっ。
「……あ」
しまった。
朝の私はいつもこれをやる。味見という名の食事。
残り二個。
まあいいや。そもそも私はプチトマトそんなに好きじゃない。彩りである。彩りは二個でも成立する。
私は二個を隅に詰めて、ぱちんと蓋を閉めた。
……本当にどうでもいい話なんだけど。この日のプチトマトのことを、あとで男子二人が真剣な顔で見ていたらしい。
意味なんかないよ。私が食べただけだよ。
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二
【八奈見杏菜】
昼休み。旧校舎の非常階段、三階の踊り場。
私が一二三〇に教室を出て、温水君が一二三四、松谷君が一二三六。
誰が決めたわけでもない。気づいたらそうなっていた。
……なんで四分と六分なんだろ。まあ、いいけど。
今日の温水君は三分遅れてきた。しかも手ぶら。
ちょっと変だなとは思った。あの子、いつも牛乳かお茶を持ってくるのに。
でも深く考えなかった。
深く考えていれば、何か変わったのかな。
……変わらないか。うん、変わらない。
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「今日のお弁当はこちらになりまーす」
「これ、キュウリと……もろみ味噌?」
「もろきゅうサンド。斬新でしょ」
松谷君が自分の分を取って、しゃくりと一口かじった。
「……水が出ている」
「松谷君は黙って」
「事実だ」
「事実は今いらないの」
「では、いつ要る」
「褒めたあと」
「順番があるのか」
「あるの」
「難しい注文だな」
「簡単でしょ」
そう。事実は今いらない。
こういうやりとり、私は結構気に入っていた。おいしいとも、まずいとも言われたことがない。
あの子の頭の中で、食べ物は評価するものじゃなくて計上するものなのだ。
だから私は、温水君の方を見た。
「ねえ、味はどうかな?」
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「……二千八百六十七円」
は?
「違っ!」
「え」
「あ、いや。一瞬、最高記録更新かと思っちゃったけど」
私は首をかしげた。
「それ、私の借金の残額じゃない?」
「そうだな」
温水君はうなずいた。
「これで完済だ」
「……あのさ。これ、普通のサンドイッチなんだけど」
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そこから先を、私は正確に覚えていない。
覚えているのは、松谷君が急に喋りだしたことだ。
「温水。査定は俺の役目だ」
「……ああ、うん。そうだけど」
「三百四十円だ」
「え?」
「今日の弁当は三百四十円だ。それが正当な額だ」
三百四十円。
たぶん、もろきゅうの分を乗せたんだと思う。あの子、そういうところは律儀だから。
でもそのとき私は、そんなことを考える余裕がなかった。
「残高と対価を同じ数字にするのは、計上ではない」
「じゃあ、なんなんだよ」
「……取り消しだ」
松谷君の声が、いつもと違っていた。
――あ。
この子、動揺してる。
いつも姿勢がやたら良くて、表情も変わらない。心拍数まで一定なんだろうと思っていた。そのあの子が焦っている。
「温水。残高のうち、およそ千四百三十円は俺の分だ」
「あ」
「君が免除できるのは、君の分だけだ」
「……悪い。そこまで考えてなかった」
「証書は君が持っている」
「うん」
「俺は持っていない」
「……うん」
「持っていないので、俺には何もできない」
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その言い方が、なんか、聞いていられなかった。
「今、そういう話じゃないと思う」
「……そうか」
松谷君はぱたりと口を閉じた。
――ごめん。
いま思うと、あの子はたぶん私の側に立とうとしていた。ものすごく下手くそなやり方で。
でもあのときの私は、それどころじゃなかった。
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そのあと温水君が、いろいろ言った。
順番は、もう思い出せない。言葉だけが残っている。
「弱みに付け込んでるみたいで」
「いままで、ありがとう」
「噂に、なってるらしくて」
「八奈見さんも、嫌だろ」
嫌だろ、って。
そこは私が決めることじゃないの。
「あのさ。ちょっと話についていけないんだけど」
自分の声が、やけに遠くで鳴った。
「なにか私、君を嫌な気持ちにさせた?」
思ったより大きな声が出て、自分でびっくりした。
「……違う、嫌なんかじゃない」
「ほんとかな」
嘘だ、と思った。
嘘でいいから、もう少し喋ってほしかった。
一つだけ、自分の言ったことをはっきり覚えている。
「そういう雑な終わり方って、ちょっと嫌かな」
続けたいって意味じゃない。
決めるなら私も入れてよ。そういう意味だった。
……伝わってなかったと思う。
私はたぶん、けっこう普通に話せていたと思う。声も震えなかったし、泣かなかった。
一学期の私じゃないもんね。
「分かった。うん、分かったよ」
「これからは話しかけないようにする」
「今までありがとう、割と楽しかったよ。じゃあね」
弁当箱を押しつけて、階段を降りた。
かん、かん、かん。
鉄の段が、やたら大きな音を立てる。
三階から一階まで、たぶん四十秒くらい。
その四十秒のあいだに、私は一度だけ振り返りそうになって、やめた。
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三
【八奈見杏菜】
水曜の朝。部の連絡箱に、事務連絡が一枚入っていた。
文芸部 御中
一学期末の蔵書点検につき、部室書架の貸出中図書を
七月十九日までに書架へ戻してください。
図書室 高木
……七月十九日って、今日じゃん。
高木先生って誰。旧校舎の図書室って、人がいるところ見たことないけど。
正直、行きたくなかった。
でも締切があるものは締切までにやる。そういうところは私、わりとちゃんとしてる。
というか、それ以外に行く理由がなかったから、ちょうどよかった。
……こういうの、なんて言うんだっけ。
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昼休み。今日の昼は購買のパン。もろきゅうサンドの残りは、月曜の夜に全部食べた。
うん、おいしかったよ。私が作ったからね。
そのあと廊下に出たら、松谷君が立っていた。
「八奈見」
「うわっ。びっくりした。……松谷君」
「少し、いいか」
そしてあの子は、ノートを開いた。
ノートを開いたんだよ。
「条件を確認したい」
「……は?」
「和解に必要な、君の側の最低条件だ。こちらの見立てでは、君の条件は一つだと考えている。すなわち、君の側から譲歩を求めないこと。これで合っているか」
なにこれ。
「なにそれ」
「条件だ」
「条件ってなに」
「和解の条件だ」
「和解する気ないんだけど」
「……それは、条件か」
「条件じゃないよ」
私は腕を組んだ。
「気持ちだよ」
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ぴたっ、と松谷君のペンが止まった。
本当に止まった。指ごと止まって、ノートを見下ろしたまま動かない。
たぶん十秒くらい。
え、なに。フリーズした?
ちょっと不安になって、ノートを覗きこもうとした。
「それ、私のこと書いてあるの?」
「書いてある」
「見せて」
「見せられない」
「なんで」
「……君に見せる用途で書いていない」
「うわ、感じ悪」
そう言いながら、ちょっと笑ってしまった。
この子、本当に、なんなんだろう。
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「松谷君さ」
「なんだ」
「私と温水君の話、なんでそんな一生懸命なの?」
軽く聞いたつもりだった。
というか正直、ちょっと意地悪だった。あんたには関係ないでしょ、って気持ちがゼロだったとは言わない
松谷君はすぐには答えなかった。
そして、こう言った。
「……予定だったからだ」
「よてい?」
「一二三〇に君が教室を出る。一二三四に温水が出る。一二三六に俺が出る」
指を三本立てられた。
「二週間、毎日そうだった。誰が決めたわけでもない。自然にそうなった」
「……うん」
「俺は」
そこで一回、言葉が詰まった。
「俺は、誰にも命じられていない予定というものを、持ったことがない」
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……え?
「言われた場所へ行き、言われた時刻に着く。ずっとそれしかしていない。行かなくてもいい場所に、行かなくてもいい時刻に行くというのは、あれが最初だ」
廊下の窓から、蝉の声がじいじいと入ってきた。
「毎朝、あと何時間で昼になるかを数えていた。数える必要はない。行っても行かなくてもいい場所だからだ」
「……」
「それでも数えていた。あれが何なのか、俺にはまだ名前がついていない」
そして、いきなり我に返ったみたいに言った。
「――以上だ。忘れてくれ」
「いや、忘れないけど」
「忘れろ」
「無理だって」
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私は、その場から動けなかった。
……いや、待って。
命じられていない予定を持ったことがない、って何? 私と同い年でしょ。
そういえばあの子、保護者と暮らしてるって言ってた。親じゃなくて保護者。
……あー。
たぶん、いろいろあった子なんだ。だからあんなに変で、書類が好きで、人との距離が下手なんだ。
――ごめん、意地悪言って。
口には出さなかった。出したら、あの子はまた話題を変える。
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「……それと、一つ、まだ判別できていないことがある」
松谷君はまだ喋っていた。
「なに」
「あれを元に戻したいのが、君たちのためなのか、俺のためなのか、分かっていない」
「……」
「本来なら、分かってから動くべきだ。動機の不純な工作は、たいてい途中で失敗する」
工作って言った。
「じゃあ、なんで来たの」
「分かる見込みがないからだ」
あの子は本当に、なんでもないことみたいに言った。
「一生分からないかもしれない。それを待っていると、間に合わない」
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私は口を半分開けたまま固まっていたと思う。
こんなに変な喋り方をする男子は、この学校に一人しかいない。
なのに、いま言われたことは、この三日で一番まともだった。
「……松谷君ってさ」
「なんだ」
「たまに、すごいこと言うよね」
「そうか」
「うん。ほんと、たまにだけど」
「……そうか」
「あと、聞き方は最悪」
「そうか」
そればっかりだな、この子。
私は少し笑って、それから真顔になった。
「まあ、いいや。ありがと」
「何がだ」
「なんかね。誰も、私に何も聞いてこなかったから」
歩き出しながら付け足した。
「条件じゃないけどね」
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四
【八奈見杏菜】
そのあと、私は旧校舎へ向かった。もともとそのつもりだったのだ。手洗いじゃないよ。
部室の本を返す前に、誰が出した紙なのか確かめておきたかった。
図書室の扉を開けたら、いた。
しん、とした部屋のカウンターの内側で、長袖の先生が本の背に番号を貼っていた。
「あの、高木先生ですか」
「高木です」
「一年C組の八奈見です。あの、これ」
私は事務連絡の紙を出した。
「文芸部宛てに、これ」
「出しました」
「……なんで、うちだけ」
「うちだけではありません」
先生は貼りかけの札を、すっと直した。
「六つの部に出しました」
「六つ」
「貸出中の本があるのが、六つでしたので」
そうですか、と言うしかない。
なのに、私はその場から動かなかった。
「先生、ここっていつもいるんですか」
「います」
「誰か来ます?」
「今日はあなたが二人目です」
「一人目は」
「一年生です。名前は申し上げられません」
「なんで!?」
「利用者の記録ですので」
「それ、校則ですか」
「私の方針です」
かたい。かたすぎる。
「先生」
「はい」
「これ、行かないと駄目ですか」
「駄目ではありません」
「え」
「督促は事務です。従わなくても、罰はありません」
「じゃあ、なんで出すんですか」
先生はそこで、初めてこちらを見た。
目の色が薄い。眠そうなのに、眠そうじゃない目だった。
「締切がないと、たいてい間に合いませんので」
……なんだそれ。
「あの、先生」
「はい」
「わ、私、今日行きたくないんですけど」
言ってから、なんでこの人に言ってるんだろうと思った。
初対面である。
「そうですか」
「そうですか、って」
「行きたくない日に行くための紙です、それは」
先生はまた本に目を戻した。
「使ってください。使わなくても結構です」
「……先生、それちょっとずるくないですか」
「ずるいです」
「認めた」
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放課後。私は部室の書架の前に立っていた。
返す本は一冊。それだけのために来たのだ。
なのに手が止まっている。
かちゃり、と後ろで扉が開いた。
「八奈見さん」
温水君だった。扉のところで固まっている。
いるに決まってる。あの子は部員なんだから。
「ああ、温水君。久しぶりだね」
さっきまで同じ教室にいたのに、何を言ってるんだろう、私は。
「来てたんだ。部活、出るの?」
「今日は本を返しに来ただけだよ。友達と約束あるし、帰るね」
嘘である。約束なんかない。
でもここでそう言わないと、たぶん私は立っていられなかった。
「八奈見さん、いいかな」
「……なに? 友達を待たせてるから手短にね」
背中を向けたまま答えた。振り返ったら顔を見られる。
「ここ最近、ずっと一緒に弁当食べてて。やっぱ俺、楽しみにしてたみたいでさ」
「だから――」
「だから?」
被せてしまった。
……いま思うと、あれは私が悪い。
あの子は言葉を探していただけだった。私はそれを待てなかった。
「俺も……楽しかった。それだけは伝えたくて」
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それだけ?
そう思ってしまった自分が、いちばん嫌だった。
だって、私だってそれ以上の言葉を持っていない。
私たち、なんだったの。恋人じゃない。友達っていうほどでもない。お金の貸し借りでくっついてただけの二週間。
名前がないものは、なくなっても、なくなったって言えない。
「……そう」
私は扉を開けた。
「それじゃ――私、行くね」
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五
【八奈見杏菜】
廊下を歩いていたら、後ろから声がした。
「八奈見」
角のところに松谷君が立っていた。
「……松谷君。またいたの」
「いた」
「聞いてた?」
「聞いた」
「うわ、最悪」
笑おうとして、失敗した。目のところが熱い。
早く帰りたかった。
――お願いだから、優しくしないで。
この三日、みんな私に優しかった。友達も、先生も、温水君も。壊れ物を扱うみたいに、そーっと。
あと一回それをやられたら、私はたぶん、廊下で泣く。
「あのさ、松谷君。私いま、あんまり」
「これを」
かさり、と紙を渡された。
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借 用 証 書(第二号・案)
一、貸主 八奈見杏菜
二、借主 温水和彦
三、目的物 もろきゅうサンドの製法(無形・分割伝授)
四、利息 なし
五、返済方法 昼食会の実施による
……。
……なにこれ。
しかも赤鉛筆で添削が入っている。第三条の欄外に、別の字で「これなら回ります」。その下に、また別の字で「様式として可」
さらにいちばん下の隅に、墨で小さく一行。
急がば回れ、と申します。
「……『急がば回れ、と申します』?」
「それは俺が書いたものではない」
「誰!?」
「言えない」
添削。
添削されてる。
「………………なにこれ」
「……起案だ」
「起案」
「昨夜、検討した。関係の再建には貸借の再建が必要だという結論になったので、その、書式を」
「昨夜?」
「四十分かけた」
「四十分!?」
がばっと顔を上げた。声が裏返っている。
「なんで!? っていうか誰と!?」
「……関係者と」
「関係者!! 誰!?」
「言えない」
「なにその機密!」
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私は紙とこの子の顔を三往復くらい見比べた。
「私が貸主なの?」
「そうだ」
「もろきゅうサンドの製法を、温水君に貸すの?」
「無形の目的物は分割返済に馴染む」
「なにその理屈!」
「あと、この赤字は添削だ。第三条が弱いと言われた」
「添削されてる!?」
そこで、限界だった。
ぶふっ、と吹き出した。
「……っ、あはは! なにこれ、なにこれ! 昼食会の実施による、って! 契約なの!? 私たちの昼ごはん、契約だったの!?」
「契約ではない。だから作ろうと」
「作らなくていいよ!!」
壁にばんと手をついて、そのままずるずるとしゃがみこんだ。
お腹が痛い。肩がびくびく跳ねる。笑い声の合間に、ひくっ、と変な音が混じった。
ぽろっと落ちたのは、笑ってるからだと思う。たぶん。
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……あとから分かったことがある。
この三日間、誰も私を怒らせなかったし、誰も私を笑わせなかった。
みんな私を「かわいそうな子」として扱った。それが優しさなのは分かる。逆なら私も同じことをする。
でもこの子だけ、私の問題を事務として持ってきた。かわいそうな女の子じゃなくて、貸主として。
本人にそんな意図はない。書類を作るのが好きなだけだ。
でも私はそれで息ができた。
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「……これ、もらっていい?」
「署名するのか」
「しないよ! 記念! 記念に持っとくの!」
「記念……」
「うん。世界一ばかばかしい書類だから」
私は紙を鞄にしまった。
「あのさ、松谷君」
「なんだ」
「昼の、あれ」
「条件の話か」
「うん。あれ、聞き方は最悪だったけど」
「……」
「聞かれたのは、あれが最初だった」
言ってから、なんか照れくさくなって、話を変えた。
「証書の字、綺麗だよね。前のも思ってたけど」
「……どうも」
お、言えたじゃん。
「あ、あとひとつ」
「なんだ」
「その関係者の人に、ありがとうって言っといて」
「……伝達事項として承った」
「かたい!」
「……あ、やっぱいい」
「なんだ」
「ありがとうは、自分で言う」
「そうか」
「じゃあね」
歩き出して、一回だけ振り返って、手を振った。
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六
【八奈見杏菜】
木曜の朝。終業式の日である。
私は職員室の前を通りかかって、開いた戸の隙間から中を覗いた。
覗くつもりはなかった。音がしたのである。
シャッ、シャッ、という、聞いたことのない音だった。
松平先生が、机で何かを擦っていた。
黒い石の板と、黒い棒。棒を石の上で、一定の速さで、ゆっくり回している。
「……なにしてるんですか」
思わず声が出た。
先生は手を止めなかった。
「墨を磨っております」
「すみ」
「はい」
「なんで」
「字を書きますので」
「ペンでよくないですか」
「よくはあります」
止めない。
「では、なぜ」
「訊いておられるのは、あなたです」
「あ、そうでした」
私は戸口に立ったまま、その手つきを見ていた。
シャッ、シャッ。
速さが、一秒も変わらない。
「先生、それ何分やるんですか」
「十分ほどです」
「毎朝?」
「毎朝です」
「……十分」
「十分かかるのではありません。十分かけております」
「なにが違うんですか」
「かかるのは、事情です。かけるのは、こちらの都合です」
「その石、高いんですか」
「硯ですか。安物です」
「そうは見えないです」
「三十年使っておりますので。安物でも、三十年使えば手に馴染みます」
「三十年!?」
「はい」
……三十年って。
「先生、おいくつですか」
「二十五でございます」
「若っ。……じゃなくて。三十年前、五歳ですよね」
「よく数えられました」
「答えになってない!」
先生はそこで手を止めて、筆を取った。
机の上の答案に、赤くない朱で数字を書いた。
八十七、と書いた。
一秒もかからなかった。
「……十分磨って、一秒ですか」
「一秒です」
「割に合わなくないですか」
「合いません」
「即答だ……」
先生は次の答案を引き寄せた。
「ですが、この一秒のために、こちらは十分ぶん考えております」
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私は、鞄の中の紙を思い出した。
いちばん下の隅の、墨の一行。
急がば回れ、と申します。
――この字だ。
昨日は、誰の字だか分からなかった。
いま、分かった。
一昨日の夜、四十分かけて関係者と作ったと、松谷君は言った。
関係者。
……いま、目の前にいる。
「先生」
「はい」
「一昨日、松谷君と何かしてました?」
松平先生は筆を置いた。
そして、実に穏やかに微笑んだ。
「さて、何のことでしょう」
「……ごまかしましたね」
「ごまかしてはおりません。覚えていないだけです」
「一昨日ですよ」
「一昨日のことは、たいてい忘れます」
「じゃあ十年前のことは」
「よく覚えております」
しれっと言った。
この人、絶対に喋らないやつだ。
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「八奈見さん」
「はい」
「一つだけ、よろしいですか」
「はい」
「その紙は、署名なさいましたか」
「……してないです」
「そうですか」
「記念に持ってるだけです」
「けっこうです」
「署名なさらないほうがよろしい」
「え、なんでですか」
「書いた紙は、たいてい引き出しの奥へ参りますので」
「……なんでそれ知ってるんですか」
「たくさん書きましたので」
先生は墨の棒を、布で丁寧に拭いた。
「書いてしまうと、そこで終わります」
拭き終えた棒を、かたりと小さな箱にしまう。
「持っているうちは、まだ何も終わっておりません」
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私は職員室の前に、しばらく立っていた。
書いたら終わる。
持ってるうちは終わってない。
……なんだそれ。
なんだそれ、と思ったのに。
鞄の中の紙が、少しだけ重くなった気がした。
私はその紙を、家に帰ってから机の引き出しに入れた。
いちばん上の、すぐ開く段である。
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