負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
~4敗目~ 負けヒロインを覗く時、負けヒロインもまたあなたを覗いているのだ(旧校舎裏・袴田草介の側)
二次創作/視点:袴田草介
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一
【袴田草介】
杏菜のことは、たぶん、この学校の誰よりも知っている。
小学一年で隣の席になった。給食で俺がピーマンを残したら、無言で取っていった。
以来ずっとそうだ。俺の残したものは杏菜が食べる。弁当も学食も部活の差し入れも。
「草介の食べ残しは私のもの」
本人がそう言っていた。所有権の主張である。
「それ、変じゃね」
「変じゃないよ」
「普通、嫌がるとこだろ」
「もったいないでしょ」
「そういう問題か」
「そういう問題」
小学四年のときの会話である。俺はいまでも覚えている。
中学に上がっても、あいつは変わらなかった。
「草介、それ食べないの」
「食う」
「食べないよね」
「食うって」
「五分前からそう言ってる」
「……食わねえ」
「はい」
「じゃあ半分な」
「全部でいいよ」
「太るぞ」
「草介が言う?」
「言うわ」
差し出す前に、もう箸が来ていた。
だから俺は、あいつの前で食べ物を残すことに罪悪感を持ったことが一度もない。
――そういう関係だと思っていた。
十年、そう思っていた。
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華恋が転校してきたのは、五月だった。
教室の前に立って名前を言って、それから俺の方を見て少し笑った。
――それだけである。
理由があったら、俺はもっと悩んだはずだ。
俺は一週間で告白して、断られなかった。
それで終わりである。
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杏菜が俺をどう思っていたかは、知っていた。
知っていたが、確認したことはない。
確認すると、あいつは言わなければならなくなる。言えば俺は断らなければならない。断れば十年が終わる。
――優しさのつもりだった。
あいつは十年待った。俺は十年、気づかないふりをした。
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二
【袴田草介】
温水和彦を探し始めたのは、その日の三限のあとである。
きっかけは、廊下ですれ違った女子の声だった。
「旧校舎の方に、一年のカップルがいるらしいよ」
「え、うそ」
「結婚してくれとか、二人きりがどうとか言ってるって」
「誰?」
「C組の、ほら、八奈見さんと」
「まじで? 彼氏いなかったよね」
「いなかったよねー」
――杏菜。
そこで俺は、けっこうな勢いで安心した。嬉しいより先に安心だった。
――よかった。あいつに、好きな奴ができた。
それなら、俺は許される。
……我ながら、たいへんに都合がいい。
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「温水、ここにいた。探したんだぜ。――あ、おい、ちょっと待てって!」
呼び止めたら通り過ぎそうになった。自分が呼ばれたと思わなかったらしい。
「悪い、ちょっと人前じゃなんだし。こっち来てくれるか」
旧校舎裏へ連れていった。
人が来ない場所だ。中学のとき、杏菜がここで泣いていた。理由は忘れた。たぶんテストの点数だ。
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「温水、悪いな。話ってのは他でもない――」
そこまで言ったら、こいつは黙って財布を差し出してきた。
「……なんで財布出してんだ?」
「え、いや。そういう流れかなと思って」
「どういう流れだよ」
「金を要求される流れかと」
「されねえよ」
「……はい」
「なんで納得してんだよ」
「いや、はい」
――え。
俺、そういう風に見えてるのか。
一瞬本気で凹んだが、面白かったので笑うことにした。
「温水ってボケるキャラだったんだな」
「……はは」
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「温水お前……最近、杏菜と会ってるんだろ?」
「えっ? いや、そうだっけ?」
慌てている。
――照れてるな。
あの慌て方は照れではなく、困っていたのだと、いまなら分かる。
あのときの俺は、そう解釈したかった。
「隠すなよ。旧校舎の方で、結婚してくれとか二人きりがどうとかいちゃついてるカップルがいるって。結構噂になってるぜ」
「いやいや、違うって。その、全部が違うわけじゃないけど根本が違うから」
「根本」
「根本です」
「照れるなって。いつの間にそんなことになったんだよ」
――聞くな。
自分にそう言い聞かせていた。
こいつがいま言おうとしている訂正を、俺は聞きたくない。
聞いてしまったら、噂は噂に戻る。
噂が噂に戻ったら、杏菜には誰もいないことになる。
杏菜に誰もいないなら、俺はまだ、あいつに何かを負っていることになる。
「杏菜のこと、よろしく頼むな!」
俺は頭を下げた。深く下げた。
下げれば相手は否定しにくくなる。それくらいは分かっている。
「ちょっと待って! 色々なんか誤解があるぞ」
「それに俺も嬉しくてさ。杏菜に好きな奴が出来たなら、応援してやりたくて」
「いや、だから……」
「悪いな。俺、お前のこと良く知らなかったから、ちょっと話がしたくってさ」
「あ、うん。それはいいけどさ」
「良ければ今度四人で遊びにでも――」
「いや、だから待ってくれ」
「あ、悪い。いきなり俺ばっかり話してるよな」
――聞かない。
俺は聞かなかった。
温水は何度も言おうとしていた。三回か、四回か。そのたびに俺は別の話をかぶせた。
こいつは俺のことを、人の話を聞かないやつだと思っただろう。
違う。聞こえている。
聞こえているから、かぶせている。
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「……それと、俺と八奈見さんそんなんじゃないから」
「じゃあ、どうして一緒に飯食ったりしてたんだ?」
「……二人が食べ過ぎだからじゃないかな」
「え? 何の話だ」
「いや、こっちの話」
そこで、こいつの様子が変わった。
俺が知っている「困っている顔」ではなくなった。
「……八奈見さん、袴田のことが前から好きだっただろ」
「え、おい。突然どうした」
「知ってただろ? 彼女が自分のこと好きだって」
――ああ。
俺は目を逸らした。逸らしてから、逸らした自分に気づいた。
「まあ、その。そうだとは思ってたけどさ。だから、新しく好きな人が見つかればと」
言いながら、自分の声が言い訳の形をしているのを聞いていた。
十年、俺はこの形の文章を頭の中でだけ、何百回も書いていた。
そうだとは思ってたけど。
でも確認してないし。
待ってくれと言ったことは一度もないし。
全部、本当である。
そして全部、卑怯である。
「あいつ、お前のことが今でも好きなんだよ! 現在進行形で!」
「……おい」
「誤解でそれを上書きしちゃうのは駄目だろ!」
俺より背の低い一年生に、大声で言われて――
そこで、ざっ、と砂を蹴る音がした。
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三
【袴田草介】
「っ。……杏菜」
旧校舎の角に、杏菜が立っていた。
顔が真っ赤である。肩も膝も、わなわな震えている。
チワワか。
「あの、二人共……さ、さっきから何の話してるのかな?」
「八奈見さん、どうしてここに」
「小鞠ちゃんが連絡してきて。温水君がイケメンの不良に絡まれてるとか、シチュに滾るとか言ってたから」
「……不良」
「ひょっとしたらと思って来たんだけど」
杏菜は俺と温水の顔を、信じられないという目で三往復した。
「……で、どゆこと?」
「えーと」
「というか温水君。君いま、草介に何て言ってた?」
「えーと、あのー。限定のガリガリ君チョコミントが美味しいよねーって話を」
「……ホントのこと言おうね。今なら許してあげるよ?」
殺し屋の目である。
十年見ているが、あの目は年に二回しか出ない。
――まずい。
そう思った瞬間、俺の口が勝手に動いていた。
「待ってくれ。俺が無理に全部聞き出したんだ。温水は悪くない」
言ってから、自分でも思った。
いま、いちばん言ってはいけないやつだった。
「……全部全部って、どの全部っ?」
震えが、チワワを超えた。
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俺は震える肩に手を置いた。
置きながら、これも間違いだと分かっていた。
分かっていて、置いた。
「悪い、杏菜。お前に新しい恋が見つかればいいと思って」
――やめろ。
自分の声を、他人が喋っているみたいに聞いていた。
杏菜の顔から、さっと血の気が引いた。
「……そういうの、やめて」
「え」
「やめて」
「……杏菜」
「もうやめろって!」
杏菜の身体が、ひと回り小さくなった。
背中が丸まり、肩が内へ入り、俺の知らない形になった。
――これは。
これは、俺がやったのか。
それでも俺の口は止まらなかった。止め方を知らないのである。
「お前には幸せになって欲しいんだ。俺なんかよりもっといい奴が」
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がしっ、と腕を掴まれた。
温水である。
こいつは俺と杏菜のあいだに割って入り、そのまま俺を見上げた。
「あのさ、袴田! 振るのは全然いいんだよ!」
「は?」
「八奈見さんだろうと誰だろうと、自由にバンバン振りゃあいいんだけどさ!」
「おい、お前」
「だけどさ! 八奈見さんの気持ちを勝手に決めちゃったらさ! 彼女がお前のこと好きだったこととか、その気持ちがどっかいっちゃうだろ!」
俺は何も言えなかった。
「幸せになってほしいとか、新しい恋がどうとか、振ったお前が言うなよ! お前だけはそれ言っちゃダメだろ!」
「……」
「友達として静かに見守ってやれよ! 振ったからって、自分の罪悪感に彼女を巻き込むな!」
そこで温水がむせた。
慣れない大声を出したせいだろう。ごほごほと本気で咳きこんでいる。
俺は反射で背中をさすった。
「おい、大丈夫か」
「あ、ああ……大丈夫……」
俺より二十センチ低い背中である。
さすりながら、ひどく間抜けだと思った。
いま殴られる側の人間が、殴った側の背中をさすっている。
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ふっと、身体から力が抜けた。
「……そうだな。温水、お前の言う通りだ」
「え? ああ、うん。俺こそ一方的に言ってゴメン」
謝られてしまった。
こいつは俺に謝る側では絶対にないのに、謝った。
俺は手を差し出した。握手くらいしか、思いつくものがなかった。
温水がおっかなびっくり手を伸ばしてくる。
――これで終わりだ。
そう思った。
たぶん、いちばん楽な終わり方だった。
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四
【袴田草介】
「……あー、うん。もういいや」
握手の途中で、俺たちは振り返った。
「ごめんね、邪魔して。私、戻るね」
いつもの声である。いつもの顔で、いつもの速さで喋っている。
十年聞いている声だ。
これを出すときのこいつは、たいてい、家に帰ってから泣く。
杏菜はくるりと背を向けて、歩き出した。
俺は止めなかった。
止める資格がないと思ったからだ。
――違うな。
止めると、面倒になるからだ。
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杏菜の足が、三歩で止まった。
道の真ん中に、一年生が立っていたからである。
さっきから角にいたやつだ。いつのまに動いたのか、俺には分からなかった。
音を聞いていない。バスケを七年やっていて、背後の足音を聞き逃したことはない。
「……どいて」
「どく」
どかない。
「どいてってば」
「……松谷君。いつからいたの」
「一二四七からだ」
「なんで時刻!?」
「時刻でないと、いつからかが分からない」
「そういう話じゃなくて!」
「なんの話だ」
「なんで隠れてたのって話!」
「隠れていない。出る理由がなかった」
「あるでしょ普通!」
一年生は真顔だった。
からかっている顔ではない。本気で質問に答えている顔である。
「八奈見」
「……なに」
「一つだけ聞く」
「いいけど」
「いま、それでいいのか」
「いいよ。もう終わったし」
「終わったのは、いつだ」
「……は?」
「終わりが決まった場に、君はいたか」
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杏菜の背中が止まった。
止まったというより、固まった。
俺には何のことか分からない。
分からないが、杏菜には分かったらしい。
「……松谷君さ」
「なんだ」
「それ、聞き方最悪」
「知っている」
「知っててやってるの!?」
「前回そう言われた。改善案が出ていない」
「出すよ! いくらでも出すよ!」
「では、あとで聞く」
杏菜が、ゆっくり振り返った。
俺は反射で半歩さがった。
十年の経験である。
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「振られた振られた言うなっ!」
どんっ、と温水が横に吹っ飛んだ。
飛んだ先で、襟首を掴んで止められた。
「……確保した」
「なんで受け止められてんの!?」
「転倒は危険だ」
「杏菜、ごめ――」
「あんたら二人、なにちょっとイイ感じで締めようとしてんのよ!」
「え、えーと」
「勝手に納得しないで! 頭にタピオカでも詰まってんの?」
タピオカ。
十年つきあってきたが、その罵倒は初めて聞いた。
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がしっ、と胸元を掴まれた。
両手である。シャツごと、思い切り握られた。
顔が、近い。
「草介のことずっと好きだった! 今でも好き! 全然ふっきれてなんてない!」
「……杏菜」
「でも、謝んな! 私の次の恋とか大きなお世話!」
十二年である。
小学一年の四月から数えて、十二年ぶんが、いま俺の胸ぐらを掴んでいる。
俺は手を下ろすことも上げることもできずに、ただ立っていた。
「まだまだあなたのこと好きだから!」
声が、途中から濡れた。
「だから、姫宮華恋と幸せになれ! 勝手に幸せになっちまえ!」
そう言って、杏菜は俺の胸に顔を埋めた。
しばらく動かなかった。
シャツが、じわりと温かくなった。
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そのあいだ、俺は妙なものを見ていた。
さっきの一年生である。
こいつは目を逸らさなかった。
かといって、こっちを見てもいなかった。
一度だけ、上着の内から手帳を出しかけて、開かずに戻した。
――なんだ、あいつ。
止めておいて、書かないのか。
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「私もあなたのこと勝手に好きでいるし、いつか勝手に他の人を好きになるから!」
杏菜はぱっと手を離して、そのまま俺を突き飛ばした。
俺は二歩さがった。
シャツの胸が、まだ濡れている。
ギギギ、と杏菜の首が回った。
次の獲物を探す音である。
「温水君っ! で、君とは何の話だっけ!」
「えー、まあ、俺とは特にそんな何も」
「だよねっ! 特に何もないけどっ!」
ゴツン。
「えーと、いま叩かれたのは」
「意味なんてないっ!」
「え、いいの?」
杏菜は温水の胸に指を突きつけて、ぐいぐい詰めていった。
「あのね、君がしたのは私のことを考えてかもしれないけど! 誰と誰の仲がどうとかこうとか、自分の中で勝手に決めて、勝手に突っ走らないで!」
「でもほら……話しかけちゃいけないと思って」
「勝手に話しかけてくればいいじゃん! 好きにしなよ!」
「学校で人と話すのに許可とか必要? どんな世界観なの?」
「そんなん私が決めることだし! 相手がどう思ってるかなんて、私にだって分かんないよ!」
「時と場合による!」
「……はい」
「で、松谷君は!」
「聞かれれば答える」
「聞いてない!」
「では黙る」
「黙るな!」
「……難しいな」
俺はその横で、静かに感心していた。
こいつ、めちゃくちゃ強いな。
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しばらくして、杏菜は息を吐いた。
目のふちが赤い。だが、もう震えていない。
「……とにかく、二人とも反省してっ!」
「「はいっ!」」
俺と温水の声が、綺麗に揃った。
心が通じ合った瞬間である。
「……三人だ」
「え」
「二人ではない。ここには三人いる」
「……そうだね。三人とも反省して!」
「「「はいっ!」」」
三人で揃った。
松谷は少し遅れたが、ちゃんと言った。
「で、松谷君。君は何に反省するの?」
「不明だ」
「いいから反省して」
「……了解した」
「なんで敬礼するの!?」
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「で、草介。ちゃんと温水君にゴメンなさい」
なんでだ。
良く分からんが、俺は温水に頭を下げた。
「温水、悪い。なんか勝手に巻き込んで」
「いやいや、そんな」
「で、温水君。私にゴメンしなさい」
「ごめんなさい。もう迂闊なことは言いません」
「よし。許してあげる」
杏菜は腕を組んで、満足そうにうなずいた。
それから、ふと不思議そうに首をかしげる。
「……で、この話の落としどころはどこなの?」
「行こうぜ、温水」
「あ、ああ」
四人で顔を見合わせた。
昼休み終了の予鈴が鳴った。
杏菜は睫毛に溜まったやつを指で拭って、それから笑った。
十年見ている笑い方である。
「とりあえず、みんな教室に戻ろっか。はい、回れ右!」
俺たちは勢いに押されて回れ右した。
三人ぶんの背中を、杏菜が両手で思い切り叩いていく。
ぱん。ぱん。ぱん。
三発目だけ、音が違った。
「い……いま、なんで痛かった」
「知らなーい」
杏菜は俺たちのあいだを走り抜けていった。
「さ、みんな遅れちゃうよ!」
振り向きざまに手を振って、走っていく。
俺は温水の肩に手を置いた。
顔を見合わせて、二人で苦笑した。
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五
【袴田草介】
温水が走っていったあと、俺は足を止めた。
松谷という一年が、まだそこに立っていたからである。
「お前、行かねえの」
「行く」
「行かねえだろ」
「……行く」
行かなかった。
「なあ」
「なんだ」
「さっき、なんで杏菜を止めたんだ」
こいつは、少し考えてから答えた。
「行かせたら、また同じになる」
「同じって」
「決まった場に、本人がいない」
「……」
「それが嫌だと、本人が言っていた」
「聞いたのか」
「昨日、聞いた。聞き方は最悪だと言われた」
「……で、今日もやったのか」
「改善案が出ていない」
俺は思わず笑った。
笑ってから、笑える立場じゃないなと思った。
「……お前、あれで止めたつもりなのか」
「止めるつもりはなかった」
「じゃあ何だよ」
「聞いただけだ」
「聞いただけで、あれになるかよ」
「……そうだな」
こいつは自分でも意外そうな顔をした。
本当に、そういう顔だった。
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俺は少し笑おうとして、失敗した。
そして、聞いてしまった。聞かなければよかったのだが、聞いた。
「本当か」
「……」
「いま温水が言ったやつ。今でも好きってやつ。本当なのか」
こいつは少しのあいだ黙って、それからこう言った。
「六月十一日だ」
「え?」
「八奈見杏菜が、あなたと姫宮華恋の交際を知った日だ。以後、三十九日が経過している」
――は?
「その三十九日のあいだに、彼女があなたの名前を口に出したのを十一回確認している」
「……なんでそんなこと数えてんだよ」
「同じ卓で昼を食べていた。数えるつもりはなかったが、数えていた」
「……お前、こわいな」
「よく言われる」
「嘘つけ」
「……嘘だ」
「認めんのかよ」
「一度だけ言われた」
「誰に」
「……高木先生に」
そして、こいつは最後にこう言った。
「一度も、悪く言っていない」
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俺は何秒か、呼吸を忘れていたと思う。
三十九日。十一回。一度も。
さっき杏菜が言ったことは全部聞いた。好きだとも、幸せになれとも言われた。
だが、一度も悪く言わなかった、は言われていない。
それは本人の口からは出ない種類のものである。
「……そうか」
「そうだ」
「ありがとうな」
「……礼を言われる筋合いはない」
「そうかもな」
俺は歩き出した。途中で振り返って、一つだけ言った。
「お前、なんかすごい聞き方するんだな。刑事みたいだった」
「よく言われる」
――嘘だろ。
さっきも同じこと言ってたぞ、それ。
歩きながら、一つだけ引っかかっていた。
あいつは、あれだけ数字を覚えている男である。
なのに、さっきは手帳を出しかけて、開かずに戻した。
杏菜が十二年ぶんを叫んでいたところだけ、書かなかったのだ。
――書けなかったのか。
分からん。
分からんが、たぶん、そっちの方が正しい。
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旧校舎の角を曲がったところで、先生に会った。
長袖にスラックス。夏なのに袖をまくってもいない。腕に本を四冊抱えている。
「……あ、すいません」
「三年の袴田君ですね」
「え」
「バスケット部の。三階の窓から、練習が見えます」
そういえば旧校舎の図書室はコートの真上である。
「先生、図書室の」
「高木です」
「……あの、先生」
「はい」
「変なこと聞いていいですか」
「どうぞ」
「人って、知ってて知らないふりしてたら、罪ですか」
言ってから、自分でぎょっとした。初対面の先生に聞くことではない。
先生はしばらく黙っていた。
「袴田君」
「はい」
「知らないふりというのは、たいてい、うまくいきます」
「……はい」
「うまくいくから、続きます」
「……はい」
「私は、それを六年やりました」
俺は顔を上げた。
この人がいくつなのか分からない。若く見えるが、若く見えるだけかもしれない。
「六年、ですか」
「六年です」
「なにを、ですか」
「答えません」
「……そこ答えないんですか」
「答えると、長くなりますので」
「それで、どうなったんですか」
「間に合いませんでした」
先生は、それだけ言った。
悔いも重さもない言い方だった。晴れですね、と言うのと同じ調子である。
だから、こたえた。
「……先生。俺、十年やりました」
「そうですか」
「まだ間に合いますか」
高木先生は、初めてこちらを見た。
目の色が薄い。
「間に合うかどうかは、あとで分かります」
「……いま知りたいんですけど」
「いま分かるなら、誰も六年もやりません」
そう言って、先生は旧校舎の扉に手をかけた。
「袴田君。一つだけ」
「はい」
「間に合わなかった場合にも、やることはあります」
「……なんですか」
「言ってしまうことです」
ぱたん、と扉が閉まった。
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六
【袴田草介】
その日の夜。
俺は自分の部屋でスマホを持って、三十分ほど固まっていた。
華恋からのメッセには五分で返した。杏菜に何を送るかで、三十分かかった。
『杏菜、今日さ』
消した。
『あのさ、変なこと聞くけど』
消した。
『俺、ずっと気付いてたのに』
消した。
――違う。
書きたいのは、俺が十年ずるかったという話である。
だが書けば、あいつは「気にしてないよ」と返してくる。
あいつはそういう女だ。返してきたあとで、たぶん一人で泣く。
――言ってしまうことです。
そう言われた。言ってしまえと。
俺は結局、十一文字だけ送った。
『杏菜、ごめんな』
送信してから、俺は枕に顔をうずめた。
――最悪だな。
謝んな、と言われたばかりである。今日、面と向かって。
それでも謝った。
つまり、これも俺のためである。
既読はすぐについた。返事は来なかった。
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翌朝、駅のホームで捕まった。
「草介」
「……おう」
杏菜は、いつもと同じ顔をしていた。
いつもと同じ顔をしているときが、いちばん怖い。十年やっていれば分かる。
「昨日の、なに」
「……ああ」
「私、謝んなって言ったよね」
「言った」
「言ったよね?」
「言った」
「じゃあ、なんで謝ったの」
俺は答えられなかった。
答えは持っている。俺が楽になりたかったから、である。
それを言うと、また楽になる。
「……あのさ、杏菜」
「なに」
「昨日、お前が帰ったあと。松谷って一年と話した」
「……松谷君」
「あいつ、俺に数字を並べてった」
電車が来るまでの三分で、俺は全部話した。
杏菜は黙って聞いていた。途中で一度だけ、聞き返した。
「三十九日?」
「うん。あと、十一回。名前を出した回数だって」
「十一回」
「うん」
「多い? 少ない?」
「知らねえよ」
「三十九日で十一回でしょ」
「うん」
「……三日半に一回じゃん」
「暗算すんな」
「するでしょ、そこは」
「そこで暗算する女、他にいねえよ」
「褒めてる?」
「褒めてねえ」
「……あいつ」
杏菜が小さく言った。
「そこ、丸暗記したの?」
「した」
「……そりゃそうか」
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正直、怒られると思っていた。
怒られたかった、というのが正確かもしれない。
だが杏菜は怒らなかった。少なくとも、俺には。
「……分かった。ありがと」
「怒らないのか」
「怒ってるよ」
杏菜は前を向いたまま言った。
「でも、草介にじゃない」
「じゃあ誰に」
「言わない」
「言えよ」
「言わないってば」
「ヒントくれ」
「やだ」
――ああ。
そうか。
俺は、怒られる資格すら、もうないのか。
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電車が来た。
乗る直前に、杏菜が言った。
「草介さ」
「ん」
「私、ちゃんと、他の人にもごはん作るからね」
「……は?」
「なんでもない」
「なんでもなくないだろ」
「なんでもないの」
「意味わかんねえよ」
「わかんなくていいよ」
そう言って、あいつは先に乗った。
俺は意味が分からないまま、隣の車両に乗った。
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意味は、たぶん、一生分からない。
ただ、あいつの背中を見て、一つだけ思ったことがある。
――俺の食べ残しを食う係、やめたんだな。
小学一年からずっと、あいつは俺の残したものを食ってきた。
たぶん、もう食わない。
そのことに俺は少しほっとして、そのあと、けっこう長いこと落ちこんだ。
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華恋には、この話をしていない。
する必要のない話だし、したら華恋が気にする。
……いや。たぶん違う。
したら、俺が楽になるからである。
だから、しない。
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一つだけ、決めたことがある。
これからも杏菜とは友達をやる。
十年ぶんの負い目を持ったまま、下手くそに何度も間違えながら友達をやる。
許してくれとは言わない。
――言ったら、また楽をすることになるからだ。
朝の車内は混んでいて、俺は吊り革を握って窓の外を見ていた。
七月の空が、嫌になるくらい晴れていた。
今日で、一学期が終わる。