負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
第24話 1巻2敗目幕間 甘夏視点 一個下
~2敗目~ 約束された敗北を君に 焼塩檸檬(体育倉庫の翌日・職員室の側)
二次創作/視点:甘夏古奈美
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一
【甘夏古奈美】
「松平先生、手を出してください」
「はい」
差し出された手のひらに、私は竹輪を載せた。
朝の職員室である。
松平先生は竹輪を見た。それから私を見て、もう一度竹輪を見た。
「……青じそ入りです」
「青じそを、中に」
「豊橋といえば竹輪なんですよ。先生、知ってました?」
「存じております」
即答だった。
「昨日の倉庫の件です。そのお礼で。安いですけど」
「頂戴します」
松平先生は包みを開けはじめた。開け方が丁寧すぎて、いつまで経っても半分しか開かない。ようやく出てきた竹輪を、この人は自席で、朝の八時十分に、両手で持って食べた。
音がしない。
竹輪というのは、噛めば音がする。この人は噛んでいるのに、しない。
食べ終わると、包み紙を膝の上で三つに畳んで、上着の内側にしまった。
――竹輪の包み紙だぞ、それ。
「これは……面白いお味ですね」
「そうですか」
「青じその香りが、練り物の甘みを断ち切ります。切る働きをする調味料というのは、珍しい」
「先生、竹輪の感想が長いです」
「失礼しました。もう一言だけ、よろしいですか」
「まだあるんですか」
「これを考えた方は、たいへん贅沢なことをなさった」
「贅沢?」
「なくても売れるものに、手を加えておられます」
「それ、褒めてます?」
「褒めております」
「分かりにくいんですよ」
「以後、短くいたします」
朝の八時十分に、竹輪でその話をする人である。
この人は何をしていても同じ速さで動く。廊下でも階段でも、会議に遅れそうなときでも歩幅が変わらない。それでいて、いつのまにか誰よりも先に着いている。
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「先生、下の名前ってなんて読むんでしたっけ」
「やすまさ、と申します」
「松平康昌。……あのですね、うち社会科なんですよ。専門は世界史ですけど」
「存じております」
「越前の松平に、春嶽って人がいるんです。幕末の」
「ええ」
「先生、親戚だったりします?」
「遠いご縁があるとは、聞いております」
「えっ、あるんですか!?」
「たいへん遠い縁でして。家系図の、端のほうです」
「……端」
「端は、たいてい紙が破れておりますので」
松平先生は、そう言って湯呑みを取った。
うまいこと言うな、と思った。
うまいことを言われたときは、たいてい何かをかわされている。それに気づいたのは、三十秒くらいあとだった。
そこへ事務長の城戸さんが、書類の束を抱えて通りかかった。
松平先生は椅子を引いて、半歩下がった。
下がったのだが、まっすぐ後ろではない。斜め後ろに、半歩である。城戸さんが会釈をして通り過ぎ、松平先生は元の位置に戻った。
「先生、いまの」
「はい」
「なんで斜めなんですか」
「まっすぐ下がりますと、通る方の正面に入ります」
「……はあ」
「斜めですと、道が広くなりますので」
理屈は分かる。
分かるが、そんなことを毎回考えながら生きている人間が実在するとは思わなかった。
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「甘夏先生」
振り向くと、学年主任の米浦先生が立っていた。大きい人が背後に立つと、それだけで叱られている気分になる。
「昨日の熱中症の件、報告書は」
「今日中に出します」
「そう」
米浦先生は頷いて、行きかけて、それから付け足した。
「……先生が気づかれて、よかった」
そのまま自分の席へ戻っていった。
私はしばらく動けなかった。
気づいたのは、私ではない。
「先生」
「はい」
「訂正してください」
「なにをでしょう」
「気づいたの、私じゃないですよね」
「甘夏先生が鍵をお貸しくださいました」
「貸しただけですよ!」
「鍵がなければ、扉は開きません」
「屁理屈だ」
「事実です」
「先生、それ得意ですよね」
「何がでしょう」
「事実で殴るやつ」
「殴っておりません」
「殴られてるんですよ、こっちは」
「……以後、気をつけます」
同じ顔で、同じ速さで返ってくる。この人は言い返すとき、声が大きくならない。それがいちばん腹が立つ。
「じゃあ聞きますけど、気づいたのは誰なんですか」
「さあ」
「さあじゃないでしょう。うちのクラスの、ええと……」
そこで、名前が出てこなかった。
一秒。二秒。
出てこない。
「松谷さんです」
松平先生が言った。
私が言うべきだった。
「……そう、松谷。松谷ね」
「ええ」
「知ってたんですか」
「副担任ですので」
副担任である。五月に来た副担任である。
私は、五年目の担任である。
「……先生」
「はい」
「うちの竹輪、返してもらえます?」
「食べてしまいました」
「知ってます」
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話を変えたのは、私だ。
「あの扉、内側から開かないんですってね」
「四月からそうだそうです」
「なんで誰も言わないんだ」
「備品は点検されますが、建具は誰の仕事にもなっておりません」
「じゃあ先生、次の会議で言ってくださいよ」
「いえ」
「意見ないんですか」
「大いにございます」
「あるんじゃないですか」
「ですが、うかがうだけにしておきます」
「なんでですか」
「公務員ですので」
「私も公務員ですけど!?」
「甘夏先生は、担任でいらっしゃる。五年目の担任の方から出たほうが、通るのが早うございます」
そりゃそうだ。
そりゃそうなんだが、この人はいま、私にしかできない仕事を一つ渡した。渡すために、たぶん朝から待っていた。
――四年多いんだぞ。経験年数。
言おうとして、やめた。
言ったら、四年しかない人間になる気がした。
「……先生って、会議で足を組まないですよね」
「そうですか」
「三時間ですよ。一ミリも動かないでしょう」
「六時から翌朝の一時まで、というのがございましたので」
「なにがですか」
「……長い、会議です」
「どこの会社ですか、それ」
松平先生は微笑んだ。
微笑んだだけで、答えなかった。
---
二
放課後、私はもう一度あの席に行った。
会議に出す用紙をもらいに来ただけである。それ以外の用はない。
松平先生は筆を持っていた。
墨の匂いがした。この人が毎朝十分かけて墨を磨っているのは職員室じゅうが知っている。二か月前は全員が「なんだあれ」という顔をしていたのに、いまはもう誰も見ない。
机の上に、見覚えのある紙があった。
「先生、それ」
「座席表です」
「見れば分かります。私のクラスのですよね」
「はい」
「印刷したの、四月に配りましたよね」
「頂戴しております」
「じゃあなんで書き写してるんですか」
私は紙を覗きこんだ。
覗きこんでから、近すぎたことに気づいた。
墨の匂いと、それから、たぶん洗いたてのシャツの匂いがした。松平先生は動かなかった。私だけが半歩下がった。
――なんで私が下がるんだ。
「印刷いたしますと、紙が一枚できます」
「はい」
「書き写しますと、三十九回になります」
「……は?」
「一人につき、一回です」
紙には、窓側の前から順に、細い字で名前が入っていた。線は定規で引いてある。字の大きさが全部同じで、行が一ミリも曲がっていない。
「これ、いつからやってるんですか」
「月曜の朝に」
「毎週!?」
「十分ほどで済みます」
「墨を磨るのに十分かかってるでしょう!」
「ですから、磨いているあいだに、何を書くかを決めております」
理屈が通っているのが腹立たしい。
「……じゃあ、言えます? うちのクラス」
「窓側の前から、でよろしいですか」
「どうぞ」
松平先生は座席表を裏返して、言った。
止まらなかった。
七人目で私は名簿を出し、十四人目で出すのをやめた。合っているからである。私がいつも取り違える二人も、間違えなかった。
「……ストップ。もういいです」
「失礼しました」
「謝るとこじゃないでしょう」
「では、なんと申しましょう」
「なんも言わなくていいです」
「承知しました」
「その返事もむかつく」
「……失礼しました」
「だから謝るなって」
私は椅子を引き寄せて座った。座るつもりはなかったのだが、立っていられなかった。
「甘夏先生」
「なんですか」
「いま、たいへん珍しいお顔をなさいました」
「してません」
「昔の書物に、三斗の酢を鼻から吸ったような顔、という言い方がございます」
「なんですかそれ」
「私も存じません。三斗も吸ったら、どういう顔になるものでしょうね」
真剣に考えている。
この人はいま、本気で酢のことを考えている。
「先生」
「はい」
「そういうとこですよ」
「どういうところでしょう」
説明できるなら、とっくにしている。
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そこへ戸が開いた。
「失礼します。文芸部の書類、出し忘れてました」
うちのクラスの男子だ。
顔は分かる。窓側の後ろから二番目。おとなしくて、成績は悪くない。
名前が、出てこなかった。
「あー……ぬるみず」
「ぬくみずです」
「そうそう。ぬくみず」
「温水さん。用紙はこちらへ」
松平先生が受け取り箱を出した。
「今日は、文芸部は活動日でしたか」
「あ、はい。これから行きます」
「では、お急ぎでしょう」
男子は書類を入れ、一礼して出ていった。
戸が閉まる。
二度目である。今日、二度目だ。
顔は覚えている。名前だけがない。名前だけがないというのは、要するに全部ないのと同じことだ。私は四月から三か月、あの子を「窓側の後ろから二番目」として運用してきたのである。
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「先生、なんでそんなに名前にこだわるんですか」
「名前を覚えていないと、困る仕事をしておりました」
「前職ですか。なにやってたんです」
「こまごまとした事務です」
「何年やったんですか」
「二十年ほ――」
松平先生の言葉が、そこで止まった。
「――いえ。長く感じただけです」
「二十年って、先生五歳ですよ」
「そうですね」
訂正はしなかった。
変な言い間違いをする人だな、と思った。思っただけで、その場では流した。
流したのに夜まで頭に残っていたのは、たぶん、この人の笑い方が、間違えた人の笑い方ではなかったからだ。
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「先生」
「はい」
「いまの子、四月からうちのクラスにいるんですけどね」
「ええ」
「私、あの三十九人は把握してるつもりだったんですよ。顔と名前と、成績と、部活と、家の事情もだいたい」
「立派なことです」
「立派じゃないです」
私は座席表の端を指ではじいた。
「昨日、生徒会の子に聞かれたんです。誰が気づいたんですかって」
「ええ」
「地味な子、って答えました」
言ってしまってから、来た道を間違えたと思った。
こんなことを言いに来たのではない。用紙をもらいに来たのだ。
松平先生は何も言わなかった。
慰めなかった。大丈夫ですよとも、お忙しいですからねとも言わなかった。湯呑みを持ち上げて、一口飲んで、置いた。
置くとき、絵柄がこちらを向いた。
――待ち方が、うますぎるんだ。
小抜ちゃんの言うとおりである。この人は、こっちが喋り終わるまで絶対に自分の番を取りにこない。取りにこないから、こっちが勝手に喋る。喋りすぎる。
「決めました。明日から全員と面談します」
「おやめなさい」
「なんでですか」
「水温の急変です」
「は?」
「甘夏先生。シャーロック・ホームズは、こう申しております」
「はい?」
「過食、水温の急変、酸素の不足。そのいずれかが、愛魚を死に導く」
「……ホームズ、そんなこと言ってました?」
「言っておりません」
「言ってないんかい!」
「言っていないほうが、よく効くのです」
松平先生は、たいへん品のいい顔で嘘をついた。
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「甘夏先生」
「はい」
「用紙が余っております」
松平先生は引き出しを開け、白紙の座席表を私の前に置いた。三十枚くらいある。
「余りすぎでしょ」
「刷りすぎました」
嘘だ。
この人が刷りすぎるわけがない。
「一日に一枚で、十分でございます」
私は三十枚を受け取って、鞄に入れた。入れてから、一つだけ聞いた。
「先生。なんで私に謝らせなかったんですか。廊下で」
「頭を上げていただかないと、話が進みませんので」
「……それだけ?」
「人の見ている場所で、人に頭を下げさせるものではありません」
「……」
「それだけです」
絶対それだけじゃない。
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三
「古奈美、今日で四回目よ」
「なにが」
「松平先生の話」
保健室である。ハーブティーが出てきた時点で長引くと分かっていたが、逃げそこねた。
「してないだろ」
「一回目が竹輪、二回目が座席表、三回目が墨、いまが四回目」
「数えるなよ」
小抜ちゃんはカップに口をつけて、目だけでこっちを見た。
「それで、どこが好きなの」
「はあ!?」
「早いわね、否定が」
「否定してないだろ、まだ」
「もっと悪いわ」
私はハーブティーを一気に飲んだ。何か入っている気がしたが、この際どうでもいい。
「あのな。私が結婚したいのは事実だ。それは認める。だがな、相手は選ぶぞ」
「ええ」
「あの人、一個下だぞ」
「一個下なんて、いまどき誰も気にしないわよ」
「私が気にするんだよ」
言ってから、なんで気にするんだろうと思った。
一個下でも二個下でもいい。実際どうでもいい。私が引っかかっているのは年齢ではなくて、あの人が一度もこっちを後輩扱いしないくせに、こっちが一度も先輩になれていないことだ。
「経験年数は、こっちが四年多いんだからな」
「それ、今日三回目」
「数えるなって言ってるだろ」
小抜ちゃんは笑って、それから急に真面目な顔になった。この切り替えが早いから、こいつは怖い。
「古奈美。あなた、あの人のこと『すごい』って一回も言ってないわね」
「言うわけないだろ」
「ええ。ずっと『分からない』って言ってるの」
「……それの、なにが問題なんだ」
「分からない人のことは、考え続けるでしょう」
「…………」
「ほら、黙った」
「うるさい。帰る」
「古奈美」
「なんだよ」
「傘、持ってる?」
「……持ってない」
「そう」
「なんだよ、その『そう』」
「べつに」
小抜ちゃんは窓の外を見て、それからカップを置いた。
「送りましょうか」
「歩いて帰れる距離だ!」
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昇降口を出て、五歩で引き返した。
ざあっ、と音がした。
夕立である。
バケツをひっくり返したような、という言い方があるが、あれは正確だ。誰かが本当に上でひっくり返している。
――小抜のやつ。
知ってて聞いたな、傘のこと。
傘は先週なくした。どこでなくしたかも覚えていない。
「甘夏先生」
心臓が飛び上がった。
足音がしなかったからである。
この人は音を立てない。歩いても、椅子を引いても、湯呑みを置いても、扉を閉めても立てない。二か月それを見てきて、静かでいい人だなと思っていた。静かでいい人ではない。背後を取られるということである。
振り向くと、松平先生が鞄を提げて立っていた。半歩ぶん斜めの位置に。
「お送りします」
「え、いや、いいですよ」
「濡れます」
「濡れますけど」
「では、参りましょう」
断り方を考える時間が、まったく与えられなかった。
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駐車場で、私は足を止めた。
雨の中に、四角い車が一台停まっている。ずいぶん古い。角が全部きちんと角になっていて、いまどきこういう形の車は走っていない。
ボンネットの先端に、丸の中の三つ又が載っていた。
「先生、これ」
「はい」
「ベンツじゃないですか」
「ええ」
「教員の給料でですか!?」
「たいへん古いものです。安く出ておりましたので」
安く出ていたとして、買うか普通。
中は驚くほど片づいていた。灰皿に何も入っていない。革の匂いがして、内側の張りが木で、計器の文字盤が丸い。ダッシュボードの上に、銀色の細長い水筒が一本だけ載っている。
「なんでベンツなんですか」
「……昔、同じところの車に」
「昔」
「乗っておりました」
それきり黙って、松平先生は運転席の扉を閉めた。
閉める音がしなかった。車の扉というのは音がするものだと思っていたのだが。
助手席のシートベルトが引っかかった。引っぱっても出てこない。
「失礼します」
松平先生が身を寄せて、金具を一度戻し、かちり、と静かに引き出した。
近い。
異様に近い。
墨の匂いがして、雨の匂いがして、私は自分の呼吸の音が車内でいちばんうるさいことに気づいた。
「どうぞ」
「……どうも」
なんで私が敬語なんだ。
シートに背中を預けて、私は窓の外を見た。見るものが外にしかなかったからである。運転席のほうを向いたら負けだという気がして、負けるとは何にだ、と自分に聞いて、答えが出なかった。
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車が動きだした。
滑らかすぎて、動きだしたことが分からなかった。曲がるときに身体が振られない。信号で止まるときも、最後にかくんと来るあの感じがまったくない。
「先生、運転どこで覚えたんですか」
「学生のころに、少し」
「少しでこれですか」
「部を、一つ作りましたので」
「部?」
「自動車の部です。部員が、百人ほど」
「百人!?」
「……仲間内の話です」
「仲間内で百人はいないでしょう」
「おりましたので」
そこで終わるはずだった。
いつもなら終わる。この人はここで湯呑みを取るか、魚の話に変えるか、微笑んで黙る。三つのうちのどれかである。
「……甘夏先生」
「はい」
「一つ、よろしいですか」
「どうぞ」
「車というものは、ばらしてしまえば、ただの物です」
「はあ」
「鉄と、ゴムと、革と、油です。一つ一つには、何もありません」
信号が赤になった。
止まるとき、やっぱりかくんと来なかった。
「ですが、組み上げて走らせますと、生きております」
「……生きてます?」
「生きております」
真顔だった。
こういう顔をするときのこの人は、たいてい本気だ。竹輪のときも本気だった。
「甘夏先生。ハンドルというものは、この、握った手のひらに返ってくるものがございましてね」
松平先生は片手をわずかに動かした。
「馬の手綱と、まったく同じでして」
「馬」
「はい」
「……先生、うちのクラスで馬の話しましたよね」
「いたしました」
「あれ、車の話だったんですか」
「順番は、逆でございます」
信号が青になった。
車が出た。
「石の畳んである道は、手綱がよく鳴ります。砂利は、鳴りません。峠は、上りと下りで別の馬になります」
「先生。峠って、どこの峠ですか」
「国境の」
「国境!?」
「はい」
私はシートベルトを握った。世界史の教師にとって、国境という単語は餌である。出されたら食いつくし、食いついたら離さない。
語尾は丁寧なままだった。声の高さも変わらない。変わったのは間だけである。ふだんのこの人は、返事と返事のあいだに必ず一拍置く。その一拍が、いま、消えていた。
「先生」
「山を一つ越えるごとに、乗り換えたような気がいたしまして。国境を越えますと、道の匂いまで変わります。あれは……その、たいへん」
「たいへん」
「たいへん、面白うございました」
「国境って、そんなに違うものですか」
「違います。それに、待たされます」
「待たされる?」
「車の列ができておりました。前が済むまで動けません」
「え」
「窓を開けて、書類を出します。後ろの荷物を開けさせられたこともございました」
「両替は、どうしてたんですか」
「国境ごとにいたしました」
「国境ごと!?」
「はい。手数料で、ずいぶん取られます」
「……えっと、先生」
「はい」
「いまヨーロッパ、国境で止まらないですよ」
「止まりませんか」
「止まりません。パスポートも出しません」
「……さようで」
「お金も同じです。だいたいユーロなので、両替もいりません」
「……ユーロ」
「ユーロです」
「……そうでしたね」
そうでしたね、と言った。
知らなかった人の言い方ではない。忘れていた人の言い方でもない。
いま初めて聞いた人が、二度目のふりをするときの言い方である。
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国境で車を止められて、書類を出して、荷物を開けられる。
その話を、私は授業でやる。ヨーロッパが国境をやめた話を、毎年一回やる。
やめたのは、そんなに昔ではない。私が生まれる、少し前である。
この人は二十五だ。
生まれる前の旅の話を、自分の足で行ったみたいに喋っている。
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「先生、それ何を追いかけてたんですか」
「試合です」
「試合」
「庭球の。ウィンブルドンという大会がございます」
「……ていきゅう」
「はい」
「先生、いまテニスのこと庭球って言いました?」
「申しました」
「戦前の新聞ですか」
「……テニスでございます」
「最初からそう言ってください」
「以後、気をつけます」
気をつけますと言った人が、このあと三回ほど庭球と言うことになる。
「あれに出る者を決める試合が、一年かけてヨーロッパ中で続きます。国を替えながら、順に」
「……追いかけたんですか」
「はい」
「車で」
「フランスから入って、ドイツを抜けて、イタリアまで」
私は、たぶん口を開けていた。
飛行機ではない。列車でもない。地図と車だけで、フランスとドイツとイタリアを縦断したという話をしている。
「先生、それ、選手として出たんですか」
「見るだけです」
「見るだけ!?」
「見るだけでございます」
「なんでそこまでして」
「面白いからです」
――出た。
その答え方を、私はこの人の授業の評判で聞いている。試験には出ません、じゃあなんでやったんですか、面白いからです。
同じ人が、同じ声で、同じことを言っている。
「宿は」
「取れないときは、車で寝ました」
「車中泊!?」
「屋根がありますので」
「先生、それ貧乏旅行っていうんですよ」
「そう申しますか」
「言いますよ」
「では、そうです」
あっさり認めた。
この人が何かを認めるところを初めて見た。
認めた顔が、ほんの少し、得意そうだった。
――喋ってる。
この人が、自分から喋っている。
二か月、私はこの人が自分の話をするところを一度も見ていない。前職も、出身も、家族も、休みの日に何をしているかも知らない。職員室の全員が知らない。
その人が、いま、峠の話をしている。
峠の話というのは、要するに道の話であって、道の話というのは、そこを通った人間の話である。国境がどうとか言った。ヨーロッパだ。いつの話だ。この人はいくつのときにそんなところを走っていたんだ。
「先生、ドイツはどうでした」
「道は、たいへん結構でした」
「そうじゃなくて。街とか」
松平先生は、少し考えた。
「油の値段が、朝と夕方で違いました」
「……は?」
「朝に入れた分と、夕方に入れた分で、桁が変わっておりまして。財布ではなく、鞄で払っている者がおりました」
私は運転席のほうを向いた。
さっきまで、向いたら負けだと思っていた。
「先生」
「はい」
「それ、いつの話ですか」
「昔です」
「昔って、何年ごろですか」
「……ずいぶん、昔です」
紙幣を鞄で運ぶ。それが起きた場所と時期を、私は一つしか知らない。授業で毎年やる。生徒がいちばん食いつくところだから、札束を積んで遊ぶ子供の写真まで見せる。
第一次大戦のあとのドイツである。
百年ちょっと前だ。
――じゃあ、誰の話だよ。
おじいさん、と一瞬思って、そこで引き算をした。この人は二十五である。祖父なら、生まれるのがまだ何十年か先になる。ひいおじいさんでも足りない。人一人ぶん足りない。
――二度目だ。
さっきは三十年ずれていた。今度は百年ずれている。
ずれ方が、大きくなっている。
そして、私が引っかかったのは年数ではなかった。
――違いました、って言ったよな。
読んだ、でもない。聞いた、でもない。
「先生」
「はい」
「いまの、どこで知ったんですか」
一拍あった。
さっきまで消えていた一拍が、戻ってきた。しかも、いつもより長い。
「……古い書物に、そう書いてございました」
「本」
「はい」
「本ですか」
「本でございます」
――言い直した。
本の話をする人間は、最初から本の話をする。値段が違いました、とは言わない。書いてありました、と言う。
この人はいま、主語を後ろから取り替えた。取り替えたことに気づかせない速さで、丁寧な言葉づかいのまま、きれいに取り替えた。
たぶん、こういうことを何千回もやってきた人の手つきだった。
気づいたのは、私がたまたま世界史の教師で、たまたま毎年その単元をやっているからにすぎない。
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そこで、私の頭に一つの文が浮かんだ。
浮かんだというより、勝手に組み上がった。授業で年表を作るときと同じ順序で、勝手に並んだ。
国境で止められる旅。鞄で運ぶ紙幣。庭球。毎朝十分の墨。
――この人、いまの人じゃないんじゃないか。
私はシートベルトの縁を強く握った。
握ってから、自分にあきれた。
世界史の教師が言うことではない。
時代のずれた人がいる、というのは生徒が言う話であって、教える側が言う話ではない。授業でそれを言ったら、私は来年ここにいない。
だいたい、そんなことがあるわけがない。
あるわけがないのだが、私はいま、あるわけがないと自分に言い聞かせている。
言い聞かせる必要のあることを、人は疑いという。
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「……そうですか」
「はい」
問い詰める気には、なぜかならなかった。
代わりに私は、頭の中の引き出しを一つ開けて、そこに放りこんだ。
――分からない。
保健室で言われたばかりの言葉である。
この引き出しは、二か月でずいぶん重くなっている。
「イタリアの道は、ひどうございました」
「……先生」
「タイヤが二本だめになりまして。地図も間違っておりました。あれは、地図が悪いのではなく、道のほうが地図より先に変わるからでして」
「はい」
「地図を読む者が、隣におりましたので」
「……え」
「……いえ」
そこで、切れた。
蛇口をひねって止めたみたいに切れた。
私は隣の座席を見た。見たというか、自分が座っているところを見た。
――ああ。
ここ、そういう席なんだ。
運転する人がいて、地図を読む人がいる。二人でないと成立しない乗り物の話を、この人はいましていた。
窓の外は雨で、道はまっすぐで、隣で地図を読んでいるのは機械である。
「先生、いま楽しいでしょう」
「……はい」
「はいって言った」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいですよ」
「速度が出ておりました」
見ると、確かに少しだけ出ていた。
この人、車の話をすると速くなるらしい。
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松平先生はカーナビの画面を指した。
「甘夏先生。これは、たいへんなものですね」
「カーナビですけど」
「道が、向こうから話しかけてまいります」
「まあ、喋りますね」
「先の交差点を右へ、と申しました。あれは、この機械が先に行っているのですか」
「行ってないですよ。地図です」
「地図が、先に」
「はい」
「……地図が、先に行っている」
松平先生は、しばらく黙って画面を見ていた。
信号が青になっても、すぐには出さなかった。
後ろの車が、遠慮がちに鳴らした。
「……失礼しました」
「先生、たまに変ですよ」
「よく言われます」
「言われるんだ」
「言われます」
「誰にですか」
「……いろいろな方に」
「ごまかしましたね」
「ごまかしておりません」
車が出てから、松平先生は一度だけ、給油計の針に目をやった。
「油は、いつまでもあるものではございませんので」
「……はい?」
「いえ。昔、そういう計算をしたことがございます」
「なんの計算ですか」
「あと何年もつか、という」
「先生、車の話ですよね」
「車の話です」
「本当に?」
「……車の話です」
「二回目のほうが弱かったですよ」
「気のせいでございます」
車の話ではなかった気がする。
したのだが、それを言葉にする方法が私にはなかった。世界史の教師をしていて、言葉にできないことがあるというのは、わりと情けない。
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雨がフロントガラスを潰しにかかっている。ワイパーが二往復するあいだ、私たちは黙っていた。
「猫を、飼っておいでですか」
「え、なんで分かるんですか」
「袖に」
見ると、左の袖に見事な量の毛が付いていた。玉吉である。
「先生、探偵ですか」
「ホームズは、先ほど引用いたしました」
「嘘の引用でしょ」
「はい」
ぶはっ、と声が出た。
出てから、しまったと思った。この人の前で声を出して笑ったのは、たぶん初めてである。
松平先生は前を見たままだった。前を見たまま、少しだけ口の端を上げていた。
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「甘夏先生」
「はい」
「職員室の方のお名前は、全部おぼえております」
「そりゃ、三十九人やってる人ならね」
「甘夏古奈美先生。五月七日、午前八時四十分」
「……時間まで!?」
「そこは、癖です」
「怖いですって」
「その日、いちばん最初に私に話しかけてくださったのが、甘夏先生でした」
雨の音が、急に遠くなった。
覚えていない。
五月七日の朝に自分が何をしたか、私はまったく覚えていない。たぶん「新しい人だ」くらいの気持ちで、コピー機の場所か何かを教えたのだ。それだけだ。
それだけのことを、この人は日付と時刻で持っている。
たぶん、職員室の全員について同じことが言えるのだ。三十九人と同じで、私は何十人かのうちの一人でしかない。特別なことは何ひとつ言われていない。
何ひとつ言われていないのに、耳のうしろが熱い。
――ずるいだろ、それは。
ずるいのはこの人ではなくて、勝手に熱くなっているこっちである。それも分かっている。
「……先生」
「はい」
「それ、誰にでも言ってるでしょう」
「いえ。最初は、お一人しかおりませんので」
車が停まった。
私のアパートである。着いていた。いつのまに着いたんだ。
「ありがとうございました」
「いえ。おやすみなさいませ」
私は傘もささずに外階段を駆け上がって、二階の踊り場で、なぜかしゃがみこんだ。
――なんだこれ。
車が走り去る音がした。
その音がしなくなるまで、私は立てなかった。
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部屋に入ると、玉吉がにゃあと鳴いた。
猫缶を開けてやってから、鞄を開けて座席表を一枚出した。
出したとたん、玉吉が紙の真ん中に、どすん、と座った。
「どけ」
どかない。
「どけって」
「にゃー」
「返事はいいんだよ」
尻を押しずらして、机の端から書きはじめる。かり、かり、と芯が鳴る。
窓側の前から一人目。二人目。
七人目で止まった。名簿を出した。
十四人目でまた止まった。名簿を出した。
――五年目だぞ、私は。
腹が立ってきたので、そのまま書いた。書きながら、この作業には手が痛くなる以外の効能が一つもないことに気づいた。効能がないのに、一人書くごとに顔が浮かぶ。それが余計に腹立たしい。
三十九人書き終わったのは、日付が変わってからだった。
最後の三人だけ、名簿を見なかった。
温水和彦
焼塩檸檬
松谷誠
覚えた理由が全部昨日だというのは、教師としてどうなんだと思う。
思うが、覚えたものは覚えたのだ。
玉吉が座席表の上で丸くなったので、私はもう一枚出して、二枚目を書きはじめた。
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翌朝、職員室の扉を開けた。
墨の匂いがした。
五年、毎朝この部屋に入っている。匂いには気づいていたはずだ。気づいていたはずなのに、それがどこから来るのか、今日まで一度も考えたことがなかった。
私は自分の机ではなく、いちばん端の席を見た。
松平先生はもう座っていた。硯に水を差している。八時前である。
「おはようございます、甘夏先生」
名前を、呼ばれた。
「……おはようございます」
「甘夏先生」
「はい」
「よくお休みになれましたか」
「……寝てません」
「そうですか」
しゃっ、しゃっ、と硯が鳴っている。
それ以上は聞かれなかった。
私は自分の席に座って、座席表を裏返しに置いた。
裏返しに置いた自分に、ちょっと驚いた。
「一個下だぞ」
理由になっていないことは、自分でもよく分かっていた。
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